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万葉集読解・・・205(3305~3317番歌)

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     万葉集読解・・・205(3305~3317番歌)
 問答歌(3305~3322番歌)
3305番長歌
  物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをもぞ 汝れに寄すといふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝が心ゆめ
 (物不念 道行去毛 青山乎 振放見者 茵花 香未通女 櫻花 盛未通女 汝乎曽母 吾丹依云 吾(口+リ)毛曽 汝丹依云 荒山毛 人師依者 余所留跡序云 汝心勤)

 「道行く行くも」は「道をずんずん歩いてゆくと」ということ。「寄す」は「親しい」という意味。「荒山も」以下は唐突な比喩で意味が取りづらい。
 「物を思わないで、道をずんずん歩いてゆくとき、青山を振り仰いでみると、ツツジが咲いている。匂わんばかりの少女のように。桜は盛りを迎えた乙女のように。そうした花々のようにきみは私に親しく寄っていると人はいう。むろん私の方もきみに寄っていると人はいう。荒山も人が強く引き寄せれば寄っていくというから、ゆめゆめ簡単には人に寄っていかないように」という歌である。

3306  いかにして恋やむものぞ天地の神を祈れど我れは思ひ増す
      (何為而 戀止物序 天地乃 神乎祷迹 吾八思益)
 反歌。このまま分かる平明歌。「どうしたら恋心がやむのでしょう。天地の神に祈ってみるのですが、私の思いは増すばかりです」という歌である。

3307番長歌
  しかれこそ 年の八年を 切り髪の よち子を過ぎ 橘の ほつ枝を過ぎて この川の 下にも長く 汝が心待て
 (然有社 年乃八歳乎 鑚髪乃 吾同子乎過 橘 末枝乎過而 此河能 下文長 汝情待)

 「しかれこそ」は3305番長歌の「ゆめゆめ簡単には寄っていかないように」という忠言を受けて「だからこそ」と答えたもの。「年の八年を」は「長い年月」と解してもいいが、文字どおり「八年もの間」と解してもよかろう。「よち子を過ぎ」は「少女時代を過ぎ」という意味。「橘(たちばな)の ほつ枝を過ぎて」は「橘が上枝に実をつけるまで」ということ。「下にも長く」は「(川は長いけれど)下にも長く」という意味である。
 「だからこそ私は八年もの間、おかっぱ髪の少女時代を過ごし、橘が上枝に実をつけるまで、じっと川底にいてあなたの心が動くのを待っていました」という歌である。

3308  天地の神をも我れは祈りてき恋といふものはかつてやまずけり
      (天地之 神尾母吾者 祷而寸 戀云物者 都不止来)
 「祈りてき」は「お祈りしましたよ」という返答語。「天地の神にもあなたのことを忘れられるようにとお祈りしましたよ。でもあなたを恋い焦がれる思いは決して止むことがありませんでした」という歌である。

3309番長歌
  物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをぞも 汝れに寄すといふ 汝はいかに思ふや 思へこそ 年の八年を 切り髪の よち子を過ぎ 橘の ほつ枝をすぐり この川の 下にも長く 汝が心待て
 (物不念 路行去裳 青山乎 振酒見者 都追慈花 尓太遥越賣 作樂花 佐可遥越賣 汝乎叙母 吾尓依云 吾乎叙物 汝尓依云 汝者如何念也 念社 歳八年乎 斬髪 与知子乎過 橘之 末枝乎須具里 此川之 下母長久 汝心待)

 「物思はず~汝れに寄すといふ」までは3305番長歌と全く同じ。そして後半部に入り、「年の八年を~汝が心待て」の後半部のほとんどは3307番長歌と同じ。したがって本来は本歌のように掛け合い歌だったのが、3305番長歌と3307番長歌に分離したのではないかと思われる。
  「物を思わないで、道をずんずん歩いてゆくとき、青山を振り仰いでみると、ツツジが咲いている。匂わんばかりの少女のように。桜は盛りを迎えた乙女のように。そうした花々のようにきみは私に親しく寄っていると人はいう。むろん私の方もきみに寄っていると人はいう。きみはどう思っているの。(女性の返答)あなたのことを思っているからこそ私は八年もの間、おかっぱ髪の少女時代を過ごし、橘が上枝に実をつけるまで、じっと川底にいてあなたの心が動くのを待っていました」という歌である。
 注が付いていて「以上5首は柿本朝臣人麻呂之歌集に登載されている」とある。

3310番長歌
  隠口の 泊瀬の国に さよばひに 我が来れば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 野つ鳥 雉は響む 家つ鳥 鶏も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ
 (隠口乃 泊瀬乃國尓 左結婚丹 吾来者 棚雲利 雪者零来 左雲理 雨者落来 野鳥 雉動 家鳥 可鶏毛鳴 左夜者明 此夜者昶奴 入而<且>将眠 此戸開為)

 「隠口(こもりく)の」はすべて泊瀬にかかる典型的な枕詞。泊瀬(はつせ)の国は奈良県桜井市初瀬で、都が置かれたことがある。「さよばひに」のさは強意の接頭語だが、よばひは原文に「結婚丹」とあるように、「結婚相手を求めて」という意味である。「たな曇り」は3012番歌に「との曇り雨降る川の~」とある「との曇り」と同意とみてよい。「一面にかき曇って」という意味。
 「泊瀬の国に結婚相手を求めてやってきたところ、一面にかき曇り、雪が降ってきた。おまけに雨も降ってきた。野の鳥の雉は鳴き立て、家鳥のニワトリもけたたましく鳴き立てる。夜は白み始め、この夜はすっかり明けてきた。中に入って寝たいものだ、さあ、この戸を開けて下され」という歌である。

3311  隠口の泊瀬小国に妻しあれば石は踏めどもなほし来にけり
      (隠来乃 泊瀬小國丹 妻有者 石者履友 猶来々)
 「なほし来にけり」のしは強意の「し」。「泊瀬の国に妻にしたい女性がいるので、石ころ道であるが、なおやってきました。」という歌である。

3312番長歌
  隠口の 泊瀬小国に よばひせす 我が天皇よ 奥床に 母は寐ねたり 外床に 父は寐ねたり 起き立たば 母知りぬべし 出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明けゆきぬ ここだくも 思ふごとならぬ 隠り妻かも
 (隠口乃 長谷小國 夜延為 吾天皇寸与 奥床仁 母者睡有 外床丹 父者寐有 起立者 母可知 出行者 父可知 野干玉之 夜者昶去奴 幾許雲 不念如 隠孋香聞)

 「泊瀬小国に」と「小国に」となっているのは意味がある。「我が天皇(すめろき)よ」の天皇は大君の天皇ではなく、泊瀬小国の領主ないし若様か。が、そうでもなくて、たんにあなた様という意味なのだろう。「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。「ここだくも」は「こんなにも」である。
 「この泊瀬小国に妻にしたいとやっていらっしゃったわが君よ。奥の寝床には母が寝ていて、入口近くの寝床には父が寝ています。起き立てば母が気づくでしょうし、部屋から出て行けば父が気づくでしょう。ああ、こんなにも思うにまかせぬ私は隠し妻の身」という歌である。

3313  川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも
      (川瀬之 石迹渡 野干玉之 黒馬之来夜者 常二有沼鴨)
 「常にあらぬかも」は願望の「あらぬかも」。「川の瀬の石を踏んで渡ってくるあなたが黒馬でやって来る夜が毎晩であってほしい」という歌である。
 以上四首の問答歌。

3314番長歌
  つぎねふ 山背道を 人夫の 馬より行くに 己夫し 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる 真澄鏡に 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背
 (次嶺經 山背道乎 人都末乃 馬従行尓 己夫之 歩従行者 毎見 哭耳之所泣 曽許思尓 心之痛之 垂乳根乃 母之形見跡 吾持有 真十見鏡尓 蜻領巾 負並持而 馬替吾背)

 「つぎねふ」は語義未詳。原文に「次嶺經」とあるので「峰越えて」と訓ずべきか?本例一例のみ。「人夫(ひとづま)の」は「ほかの夫は」という意味。「たらちねの」はおなじみの枕詞。「真澄鏡(まそかがみ)」は「立派な鏡」。「蜻蛉領巾(あきづひれ)」は「トンボの羽根のように薄い長い布」。
 「峰を越えて山背(京都)の道をほかの夫は馬で行くのに、わが夫は歩いていく。それを見るに付け、泣けてくる。そう思うと心が痛む。死んだ母の形見に私が持っている立派な鏡と蜻蛉領巾を持って行って、馬を買いなさいな。あなた」という歌である。

3315  泉川渡り瀬深み我が背子が旅行き衣ひづちなむかも
      (泉川 渡瀬深見 吾世古我 旅行衣 蒙沾鴨)
 泉川は京都市左京区を流れる川。「渡り瀬深み」のみは「~ので」の「み」。「泉川の渡り瀬は深いのであの人がしている旅装の着物では濡れてしまうだろうな」という歌である。

 或本の反歌にいう
3316  まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩よりなづみ行く見れば
      (清鏡 雖持吾者 記無 君之歩行 名積去見者)
 「験(しるし)なし」は「甲斐がない」すなわち「何の役にも立たない」という意味である。「なづみ」は難渋。「立派な鏡を持ってはいますが、何の役にも立っていません。あなたが徒歩で難渋しながら行くのを見ると」という歌である。

3317  馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ
      (馬替者 妹歩行将有 縦恵八子 石者雖履 吾二行)
 「よしゑやし」は「ええい、かまうものか」である。このまま訳すと「馬を買えばお前は妹歩で行くことになろう。ええい、かまうものか、石を踏んでいこうとも、私は二人で行こう」となる。各書ともこう訳している。が、どうも妙だ。二人で山背(京都)道を越えて行くと解すればこれでいいのだが、女を歩かせて自分だけ馬に乗っていくという習慣があったのだろうか?。私は第二句「徒歩(かち)ならむ」に歌意がこもっていると見る。「徒歩行かむ」となっていない。私は次のような歌意だと思う。「私が馬を買えば私はいいが、お前はどこへ行くにも徒歩だろう。ええい、いいよ、いいよ。石を踏んでいこうと徒歩でいいよ。ふたりともこのまま徒歩ですごそう」という歌である。
 以上四首の問答歌。
           (2016年2月20日記)
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日々つれづれ-14

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キンカン

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 先日、手打ち蕎麦で名を馳せている店に出かけた。店の駐車場に車を止めて、降り立ったとたん相棒が叫んだ。「あら、キンカンだわ」。むろんキンカンの名は知っていたが、間近で実物を見たのは初めてだった。直径4,5センチほどの小さな柑橘類だ。今頃、自然な状態で実をつける柑橘類は珍しいと思った。そう思ったとたん、何の脈絡もなく、遠い遠い小学校時代の校庭を思い出した。なぜ小学校校庭なのだろう。入学式が間近に迫ってきたからだろうか。娘を送迎した頃の思い出が忽然として思い出された。
 校庭の一画にキンカンが植えられて否か定かではない。植えられていたとしても、当時は柑橘類に特別関心があったわけではないので、それがキンカンだと分かった筈はなかった。が、ミカンより背の低い木だったので、今思えばキンカンだったかも知れない。そこでここではキンカンだったと思いこむことにして筆を進めよう。
   校庭にキンカンの実のきんかんと鐘の響くが聞こえる気がす
   キンカンの懐かしきかな小さき実成れる姿は小学生に似し
   ランドセル背負い次々通りすぐキンカンの木のすぐ目の前を
 ソバ屋に行くので、ゆっくりキンカンを見る暇はなかった。かつ、あいにくカメラを携帯していなかったので、写真に収めることもできなかった。
 過去のことを思い出すのは私には珍しい。が、先日であったキンカンは私に無限の追憶を呼び覚まし、私をキンカンの下へと呼び寄せた。どうしても写真に収めようとカメラを持って出かけた。いやあ、キンカンと校庭。キンカンと小学児童たち。似合いますね。本当に。
    キンカンや縁側に坐す遠き日々
    政治家もキンカンなりて娘連れ
            (2016年2月22日)
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万葉集読解・・・206(3318~3325番歌)

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     万葉集読解・・・206(3318~3325番歌)
3318番長歌
  紀の国の 浜に寄るといふ 鰒玉 拾はむと言ひて 妹の山 背の山越えて 行きし君 いつ来まさむと 玉桙の 道に出で立ち 夕占を 我が問ひしかば 夕占の 我れに告らく 我妹子や 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白玉 辺つ波の 寄する白玉 求むとぞ 君が来まさぬ 拾ふとぞ 君は来まさぬ 久ならば いま七日ばかり 早くあらば いま二日ばかり あらむとぞ 君は聞こしし な恋ひそ我妹
 (木國之 濱因云 <鰒>珠 将拾跡云而 妹乃山 勢能山越而 行之君 何時来座跡 玉桙之 道尓出立 夕卜乎 吾問之可婆 夕卜之 吾尓告良久 吾妹兒哉 汝待君者 奥浪 来因白珠 邊浪之 緑<流>白珠 求跡曽 君之不来益 拾登曽 公者不来益 久有 今七日許 早有者 今二日許 将有等曽 君<者>聞之二々 勿戀吾妹)

 紀の国は紀伊の国。大部分は和歌山県。一部は三重県。鰒玉(あはびたま)は真珠のこと。紀伊の国に「妹の山、背の山」と呼ばれた山があることは、544番歌に「後れ居て恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを」と詠われていることからも明らかである。現在でも和歌山県かつらぎ町に、東西を流れる紀ノ川の北側に「背ノ山」、南側に「妹山」と呼ばれる山がある。「玉桙(たまほこ)の」はおなじみの枕詞。道で占いをすることは2507番歌に「玉桙の道行き占に占なへば妹に逢はむと我れに告りつも」とあるのでも分かる。「白玉」はむろん真珠のこと。「久(ひさ)ならば」は「遅くても」という意味。「君は聞こしし」は「あの人がおっしゃるには」である。
 「紀の国の浜に寄せられるという鰒玉(真珠)を拾おうといおっしゃって、妹の山 背の山越えていかれたあの人。いつ帰って来るのだろうと、道に出て立って(道祖神に)夕占いをお願いしたら、夕占いが出て私におっしゃった。『愛しい人よ、そなたが待っている彼は、沖の方から波に寄せられてくる真珠、岸辺に寄せられてくる真珠を求めようとしているので来られない。あるいはその真珠を拾おうとしているので来られない。が、遅くなっても七日間、早ければあと二日間待ってほしいと言いなすった。なのでそんなに恋わないでくれと』と・・・。」という歌である。

3319  杖つきもつかずも我れは行かめども君が来まさむ道の知らなく
      (杖衝毛 不衝毛吾者 行目友 公之将来 道之不知苦)
 「杖つきもつかずも」は文字通りなら「杖をついてもつかなくとも」という意味だが、強調表現ととって「杖をついてでも」ととりたい。「杖をついてでもお迎えにあがろうと思うのですが、あなたの帰り道が分からない」という歌である。

3320  直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ
      (直不徃 此従巨勢道柄 石瀬踏 求曽吾来 戀而為便奈見)
 本歌は、古本にあるという3257番歌の「直に来ず此ゆ巨勢道から石橋踏みなづみぞ我が来し恋ひてすべなみ」と同歌のようである。「直(ただ)に行かず」は本来まっすぐな道」の意だが、ここでは「通常の道」という意味である。巨勢(こせ)は奈良県御所市古瀬。従って多少危険でも巨勢(こせじ)を越えてここ紀の国にやってきたという意味のようだ。「通常の道はたどらず、巨勢を越えて石瀬を踏み踏みここまでやってきました。あなたが恋しくてどうしようもなく」という歌である。

3321  さ夜更けて今は明けぬと戸を開けて紀へ行く君をいつとか待たむ
      (左夜深而 今者明奴登 開戸手 木部行君乎 何時可将待)
 「~戸を開けて」までは相手の行為。「夜が更けて今は明けたぞと戸を開いて紀の国へ旅立っていったあの人。いつまで待っていたらよいのかしら」という歌である。

3322  門に居し我が背は宇智に至るともいたくし恋ひば今帰り来む
      (門座 郎子内尓 雖至 痛之戀者 今還金)
 二人の家は奈良県御所市の古瀬にあったと見られる。宇智(うち)は和歌山県境に近い奈良県五條市の大野のあたり。とすると、古瀬から通常なら紀ノ川沿いに南下する道をたどる。が、本歌では山道を越えて南下し、五條市の大野を通る。古瀬も宇智も奈良県内。すなわち大和の国内。紀の国をめざした夫はその宇智に至るというのが歌意の背景。
 「門を背に旅立っていった私の夫は、宇智まで行ったとしても、家が恋しければ今に帰ってくるだろう」という歌である。
 以上五首、問答歌。

  譬喩歌
3323番長歌
  しなたつ 筑摩さのかた 息長の 越智の小菅 編まなくに い刈り持ち来 敷かなくに い刈り持ち来て 置きて 我れを偲はす 息長の 越智の小菅
 (師名立 都久麻左野方 息長之 遠智能小菅 不連尓 伊苅持来 不敷尓 伊苅持来而 置而 吾乎令偲 息長之 遠智能子菅)

 {しなたつ}は本歌一例しかなく、枕詞(?)。分からないのは「筑摩さのかた 息長(おきなが)の 越智の小菅」の部分。結句に「越智の小菅」とあるので、それが比喩になっていることが分かる。筑摩も息長も米原市の北方にあって、琵琶湖の湖岸にある。筑摩は平城京の北方。さらにその奥に近接して息長がある。旧息長村。
 以上の背景を頭に入れて「筑摩さのかた 息長の 越智の小菅」の部分に着目していただきたい。「さの方」は各書がいうように植物名だの地名などではない。これに私は頭を悩まされた。植物名だとすると、「筑摩」に「息長の」(原文:息長之)のように「之」がついていない理由も、結句が「越智の小菅」とだけなっているのも 分からない。長らく頭を悩ませた結果、分かった。「さの方」の「さ」は強意の「さ」で、「筑摩の方面」という意味だ。これですっきり歌意が通じた。
 「(米原)の筑摩の方面にある息長、その越智原に生える小菅を編みもしないのに刈り取ってきて、あるいは、敷きもしないのに刈り取ってきて、置いたままにしておく。私は恋い焦がれるのみ。その越智の小菅なのね、私は」という歌である。

  挽 歌
3324番長歌
  かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと 我が思へる 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝は 刺し柳 根張り植槻(うゑつき)を 大御手に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うちひさす 宮の舎人も [一云「は」] 栲のほの 麻衣着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷へる間に あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験をなみ 嘆けども 奥処をなみ 大御袖 行き触れし松を 言問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はな 畏くあれども
 (挂纒毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 満雖有 君下 大座常 徃向 <年>緒長 仕来 君之御門乎 如天 仰而見乍 雖畏 思憑而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 國見所遊 九月之 四具礼乃秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡<芽>乎 珠<手>次 懸而所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二 所取賜而 所遊 我王矣 烟立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 憑有時尓 涙言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方 [一云 者] 雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道従 角障經 石村乎見乍 神葬 々奉者 徃道之 田付(口+リ)不知 雖思 印手無見 雖歎 奥香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有)

 語句の解説に終始したのでは煩雑。なので地名等最小限を掲げ、省略。読解訳により推測されたい。「藤原の都」は奈良県橿原市(かしはらし)にあった都。植槻(うゑつき)は奈良県大和郡山市。「砌(みぎり)しみみに」は「御殿の石畳いっぱいに」という意味。「我が大君を」の大君は通常天皇を指すが、ここでは死去した皇子。城上(きのへ)は一説に奈良県北葛城郡広陵町という。磐余(いはれ)は奈良県桜井市南西部、神武天皇ゆかりの地。
 「口に出すのも恐れ多い。藤原の都に人は多く満ち満ちており、君と呼ばれる方々は多くいらっしゃるが、長年月お仕え申し上げた君の御門。天上のごとく仰ぎたてまつり、恐れ多くも思い頼んできた君。一刻も早く成長なさって立派になってほしいと思ってきた皇子のみこと。春になると植槻(うゑつき)の丘に松の下道を通ってお登りになり、国見をなさった。長月(旧暦九月)のしぐれの秋には御殿の石畳にいっぱい露が降りる。その露を受けてなびく萩の花をたすきをかけるように心に懸けられ、愛でられる。雪が降る冬の朝は、挿し木した柳が根を張るように、大御手に取って梓弓を張り、狩りをなさった大君。霞がたち込める春の長い一日見飽きることのない君。永久にかくのごとく元気であらせられるだろうと、大船に乗った気でいたその矢先、わが泣く目の錯覚かと思った。仰ぎ見た御殿は真っ白な布で飾られ、大宮人たちも(あるいは「は」という)白装束をしていた。その光景にあまりのことに夢かうつつかと呆然とした。その間に城上(きのへ)から磐余(いはれ)に向けて神を葬り申し上げた。私は行く道もその方法も分からずに思い惑った。思う甲斐もなく、嘆いても際限がない。せめて、国見の際お触れになった松を、もの言わぬ木ではあるが、毎月命日には振り仰いで皇子をお忍び申し上げよう、恐れ多いけれど」という歌である。

3325  つのさはふ磐余の山に白栲にかかれる雲は大君にかも
      (角障經 石村山丹 白栲 懸有雲者 皇可聞)
 「つのさはふ」は枕詞。磐余(いはれ)は奈良県桜井市南西部、神武天皇ゆかりの地。「磐余の山に真っ白にかかっている雲はわが大君(皇子)なのであろうか」という歌である。
 以上長反歌二首
           (2016年2月24日記)
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米国州名

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 ここ一ヶ月ほど私はあるゲームにはまっている。毎日ではなく、三日に一日ほどだが、やり出すと夢中になり、何も手がつかなくなる。なので、数回程度にとどめている。
 ゲームというのは世界の地図ゲーム。先ず手始めにと思ってやり出したのが、アメリカ合衆国の州地図に正しい州名を答えるゲーム。合致すると10点、ミスるとマイナス5点が与えられる。なのでミスればミスるほどマイナス点が増える。始めた頃は合計マイナス450点などという惨憺たる結果を頂戴したこともある。
 さて、私は元来地理に弱く、日本の都道府県名を地図と合致させることさえ覚束ない。おそらく5県や6県はミスるに相違ない。そんな私であるからアメリカ合衆国の州名と地図を一致させることなど、とんでもはっぷん、という次第だった。さりとて特別の関心でも持たない限り、他国の州名など地図を開いて頭に叩き込もうという気が起きなかった。
 が、やっている内に次第に面白くなり、点数が向上していくのが楽しみになった。私が見当がついたのは50の州の内、カリフォルニア、テキサス、フロリダ、ハワイくらいなもので、西部劇で有名なコロラド州さえ見当もつかない全くの痴呆状態。したがって、既述したように、始めた頃は合計マイナス450点などという惨憺たる点数を頂戴したものだ。が、向上するにつれ、マイナス300点、マイナス170点などになり、ついにマイナスからプラスになる時が来た。
 折しも、アメリカ大統領予備選挙が始まり、アイオワだのニューハンプシャーだのネバダだのサウスカロライナといった州が世間をにぎわせ始めていた。遅々として進まなかった私の点数は昨日、ついに50州全問正解の満点500点を獲得したのである。こんな幼稚なことで喜ぶなどあきれたという向きもあるかと思う。が、ゲームも馬鹿にしたものではなく、知らぬ間に合衆国の州名が頭に入って私はご満悦だった。
            (2016年2月25日)
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名刹桃厳寺

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 一昨日、私は桃厳寺(とうがんじ)なる寺を訪れた。ここんところ、私は寺巡りに失望しかかっていた。時代の流れでやむを得ないのだろうが、鉄筋コンクリート造りの寺や形ばかりの境内の寺が続いたからである。寺有地を切り売りしながらやせ細っていく寺が増えていると思料されるのだが、やはり残念である。市内に七,八百ある寺からこれはと思って選んだ寺にしてこの有様。もう寺巡りはやめようかと思った矢先だった。私はすばらしい寺に出会った。桃厳寺である。中心街を望む場所に。名古屋大学のすぐ北側に位置する寺である。
 寺は天文年間(1532年~1554年)で織田信秀の菩提を弔うため、子の織田信行によって末森村二本松に建立されたと伝えられる。織田信行は同母兄織田信長の弟に当たる。現在地に移されたのは正徳3年(1713年)前後なので、その時からでも300年余も経っている。これ以上のことは別稿を起こす機会があったらそちらに譲ろう。
 私が驚いたのは創建年ばかりではない。寺に植えられた竹林、四方竹(しほうちく)の群落、さらにはあちこちに生える赤や白の椿、すなわち、自然の豊かさである。
 その上、青銅で作られた大仏だ。像高は10mに達し、鎌倉の大仏級(11.3m)である。かつ、台座の周囲に10頭もの見事なインド象が控え、その台座高は5mもあり、仏像高と合わせると15m。台座と合わせた高さは鎌倉の大仏(13m強)を凌ぐ。まちがいなく、これまで私が訪れてきた寺の中では屈指の名刹といってよい。一般にはあまり知られた気配がない。いわば隠れた名刹といってよかろう。
   あんれまあこんな所に椿でら
   名刹をめっけてうれし春近し
 台座に10頭のインド象、月日を重ねていけば国宝級と期待せざるを得なかった。
            (2016年2月28日)
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身につく

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 前々回、私はアメリカの50の州名を覚えてご満悦と記した。「州名を覚えた」というと格好いいけれど、私のように記憶力が減退している者にとって、新たに記憶するというのも楽ではない。つまり「記憶するぞ」と構えて頭に叩き込もうとすると場所と州名を一致させるのは容易でない。ゲームを通して知らぬ間に覚えたというのが実態だ。
 ご承知のように、米国は政治、経済、軍事等々に抜きんでた国である。世界第一の国といってよかろう。なので何かとニュース面を賑わすことが多い。大リーグ、ゴルフ等の話題はもとより、音楽、芸能界の話題等々しかりである。今年は大統領選の話題でもちきりである。そしてきょう3月1日はスーパーチューズデイといって数多くの州で予備選挙が行われる。
 そしてこうした米国関連ニュースには総じて州名が欠かせない。たとえばスーパーチューズデイには、民主党の場合、ジョージア州、マサチューセッツ州、ミネソタ州など10余もの州で、共和党の場合も、アラバマ州、アーカンソー州、コロラド州などやはり10余州で予備選挙が実施される。これまでの私なら、「ふーん」くらいの反応だったが、ああその州なら西部のあの州だな、と即座に場所の見当がつく。ペーパーで覚えたのと異なって自然に身に付いていることを実感する。ゲームはたんにゲームに終わらないで、まるで米国民の一人になったような気分でニュースを楽しむことができるようになった。つまり、夢中になってゲームをやっている内に、換言すれば楽しみながら自然に地理と州名が頭に入ったのである。
 そして、ひとたび頭に入った州名は、ゲームそのものよりも遙かに実用的で、遙かに拡大した世界を私に用意してくれたのである。まさにゲームさまさまなのだ。こういうゲームなら、今度はヨーロッパ諸国に挑戦してみようか。
            (2016年3月1日)
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万葉集読解・・・207(3326~3332番歌)

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その 208 へ 
         
     万葉集読解・・・207(3326~3332番歌)
3326番長歌
  礒城島の 大和の国に いかさまに 思ほしめせか つれもなき 城上の宮に 大殿を 仕へまつりて 殿隠り 隠りいませば 朝には 召して使ひ 夕には 召して使ひ 使はしし 舎人の子らは 行く鳥の 群がりて待ち あり待てど 召したまはねば 剣大刀 磨ぎし心を 天雲に 思ひはぶらし 臥いまろび ひづち哭けども 飽き足らぬかも
 (礒城嶋之 日本國尓 何方 御念食可 津礼毛無 城上宮尓 大殿乎 都可倍奉而 殿隠 々座者 朝者 召而使 夕者 召而使 遣之 舎人之子等者 行鳥之 群而待 有雖待 不召賜者 劔刀 磨之心乎 天雲尓 念散之 展轉 土打哭杼母 飽不足可聞)

 「磯城島(しきしま)の」は十代崇神天皇及び二十九代欽明天皇が都を置いた奈良県磯城郡にちなんだ言い方。磯城島に代表される大和の国というニュアンスである。城上(きのへ)は奈良県北葛城郡広陵町にあったとされるので橿原市東部の藤原京から離れた北西部になる。そこに大殿(もがりの宮)を作って皇子の遺体を安置することを「つれもなき」と表現している。「剣大刀(つるぎたち)」は枕詞。前歌及び前々歌に続く皇子への挽歌。
 「礒城島の大和の国から、どう思われたのか、あの不便な城上の宮に御殿(もがりの宮)を作られて殿下はお隠れになり、そこにいらっしゃる。朝には召されて用を仰せになり、夕べになるとやはり召されて用を仰せになるものと待ちかまえる舎人(とねり)(お付き人)たちは飛ぶ鳥が群がるように群がって待ちかまえ、ずっとお待ち申しているのですが、一向にお召しにならない。心をとぎすましているのに、思いは天雲のように放心状態となり、ころがりもだえ、涙に濡れて泣き叫ぶけれども、それでも王が亡くなられたのはあきらめきれない」という歌である。

3327番長歌
  百小竹の 三野の王 西の馬屋に 立てて飼ふ駒 東の馬屋に 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふと言へ 水こそば 汲みて飼ふと言へ 何しかも 葦毛の馬の いなき立てつる
 (百小竹之 三野王 金厩 立而飼駒 角厩 立而飼駒 草社者 取而飼<曰戸> 水社者 は而飼<曰戸> 何然 大分青馬之 鳴立鶴)

 「百小竹(ももしの)の」は枕詞(?)。本歌しか例がない。「三野の王(おほきみ)」は3324番長歌以来続く挽歌の主を指すが、具体的にはどの皇子のことか未詳。駒はいうまでもなく馬のこと。「飼ふと言へ」は「与えてあるというのに」である。
 「百小竹の群生する三野においでになった王(皇子)は、西に馬小屋を建てて飼い、東に馬小屋を建てて馬を飼っておられた。草を刈り取ってきて与えてあるというのに、また、水も汲んできて与えてあるというのに、どういうわけか葦毛の馬たちがいなないている」という歌である。

3328  衣袖の葦毛の馬のいなく声心あれかも常ゆ異に鳴く
      (衣袖 大分青馬之 嘶音 情有鳧 常従異鳴)
 [衣袖(ころもで)の]は「真っ白な着物の袖のように」という意味か。「真っ白な着物の袖のように白い葦毛の馬のいななく声は心あるかのようにいつもより悲しげに鳴いている」という歌である。
 以上長反歌二首

3329番長歌
  白雲の たなびく国の 青雲の 向伏す国の 天雲の 下なる人は 我のみかも 君に恋ふらむ 我のみかも 君に恋ふれば 天地に 言を満てて 恋ふれかも 胸の病みたる 思へかも 心の痛き 我が恋ぞ 日に異にまさる いつはしも 恋ひぬ時とは あらねども この九月を 我が背子が 偲ひにせよと 千代にも 偲ひわたれと 万代に 語り継がへと 始めてし この九月の 過ぎまくを いたもすべなみ あらたまの 月の変れば 為むすべの たどきを知らに 岩が根の こごしき道の 岩床の 根延へる門に 朝には 出で居て嘆き 夕には 入り居恋ひつつ ぬばたまの 黒髪敷きて 人の寝る 味寐は寝ずに 大船の ゆくらゆくらに 思ひつつ 我が寝る夜らは 数みもあへぬかも
 (白雲之 棚曳國之 青雲之 向伏國乃 天雲 下有人者 妾耳鴨 君尓戀濫 吾耳鴨 夫君尓戀礼薄 天地 満言 戀鴨 匈之病有 念鴨 意之痛 妾戀叙 日尓異尓益 何時橋物 不戀時等者 不有友 是九月乎 吾背子之 偲丹為与得 千世尓物 偲渡登 万代尓 語都我部等 始而之 此九月之 過莫呼 伊多母為便無見 荒玉之 月乃易者 将為須部乃 田度伎乎不知 石根之 許凝敷道之 石床之 根延門尓 朝庭 出座而嘆 夕庭 入座戀乍 烏玉之 黒髪敷而 人寐 味寐者不宿尓 大船之 行良行良尓 思乍 吾寐夜等者 數物不敢鴨)

 「白雲の~下なる人は」の部分は要するに「この広大な天地にあって人は」という意味。「言(こと)を満てて」(原文:満言)はよく分からない。「言葉を尽くしても尽くしきれないほど」という意味かと思われる。「この九月を」以下だが、各書は夫の言葉と解している。夫のいつの言葉か、また、九月にこだわるのはなぜなのかさっぱり分からない。そもそも本人が「私を偲んでくれ」というのは変な話だ。そこで私は九月は命日のある月で、その命日がきたら「私のことを偲んでくれ」と本人から言われているような気がする、と解した。「始めてし」は「九月の命日を大切にし始めた」という意味である。「あらたまの」はおなじみの枕詞。
 「為むすべの~数みもあへぬかも」の後半部は3274番長歌とほぼ同文。なぜこんな形になっているのか理由は不明。
 「白雲のたなびくこの国、青雲の向こうの下に伏す国の、この広大な天雲の下にいる人々の中で私のみであろうか、あなたを恋慕うのは。さらに私のみであろうか、あなたを恋い慕って言葉を尽くしても尽くしきれないほど天に満ち満ちたる言葉を吐くのは。それほどまでに恋い慕うので胸が病み、あなたのことを思うと心が痛みます。私の恋い慕う思いは日に日に増すばかりです。いつといって恋わない時はありませんが、特にこの九月は恋しさがつのります。この九月が来ると「私を偲んでおくれ、いついつまでも忘れないで偲んでおくれ」とあの人に言われているようで、さらにはこの九月を万づ代まで語り継いでいこうと大切にし始めた。この九月が過ぎるとどうしようもありません。
 月がかわってしまうと(あなたに向き合う)機会がなくなり、為すすべのとっかかりも分からず、岩でごつごつした道を、どっしりした岩床のような門口なのに、朝には門を出て嘆き、夕方には門に入って思い嘆く。白栲の着物の袖を折り返しひとり床につく。折り返した袖に黒髪を敷いて人様のように共寝をすることもなく、ゆらゆら揺れる大船のようにああでもないこうでもないと思いつつ我が寝る夜は数え切れない」という歌である。

3330番長歌
  隠口の 泊瀬の川の 上つ瀬に 鵜を八つ潜け 下つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を惜しみ くはし妹に 鮎を惜しみ 投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 衣こそば それ破れぬれば 継ぎつつも またも合ふといへ 玉こそば 緒の絶えぬれば くくりつつ またも合ふといへ またも逢はぬものは 妻にしありけり
 (隠来之 長谷之川之 上瀬尓 鵜矣八頭漬 下瀬尓 鵜矣八頭漬 上瀬之 <年>魚矣令咋 下瀬之 鮎矣令咋 麗妹尓 鮎遠惜 麗妹尓 鮎矣惜 投左乃 遠離居而 思空 不安國 嘆空 不安國 衣社薄 其破者 <継>乍物 又母相登言 玉社者 緒之絶薄 八十一里喚鶏 又物逢登曰 又毛不相物者 ?尓志有来)

 「隠口(こもりく)の」は枕詞。「泊瀬(はつせ)川(現在初瀬川)」は奈良県桜井市の北東部付近から西流し、北流し、やがて大和川と名を変える川。「鵜を八つ潜(かづ)け」の「八つ」は「数多く」という意味である。「隠口の~ 鮎を食はしめ」までは次句の「くはし妹に」を導く序歌。語句の繰り返しに悲しみがこめられている。その「くはし妹に」は「こまやかで美しい妻に」という意味。
 「泊瀬川の上流に鵜を多く潜らせ、下流にも鵜を多く潜らせ、上流の鵜には鮎をくわえさせ、下流の鵜にも鮎をくわえさせる。そんなくわしい(美しい)妻に、鮎が惜しいからと、惜しいからと川に放てば遠ざかり行くように、遠い妻を思いやれば心安からず、嘆いて心安からず。衣ならば破れても継ぎ合わせてまた合わせられる、玉の紐なら切れてもくくりなおせばまた合わせられるというのに、どうしても逢えなくなってしまったのは亡くなった妻だよ」という歌である。

3331番長歌
  隠口の 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走出の よろしき山の 出立の くはしき山ぞ (あたらしき) 山の 荒れまく惜しも
 (隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒巻惜毛)

 「隠口の」と「青旗の」は枕詞。ただし「青旗の」は3例あってすべてかかる言葉が異なるので枕詞(?)。「忍坂(おさか)の山」は本歌にしかない。「岩波大系本」によると「奈良県桜井市忍坂の東の山」とある。「走出の」は本歌のほかに210番長歌の「~我がふたり見し 走出の 堤に立てる 槻の木の~」という例しかない。この例からすると、「麓から上がりだした」という形容と思われる。「出立」は本例のほかに3例あるが、文字どおり「出発」を意味する2例を除くと、やはり1例しかない。213番長歌に「~我がふたり見し 出立の 百枝槻の木 ~」とあるのがそれである。どうも立ち姿という意味のようである。つまり本歌は両方とも山容を意味している。「あたらしき」は原文になく訓不要。
 「泊瀬の山なる忍坂の山は、麓から上がりだした形が美しい山。またその立ち姿は霊妙に麗しい山。その山が荒れていくのはいかにも惜しい」という歌である。」

3332番長歌
  高山と 海とこそば 山ながら かくもうつしく 海ながら しかまことならめ 人は花ものぞ うつせみ世人
 (高山 与海社者 山随 如此毛現 海随 然真有目 人者<花>物曽 空蝉与人)

 「高山と海、山は山にして厳然と存在し、海は海にしてそこにある。が、人というのは散る花ぞ、いっときの世の人」という歌である。
 以上、三首は一体の歌。
           (2016年3月3日記)
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 昨日岐阜市の梅林公園に出かけた。これで3年連続の訪林である。3年連続かつ3年連続同一人と一緒にである。
 さて、一昨年は3月10日、昨年は3月17日であるから、3月3日というのはかなり早く、梅がどの程度開花しているのか一抹の不安もあった。が、現地に到着して不安は取り越し苦労に終わった。確かに梅はまだ7分咲きほどでピークにはいまいちという印象だったが、園内を歩いている人は多かった。かつ、観光バスで乗り付けてきた団体客もあって、一昨年、昨年を上回る人出に思われた。
 ポカポカ陽気に誘われて、老齢男女が多く、七、八割方は老齢男女であった。日曜日でもなく、平日の午後2時頃、老齢男女の多いのももっともかも知れなかった。
 が、私の目にはやや異なった印象に写った。老齢者の数が増えたことと、元気なことだった。ひとことでいうと、日向ぼっこ人生からの脱却である。私の記憶しているお年寄りは縁側や庭の木にもたれて日向ぼっこに興じる姿だった。桜に比べて、きゅっと身の締まった小柄な花、それが梅の花である。時期も一足早く、まだ冬の内から開花する梅はお年よりにはきつい時節の花である。それが年々増えている兆しがあるのは喜ばしい。わざわざ梅林公園まで出かけてきて、観梅に及ぶとは、一昔前までは考えられない事態だ。今の人たちは日向ぼっこ人生からの脱却を果たしつつあると見ていい。
 人生50年の時代から人生70年80年になろうとしている。科学者や大学教授等々頭脳労働者は研究生活や社会経験を経た人、すなわちもっと年齢のいった人を当てることに改め、その代わり、ほぼ終生勤めてよい制度にしたらどうか、などと思った。人口減少にもかかわらず、老齢人口が増加し、その活用が急務である。梅林を散策しながら、梅はそっちのけにしてこんなことをふっと思った次第である。
            (2016年3月4日)
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万葉集読解・・・208(3333~3343番歌)

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その 209 へ 
         
     万葉集読解・・・208(3333~3343番歌)
3333番長歌
  大君の 命畏み 蜻蛉島 大和を過ぎて 大伴の 御津の浜辺ゆ 大船に 真楫しじ貫き 朝なぎに 水手の声しつつ 夕なぎに 楫の音しつつ 行きし君 いつ来まさむと 占置きて 斎ひわたるに たはことか 人の言ひつる 我が心 筑紫の山の 黄葉の 散りて過ぎぬと 君が直香を
 (王之 御命恐 秋津嶋 倭雄過而 大伴之 御津之濱邊従 大舟尓 真梶繁貫 旦名伎尓 水手之音為乍 夕名寸尓 梶音為乍 行師君 何時来座登 大卜置而 齊度尓 狂言哉 人之言釣 我心 盡之山之 黄葉之 散過去常 公之正香乎)

 蜻蛉島(あきづしま)は「日本の」という意味。その代表ということでここは「蜻蛉島は大和の国」というニュアンスである。美称とも枕詞とも取れる。御津の浜は大伴氏の本拠があったとされる大阪湾の浜だという。「占(うら)置きて斎(いは)ひわたるに」は「占いを立てて神様にお祈りし続けるのに」という歌である。「たはことか」は「悪い冗談か」という意味である。「我が心筑紫の山の」は「心を尽くす」を「筑紫」にかけた言い方。
 「大君の仰せを慎んでお受けし、蜻蛉島は大和を過ぎて、大伴氏ゆかりの御津の浜辺から船出せんとする。朝凪どきに大船に梶を揃えて穴に通す水手(かこ)の声が聞こえ、夕凪どきに梶の音が鳴り響いて出発したあの方。いつ戻っていらっしゃるのかと、占いを立てて神様にお祈りし続けるのに、悪い冗談か、人が伝えてあの方はお亡くなりになったと・・・。心を尽くすという筑紫の山の黄葉のように散っていかれたのか、あの姿のあの方が」という歌である。

3334  たはことか人の言ひつる玉の緒の長くと君は言ひてしものを
      (狂言哉 人之云鶴 玉緒乃 長登君者 言手師物乎)
 「たはことか」は前歌参照。「お亡くなりになったという、人の伝聞は悪い冗談なのだわ、だって玉を通した紐のように長く、長くとあの人は言っていたんですもの」という歌である。
 以上、長反歌二首

3335番長歌
  玉桙の 道行く人は あしひきの 山行き野行き にはたづみ 川行き渡り 鯨魚取り 海道に出でて 畏きや 神の渡りは 吹く風も のどには吹かず 立つ波も 凡には立たず とゐ波の 塞れる道を 誰が心 いたはしとかも 直渡りけむ 直渡りけむ
 (玉桙之 道去人者 足桧木之 山行野徃 直海 川徃渡 不知魚取 海道荷出而 惶八 神之渡者 吹風母 和者不吹 立浪母 踈不立 跡座浪之 塞道麻 誰心 勞跡鴨 直渡異六 直渡異六)

 「玉桙(たまほこ)の」、「あしひきの」、「にはたづみ」および「鯨魚(いさな)取り」は共に枕詞。「鯨魚取り」は初見だが、その例は12例に及び、その大部分(10例)が長歌。皆「海」ないし「浜」にかかる典型的な枕詞。「とゐ波の」は「うねり立つ波に」、「塞(さや)れる道を」は「さえぎる道を」という意味である。「直(ただ)渡りけむ」は「まっすぐ渡ってやってきた」という意味。
 「道を行く人は、山を越え、野を渡り、川を渡り、海の道に出て、恐れ多くも神の渡りを敢行する。吹く風ものどかには吹いてくれず、立つ波も普通に立つ波ではなく、うねり立つ波に遮られる艱難辛苦の道のりである。にもかかわらず、誰の心を思って、ここまでまっすぐ渡ってやってきたのだろう、まっすぐ渡ってやってきたのだろう」という歌である。

3336番長歌
  鳥が音の 聞こゆる海に 高山を 隔てになして 沖つ藻を 枕になし ひむし羽の 衣だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺に うらもなく 臥やせる人は 母父に 愛子にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言伝てむやと 家問へば 家をも告らず 名を問へど 名だにも告らず 泣く子なす 言だにとはず 思へども 悲しきものは 世間にぞある 世間にぞある
 (鳥音之 所聞海尓 高山麻 障所為而 奥藻麻 枕所為 <蛾>葉之 衣谷不服尓 不知魚取 海之濱邊尓 浦裳無 所宿有人者 母父尓 真名子尓可有六 若を之 妻香有異六 思布 言傳八跡 家問者 家乎母不告 名問跡 名谷母不告 哭兒如 言谷不語 思鞆 悲物者 世間有 <世間有>)

 「ひむし羽の」は火取虫のことで広辞苑によると「火に集まる虫」のことという。蛾の類である。「鯨魚取り」は前歌参照。「うらもなく」は「心もなく」すなわち「無心に」という意味。「泣く子なす」は「泣く子のように」ということだが「泣きじゃくって物も言えない」という意味か?。
 「鳥の鳴き声が聞こえる海に、高山を隔て(背後にし)、沖に浮かぶ藻を枕にして、海の浜辺に無心に横たわっている人。その人は母や父にとっては愛しい子だろうに。また若草のような妻もあるだろうと思えるのに。何か言づけもあるだろうと思って、家を訊ねたが家の在処も名乗らない。名前を聞いてもそれさえ言わない。まるで泣きじゃくる子のように言葉を発しない。思えば悲しい世の中だねえ。世の中だねえ」という歌である。

3337  母父も妻も子どもも高々に来むと待ちけむ人の悲しさ
      (母父毛 妻毛子等毛 高々二 来跡待異六 人之悲紗)
 「高々に」はつま先だてて待つ意。「今か今か」である。「母も父も、また妻も子供も今に来るだろう、今に来るだろうと待っている人は悲しい」という歌である。

3338  あしひきの山道は行かむ風吹けば波の塞れる海道は行かじ
      (蘆桧木乃 山道者将行 風吹者 浪之塞 海道者不行)
 「あしひきの」はおなじみの枕詞。「塞(さや)れる」は「さえぎる」である。「私は山道を行こう。風が吹くと波にさえぎられる海路は行かないで」という歌である。

 或本の歌にはこうある。「備後國(きびのくにのしりのくに)の神嶋の濱に調使首(つきのおみのおびと)の死体を見て作歌に及んだ長短歌二首」。以下の歌。
3339番長歌
 玉桙の 道に出で立ち あしひきの 野行き山行き にはたづみ 川行き渡り 鯨魚取り 海道に出でて 吹く風も 凡には吹かず 立つ波も のどには立たぬ 畏きや 神の渡りの しき波の 寄する浜辺に 高山を 隔てに置きて 浦ぶちを 枕に巻きて うらもなく こやせる君は 母父が 愛子にもあらむ 若草の 妻もあらむと 家問へど 家道も言はず 名を問へど 名だにも告らず 誰が言を いたはしとかも とゐ波の 畏き海を 直渡りけむ
 (玉桙之 道尓出立 葦引乃 野行山行 潦 川徃渉 鯨名取 海路丹出而 吹風裳 母穂丹者不吹 立浪裳 箟跡丹者不起 恐耶 神之渡乃 敷浪乃 寄濱部丹 高山矣 部立丹置而 汭潭矣 枕丹巻而 占裳無 偃為公者 母父之 愛子丹裳在将 稚草之 妻裳有将等 家問跡 家道裳不云 名矣問跡 名谷裳不告 誰之言矣 勞鴨 腫浪能 恐海矣 直渉異将)

 備後國は岡山県の西部から広島県の東部にかけてあった国。岡山県笠岡市に神島が存在する。調使首は伝未詳。
 本歌は3335番長歌と3336番長歌を合体させたような異伝歌。なので両歌を参照。
「玉桙(たまほこ)の」、「あしひきの」、「にはたづみ」および「鯨魚(いさな)取り」は共に枕詞。「しき波」は「重なる波」、「浦ぶちを」は「入江の岸を」。以下、語句の読解は3335番長歌及び3336番長歌を参照。
 「道に出て、野を渡り、山を越え、川を渡り、海の道に出て、吹く風も普通には吹いてくれず、立つ波ものどかには立たない。恐れ多くも神の渡りだ。重なる波が寄せる浜辺に、高山を隔て(背後にし)、入江の岸を枕にし、海の浜辺に無心に横たわっているお人。その人は母や父にとっては愛しい子だろうに。また若草のような妻もあるだろうと思えるのに。何か言づけもあるだろうと思って、家を訊ねたが家の在処も名乗らない。名前を聞いてもそれさえ言わない。いったいどなたの言葉を大切に思って、うねる波の恐ろしい海をまっすぐ渡ってきたのだろう」という歌である。

3340  母父も妻も子どもも高々に来むと待つらむ人の悲しさ
      (母父裳 妻裳子等裳 高々丹 来将跡待 人乃悲)
 3337番歌と同一歌。「母も父も、また妻も子供も今に来るだろう、今に来るだろうと待っている人は悲しい」という歌である。

3341  家人の待つらむものをつれもなき荒磯を巻きて寝せる君かも
      (家人乃 将待物矣 津煎裳無 荒礒矣巻而 偃有公鴨)
 「つれもなき」は「つれない」のことで、「何のゆかりもない」という意味。「家族の人が待っているだろうに、何のゆかりもない荒磯に横たわっているお人よなあ」という歌である。

3342  浦ぶちにこやせる君を今日今日と来むと待つらむ妻し悲しも
      (汭潭 偃為公矣 今日々々跡 将来跡将待 妻之可奈思母)
 「浦ぶちに」は「入江の岸に」という意味である。「こやせる」は「横たわる」。「妻し」のしは強意の「し」。
 「入江の岸に横たわるお人よ。今か今かと帰りを待っているだろう妻を察すると悲しい」という歌である。

3343  浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
      (汭浪 来依濱丹 津煎裳無 偃為<公>賀 家道不知裳)
 前々歌及び前歌を一読すれば読解不要の平明歌。「浜辺に打ち寄せる浦波。その浜に何のゆかりもないのに横たわっているお人。きっと家路が分からないのでしょう」という歌である。
 以上長反歌九首。
           (2016年3月7日記)
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上を向いて

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 かすかにであるが、夜のまちを歩いていたら坂本九の「上を向いて歩こう」が耳に飛び込んできた。年輩の方なら誰もが聞いたことのある歌である。中村八大作曲、永六輔作詞になるこの曲は「上を向いて歩こう」から始まる。「涙がこぼれないように」と続いて「~、一人ぽっちの夜」で一番が終わる。二番も三番も四番も基本的には「上を向いて歩こう、~、一人ぽっちの夜」と同じパターンが繰り返される。
 感受性の強かった(否、単にセンチメンタルだけだったかも)少年の私。このメロディが大好きで、人通りの少ない夜の裏道を歩みながらメロディをよく口ずさんだものだった。私は特に二番の「にじんだ星をかぞえて」の一節がたまらなかった。実際涙ににじんだ目でかぞえはしなかったが、双子座、オリオン座、白鳥座、カシオペア等々をあるいは探し、あるいは眺めたものだった。そうしている内に心が晴れやかになって、明日を生きる勇気をもらえる気がした。
 以降、半世紀、いまだに私はセンチ癖から抜け出せないで、薄幸な物語やドラマを目にすると「涙がこぼれないように」するのを禁じ得ない。わがセンチ癖に加えて幼児性が抜けきらず、娘のような相棒から「ったくもう、子供なんだから」とお小言を頂戴する始末である。いったい人はいくつになったら成長するのかとあきれるばかりだ。私は人様のように年を重ねるごとに深化し、やがて悟りに達するなどという芸当はとうてい望むべきもない。
   オリオンは今も同じくまたたきぬ遠きむかしの寒空のまま
   仰ぐ空ひとりぽっちの夜のベガ互いに心通わせながら
 夜のまちに響いてきた「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように」。おセンチかも知れないけれど、本当に、ほんとうにいいメロディですね。
            (2016年3月8日)
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万葉集読解・・・209(3344~3347番歌)

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その 210 へ 
         
     万葉集読解・・・209(3344~3347番歌)
3344番長歌
  この月は 君来まさむと 大船の 思ひ頼みて いつしかと 我が待ち居れば 黄葉の 過ぎてい行くと 玉梓の 使の言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地を 炎と踏みて 立ちて居て ゆくへも知らず 朝霧の 思ひ迷ひて 杖足らず 八尺の嘆き 嘆けども 験をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿猪の 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 哭のみし泣かゆ
 (此月者 君将来跡 大舟之 思憑而 何時可登 吾待居者 黄葉之 過行跡 玉梓之 使之云者 螢成 髣髴聞而 大土乎 火穂跡而 立居而 去方毛不知 朝霧乃 思<或>而 杖不足 八尺乃嘆 々友 記乎無見跡 何所鹿 君之将座跡 天雲乃 行之随尓 所射完乃 行文将死跡 思友 道之不知者 獨居而 君尓戀尓 哭耳思所泣)

 「岩波大系本」は「大船の」、「黄葉(もみぢば)の」、「玉梓の」、「蛍なす」、「朝霧の」及び「杖足らず」をみな枕詞としている。これらはおおむね形容詞として説明がつくように思われ、枕詞(?)である。とくに「蛍なす」及び「杖足らず」は本歌一例しかなく、枕詞(?)とせざるを得ない。「黄葉の過ぎてい行くと」のいは強意の「い」、そして「黄葉が散っていく季節が過ぎ去ってゆく」は死を暗示している。「玉梓(たまづさ)の使の言へば」は「たまづさの枝にはさんだあなたの手紙をもった使いが言うには」という意味である。「験(しるし)をなみと」は「甲斐がない」という意味である。
 「この月が来ればあの人がやってくるだろうと、大船のようにゆったり構え、いつ来るか、いつ来るかと私は待っていた。が、(この月も)黄葉が散っていく季節のように過ぎていき、たまづさの枝にはさんだあなたの手紙をもった使いが言うには、亡くなられたようですと、ほのかに聞きました。それを聞いて炎でも踏むような思いで大地を踏んで居ても立ってもいられません。あの人の行方も分からず、朝霧のように呆然となり、長く長く嘆けども、何の甲斐もありません。いづこかにあの人はおいでかと思い、天雲の流れるまま、あるいは手負いの鹿猪(しし)のように行き倒れになろうとも出かけようかと思った。けれど、全くあなたの行く先が見当もつかず、あなたを思って声をあげて泣くばかりです」という歌である。

3345  葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ
      (葦邊徃 鴈之翅乎 見別 公之佩具之 投箭之所思)
 「葦辺(あしへ)行く」は葦の生えている辺りのこと。雁の翼と、彼が身につけていた投げ矢とどんな寓意ないし連想があるのか不明。「葦辺を飛んでいく雁の翼を見るたびにあなたが身につけていた投げ矢を思い出します」という歌である。
 狩りが好きだった夫への思い出か?。
 以上長反歌二首。

3346番長歌
  見欲しきは 雲居に見ゆる うるはしき 鳥羽の松原 童ども いざわ出で見む こと放けば 国に放けなむ こと放けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし 草枕 この旅の日に 妻放くべしや
 (欲見者 雲居所見 愛 十羽能松原 小子等 率和出将見 琴酒者 國丹放甞 別避者 宅仁離南 乾坤之 神志恨之 草枕 此羈之氣尓 妻應離哉)

 悩ましいのは「童ども(原文:小子等)」。通常「子等」は一族の年少者等をさして使われる場合が少なくない。各書とも「皆の者、若者たちよ」としてこの意味に解している。この意味で使われる呼びかけにはすべて「子等」であって、「小子等」は本歌以外は皆無である。そして、肝心の歌意も「皆の者」では奇異である。ここは「我が子たち」でないと歌意が通らない。「皆の者」と解したのは次句が「いざわ出で見む」の呼びかけになっているからに相違ない。「いざわ」は「さあ」という呼びかけの言葉だから。が、「こと放(さ)けば」以下は個人の悲しみ。とうてい「皆の者」と呼びかけるような歌ではない。以上を整理して歌意を通せばこうなる。
 「逢いたいのは、彼方の雲のあたりに見える 愛しいふるさと、鳥羽の松原と我が子たち。さあ、外に出てきておくれ子供たち。どうせ別れる(引き裂かれる)なら国元で、どうせ別れる(引き裂かれる)なら家元で別れたかった。天地の神様が恨めしい。よりによって草枕、この旅の身にあって、妻を引き裂くなんて」という歌である。

3347  草枕この旅の日に妻放り家道思ふに生けるすべなし
      (草枕 此羈之氣尓 妻<放> 家道思 生為便無)
 「草枕」は枕詞。「妻放(さか)り」は「妻が亡くなった」こと。「草枕この旅の身にあって妻が亡くなったという知らせを受けた。家路を急ぎながら思うに生きた心地がしない」という歌である。
 以上長反歌二首。
 巻13はこれで完了である。2月中に終えるつもりだったが、少し遅れてしまった。
           (2016年3月9日記)
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続きの夢

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 10日ほど前のことである。私は奇妙な夢を見た。ざわざわと人声がする場所で、誰かに「カレーってカレーのほかに何を入れる?」と訊ねられた。極めて単純な質問である。そもそも私は、うどんやソバ以外に作ったことがない。いわば全く料理音痴の私がそんなことを訊ねられる夢をみるなんて、まさに夢にも思っていなかったので、ほんとうに奇妙な夢である。咄嗟の質問に「えーっと、えーっと」としどろもどろになり、答えられないまま目が覚めた。
 どうしてそんな夢を見たんだろうと思ったが、そんな夢のことはその日のうちに忘れてしまった。ところがである。今朝の明け方、なんと夢の続きを見たのである。「えっ、夢に続きがあるの?」と驚かれた向きも少なくなかろう。それはそうだろう。現実の世界でもないのに「夢に続き?」なんて。
 むろん、私には一度見た夢の続きの夢なんて全く見た事がない。同じ場面、似たような場面の夢なら幾度か経験したことがある。が、同じ場面に続く夢なんて・・・。
 夢の続きの夢は事柄が単純なだけに単純なものだった。やはりざわざわした感じの場所で「カレーってカレーのほかに何を入れる?」と訊ねられたのだ。「えーっと、ニンジンとかタマネギとか、かな」と私が答えると、相手は言った。「すごい、すごいな君は」。相手は声だけなので誰だかさっぱり分からない。「すごい、すごいな君は」と言われても何がすごいんだか、ちんぷんかんぷん。何か答えなきゃと思って「え-っと、えーっと」と言っているところで私は目が覚めた。
 夢に続きがあるなんて・・・。私は狐に鼻をつままれたような思いである。現実の世界では何が起きるか分からない。が、夢の世界でもこんなことが起こるんですね。どなたか夢の続きなるものを見たことがありましょうか。
            (2016年3月10日)
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ラーメン半額

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 先日、さるスーパーの地下街で店を出しているラーメン店に立ち寄った。「寿がきや」という店である。「寿がきや」というのは、愛知県豊明市に本社を置くラーメンを中心メニューとする店。全国的にはいまいちだが、ここ名古屋では知られた店である。
 さて、問題は単価が400円から700円程度のラーメン店。普段は客足がいまいちだが、その日は満席状態。普段は2人の従業員でやっているが、その日は5人もの従業員を確保して、それでもてんてこまいの忙しさだった。
 にわか繁盛の原因は○○周年記念とかで、販売価格を半額にしていた。例外なく、何を注文しても半額。家族連れ、友達同士、等々複数でやってくる人々で賑わっていた。
 半額の魅力に抗しきれずやってくる人々。半額といっても数百円の得。しかもご近所ならいざ知らず、車を駆ってかなり遠くからやって来る人がいた。スーパーの客寄せではない。スーパー内に店を構える独立店だ。
 これと似た経験を踏まえて随分昔、6年も前の本欄で「行列文化」と題して一文を弄したことがある。私はその一節に次のように記している
 「デパート、地下鉄、宝くじ売り場、ありとあらゆる場で目にする行列光景。極端な例では、1パック100円の卵を獲得するために数時間も前からスーパーの前で列を作り始める。ガソリン代の方が何倍も高くつくと思われるのに、構わず車でやってきて列の後尾に並ぶ。」
 1パック100円の卵でもこの有様である。それに比べれば遠くから数百円の得を求めて人が集まってくるのも理解できる。それにしても、人間の行動ってのは不可思議。経済など度外視。かく申す私めも人に誘われたからとはいえ、車を飛ばした。ホント、人間って不合理にできてますね、
            (2016年3月10日)
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弱音

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 きょうは万葉集にまつわる話である。といっても内容の話ではない。その読解作業を例にして全く別の話である。弱音の話だ。現在、私は巻14の準備にかかっている。
 巻14はすべて短歌で、かつ、すべてが東歌(あづまうた)という特異な巻である。東国(あづまのくに)は奈良・京都より東方にある国を指し、この巻の存在によって短歌文化が遙か遠く、陸奥(むつ)国(今の青森、岩手、宮城、福島の4県)まで及んでいたことが知られる。奈良時代にすでに数多くの人々によって親しまれていたことがうかがわれる貴重な巻だ。万葉仮名によって知られるように、大変複雑な言語空間をすでに当時の遠隔の地に住んでいた人々にまで伝播していたことを物語る。極端にいえば奈良・京文化の一端である短歌文化がすでに全国化していたことを示しているといえよう。
 東歌の中には地名や方言も詠い込まれており、資料の整理や理解に頭を痛めることも少なくない。このことを読解作業が遅れている理由にしようなどという、いわば言い訳にするつもりはさらさらない。が、ついつい弱音を吐きそうになるのも正直なところだ。なにごとによらず弱音を吐きそうになるのは私ならずともあり得ることだろう。「私は弱音を吐かない」などという人がいるとすれば、その人は超怪人、ないしは大ペテン師といってよかろう。
 日々の勉学、日々の練習、急坂の登坂等々、大小様々なれど、必ずや弱音を吐きたくなることだろう。それでも、人は弱音を乗り越え、目標に向かって進む。「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから(そこに山があるから)」と答えた、イギリスの登山家ジョージ・マロリーの言葉はあまりにも有名だ。
 この言葉を励みにして目標に向かって進んだ人は数知れないに相違ない。弱音を吐きたくなる瞬間は誰にも訪れる。なので「弱音を吐きたくなったら、ああ、しんどい」とつぶやいてしまうことが肝要だ、と私なんかは思う。
            (2016年3月14日)
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馬酔木の花

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 私は呼吸器系統に難を抱えていて、3ヶ月に一回の割合で名古屋第一赤十字病院に通院している。前々回、すなわち12月に通院した際、その前庭の一角に「あせび」という名札が掲げてあるのに気づいた。これはひょっとして万葉集に出てくる「馬酔木(あしび)」のことじゃないのか、と思った。が、深く気にとめず、2月に辞書で調べると、果たして馬酔木のことと判明した。以来、ずっと気になり、是非この目でその花を見てみたいと思うようになった。
 あしびの花は万葉時代、よく知られた花だったようで、全万葉集歌中10例に及ぶ。10例といえば、椿が9例なので、馬酔木は椿並みに知られた花だったことが分かる。たとえば一例を紹介すると、1903番歌に「我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり 」と詠われている。私の読解によれば「あの人に恋い焦がれている、その今の自分の心情は、奥山で人知れず今を盛りと咲いている馬酔木の花そのものです」という歌である。
 昨日、日赤に行く日が訪れ、馬酔木を実見するのが最大の楽しみだった。あわよくば花が咲いていてほしいと切に願った。診察が終了し、カメラを携えてその場に直行した。小形の壺が鈴なりに連なった形状の花で、私は馬酔木の花を前にして大袈裟にいえば足が震えるような喜びに捕らえられた。むろん馬酔木の花を見たのは初めての経験だった。
 が、その花もさることながら、私の最大の喜びは、この花を知ったことで、万葉集を単なる知識からリアルな実感として見られる、という喜びだった。文法だの用語の意味だのはどうでもいい。そこに詠われている馬酔木の花が、げんに眼前に実存している。私はこのことによって、古代人の心とつながった、という気がした。万葉集は単なる知識ではない。それをあらためて知らされた思いがしたのだった。
            (2016年3月16日)
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PC不具合

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 一週間ほど前、パソコンに電源を入れて起動したところインターネットにつながらなくなってしまった。再起動しようとしても出来ず、やむなく強制的に電源を切った。再度電源を入れても結果は同様。要するにパソコンがハングアップしてしまったのである。
 こうなると、パソコンにどっぷり浸かり、頼りっきりになっている私はなす術がない。文章一つ書くことも出来ず、むろん、インターネットに接続出来ないので、ブログに発表することも出来ない。翼をもぎ取られた鳥さながらいかんともし難い。
 やむなく業者を呼んでみてもらったところ、ハードディスクを初期化するか、最悪の場合はハードディスクを交換しなければならないという返答だった。情けないやら腹立たしいやらで茫然自失となった。
 こういう経験は2年半ほど前に味わっている。その時の苦労が脳裏によみがえってきた。ソフトを入れ、WEBを探し、メールのやりとりができるようにしなければならない。その他様々な作業を考えるとうんざりする。
 この膨大なロスタイムのことを考えると天を仰いでうらめしくなる。幸い私の文筆活動の大きな部分はブログになっている。インターネットさえつながれば見ることができる。 ITは非常に便利で、これがなければ私の活動そのものが成立しない。そうと分かっていながらこうした不安定さが内在することを思うと、暗澹たる思いに駆られる。これは、いわば、私の純個人的な損失に関わる問題であり、その限りにおいては取るに足りない小事だ。が、もっと大きな、国家機密や犯罪に関わる問題であったらと考えるとぞっとする。場合によっては国際社会を巻き込む大騒動になりかねない。ITの不具合、それは、私自身という些事から、株式や商取引、さらにはミサイルの誤発射に至る大事まで平等に起こり得る点に恐ろしさがある。
            (2016年3月26日)
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万葉集読解・・・210(3348~ 3360番歌)

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 巻13~16メニュー へ   
そ の 211 へ 
         
     万葉集読解・・・210(3348~ 3360番歌)
 巻14はすべて短歌で、かつ、すべてが東歌(あづまうた)。東国(あづまのくに)は奈良・京都より東方にある国を指す。巻14の目次(表題)によると、国名のはっきりしている歌やそうでない歌に大別されている。特異な巻で、この巻の存在によって短歌文化は遙か遠く、陸奥(むつ)国(今の青森、岩手、宮城、福島の4県)まで及んでいたことが知られ、かつ、東国方言をうかがうことが出来る。貴重な巻である。

3348  夏麻引く海上潟の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり
      (奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等<杼>米牟 佐欲布氣尓家里)
 「夏麻(なつそ)引く」は枕詞(?)。語義未詳。4例ある。3例は「うな」と続くので「うな」の枕詞か。海上潟(うなかみがた)は千葉市付近という説もあるが、1176番歌にも「夏麻引く海上潟の沖つ洲に~」とあり、決定できない。文字通り「海の干潟」と解しておくのが無難だろう。「沖の干潟に船をとどめることにしよう。夜も更けてきたので」という歌である。
 右一首は上総國の歌。(かづさ。今の千葉県中部)。

3349  葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒く波立つらしも
      (可豆思加乃 麻萬能宇良<未>乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母)
 「葛飾(かつしか)」は千葉、埼玉、東京にまたがる一帯。真間は市川市内。432番歌にも「我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥津城ところ」とある。「船人騒く」と「波立つらしも」をかけている。「葛飾の真間の浦のあたりを漕ぐ船の船頭が忙しく立ち騒いでいる。波が立ち騒ぎだしたらしい」という歌である。
 右一首下総國の歌(しもふさ。今の千葉県北部と茨城県南西部)

3350  筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも  [或本歌曰:たらちねの 又云 あまた着欲しも]
      (筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母 [或本歌曰:多良知祢能 又云 安麻多伎保思母])
 筑波嶺(つくはね)は茨城県の筑波山。「新桑繭(にひぐはまよ)の衣(きぬ)はあれど」は「新しい繭で織った着物」。「あやに」は「たいそう」ないし「むしょうに」という意味である。「筑波山で新しく織られた着物はいいのですが、私はあなたがお召しになっている着物がたいそう着てみとうございます」という歌である。

3351  筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろがにぬ乾さるかも
      (筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母)
 筑波嶺(つくはね)は茨城県の筑波山。「降らる」は「降れる」の訛りというが、本例一例しかなく、「降れる」は「降れるしぐれの」(1551番歌)とか「降れる白雪」(3926番歌)というふうに使用されている。なので、訛りには相違ないが、方言と見た方がいいだろう。同様に「子ろ」は「子ら」(あの子という意味)の、「にぬ」は「ぬの(布)」の方言とみてよい。
 「筑波嶺に雪が降っているのか、いや、そうではないのかな。愛しいあの子は布を干しているのだろうか」という歌である。
 右二首常陸國の歌(ひたち。今の茨城県の大部分)

3352  信濃なる須我の荒野に霍公鳥鳴く声聞けば時過ぎにけり
      (信濃奈流 須我能安良能尓 保登等藝須 奈久許恵伎氣<婆> 登伎須疑尓家里)
 「須我の荒野」は未詳。霍公鳥はホトトギス。「信濃の国の須我の荒野にホトトギスが鳴いているところを見ると時は過ぎ去っていったのだな」という歌である。
 右一首信濃國の歌(しなの。今の長野県)

 相聞歌。
3353  あらたまの伎倍の林に汝を立てて行きかつましじ寝を先立たね
      (阿良多麻能 伎倍乃波也之尓 奈乎多弖天 由伎可都麻思自 移乎佐伎太多尼)
 「あらたまの」は枕詞ではなく、静岡県浜松市の浜北区にあった麁玉郡(あらたまぐん)のこととされている。「伎倍(きへ)」はその麁玉郡内のどこか。「行きかつましじ」は「そのままにして行ってしまってよいのだろうか」すなわち「行くわけにはいかない」という意味である。「麁玉の伎倍の林に見送るあんたを立たせたまま行ってしまってよいのだろうか。その前に共寝をしようではないか」という歌である。

3354  伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に
      (伎倍比等乃 萬太良夫須麻尓 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊毛我乎杼許尓)
 「伎倍(きへ)人」は前歌の林で見送る彼女のこと。「まだら衾(ぶすま)」は「まだら模様の寝具」のこと。「綿さはだ」は「綿が一杯に」という意味。ここまで「入り」を導く序歌。「伎倍人のまだら模様の寝具に綿がいっぱい入っている、その綿のように、私も綿になって彼女の床に入りこみたいものだ」という歌である。
 右二首遠江國の歌(とほつあはうみ。今の静岡県西部)

3355  天の原富士の柴山この暗の時ゆつりなば逢はずかもあらむ
      (安麻乃波良 不自能之婆夜麻 己能久礼能 等伎由都利奈波 阿波受可母安良牟)
 「時ゆつりなば」は「時が移ったならば」すなわち「時が過ぎていったなら」という意味である。「天の原に聳える富士の柴山(雑木林)に日暮れ時がやってきた。この時を逃したらもう彼女に二度と逢えないだろうな」という歌である。

3356  富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへばけによばず来ぬ
      (不盡能祢乃 伊夜等保奈我伎 夜麻治乎毛 伊母我理登倍婆 氣尓餘婆受吉奴)
 「妹がり」は「暗がり」からうかがえるように、「彼女の許へ」という意味。「けによばず」は漢字で「日(け)に及(よ)ばず」と書けばはっきり分かるように「一日もかからず」という意味。「富士の嶺のいや遠く長い山路であっても、彼女の許へ訪れるつもりなら一日もかからず来られるよ」という歌である。

3357  霞居る富士の山びに我が来なばいづち向きてか妹が嘆かむ
      (可須美為流 布時能夜麻備尓 和我伎奈婆 伊豆知武吉弖加 伊毛我奈氣可牟)
 「山びに」は「山辺に」のことで、富士の裾野を意味する。「霞がたちこめる富士の裾野に迷い込んで私がやって来ないとしたら霞で分からず、どちらの方向に向かって彼女は嘆くことだろう」という歌である。

3358  さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと
      (佐奴良久波 多麻乃緒婆可里 <古>布良久波 布自能多可祢乃 奈流佐波能其登)
 「玉の緒」は各書とも「短い」と解している。が、これまでの例だと「玉の緒」は細く長いという意味に解されていて、「短い」は正反対の意味になってしまう。意味は同じことになるかも知れないが、「玉の緒」はこれまでどおり細く長いということで、「切れやすい」という意味だと思う。たとえば2789番歌に「玉の緒の絶えたる恋の乱れなば死なまくのみぞまたも逢はずして」と使われている。結句の「鳴沢のごと」は「ごうごうと鳴る沢のように」という意味である。
 「共寝するのは玉の緒のように切れやすい。が、恋心は富士の高嶺のごうごうと鳴る沢のように激しく長く続く」という歌である。

 本歌には2首の異伝歌が登載されていて、その第一は次のとおりである。
 或本歌曰:ま愛しく寝らくはしけらくさ鳴らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
      (麻可奈思美 奴良久波思家良久 佐奈良久波 伊豆能多可祢能 奈流佐波奈須与)
 「~しけらく」でいったん切ると「さ鳴らくは」は「噂が激しく」と解釈できる。なので「しけらく」は本歌の歌意と合わせて「切れやすい」すなわち「いっとき」という意味になる。「あの子が可愛くて共寝したのはいっときのことだが、ひとの噂は激しくて、伊豆の高嶺のごうごうと鳴る沢音のようだ」という歌である。

 第二の異伝歌は次のとおりである。
 一本歌曰:逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも
      (阿敝良久波 多麻能乎思家也 古布良久波 布自乃多可祢尓 布流由伎奈須毛)
 「玉の緒しけや」は直前の異伝歌参照。「逢うのはいっときのことだが、恋心は富士の高嶺に降る雪のように激しく続く」という歌である。

3359  駿河の海おし辺に生ふる浜つづら汝を頼み母に違ひぬ [一云 親に違ひぬ]
      (駿河能宇美 於思敝尓於布流 波麻都豆良 伊麻思乎多能美 波播尓多我比奴 [一云 於夜尓多我比奴])
 「おし辺に生ふる」は「磯辺に生える」で「おし辺」は方言か。「浜つづら」は「浜に生えた蔓草」でここまで序歌。「駿河の海の磯辺に生える浜の蔓草のように、末長くあなたを頼りにし、母さんの意志にそむいてしまいました」という歌である。
 右五首駿河國の歌(するが。今の静岡県の中央部)

3360  伊豆の海に立つ白波のありつつも継ぎなむものを乱れしめめや
      (伊豆乃宇美尓 多都思良奈美能 安里都追毛 都藝奈牟毛能乎 美太礼志米梅楊)
 「ありつつも」は「このまま続く」という意味。ここまで「継ぎなむものを」を導く序歌。「乱れしめめや」は「乱れさせることがありましょうか」という意味である。「伊豆の海に立つ白波のようにこのまま続けばいいものを、私があなたの心を乱れさせることがありましょうか」という歌である。

 この歌には異伝歌が登載されていて、次のとおりである。
 或本歌曰:白雲の絶えつつも継がむと思へや乱れそめけむ
     (或本歌曰:之良久毛能 多延都追母 都我牟等母倍也 美太礼曽米家武)
 第二句「絶えつつも」(原文「多延都追母」)は五音。極めて異例。七音が字足らずで六音になる例はあっても、五音はおそらく例がない。あるいは「多く延びつつも」か。これで歌意が通るか。「白雲の長く延びつつも続かんと思うにあなたの心を乱れさせることがありましょうか」となる。どうもこれで歌意がぴったり通りそうである。
 右一首伊豆國の歌(いづ。今の静岡県伊豆半島と東京都伊豆諸島)
           (2016年3月27日記)
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胡蝶蘭

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 先日、英会話クラブの例会に出席した帰途、寿司屋に立ち寄った。例会後の夜食に必ずといってよいほど立ち寄るお馴染みの店だ。名古屋ないしその周辺の人なら耳にしたこともお有りかと思うが、旧御園座の近くにある東寿司(あずまずし)本店だ。
 入店していつもの席に陣取ると、目の前に実に美しい花が花開いていた。胡蝶(蝶の異称)が羽を広げた形をした花だ。内心密かに胡蝶蘭ではないかと思った。が、花、中でもランにうとい私に確信のあろう筈はなかった。眺めていると、胡蝶以上に胡蝶らしいピンクの美しい花だ。もしもこれが胡蝶蘭ならいっぺんに胡蝶蘭に魅せられ、胡蝶蘭ファンになりそうな気がした。
   洋ランは日本原産の花ならぬしかれどなにゆえこの地に似合う
   ひらひらとこの花なぜかひるがえるソメイヨシノに似て美しき
 ピンク系統という中間色系の花というのも私のお気に入りの色彩だった。
 気になったので、私は女店員に花の名を尋ねてみた。果たして花は胡蝶蘭だった。ランはずっと昔「育てるのは難しい」と聞いたことがある。そうだとすれば、とうてい私の手に負える花ではない。
 それはそれとして、胡蝶蘭を目前にして頬張る寿司のなんとおいしかったことだろう。私にとってそれは至福の時間であり、もっとも贅沢なひとときだった。
 店を出て、夜の伏見通りをバス停に向かって歩を進めながら思った。本当に人生はいいときが少ない。いろいろ人間関係に悩んだり、病院関係にお世話になったり。直近のことでいえばパソコンの不具合に見舞われたり、と次から次へと頭の痛いことがやってくる。それでも、こうして生きていられるのは、胡蝶蘭を目前にして寿司を頬張る、至福のいっときがやってくるからに相違ない。胡蝶蘭に感謝である。
            (2016年3月28日)
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万葉集読解・・・211(3361~3372番歌)

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     万葉集読解・・・211(3361~3372番歌)
3361  足柄の彼面此面にさすわなのか鳴る間しづみ子ろ我れ紐解く
      (安思我良能 乎弖毛許乃母尓 佐須和奈乃 可奈流麻之豆美 許呂安礼比毛等久)
 「足柄の」は足柄山。足柄山は神奈川県足柄山。東南方向に箱根山につながる。「彼面此面(をてもこのも)に」は「あっちにもこっちにも」という意味である。「さすわなの」は獣を捕獲するために「仕掛ける罠」のこと。「か鳴る間しづみ」は「獲物がかかったときの音とその間の静けさ」という意味である。「子ろ」は「子ら」の方言か。そしてその「子ら」は親しみをこめた表現「あの子」と同意。「足柄山のあっちにもこっちにも仕掛けた罠。獲物がかかった時はけたたましくなり、それを待つ間の静けさ。その静けさの中であの子と私は着物のひもを解く」という歌である。二人だけの密事を強調した歌か?

3362  相模嶺の小峰見そくし忘れ来る妹が名呼びて我を音し泣くな
      (相模祢乃 乎美祢見所久思 和須礼久流 伊毛我名欲妣弖 吾乎祢之奈久奈)
 本歌はやっかいな歌である。歌意が把握しづらい。第二句「小峰見そくし」だが、「佐々木本」以外は「小峰見かくし」と訓じ、その「見かくし」は「見て見ぬふりをする」すなわち「見捨てて」と解している。この表現は次の異伝歌と同じなので、両歌とも共用できなければならない。「見かくし」は原文の「見所久思」を「見可久思」の誤りとして解釈したものだ。
 さて、原文にしたがって「佐々木本」のように「見そくし」と訓じた場合はどうか。「見そくし」は「見るにつけても」という意味になる。つまり小峰は隠れるどころか「いつまでも見えている」ことになる。次の異伝歌にも通用する。「相模の山々の峰が遠ざかって小峰になりつつ、いつまでも見えている。小峰よ、忘れさろうとしているのにあの子の名を呼び覚まして私を泣かせないでおくれ」という歌である。これで歌意が自然に通るようになった。どうも原文のままで良さそうだ。

 本歌には異伝歌が登載されていて、次のようになっている。
 或本歌曰:武蔵嶺の小峰見そくし忘れ行く君が名かけて我を音し泣くる
      (或本歌曰;武蔵祢能 乎美祢見所久思 和須礼遊久 伎美我名可氣弖 安乎祢思奈久流)
 武蔵は東京都や埼玉県を一帯とする武州の国。その山々を意味している。本歌の「忘れ来る」が「忘れ行く」になっていることに注意。本歌は別れて遠ざかっていく山々を見つつ、彼女を惜しむ心情を詠ったもの。これに対し、この異伝歌は遠ざかっていく彼に焦点を当てて、彼方の武蔵の山々に向かっていくのを見送る女の心情を歌にしている。「武蔵の山々の小峰に向かって、遠ざかっていく忘れられないあの人、その名を口にすると泣けてくる」という歌である。
 これでぴったり。これは異伝歌ではなく、男の心情と女の心情を詠ったものである。「忘れ来る」と「忘れ行く」、そして相模嶺と武蔵嶺と、原文の相違には大きな意味があるのである。

3363  我が背子を大和へ遣りて待つしだす足柄山の杉の木の間か
      (和我世古乎 夜麻登敝夜利弖 麻都之太須 安思我良夜麻乃 須疑乃木能末可)
 「待つしだす」は古来難解とされている。その前に結句の「杉の木の間か」に言及しよう。杉の木の間に立っているのはいうまでもなく作者の女性。つまり、歌意はその彼女が大和へ向かう夫を見送っている図と考えるのが自然である。したがって「待つしだす」は「待つし出す」のこと。しは強意の「し」。これで歌意が通ればいいわけだ。「あの人を大和へ送り出す。足柄山の杉の木の間に立って見送りながら待つつらさよ」という歌である。

3364  足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを粟無くもあやし [或本歌末句曰 這ふ葛の引かば寄り来ね下なほなほに]
      (安思我良能 波I祢乃夜麻尓 安波麻吉弖 實登波奈礼留乎 阿波奈久毛安夜思 [或本歌末句曰 波布久受能 比可波与利己祢 思多奈保那保尓])
 足柄山は箱根の山につながっていくのは3361番歌に触れたので参照。「逢わない」を「粟無く」にかけた歌。「足柄の箱根の山に粟を蒔いて粟が実になったというのに、粟がない(逢わない)とは奇妙なことだね」という歌である。
 異伝歌の方は「下なほなほに」の下は心のことで、「すなおに」という意味。下句だけ記してあるが、上句と合わせると「足柄の箱根の山に這ふ葛の引かば寄り来ね下なほなほに」という歌になる。従って異伝歌は「足柄の箱根の山に這う葛が引けば寄ってくる。その葛のようにすなおに逢ってちょうだい」という歌である。

3365  鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ
      (可麻久良乃 美胡之能佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍伎 己許呂波母多自)
 鎌倉は、ご存知、後に鎌倉幕府の開かれた所。神奈川県鎌倉市。「見越しの崎」は不詳。「岩崩(いはく)えの」は岩崩れのこと。ここまで「悔ゆべき」を導く序歌。「鎌倉の見越しの崎の岩崩れのように、あなたが後悔なさるような心を私は決して持ちません」という歌である。

3366  ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の美奈の瀬川に潮満つなむか
      (麻可奈思美 佐祢尓和波由久 可麻久良能 美奈能瀬河泊尓 思保美都奈武賀)
 「ま愛(かな)しみ」は「全く可愛いので」で、みは「~なので」の「み」。「美奈の瀬川」は鎌倉市内を流れる稲瀬川か?。「なむか」は「らむか」の訛り。「あの子が全く可愛いので共寝しに行こうと思うが、鎌倉の美奈の瀬川は潮が満ちていることだろうか」という歌である。潮が満ちていて逢うのが困難というのを暗示している。

3367  百づ島足柄小舟歩き多み目こそ離るらめ心は思へど
      (母毛豆思麻 安之我良乎夫祢 安流吉於保美 目許曽可流良米 己許呂波毛倍杼)
 「百(もも)づ島」は「多くの島々」、足柄小舟は神奈川県足柄地方の独特の小舟とされる。ちょこまかと歩きまわるように島々をこぎ回るので「歩き多み」と表現したのだろう。「多み」のみは前歌参照。「目こそ離(か)るらめ」は「目と目を合わさないものの」すなわち「ゆっくり顔を合わさないが」という意味である。「多くの島々を動きまわる足柄小舟のように立ち寄るところが多いので、ゆっくり顔を合わすことがないのでしょうね。心では思っていらっしゃるのでしょうが」という歌である。

3368  あしがりの土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに
      (阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓)
 「あしがりの」は「足柄の」の訛り。「土肥の河内に出づる湯の」は神奈川県湯河原から静岡県熱海に至る湯河原のこと。「よにもたよらに」ははっきりしない。「ように絶えずに」とも取れるし、「世にも絶えずに」とも取れる。「たよら」は「絶えぬ」の訛りか。「子ろ」は「子ら」(あの子)の訛り。「足柄の河口近辺に出る湯河原温泉の湯、世にも絶えないその湯のように愛情が絶えることはないとあの子は言ってくれない」という歌である。

3369  あしがりの麻万の小菅の菅枕あぜか巻かさむ子ろせ手枕
      (阿之我利乃 麻萬能古須氣乃 須我麻久良 安是加麻可左武 許呂勢多麻久良)
 「あしがりの」は「足柄の」の訛り。「麻万(まま)」は東国語で崖や土手を意味するようだが、はっきりしない。あるいは地名で「麻万製の」という意味かもしれない。「あぜか」は東国語で「なにゆえ」という意味。「子ろ」は「愛しい子」、「せ」は「しなさい」という意味。共に東国語と考えられる。「足柄の麻万の小菅で作った菅枕、どうして枕にしているの。愛しい子よ私の手を枕にすればいいではないか」という歌である。

3370  あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む
      (安思我里乃 波故祢能祢呂乃 尓古具佐能 波奈都豆麻奈礼也 比母登可受祢牟)
 「あしがりの」は「足柄の」の訛り。「嶺ろのにこ草」は「峰に生える柔らかい草」という意味。「嶺ろの」の「ろ」は「子ろ」と同じく親しみをこめた東国語か?。「足柄の箱根の山のにこ草のような柔らかい花の妻だもの着物の紐を解くことなく寝るとしよう」という歌である。

3371  足柄のみ坂畏み曇り夜の我が下ばへを言出つるかも
      (安思我良乃 美佐可加思古美 久毛利欲能 阿我志多婆倍乎 許知弖都流可毛)
 「み坂畏(かしこ)み」は(峠は神の御坂)ゆえ「恐れ多いので」という気持。「我が下ばへを」は「わが内心の思いを」という意味である。「足柄峠の神のみ坂は恐れ多いけれど、曇り夜にやってきて、(彼女に対する)内心の思いをとうとう言葉に出してしまった」という歌である。

3372  相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも
      (相模治乃 余呂伎能波麻乃 麻奈胡奈須 兒良波可奈之久 於毛波流留可毛)
 「余綾(よろき)の浜」は神奈川県小田原市の浜。「真砂なす」は「白砂のような」。「子ら」のらは親しみの「ら」で「あの子」。「相模道の余綾の浜の美しい白砂のようなあの子、本当に愛(いと)しく思われることよ」という歌である。
 右十二首相模國の歌(さがみ。今の神奈川県)
           (2016年3月29日記)
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