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伝統文化

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 私は万葉集の読解に力を注ぎ、それに従事しつつ思うところがある。日本文化の伝統だ。いうまでもなく、短歌や俳句はその最たるもの。幾世紀にもわたって営々とその形式が尊ばれ、何世代にもわたって受け継がれ続けている。
 分かりやすいのは俳句である。たった17文字(音)しかない実に窮屈な短詩系文学の一種である。その窮屈なしばりに加えてその形式は五七五でなければならず、かつ、季節を表す季語が入っていなければならない。
 山路来て何やらゆかしすみれ草(松尾芭蕉)、桐一葉日当りながら落ちにけり(高浜虚子)、五月雨や上野の山も見飽きたり(正岡子規)等々いずれも五七五であり、季語が詠み込まれている。
 ところが、こうしたしばりに対し、本来心情を扱う詩だからそうしたしばりはおかしい。もっと自由で、かつ、季語などからも離れてしかるべきだ、という抗伝統ともいうべき運動が生まれ、様々な自由俳句が出てくる。
 ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ(種田山頭火)、みどりゆらゆらゆらめきて動く暁( 荻原井泉水)等々は五七五にしばられず、季語もない。
 こうした作品群に対し、それを俳句だと主張するのはおかしい。反対に俳句ではないと抹殺するのもおかしい。なんとなれば、五七五の形式を満たし、季語が入っている短詩を称して私たちはそれを俳句と呼び、営々と守り続けてきたのである。換言すればそうでないものは俳句とは呼ばない。俳句でないのに俳句と主張するのはおかしいし、俳句でないものを俳句ではないと反論するのもおかしい。なぜ、一行詩とか散文詩と呼ばないのだろう。例示した一行詩は自己を雑草に仮託したり、ゆらめく暁の姿は普遍性を持っていて、一行詩として秀逸に私には思える。俳句という伝統文化に反旗を翻しながら、これも俳句と主張するとすれば、まさに自己矛盾といわなければならない。
              (2016年3月31日)
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伝統文化その二

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 前回、伝統文化について俳句の例を掲げ、俳句はたった17文字(音)の窮屈な詩。かつ、その窮屈なルールに、さらに五七五にまとめ、季節を表す季語を入れなければならないという、いっそう窮屈なルールを課している、と記した。
 にもかかわらず、わが日本人はその窮屈な俳句ルールを受け入れ、幾世代にもわたって受け継いできている。なぜだろう。ここが重要な点なので実例をもう少し紹介して一文を続けてみたい。有名な俳人の句に次のようなものがある。
 1:ほろほろと山吹散るか瀧の音  (松尾芭蕉)・・・春の句
 2:寂として客の絶え間のぼたんかな(与謝蕪村)・・・夏の句
 3:散る芒寒くなるのが目に見ゆる (小林一茶)・・・秋の句
 4:しぐれふるみちのくに大き仏あり(水原秋桜子)・・冬の句
 5:海に出て木枯帰るところなし  (山口誓子)・・・冬の句
 いかがであろう。これらは各俳人の句でありながら、同時に日本そのものを表象しているではありませんか。
 ご承知のように、日本は風光明媚な列島国家である。山吹、滝、ぼたん、薄(ススキ)、しぐれ、木枯らし等々いずれも我が日本を代表する風物である。つまり、わが日本は春夏秋冬の四季がはっきりしており、それに応じて花鳥風月が変化し、時節の行事や風習が営まれている。これは世界的に見ても希有な特徴に相違ない。緯度が似通った地域であっても、森林や乾燥地帯であったり、何よりも周囲が海に囲まれた海洋国家である点は希有な存在である。四季の存在と海に囲まれた列島国家、これこそ、窮屈な俳句文化が営々と営まれてきた本質に相違ない。つまり、五七五と季語、それは単にルールなんかではなく、列島国家の本質を表す象徴なのだ。奔放に破ってよいものではないと私は思う。
              (2016年4月1日)
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万葉集読解・・・212(3373~3387番歌)

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     万葉集読解・・・212(3373~3387番歌)
3373  多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき
      (多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎)
 多摩川は東京都大田区と川崎市川崎区の間を流れる川。「多摩川にさらす手作り」は布のことだが、次句の「さらさらに」を導く序歌。「さらさらに」は「更にいっそう」である。「ここだ」の例は多いが、近い例として2889番歌に「いで如何に我がここだ恋ふる我妹子が逢はじと言へることもあらなくに」とある。「しきりに」という意味である。
 「多摩川に布をさらして仕上げるが、そのさらではないが、更にいっそうこの子がどうしてこんなにも愛しいのだろう」という歌である。

3374  武蔵野に占へ象焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり
      (武蔵野尓 宇良敝可多也伎 麻左弖尓毛 乃良奴伎美我名 宇良尓悌尓家里)
 「象(かた)焼き」は鹿の骨などを焼いて占うことをいう。「まさでにも」は「現実には」という意味である。「武蔵野に占う骨焼き、実際にあなたの名前など口に出さなかったのに、その占いに出てきてしまったわ」という歌である。

3375  武蔵野のをぐきが雉立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ
      (武蔵野乃 乎具奇我吉藝志 多知和可礼 伊尓之与比欲利 世呂尓安波奈布与)
 「をぐきが雉」は「山穴に巣食う雉」という意味のようだ。ここまで次句の「立ち」を導く序歌。「背ろ」は本歌に至るまで例がなく、本歌以降に4例ある。「逢はなふ」となると本歌以外に全く例がなく、これらは方言か。特に後者はそうであろう。「武蔵野の山穴に巣食う雉のように、飛び立つように別れていった宵からあの人に逢っていませんわ」という歌である。

3376  恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ
      (古非思家波 素弖毛布良武乎 牟射志野乃 宇家良我波奈乃 伊呂尓豆奈由米)
 「うけらが花」は広辞苑を引くと「おけらの古名」とあって、その「おけら」を引くと「キク科の多年草。山野に自生」とある。「なゆめ」は禁止形。おけらの花は山野に目立つ花だったのだろうか。「恋しければ袖も振ります。武蔵野のオケラの花のように目立つようなそぶりは決してなさいませんように」という歌である。
 本歌には次のような異伝歌が登載されている。
 或本歌曰: いかにして恋ひばか妹に武蔵野のうけらが花の色に出ずあらむ
      (伊可尓思弖 古非波可伊毛尓 武蔵野乃 宇家良我波奈乃 伊呂尓悌受安良牟)
 「恋ひばか」は「恋すれば」という意味。異伝歌というより、内容からすると、問答歌である。「どのように恋すればあの子のいうように武蔵野のオケラの花のように目立つようなそぶりを出さずにいられようか」という歌である。

3377  武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを
      (武蔵野乃 久佐波母呂武吉 可毛可久母 伎美我麻尓末尓 吾者余利尓思乎)
 「もろ向き」は「いっせいに同じ方向に向く」という意味で、「風を受けて草葉がいっせいになびく」ということ。「かもかくも」は「とにもかくにも」に同じ。「武蔵野の草葉が風を受けて同じ方向にいっせいになびくように、とにかくあなたの意のままになびき寄ってきましたのに」という歌である。

3378  入間道の大家が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね
      (伊利麻治能 於保屋我波良能 伊波為都良 比可婆奴流々々 和尓奈多要曽祢)
 「入間道(いりまぢ)の大家が原」は埼玉県川越市の東南方向の原。「いはゐつら」であるが、「い」は強意の「い」。「はゐ」は「這う」。「つら」は「蔓」の方言と思われる。「な~そ」は禁止形。「入間道の大家が原に生え延びる蔓のように、引いたらずるずる寄ってくるように、決して切れることがないようにね」という歌である。

3379  我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
      (和我世故乎 安杼可母伊波武 牟射志野乃 宇家良我波奈乃 登吉奈伎母能乎)
 「あどかも」は初出だが、この先3494番歌にもう一例あって、「子持山若かへるでのもみつまで寝もと我は思ふ汝はあどか思ふ」とあって、「どう思う」という意味である。「うけらが花」は3376番歌参照。「あの人になんと言ったらいいのでしょう。武蔵野のオケラのように時無しに咲く花のように思い続けているものを」という歌である。

3380  埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
      (佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢)
 「埼玉(さきたま)の津」は埼玉県行田市の南部にあった旧埼玉村の津。「風をいたみ」のみは「~ので」の「み」。「言(こと)な絶えそね」の「な~そ」は禁止形。「埼玉郷の船着き場につながれている船が激しい風を受けて、綱が切れるようなことがあっても、あなたの言葉(便り)は絶やさないようにしてね」という歌である。

3381  夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし
      (奈都蘇妣久 宇奈比乎左之弖 等夫登利乃 伊多良武等曽与 阿我之多波倍思)
 「夏麻(なつそ)引く」は枕詞(?)。語義未詳。4例ある。本歌は宇奈にかかる枕詞か。宇奈比はどこのことか不詳。「我が下延へし」は「わが内心の思い」、しは強意の「し」。
 「あなた、宇奈比をさして飛ぶ鳥が到着する場所は私のところと、内心思っていますよ」という歌である。
 右九首武蔵國の歌(むさし。今の東京都と埼玉県及び神奈川県の一部)。

3382  馬来田の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我来なば汝は恋ふばぞも
      (宇麻具多能 祢呂乃佐左葉能 都由思母能 奴礼弖和伎奈婆 汝者故布婆曽毛)
馬来田(うまぐた)は千葉県木更津市の旧馬来田村。「嶺ろの」は「峰らの」、「来なば」は「来ぬれば」、「恋ふば」は「恋ふれば」の各々訛りないし方言。「馬来田の山々の笹葉のように露霜に濡れながらやってきたのはあんたを恋しく思えばこそ」という歌である。

3383  馬来田の嶺ろに隠り居かくだにも国の遠かば汝が目欲りせむ
      (宇麻具多能 祢呂尓可久里為 可久太尓毛 久尓乃登保可婆 奈我目保里勢牟)
 「~隠り居」でいったん切れる。「馬来田の山々を隔てた地に居る。こんなにも故郷が遠いとあんたに逢いたくてしょうがない」という歌である。
 右二首上総國の歌(かづさ。今の千葉県中部)。

3384  葛飾の真間の手児名をまことかも我れに寄すとふ真間の手児名を
      (可都思加能 麻末能手兒奈乎 麻許登可聞 和礼尓余須等布 麻末乃弖胡奈乎)
 「葛飾(かつしか)」は千葉、埼玉、東京にまたがる一帯。真間は市川市内。「手児名(てごな)」は「少女」ないし「あの子」というニュアンス。「まことかも」は「本当かいな」という意味。「葛飾の真間のあの美少女が、本当かいな、この私に寄っているという、あの美少女が」という歌である。

3385  葛飾の真間の手児名がありしかば真間のおすひに波もとどろに
      (可豆思賀能 麻萬能手兒奈我 安里之可婆 麻末乃於須比尓 奈美毛登杼呂尓)
 「葛飾の真間の手児名」は前歌参照。
 「ありしかば」は「ありせかば」の、「おすひに」は「磯辺に」の訛りとみられる。「葛飾の真間のあの美少女が本当にいたなら、真間の磯辺に寄せる波のとどろきわたるほど人々は大騒ぎしたことだろうな」という歌である。

3386   にほ鳥の葛飾早稲を饗すともその愛しきを外に立てめやも
      (尓保杼里能 可豆思加和世乎 尓倍須登毛 曽能可奈之伎乎 刀尓多弖米也母)
 にほ鳥はかいつぶりのこと。葛飾は前々歌参照。「饗(にへ)す」は新しい稲を神に捧げる、いわゆる新嘗(にいなめ)の神事(祭り)のこと。その日は男を家に入れてはいけないとされた。「かいつぶりがいるという葛飾の早稲(わせ)を神に捧げる今日は新嘗(にいなめ)祭、けれども愛(いと)しいあの人を外に立たせておけるでしょうか」という歌である。

3387  足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ
      (安能於登世受 由可牟古馬母我 可豆思加乃 麻末乃都藝波思 夜麻受可欲波牟)
 「駒もが」は「馬があったらなあ」という意味。「葛飾の真間」は3384番歌参照。
継橋(つぎはし)は板を並べた橋。「足音立てずに行く、そんな馬があったらなあ。葛飾の真間の板の継橋を渡っていつも彼女の許へ通うことが出来るのに」という歌である。
 右四首下総國の歌(しもふさ。今の千葉県北部と茨城県南西部)
           (2016年4月2日記)
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チューリップ

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 今回は伝統文化その3として、短歌を例題に捕らえて一文を綴ろうとした。が、俳句の場合のように、なかなかすんなりと考えがまとまらない。なので短歌は後回しにして今回はチューリップの話題。
 昨日、英会話の例会に出席したが、その会場、愛知県青年会館の玄関前にチューリップが咲いていた。チューリップというと、オランダが有名だ。日本の場合は歴史が浅く、幕末に始まり、明治時代になって盛んに栽培されるようになった。つまり、季語の課された俳句にはなじまないように見える。窮屈この上ない俳句世界、それみたことかと、より自由な一行詩派の人々に言われそうだ。が、どっこい、俳句は窮屈に見えて実は懐が深く広いのだ。チューリップはちゃんと春の季語に入っている。
 実際に私自身が作句したのでごらんいただこう。
   チューリップ英会話する声聞こゆ
   紅茶飲み話に花咲くチューリップ
   ショパン弾くピアノ流るるチューリップ
   病院の窓から指さすチューリップ
 いかがであろう。梅や桜の時代からチューリップが増加してもちゃんとそれに対応した句を作ることが可能なのである。一見窮屈に見えながら、ちゃんと時代の推移にも対応できる力を俳句は秘めている。こうした懐の深さなり、幅の広さがあるからこそ、日本伝統の文化として俳句は根付き、幾世代にもわたって詠み継がれてきた。いっときの運動やブームに踊らされることなく、営々と営まれ続ける力を持っているのである。このように私には思われてならないのである。青年会館の玄関前に咲く豪華にして美しいチューリップよありがとうと、私はつぶやいた。
              (2016年4月3日)
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伝統文化その三

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 私は俳句より短歌に心惹かれている。それでいて、伝統文化その三として短歌を取り上げるのになかなかまとまりがつかなかった。今日の日本経済新聞夕刊にドナルドキーンによる石川啄木の評伝が取り上げられていた。キーンも啄木も実になつかしい名だ。ドナルドキーンといえば、日本文学評論家として90歳をこえた今なお健筆を振るわれている名評論家だ。啄木はもう紹介する必要もない天才歌人だ。この両名の名を目にして突如として私の考えがまとまった。
 短歌の歴史は俳句に比べて格段に古い。五七五七七の31文字の形は遠く奈良時代以前から歌われている。俳句は遡っても室町時代。連歌からだ。実質的には江戸時代に入ってから松尾芭蕉が登場してからといっていい。
 私がいまいち考えがまとまらなかったのは、五七五でかつ季語入りを原則とする俳句に比べ、五七五七七の31文字で、かつ、季語も不要という短歌は、遙かに自由度が高い。
にもかかわらず、1300年以上も前から受け継がれ続けている。なんてことはない。これが伝統文化の最たる形なのだ。それ以外に答えはない。石川啄木の歌を例示するとたとえば次のようなものだ。
   たわむれに 母を背負いてそのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず
   頬につたふ なみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
   友がみな われよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て 妻としたしむ
 こうした例示から分かるように啄木歌はきれいな五七五七七である。かつ、一読して誰にもすんなり分かる平明さに天才性が発揮されている。理屈で短歌の伝統性を考えようとしたことがまちがい。理屈じゃない。五七五七七の韻律。その韻律に万葉時代からわが日本人は親近感を覚えてきたのである。
              (2016年4月4日)
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動物園

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 通常「~へ行きたい」と声をかけるのは相棒の方だが、今回は私の方から声をかけた。名古屋市立東山動物園行きだ。動物園といえば、桜が満開ということもあったが、ずっと頭にこびりついていたことがある。一昨日その動物園を訪れた。
 前回動物園を訪れたのは3年前の5月のことである。当時はインド象の赤ちゃんが生まれて4ヶ月ほど、その話題でもちきっていた。小さな小さな象の子が一人前に長い鼻を巻き上げて草を食べる姿が可愛らしく、立ち寄ってしばし眺めたものだった。あの子は順調に育ったのだろうか。それが頭にこびりついて離れなかった。
 土日をやり過ごしてウイークデイなら園内は空いているだろうな、というのが私の計算。相棒は象より今話題のイケメンゴリラのようだった。呼吸に難のある私が果たして若い相棒についていけるか心配だった。が、それをおして子象の成長した様子を見るのが楽しみだった。案に相違してウイークデイにかかわらず、多くの人々が詰めかけていた。人混みを気にしない、否、むしろ人混みが好きな私たちにとって気になる状況ではなかった。それにしても今回はゴリラの人気がすさまじく、人々でごった返していた。私自身は休憩がてら人々の肩越しにうかがう程度にとどめた。
 さて、お目当ての象の子。立派な若象に成長かと思いきや、親象のまだ4分の1ないし5分の1程度しかない。まだ子供子供していた。私はそんな象の子を目にして、心がなごんだ。3歳になるというのに、象は成長が遅いのだろうか。
   象の子の腕白盛り近しかと思わず目細め動きを追えり
 私は十分に堪能して象舎を後にした。順調な成長を見届けて安堵した。が、何よりもうれしかったのは、ついていくのがやっとのこんな私につきあってくれた相棒の存在だった。彼女にはますます頭が上がらなくなるな、と思いながら心から感謝した。
              (2016年4月7日)
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万葉集読解・・・213(3388~3404番歌)

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     万葉集読解・・・213(3388~3404番歌)
3388  筑波嶺の嶺ろに霞居過ぎかてに息づく君を率寝て遣らさね
      (筑波祢乃 祢呂尓可須美為 須宜可提尓 伊伎豆久伎美乎 為祢弖夜良佐祢)
 筑波嶺(つくはね)は茨城県の筑波山。「嶺ろ」の「ろ」は「子ろ」と同じく親しみをこめた東国訛り?。10例に及ぶが、すべて巻14に見られる。「息づく君を」は「ため息をついているあの人を」だが、女同士の立ち話の状況だろうか?。「筑波嶺の嶺にかかった霞のように門前を通り過ぎがたくしてため息をついているあの人、ねえあなた、引っ張ってきて、共寝してやりなさいよ」という歌である。万葉歌らしいあっけらかんとした歌である。

3389  妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖ば振りてな
      (伊毛我可度 伊夜等保曽吉奴 都久波夜麻 可久礼奴保刀尓 蘇提婆布利弖奈)
 「隠れぬほとに」の「ほと」は方言。「袖ば振りてな」の「袖ば」は東国方言。「て」は強意。「な」は願望。「彼女の家の門はどんどん遠ざかっていく。あの筑波山に隠れてしまうまでこの袖を振り続けたいものだ」という歌である。

3390  筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに
      (筑波祢尓 可加奈久和之能 祢乃未乎可 奈伎和多里南牟 安布登波奈思尓)
 「かか」は鳴き声。「音(ね)のみをか」は「声をあげるだけのように」、「泣きわたりなむ」は「泣き続けることでしょう」という意味。「筑波山にがあがあ鳴く鷲の鳴き声のように私は泣き続けることでしょう。あなたに逢うこともなく」という歌である。

3391  筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山悪しかる咎もさね見えなくに
      (筑波祢尓 曽我比尓美由流 安之保夜麻 安志可流登我毛 左祢見延奈久尓)
 「そがひに」は「背後に」という意味。葦穂山(あしほやま)は足尾山のことで、ここまで「悪(あ)しかる」を導く序歌。「悪しかる咎(とが)も」は「あやまちないし欠点」のこと。「さね」は「全く~でない」の形。「筑波山の背後に見えるのは足尾山、その名のようにあの子には悪い欠点が全く見あたらないので(あきらめようにもあきらめきれない)」という歌である。

3392  筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに
      (筑波祢乃 伊波毛等杼呂尓 於都流美豆 代尓毛多由良尓 和我於毛波奈久尓)
 「よにもたゆらに」は3368番歌の「~出づる湯のよにもたよらに~」と同意か。両方とも東国訛り。意味は「世にも絶えない」。「筑波嶺の岩もとどろに落ちる水が世に絶えることがないように(私たちの仲が)絶えるとは思われない」という歌である。

3393  筑波嶺の彼面此面に守部据ゑ母い守れども魂ぞ会ひにける
      (筑波祢乃 乎弖毛許能母尓 毛利敝須恵 波播已毛礼杼母 多麻曽阿比尓家留)
 3361番歌にも使われていたが、「彼面此面(をてもこのも)に」は「あっちにもこっちにも」という意味である。「守部据ゑ」は「番人を置いて」。「母い」のいは強意の「い」。「筑波嶺のあっちにもこっちにも番人を置いて森を監視するように、母は私を見張っているけれど、私たちは魂と魂で逢っている」という歌である。

3394  さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ
      (左其呂毛能 乎豆久波祢呂能 夜麻乃佐吉 和須<良>許婆古曽 那乎可家奈波賣)
 「さ衣(ごろも)の」は「岩波大系本」も「伊藤本」も枕詞とし、「小筑波(をづくは)嶺ろ」の「を」を「緒」と解し、「緒」にかかるとしている。「さ衣(ごろも)の」は本歌以外に一例しかない。その一例は2866番歌の「~さ衣のこの紐解けと~」で、紛れもなく着物のことを意味している。かつ「さ」は「さ百合」と同じく美称。枕詞(?)どころか完全に誤解釈としか思われない。「小筑波嶺ろの山の崎」は「小さな筑波山の峰の出鼻」のことで、したがって「さ衣の」は「着物のような」という意味に相違ない。筑波山を調べてみると、筑波山は着物の裾を広げたような美しい山である。大小の嶺があることが分かる。小を
「小筑波嶺ろ」と呼んだらしいことは次歌からもうかがえる。「懸けなはめ」は「心に懸けるものか」である。これで肝心の歌意がとおる。
 「着物の裾を広げたような小筑波嶺の山の出鼻のような美しいお前が忘れられるものならお前のことを心に懸ける(心配する)ものか」という歌である。

3395  小筑波の嶺ろに月立し間夜はさはだなりぬをまた寝てむかも
      (乎豆久波乃 祢呂尓都久多思 安比太欲波 佐波<太>奈利努乎 萬多祢天武可聞)
 「月立し間(あひだ)夜は」は月経が始まったことを暗示している。「さはだなりぬを」は3354番歌に「伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に」と使われている。「いっぱい」ないし「多い」の意。「さはに」の東国訛りか。この2例のみ。「小筑波の嶺に月が立つようにお前に月がたち、その間、夜は多く重なったけれど、過ぎた今はまた共寝しようか」という歌である。本歌もまた3388番歌同様、万葉歌らしいあっけらかんとした歌である。

3396  小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝を見むさ寝ざらなくに
      (乎都久波乃 之氣吉許能麻欲 多都登利能 目由可汝乎見牟 左祢射良奈久尓)
 「木の間よ」は「木の間ゆ」の東国訛り。「木の間から」の意。「目ゆか」は本例のみ。歌意からすると「目のごと」の東国方言か?。「さ寝ざらなくに」は「共寝することもなく」という意味である。「岩波大系本」のように「一緒に寝たこともある仲なのに」と解釈するのは私には目を白黒である。「小筑波の茂った木の間から飛び立った鳥の目のように、遠くから君を見ているだけ、共寝することもなく」という歌である。

3397  常陸なる浪逆の海の玉藻こそ引けば絶えすれあどか絶えせむ
      (比多知奈流 奈左可能宇美乃 多麻毛許曽 比氣波多延須礼 阿杼可多延世武)
 「浪逆の海」は茨城県神栖市と潮来市にまたがる外浪逆浦(そとなさかうら)のこととされている。「あどか」は4例あって、すべて巻14の歌に使われている。「どうして」とか「なにゆえ」の意。「などか」ないし「なにゆえ」の東国訛り。「常陸の國の外浪逆浦の玉藻は引けば切れるでしょうが、(私たちの仲は)どうして切れることがありましょう」という歌である。
 右十首常陸國の歌(ひたち。今の茨城県の大部分)

3398  人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね
      (比等未奈乃 許等波多由登毛 波尓思奈能 伊思井乃手兒我 許<登>奈多延曽祢)
 「言(こと)は」は便りとも言葉とも取れるが、「絶ゆとも」と続いているので、消息の意であろう。「埴科(はにしな)は長野県千曲市と上田市の間の埴科郡。現在坂城町がある。石井は不詳。手児は噂の美女。「な絶えそね」は「な~そ」の禁止形。「世の人の消息や噂は絶えることがあっても埴科の石井の美少女の消息だけは絶えることがないようにしてほしいものだ」という歌である。

3399  信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背
      (信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之<奈牟> 久都波氣和我世)
 「信濃道(しなのぢ)」は「信濃に至る道」。「墾(は)り道」は「切り拓いた道」。「足踏ましなむ」は敬語で、「足でお踏みになるでしょう」という意味。「信濃道は切り拓いたばかりの道。切り株を足でお踏みになるでしょう。ですから靴を履いてお越しになって下さいな、あなた」という歌である。

3400  信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ
      (信濃奈流 知具麻能河泊能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟)
 平明歌。「さざれ石」は細かい石。「君し」は強意の「し」。「信濃の千曲川のさざれ石でもあの方が踏んだ石なら玉と思って拾いましょう」という歌である。

3401  なかまなに浮き居る船の漕ぎ出なば逢ふこと難し今日にしあらずは
      (中麻奈尓 宇伎乎流布祢能 許藝弖奈婆 安布許等可多思 家布尓思安良受波)
 「なかまなに」は「中州(なかしま)」の訛りか。「中州に漂っているあの船、漕ぎ出してしまえば逢うことが難しい。今のこの時こそ逢っておかなければ」という歌である。
 右四首信濃國の歌(しなの。今の長野県)

3402  日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ
      (比能具礼尓 宇須比乃夜麻乎 古由流日波 勢奈能我素R母 佐夜尓布良思都)
 3402~3423番歌の22首、上野國の歌(かみつけ。今の群馬県)。
 「碓氷(うすひ)の山」は信濃國と上野國を結ぶ碓氷峠。「(あの方が)碓氷峠を日暮れに越えていかれたあの日、しきりに着物の袖をお振りになった背中が印象的だったわ」という歌である。

3403  我が恋はまさかも愛し草枕多胡の入野の奥も愛しも
      (安我古非波 麻左香毛可奈思 久佐麻久良 多胡能伊利野乃 於<久>母可奈思母)
 「まさか」は「今現実は」という意味。2985番歌に「梓弓末はし知らずしかれどもまさかは君に寄りにしものを」とある。草枕は旅の途上。「多胡の入野」は群馬県の旧多胡村(現在高崎市)のことで山奥に入野が広がっていたのだろう。「我が恋は今もって切ない。多胡の入野の奥までやってきたが、ますます切ない」という歌である。

3404  上つ毛野安蘇のま麻群かき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ
      (可美都氣努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴礼杼安加奴乎 安杼加安我世牟)
 上つ毛野(かみつけの)は上野国(群馬県)のことで旧名。安蘇(あそ)は栃木県にあった安蘇郡のことで下つ毛野に属していた。佐野市や日光市にまたがっていた。「ま麻群(そむら)」のまは美称。麻の束。「あどか」は「どうして」とか「なにゆえ」の意。「などか」の東国訛り。「上つ毛野安蘇の麻束をかき抱くように、あの子をしっかり抱いて寝たけれど、なぜか満ち足りない思いがする」という歌である。
           (2016年4月9日記)
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カネノナルキ

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 世に不思議な樹があるものですね。実は、我がベランダにカネノナルキというのがあります。育てていると書きたいのですが、実は全く放り放しです。鉢に植えて20年以上も放ったままです。それでいて年がら年中青々と肉厚のまるまるした葉っぱをつけています。肥料も水もほとんどやりません。にもかかわらず、葉っぱ2枚だけの幼木を挿した状態で知人からいただき、年々大きくなり、赤子の小指ほどしかなかった木が両手で握りしめられないくらい大きくなっています。いわば常緑樹のわけだが、面倒くさがり屋の私には願ってもない木というわけだ。
 さて、そのカネノナルキだが、この3月に突如として花が咲いたのです。小さな小さな、始め糸くずかと思ったほどの小さな花だが、ちゃんとした花で、もう一ヶ月も咲き続けています。一輪だけで増えもせず散りもしないで頑強に咲き続けている。20年余も咲かなかった常緑樹。花はつけない種類の木だと思いこんでいました。
   あれ不思議カネノナルキの小花咲くたった一輪たった一輪
   20年余花なしのままカネノ木の不意の開花にしばし見とれり
 いや驚きました。20年余も花をつけなかった木がこうして不意に開花するってことあるのでしょうか。見たところ肉厚の葉っぱは青々として例年と変わった様子はない。むろん、しんなりした様子もなければ、弱っている様子も見受けられない。
 これまで、たびたび生命の不思議さに驚いてきましたが、こんな驚きは初めてです。いったいカネノナルキ自身は「開花期は今だ」ってどうして知るのでしょう。本当に、本当に不思議な木だ。こうなったらいっぱいいっぱい花をつけてもらいたいが、そういう私の常識や期待は当たらないかもしれない。たった一輪だけ頑強に咲き続けているのを見ると、
我れと我が身の常識などこざかしく思えてきてしまう。
              (2016年4月10日)
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旧暦と新暦

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 3月3日は桃の節句で、ひな祭りとも呼ばれる。相棒から「桃の節句なのに桃が咲いてないね」と言われたことがある。これは、ずっと長い間、太陰太陽暦と呼ばれる暦が使われていたことと関係している。明治になってその暦が太陽暦と呼ばれる現在の暦に改められたので季節のズレが生じている。太陰とは月、太陽とは太陽のこと。この両者をぴったり一致させることは至難の業。なぜなら、平均朔望月は29.530589日でぴったり30日ではない。平均太陽年は365.24219日でぴったり365日ではない。この小数点以下が5桁も6桁にもなる両者を一致させるなんて神業だ。
 要するにこれ以上の知識は暦の専門家でもない私たちには不要だろう。かっては従来の暦は旧暦、現在の暦は新暦と呼んで使い分けていた。それも「明治は遠くなりにけり」で今ではほとんどの人は新暦の感覚だ。私たちが記憶しておかなければならないのは、旧暦と新暦はおよそ一ヶ月ずれていること、この一点だ。旧暦の3月は現行の4月にあたる、それだけのことだ。
 旧暦の3月3日は桃の節句、それは4月にならないと来ない。つまり、今月にならないと桃は咲かないことになる。旧暦と新暦はおよそ一ヶ月ずれていること、この一点さえ記憶しておけば旧暦に基づいた行事はたちどころに納得がいく。中国のお正月である春慶節も、我が国5月5日の端午の節句も旧暦に由来しているのである。神社などの祭礼にはこの旧暦に由来するものが残っている。
 現行のお正月はまだ冬の真っ最中。が、旧暦のお正月は一ヶ月遅れの2月、まさに立春といってよい時節なのだ。「いや、旧暦を正確にいうとだね」などと、知ったかぶりをしても始まらない。そもそも複雑怪奇な旧暦など説明のしようがない。旧暦と新暦はおよそ一ヶ月ずれている、このことさえ記憶しておけば私たちには十二分なのである。
              (2016年4月11日)
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広島宣言

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核廃絶を考えてみよう
 私は二年以上も前に核廃絶の必要性を力説し、稿を閉じるに当たって次のように記した。
 「核廃絶は核保有国自身に突きつけられた深刻にして緊要な問題なのである。核兵器には勝者もなければ敗者もない。ひとたび使用されることがあれば、ただちに人類絶滅に向かいかねない危機を秘めているのだ。・・・略・・・、核保有国の人々よ、とくと考えてみてほしい。広島や長崎に投下されてからもう70年もの年月を経ている。以降核は想像を絶する飛躍的な進化を遂げ、たった一発でさえ、その威力は、ニューヨーク、モスクワ、ロンドン、パリ、北京等々の巨大都市を一瞬にして廃墟化する途方もない威力を備えるに至っているのである。」
 とし、核兵器の絶滅は非保有国よりも保有国自身に突きつけられた課題だとした。
 私は核廃絶の実現を計るための提案として次の三点を提示した。
 第一に、核保有国自身の国民自らが立ち上がること。
 第二に、米国、英国、仏国、中国、ロシアの、いわば5つの常任理事国で突っ込んで話し合うこと
 第三に、核保有国だけで「核廃絶会議」を創設すること。
 以来、二年余が経過した。
 このたび、開催されたG7外相会議で「広島宣言」が採択された。G7とは、カナダ、英国、米国、日本、ドイツ、イタリア、フランスの外相だ。これに加えてEUの外交安保代表が出席した。重要なのは米、英、仏の核保有国が含まれていることである。広島宣言は核軍縮や不拡散にとどまっているが、方向としては共に「核兵器のない世界をめざす」というもの。G7外相が初めて広島の平和記念公園を訪れ、核兵器廃絶の第一歩を踏み出した意義は大きい。この道が順調に開かれ、やがて、核兵器のない世界につながれば、人類の一人としてこれほど喜ばしいことはない。コンピューター管理の核システムに相違ない現在、一番怖いのはシステムの誤作動や不備を含め、暴発や誤発射が起きかねない各保有国自身なのである。このことに核保有国の国民が早く気づいてほしいと願って、広島宣言の意義を祝いたい。
      (2016年4月13日)
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万葉集読解・・・214(3405~3418番歌)

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     万葉集読解・・・214(3405~3418番歌)
3405  上つ毛野乎度の多杼里が川路にも子らは逢はなもひとりのみして
      (可美都氣努 乎度能多杼里我 可波治尓毛 兒良波安波奈毛 比等理能未思弖)
  上つ毛野(かみつけの)は上野国(群馬県)のことで旧名。「乎度(をど)の」の乎度は次の異伝歌から考えて「小野」の東国訛り。「多杼里(たどり)」は所在不明とされているが、群馬県の旧村に小野村(現藤岡市)というのがあった。なので小野村のどこかではないかと思料される。「子ら」は親しみの呼び方。「あの子」という意味。「逢はなも」は「逢ってくれないかな」という願望。「上つ毛野の小野の多杼里の川辺であの子は逢ってくれないかな、ひとりっきりで」という歌である。
 本歌には異伝歌があって、次のようになっている。
 或本歌曰:上つ毛野の小野の多杼里が安波路にも背なは逢はなも見る人なしに
      (或本歌曰:可美都氣乃 乎野乃多杼里我 安波治尓母 世奈波安波奈母 美流比登奈思尓)
 「小野の多杼里」は本歌参照。「安波路(あはぢ)にも」は本歌からして「川路(かはぢ)にも」の訛りに相違ない。「上つ毛野の小野の多杼里の川辺であの人は逢ってくれないかな、ひっそりと」という歌である。内容からして、異伝歌というより問答歌謡であろう。

3406  上つ毛野佐野の茎立ち折りはやし我れは待たむゑことし来ずとも
      (可美都氣野 左野乃九久多知 乎里波夜志 安礼波麻多牟恵 許登之許受登母)
 見解の分かれる難解な歌である。佐野(さの)は群馬県高崎市東南部一帯のことという。「茎(くく)立ち」は青菜のことという。「青菜の茎が伸びて」という意味か?。「折りはやし」は「折り取って」とも取れるし、「折り茂らせる」とも取れる。「折りはやし」の「やし」は強意で「折り取りました」という意味かと思う。が、難解なのは、ここまでの上三句と後半の下二句が歌意の上でどうつながるのか分からない点である。前半は「上つ毛野の佐野の青菜の茎が伸びてきたので折り取って」という意味。後半は「私は待ちましょうよ、今年来なくとも」という意味。このままでは歌意が通らない。ちょっと大胆な推量になるが、これは上つ毛野における一種の歌垣の場面ではないかと思う。歌垣は、2951番歌等に歌われているように、農家の若い男女が寄り集まってきて歌ったり踊ったりする、いわば一種のお祭りだ。この推量が正しいとすると、歌意はつながる。「我れは待たむゑ」の「ゑ」もぴったり決まる。
 「上つ毛野の佐野の青菜の茎が伸びてきたので折り取って踊ろう。(あの人)または(あの子)を待とうではないか、たとえ今年来なくとも」という歌である。

3407  上つ毛野まぐはしまとに朝日さしまきらはしもなありつつ見れば
      (可美都氣努 麻具波思麻度尓 安佐日左指 麻伎良波之母奈 安利都追見礼婆)
 「まぐはしまと」は地名というが所在不詳。あるいは「まぐはし窓」すなわち「まぶしい窓」か?。「まきらはしもな」は「まぶしいなあ」という意味。「ありつつ見れば」は「このまま見ていると」。「上つ毛野のまぐはしまとに朝日が差し、まぶしいなあ、彼女をこのまま見ていると」という歌である。

3408  新田山嶺にはつかなな我に寄そりはしなる子らしあやに愛しも
      (尓比多夜麻 祢尓波都可奈那 和尓余曽利 波之奈流兒良師 安夜尓可奈思<母>) 太田市金山
 新田山(にひたやま)は群馬県太田市にある金山のことという。「つかなな」は「付かないで」という意味である。金山にはいくつかの峰があることを言外に述べている。「子らし」のしは強意の「し」。「新田山のどの峰にも付かないで、この私に寄り添ってくれる、目立たないあの子は本当に愛しい」という歌である。

3409  伊香保ろに天雲い継ぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら
      (伊香保呂尓 安麻久母伊都藝 可奴麻豆久 比等登於多波布 伊射祢志米刀羅)
 伊香保(いかほ)は群馬県渋川市内にある。伊香保温泉で有名。「ろ」や「ら」は親愛の意味をもつ東国訛り。「峰ろ」、「子ら」の例がある。「かぬまづく」は「かずまふ」(仲間の)の、「おたはふ」は「あたはふ」(出来る)のそれぞれ東国訛りか?。「とら」は「子ら」の東国訛り。「伊香保に天雲が次々にかかる。仲間の内の人と認めてさあ共寝しようか親愛なる彼女よ」という歌である。
 
3410  伊香保ろの沿ひの榛原ねもころに奥をな兼ねそまさかしよかば
      (伊香保呂能 蘇比乃波里波良 祢毛己呂尓 於久乎奈加祢曽 麻左可思余加婆)
 「伊香保ろの」は前歌参照。「沿ひの榛原(はりはら)」は「近くのハンの木の原」で「ねもころに」を導く序歌。「な兼ねそ」は「な~そ」の禁止形。「心配しなさんな」という意味である。「まさかし」のしは強意の「し」。「まさか」は「今現実は」という意味。2985番歌や3403番歌に使われている。「伊香保の近くの原のハンの木のように入り組んだ根のようにくよくよと先のことまで心配しなさんな。今現在が幸せならいいではないか」という歌である。

3411  多胡の嶺に寄せ綱延へて寄すれどもあにくやしづしその顔よきに
      (多胡能祢尓 与西都奈波倍弖 与須礼騰毛 阿尓久夜斯豆之 曽能可抱与吉尓)
多胡の嶺は群馬県高崎市の旧吉井町にある山。考古学に関心のある人にはおなじみの多湖碑がある。「あにくやしづし」は未詳とされているが、「ほんに悔し」の東国訛りとみる。「づし」はその訛り。「多胡の嶺に綱を結わえて引き寄せようとしても、ああ悔しいな、美人ゆえに何ともならない」という歌である。

3412  上つ毛野久路保の嶺ろの葛葉がた愛しけ子らにいや離り来も
      (賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良尓 伊夜射可里久母)
 久路保(くろほ)の嶺は群馬県の中央部前橋市、桐生市、沼田市等にまたがる有名な赤城山系のこと。その最高峰を黒檜(くろび)山という。久路保(くろほ)は黒檜(くろび)の訛りと見られる。「葛葉がた」は「葛の蔓」のこと。「上つ毛野の黒檜(くろび)山の葛葉の蔓が別々に別れて伸びていくように、愛しいあの子にああ別れて来たよ」という歌である。

3413  利根川の川瀬も知らず直渡り波にあふのす逢へる君かも
      (刀祢河泊乃 可波世毛思良受 多太和多里 奈美尓安布能須 安敝流伎美可母)
 「あふのす」は「あふなす」で、「あったと同じく」という意味。「のす」をこの意味で使うのはここまでこの巻14しかなく、「なす」の東国訛りと思われる。ここまで「逢へる」を導く序歌。結句だけの歌でこんな長い序歌は極めて珍しい。「利根川の浅瀬の場所も知らないで直(じか)に川を渡り、波に出合ったように、ぱったりあの人に逢ったわ」という歌である。

3414  伊香保ろのやさかの堰塞に立つのじの現はろまでもさ寝をさ寝てば
      (伊香保呂能 夜左可能為提尓 多都努自能 安良波路萬代母 佐祢乎佐祢弖婆)
 「伊香保ろの」は3409番歌参照。「やさかの堰塞(ゐで)」はどこの堰塞(水をとめるセキ)を言っているのか不明。のじは虹のことで、「伊香保ろの」や「現(あら)はろ」や「さ寝てば」と同様、東国訛りと思われる。「伊香保のやさかの堰塞に立つ虹が現れてくるまで(夜明けまで)一緒に共寝したらどんなに楽しいだろう」という歌である。

3415  上つ毛野伊香保の沼に植ゑ小水葱かく恋ひむとや種求めけむ
      (可美都氣努 伊可保乃奴麻尓 宇恵古奈<宜> 可久古非牟等夜 多祢物得米家武)
 「小水葱(こなぎ)」は広辞苑によるとミズアオイ科の一年草。女性の比喩か。「上つ毛野の伊香保の沼に種をまいて植えた小水葱草、こんなに恋に苦しむことになろうと思って種を求めたわけでもないのに」という歌である。

3416  上つ毛野可保夜が沼のいはゐつら引かばぬれつつ我をな絶えそね
      (可美都氣努 可保夜我奴麻能 伊波為都良 比可波奴礼都追 安乎奈多要曽祢)
 3378番歌にそっくりな歌。3378番歌は「入間道の大家が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね」で、埼玉県川越市の歌。これに対し本歌は群馬県の歌。両歌がそっくりな理由は分からない。「可保夜(かほや)が沼」はどこの沼か不詳。「いはゐつら」の「い」は強意の「い」。「はゐ」は「這う」。「つら」は「蔓」の方言と思われる。3378番歌の「ぬるぬる」は「ずるずる」の方言と思われるが、本歌の「ぬれつつ」は「ずられながら」の方言か。結句の「な~そ」は禁止形。
 「上つ毛野可保夜が沼に生え延びる蔓のように、引いたらずられながら寄ってくるように、決して切れることがないようにね」という歌である。

3417  上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ [柿本朝臣人麻呂歌集出也]
      (可美都氣努 伊奈良能奴麻乃 於保為具左 与曽尓見之欲波 伊麻許曽麻左礼 [柿本朝臣人麻呂歌集出也])
 「伊奈良(いなら)の沼」はどこの沼か不詳。大藺草(おほゐくさ)は太蘭(ふとい)のことでカヤツリ科の多年草。沼沢に自生。「上つ毛野の伊奈良の沼の大藺草ではないが、遠くから見ていた時より、恋仲になった今の方が恋しさがまさる」という歌である。
 「柿本朝臣人麻呂の歌集に登載されている」という注が付いている。

3418  上つ毛野佐野田の苗のむら苗に事は定めつ今はいかにせも
      (可美都氣努 佐野田能奈倍能 武良奈倍尓 許登波佐太米都 伊麻波伊可尓世母)
 佐野田は群馬県高崎市内の地名。「むら苗に」を「群苗に」と訓じてなんとか解釈しようとする向きがあるが、これは「占(うら)苗に」に相違ない。ただし、「むら」は「うら」の、ついでに結句の「せも」は「せむ」の東国訛り。「上つ毛野の佐野の田の苗の苗占いによって事は決めてしまった。いまさらなんとしよう」という歌である。
           (2016年4月14日記)
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ペットブーム考

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 ペットに関し、去年の暮れ「猫とグルメ」と題して一文を綴った記憶がある。ペットといえば犬と猫が双璧で、ざっと各1000万頭、合計2000万頭が飼育されていると推計されている。人間の赤ちゃんより遙かに数が多い。とりわけ猫ブームの由で猫の飼育數が増えつつあるようである。猫は登録が少なく、野良猫も多い。島猫も含めて餌を与える人々も多く、したがって、実質的には推計数より多いだろう。
 猫といえば若い女性の専有物というイメージがあった。が、最近では老齢者の飼い主も多く、先般、テレビ番組で猫と老人の関係が紹介されていた。
 「○○ちゃんは私の宝、家族以上の存在」という老人が増えているという。確かに猫は散歩が不要で、相対的に犬より体が小さい。取り回しが楽で老人に向いているのかもしれない。それにしても「家族以上の存在」とは驚きである。
 さて、わが国は急激に高齢化社会を迎え、老人問題が先鋭化しつつある。老齢化が進行すると、相対的に職場がなくなり、友人や知人が減り、別居や死亡によって家族もいなくなる。すなわち、当該本人は孤独に直面する。本来、人間は群れの動物だから孤独は耐え難い。その孤独感を和らげるもの、それがペットブームの背景にあるのではなかろうか。
 私には飼い猫のチビがいるが、チビと私は添い寝などを通じて、そこはかとなく心が通じ合っているのを感じる。が、体験を通じて思うのは、猫といえども、結構手間がかかるのである。糞尿の始末は欠かさず行わなければならないし、エサも欠かすことができない。猫特有の暗くて狭い所を好むので、不意に入り込んで姿を消す。探すのに大騒ぎの仕儀となる。飼い始めるに当たってはあらかじめこうした手間のこともよく覚悟しておかなければならない。逆言すれば手間に自信が持てない人は飼うべきではないのだ。その手間のかかるところが楽しいし、絆を高める鍵なのだ。が、人と人との関係も同じかな。
              (2016年4月15日)
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万葉集読解・・・215(3419~3433番歌)

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     万葉集読解・・・215(3419~3433番歌)
3419  伊香保世欲奈可中次下於毛比度路隈こそしつと忘れ為なふも
      (伊可保世 欲奈可中次下 於毛比度路 久麻許曽之都等 和須礼西奈布母)
 本歌は結句以外はことごとく未詳とされる。で、標記には「岩波大系本」の例を挙げておこう。このため歌意不明。そこで私自身の解釈を試みてみたい。初句「伊香保世」だが、「伊香保夜」とよむ。伊香保への呼びかけ。次句は「欲りな悲しげ」、第三句は「思ひ閉ぢ」、第四句と第五句は「岩波大系本」に同じ。かくて次のような訓を得る。
    伊香保の夜欲りな悲しげ思ひ閉ぢ隈こそしつと忘れ為なふも
 を得る。「欲りな悲し気」は「悲しみに誘われ」。「隈(くま)こそしつと」は「心の隅にじっと」。「しつと」は東国訛りか。「忘れ為(せ)なふも」は「(あの人のことを)忘れようにも忘れられない」という意味である。「伊香保の夜、悲しみに誘われ思いを閉じこめて心の隅にじっと、でも(あの人のことを)忘れようにも忘れられない」という歌である。

3420  上つ毛野佐野の舟橋取り離し親は放くれど我は離るがへ
      (可美都氣努 佐野乃布奈波之 登里波奈之 於也波左久礼騰 和波左可流賀倍)
 佐野(さの)は群馬県高崎市東南部一帯のことという。「佐野の舟橋取り離(はな)し」でいったん区切れ。「離すように」と次句につなげる。結句の「離(さか)るがへ」は「割かれるものか」という作者の意志を示す。「上つ毛野の佐野の舟橋を取り離すように、親は私たちの仲を割こうとするが、私は離れるものか」という歌である。

3421  伊香保嶺に雷な鳴りそね我が上には故はなけども子らによりてぞ
      (伊香保祢尓 可未奈那里曽祢 和我倍尓波 由恵波奈家杼母 兒良尓与里弖曽)
 伊香保(いかほ)は群馬県渋川市内にある。伊香保温泉で有名。「雷(かみ)な鳴りそね」は「な~そ」の禁止形。「子らによりてぞ」は「あの子の故に」すなわち「あの子が怖がるからさ」。「伊香保嶺の雷さんよ鳴りとどろかないでおくれ。別に私は怖くないけれど、あの子が怖がるからさ」という歌である。

3422  伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど我が恋のみし時なかりけり
      (伊可保可是 布久日布加奴日 安里登伊倍杼 安我古非能未思 等伎奈可里家利)
 読解不要の平明歌。「伊香保の風は吹く日も吹かぬ日もあるというけれど、私の恋心はやむときはない」という歌である。

3423  上つ毛野伊香保の嶺ろに降ろ雪の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり
      (可美都氣努 伊可抱乃祢呂尓 布路与伎能 遊吉須宜可提奴 伊毛賀伊敝乃安多里)
 「嶺ろ」のろは例によって東国訛り。「嶺ら」のことで、親しみを込めて呼ぶ。「あの峰」といったニュアンス。「降ろ」も東国訛り。「~降ろ雪の」までは「行き」を導く序歌。「上つ毛野の伊香保のあの嶺に降る雪ではないが、行き過ぎ難い。彼女の家のあたりは」という歌である。
 右廿二首(3402~3423番歌)は上野國の歌(かみつけ。今の群馬県)。

3424  下つ毛野美可母の山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ
      (之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟)
  下つ毛野(しもつけの)は下野国(栃木県)のことで旧名。美可母(みかも)の山は栃木県佐野市の東の山で、現在なお「三鴨小学校」に名をとどめている。「こ楢(なら)のす」は「「こ楢(なら)の木のように美しい」という意味である。「まぐはし子ろは」は「美しいあの子は」という意味。笥(け)は食物を盛る器。「下つ毛野のみかもの山のこ楢のように美しいあの子はいったい誰のために食物の器を差し出すというのだろう。(夫になる人が羨ましい)」という歌である。

3425  下つ毛野阿蘇の川原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ
      (志母都家努 安素乃河泊良欲 伊之布麻受 蘇良由登伎奴与 奈我己許呂能礼)
 阿蘇(あそ)は栃木県佐野市、日光市にまたがって存在した旧阿蘇郡。「空ゆと」は通常「空ゆ」(空から)だが「と」がついているのは強意なのか東国訛りなのか分からない。「汝(な)が心告(の)れ」は「あんたの心が知りたい」という意味。「下つ毛野の阿蘇の川原の石を渡って来ないで空からやってきたのよ、あんたの心が知りたい」という歌である。
 右二首下野國の歌(しもつけ。今の栃木県)。

3426  会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね
      (安比豆祢能 久尓乎佐杼抱美 安波奈波婆 斯努比尓勢毛等 比毛牟須婆佐祢)
 会津嶺(あひづね)は福島県磐梯山の古名という。「さ遠み」のさは強意。みは「~ので」の「み」。「逢はなはば」東国訛りくさいがはっきりしない。「逢えなくなる」という意味か?。「会津嶺のある国は遠いので簡単に逢えなくなる。互いに互いを偲ぶよすがにしよう、着物の紐をしっかり結び合って」という歌である。

3427  筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥の可刀利娘子の結ひし紐解く
      (筑紫奈留 尓抱布兒由恵尓 美知能久乃 可刀利乎登女乃 由比思比毛等久)
 「筑紫なる」を各書のように九州のことと解すると、歌意がさっぱりわからない。それが可刀利(香取)の子とどう結びつくのかさっぱり分からない。私はここは土筆(つくし)の当て字だと思う。「土筆のように美しいのでその香取の子の結んでいる着物の紐を解く」という歌である。

3428  安達太良の嶺に伏す鹿猪のありつつも我れは至らむ寝処な去りそね
      (安太多良乃 祢尓布須思之能 安里都々毛 安礼波伊多良牟 祢度奈佐利曽祢)
 「安達太良の嶺」は「福島県安達太良山」。「伏す鹿猪(しし)のありつつも」は「そのまま鹿猪が寝床を変えないように」という意味である。「な去りそね」は「な~そ」の禁止形。「安達太良山の鹿猪がそのまま寝床を変えないように、私はいつもの寝床に行く。だからそのまま寝床を変えないでほしい」という歌である。
 右三首陸奥國の歌(むつ。今の青森、岩手、宮城、福島の4県)

 次歌から譬喩歌とある。
3429  遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを
      (等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 水乎都久思 安礼乎多能米弖 安佐麻之物能乎)
 遠江(とほつあふみ)は静岡県浜名湖のこと。これに対して琵琶湖は近淡海(ちかつあふみ)という。 引佐郡は浜名湖の奥まった所にあった郡(現浜松市北区)。細江はその一つ。「みをつくし」は航行する船に通りやすい深い水脈を知らせる杭。結句の「あさましものを」は本歌以外に例がなく、未詳。枕草子97段に「あさましきもの、さし櫛すりて磨く程に、ものにつきさへて折りたる心地」とある。「遠江の引佐細江に作られたみをつくし、そのみをつくしのように私を頼りにしおって、なんともあさましいものよ」という歌である。
 右一首遠江國の歌(とほつあはうみ。今の静岡県西部)。

3430  志太の浦を朝漕ぐ舟はよしなしに漕ぐらめかもよよしこさるらめ
      (斯太能宇良乎 阿佐許求布祢波 与志奈之尓 許求良米可母与 余志許佐流良米)
 志太の浦は静岡県富士市から藤枝市にかけてあった郡。現在も志太温泉という名でその名をとどめている。「よしなしに」は「由なしに」で「わけもなく」という意味。「よしこさるらめ」は「由こそあるらめ」の縮まったものというが、あるいは東国方言か?。「志太の浦を朝漕ぐのはわけもなく漕いでいるのだろうか。そんな筈はない。ちゃんとわけがあって漕いでいるに相違ない」という歌である。
 右一首駿河國の歌(するが。今の静岡県の中央部)。

3431  足柄の安伎奈の山に引こ船の後引かしもよここば来がたに
      (阿之我里乃 安伎奈乃夜麻尓 比古布祢乃 斯利比可志母與 許己波故賀多尓)
 足柄(あしがり)は神奈川県足柄郡のことで、大部分は小田原市に編入されたが、現在もなお足柄上郡、足柄下郡として残っている。「安伎奈(あきな)の山」は所在不詳。「ここば来(こ)がたに」の「ここば」のばは東国訛り。「来がたに」は「ここに来るのは難しい」という意味。「足柄の安伎奈の山で作った舟を引っ張りおろすのが難しいように、ここまで来るのは難しい」という歌である。

3432  足柄の我を可鶏山のかづの木の我をかづさねも門さかずとも
      (阿之賀利乃 和乎可鶏夜麻能 可頭乃木能 和乎可豆佐祢母 可豆佐可受等母)
 足柄(あしがり)は前歌参照。可鶏山(かけやま)は所在未詳。「かづの木」は「穀の木」のことで広辞苑に「東国方言」とある。ヌルデの古称ともある。次句の「かづさねも」にかかる。その「かづさね」も東国方言と思われるが意味未詳。結句の「門さかずとも」(門を開かなくとも)から考えて「私を呼ばなくとも」という意味か?。「足柄の私を可鶏(かけ)山(心に懸ける山)の穀の木ではないが、数に入れなくとも門を開けなくともいいよ」という歌である。

3433  薪伐る鎌倉山の木垂る木を松と汝が言はば恋ひつつやあらむ
      (多伎木許流 可麻久良夜麻能 許太流木乎 麻都等奈我伊波婆 古非都追夜安良牟)
 薪伐る(たきぎこる)(原文「多伎木許流」)は「きる」ないし「かる」の東国訛りか?。鎌倉山は神奈川県鎌倉市の周辺の山々のこと。「薪を伐る鎌倉山の枝をしならせている木を松(待つ)とあんたが言ってくれれば、こんなに恋いこがれていることもあるまいに」という歌である。
 右三首相模國の歌(さがみ。今の神奈川県)。
           (2016年4月17日記)
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衆議院補欠選挙

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政治経済等時事問題おしゃべり
 去年の7月17日、阿部内閣は衆議院で安保法案を強硬採決した。続いて9月には参議院でも。憲法違反ということで大部分の国民が反対する中を。憲法学者を始め大多数の法曹界が反対する中を。憲法学者の小林節氏は「史上最悪の狂乱内閣」とこきおろしている。国民の大部分の声を無視して強行採決!!!。つまり国民は「そのうちに忘れるさ」とうそぶいているのが聞こえるような無視だ。
 さて、今月の24日に衆院北海道5区及び衆院京都3区の補欠選挙が行われる。選挙は国民の意思を伝える唯一の機会だ。この意味において本当に国民が阿部内閣の強行採決を忘れてしまうのか重要な試金石になる。憲法違反であろうと国民の大多数が反対したのにもかかわらず、誰一人疑問の声をあげなかった与党議員の面々。「こんなやりかたがまかりとおるようでは日本はおしまい」とまで思えるので、本来与党支持の私でも、「今回は与党議員を一人として国会に送り込んではならない」と願って結果を注視している。
 北海道民、及び京都府民が反与党に票を投じてもらいたいと緊急に一文を綴った次第である。
              (2016年4月18日)
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サトザクラ

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 昨日、市政資料館に出かけた。17日に古代史の会の例会に出かけたばかりの場所だ。目的は花の写真を撮るため、ただそれだけのことに・・・。17日に事務所に立ち寄ったとき、「今、庭にきれいに咲いてる花ヤエザクラなんでしょうか」と職員の方に話しかけたら、それがきっかけになって、ひとしきり雑談はヤエザクラでもちきりになった。
 ところがその日(17日)写真を撮る暇がなく、昨日、是非カメラにおさめようと出かけた次第である。
 話変わって、この二月私は「人の心は孤独に弱く、それに耐えきれる心を持っていない。少なくともこの私は滅法弱い」と書いている。私の念頭にあったのは老人の孤独死だった。独身のまま過ごした人、相棒と死に別れた人、親も子も亡くし、身寄りが全くなくなった人等々人により事情は異なるのだろうが、晩年を孤独で迎える人が増えている。否、これだけ携帯やスマホが普及し、SNSも発達し、通信手段に事欠かなくなりつつあるのに、若い人々にも孤独に苦しむ人が増えている。
 それはそれとして、ヤエザクラだが、私は近年、馴染みのない花を見かけると、カメラにおさめたくなる。ヤエザクラもその一つだが、ついでにいうと、写真のヤエザクラはサトザクラである。どんなもんだいと言いたいが、なんてことはない、市政資料館職員の方からの受け売りだ。ひとつ言えるのはこの私にはまだ好奇心が残っており、サトザクラのような、馴染みのない花を見かけると、そのこと自体が一つの楽しみになっている。
 かすかにせよ、こうした好奇心がある間、自分には「たぶん孤独死は訪れないだろうな」と予見できることである。サトザクラ、そう、たかがサトザクラ。が、大仰に言えばこの楽しみがあるからこそ、私はここに生きているのである。
    ためいきの出るサトザクラ赤煉瓦ひときわ強くマッチして咲く
    サトザクラ背後を鳩が舞ひてゆくいまだ未来のあるよな気がす
            (2016年4月21日)
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春まっさかり

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 街を歩くとあちこちに自然が春を謳歌している。街路には街路樹が花開き、私たちの目を楽しませてくれる。ハクモクレンやソメイヨシノが散り、代わってハナミズキが街路を彩りだした。分離帯には美しいレッドロビンが並ぶ。街路ばかりではない。軒先にはパンジー、ツツジ、名も知らぬ草花たちが各々に各々の生命を輝かせている。いわゆる百花繚乱の時節の到来である。
 今年も巡り来たった百花繚乱、毎年繰り返される自然の営み。人間界に何があろうと、この私にどんな不具合が起ころうと、そんなことは些事だとばかり、地球は粛々と太陽を巡っていく。
    巡り来しハナミズキの季トンネルを抜けた思いぞ青空仰ぐ
    一番は感謝の心肩並べハナミズキ下を行くがうれしさ
 去年から今年にかけて眼病その他の不具合ににさいなまれ続けた一年だっただけに、ひとしお生きていることの有り難さが身にしみる。月並みな言い方だけれど、ゆっくり、あわてず、着実に歩み続けるしかない。ちゃんと、地球は粛々と太陽を巡っていて、いつのまにやら百花繚乱を導いてくる。
    いくとせを迎えてなおも飽きの来ぬ花を求めてハンドル回す
    目に浮かぶ万葉人の山野に出春を語らう袖すり合わせ
 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」を書き残したのは林芙美子だが、自然も同様。本当に、本当に、花の命は短い。百花繚乱の季節はせいぜい数ヶ月。私たちは日本列島という、ある意味では幸運な土地に居住しているために受ける恵みだ。そこに今こうして生きている。この幸運を感謝しないでいられようか。私はこの季節、この巡り合わせを大切にしたいと思う。
            (2016年4月23日)
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万葉集読解・・・216(3434~3445番歌)

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     万葉集読解・・・216(3434~3445番歌)
3434  上つ毛野阿蘇山つづら野を広み延ひにしものをあぜか絶えせむ
      (可美都家野 安蘇夜麻都豆良 野乎比呂美 波比尓思物能乎 安是加多延世武)
 「上つ毛野阿蘇」は上毛野国(群馬県)阿蘇のこととなるが、3425番歌には「下つ毛野阿蘇」とあって栃木県にも阿蘇がある。阿蘇郡は群馬県と栃木県にまたがる郡域だったのだろうか。はっきりしない。本歌の標記どおりなら群馬県にも阿蘇郡の一部がまたがっていたと解釈できる。「山つづら」は全訳古語辞典に「つる草の総称」とある。「野を広み」のみは「~ので」の「み」。「あぜか」は5例もあるが、すべて巻14に集中。「などか」の東国訛りとみてよい。「なぜか」という意味。
 「上つ毛野阿蘇の山つづらは野が広いので伸び放題に伸びていく、その思いはどうして絶えることがありましょう」という歌である。

3435  伊香保ろの沿ひの榛原我が衣に着きよらしもよひたへと思へば
      (伊可保呂乃 蘇比乃波里波良 和我吉奴尓 都伎与良之母与 比多敝登於毛敝婆)
 「伊香保ろの」は親しみの「ろ」。東国訛り。「沿ひの榛(はり)原」は「山沿いに広がる榛原」。榛は榛(はん)の木で落葉高木。実や皮は黒色の染料として使われた。「我が衣に着きよらしもよ」は「わが着物に染めると丁度いい」という意味。「ひたへと思へば」の「ひたへ」は意味不明。普通に解すると「一重(ひとへ)」だが、「着物にするとちょうどいい」と「一重」がどう結びつくのか分からない。「裏もない一重」とか「相手の女性が純粋だから一重に合うとか各書ともさんざん苦労して一重に結びつけようとしている。が、どこかしっくりこない。私もさんざん悩み抜いたが、「ひたへ」は「直(ひた)に」の東国訛りと考えるに至った。これで歌意がすっきり通った。
 「伊香保の山沿いに広がる榛原、榛(はん)の木で私の着物を染めるとちょうどいい。直に(一途に)思えば思いは届くだろう」という歌である。

3436  しらとほふ小新田山の守る山のうら枯れせなな常葉にもがも 
       (志良登保布 乎尓比多夜麻乃 毛流夜麻乃 宇良賀礼勢奈那 登許波尓毛我母)
 「しらとほふ」。本歌一例しかなく、枕詞(?)。新田山(にひたやま)は群馬県太田市にある金山のことという。「うら枯れせなな」は「梢も枯れないでよ」という意味である。「しらとほふ小新田山の木々は山守に大切に守られている。そのように梢も枯れることなく、いつも青々としていてほしいものだ(あの子は)」という歌である。
 右三首上野國の歌(かみつけ。今の群馬県)。

3437  陸奥の安達太良真弓はじき置きて反らしめきなば弦はかめかも
      (美知乃久能 安太多良末由美 波自伎於伎弖 西良思馬伎那婆 都良波可馬可毛)
 陸奥(むつ)の安達太良(あだたら)は福島県中部の連山中最高峰の山。真弓(まゆみ)の真は立派なという美称。「はじき置きて」は「弦をはずして弓をはじかせたままにしておくこと」。「反(そ)らしめきなば」は「弓を反らせたままにしておくなら」という意味である。「陸奥の安達太良山の真弓を弦をはずして弓をはじかせたままにしておいて、反らしっぱなしに放置すれば、もう一度弦を張ることなどどうしてできよう」という歌である。
 右一首陸奥國の歌(むつ。今の青森、岩手、宮城、福島の4県)。

 以上で譬喩歌は終わり、次歌から「雜歌」
3438  都武賀野に鈴が音聞こゆ可牟思太の殿の仲子し鳥猟すらしも [或本歌日 美都我野に 又曰 若子し]
      (都武賀野尓 須受我於等伎許由 可牟思太能 等能乃奈可知師 登我里須良思母 [或本歌日 美都我野尓  又曰 和久胡思])
 都武賀野(つむがの)及び可牟思太(かむしだ)は共に所在不詳。第二句の「鈴が音聞こゆ」と結句の「鳥猟(とがり)すらしも」とがなぜ結びつくかというと、4011番長歌に「(鷹に)白塗の鈴取り付けて」という鷹狩りのくだりがあるからである。「仲子し」は「中の若様」すなわち「次男坊」のこと。しは強意の「し」。
 「都武賀野に(鷹の)鈴の音が聞こえる。可牟思太の殿の中の若様が鷹狩りをなさっているらしい」という歌である。

3439  鈴が音の早馬駅家の堤井の水を給へな妹が直手よ)
      (須受我祢乃 波由馬宇馬夜能 都追美井乃 美都乎多麻倍奈 伊毛我多太手欲)
 「早馬駅家(はゆまうまや)」は公用として整備された早馬のための駅。すなわち、急ぎの命令その他を乗せて駆けてきた人馬を、駅家で積み替え、新しい人馬に継いで駆ける制度。「堤井(つつみゐ)の水」は必須の井戸。「鈴の音がする早馬の駅家の堤井の水をいただきたいものだな。彼女が直接掬ってくれるその水を」という歌である。

3440  この川に朝菜洗ふ子汝れも我れもよちをぞ持てるいで子たばりに [一云 ましも我れも]
      (許乃河泊尓 安佐菜安良布兒 奈礼毛安礼毛 余知乎曽母弖流 伊悌兒多婆里尓 [一云 麻之毛安礼母])
 解釈の仕方によってどうとでも取れるやっかいな歌である。各書の解を並べてみよう。
 a:この川で朝菜を洗うお方、あなたも私も同じ年頃の子供を持っています。どうかあなたの子を私に下さいな。(「岩波大系本」)。
 b:この川で朝菜を洗っているかわい子ちゃん、お前さんも私も似合いのものを持ってるわい。ちょいとその子を頂戴しに行こう。(「伊藤本」)。
 c:この川で朝の菜を洗っている女よ。お前もおれも同じ年ごろの子をもっている。さあその子をおくれよ。(「中西本」)。
 おそらく、これらはなんのことを言っているのか分からないだろう。実は第四句の「よちをぞ持てる」の解釈から来ている。その句の単独解釈に着目すればこうした解も可能なのかもしれない。
 さて、「よち(原文:余知)」だが、804番長歌に「~、紅の赤裳裾引きよち子らと手携はりて遊びけむ、~」という一節がある。この、よちこの原文は「余知古」であるから、同年代の子という意味と分かる。さらに続く結句が「いで子たばりに」(子を賜ろう)なので、a,b、cのような歌意が生まれてくる。aとcは「子持ち同士だから結婚しよう」という求婚歌と解したもの。が、今風にいえば「バツイチでかつ子持ち同士だから」というのではさすがに求婚歌としては不思議な表現。なのでbの解釈が生まれる。「よち」を性器の暗示と解して戯れ歌とみ、「さあ、セックスしようか」と相手に迫った歌と解している。
 ここで肝要なのは全体の歌意である。状況は「朝、川に女性が菜を洗いに来た場面である。ふざけている場面でもなければ宴会の場面でもない。bの解は自動的に消える。次にaとcだが、川に朝菜を洗いにきた子に「俺もお前も子持ちの身だから」と前置きして求婚するとは思えない。
 問題の「よちをぞ持てる」は「君も私も同じ年頃を生きてきたんだよね」という意味ではなかろうか。「いで子たばりに」はむろん「いで子賜りに」の東国訛り。「さあ、子を授かりたいね」という意味である。これで全体の歌意は通るだろうか。
 「この川に朝菜を洗いに来る子、あんたも私も同じ年頃を生きてきたんだよね。さあ、結婚して子供を授かりたいね」という歌である。
 つまり求婚歌なのである。
 異伝歌は「奈礼毛安礼毛」の部分が「麻之毛安礼母」となっているが、意味的に変わらない。

3441  ま遠くの雲居に見ゆる妹が家にいつか至らむ歩め我が駒      (麻等保久能 久毛為尓見由流 伊毛我敝尓 伊都可伊多良武 安由賣安我古麻 [柿本朝臣人麻呂歌集曰 等保久之弖  又曰 安由賣久路古麻])
 「雲居に」は「雲がかかっている」という意味。駒はむろん馬のこと。「遙か遠く雲がかかっているあたりに彼女の家が見える。いつかそこに着くだろう。さあ、歩めわが駒」という歌である。
 有名歌に勝るとも劣らぬ名歌である。万感の思いを胸に秘めたまま何も語らず「歩め我が駒」に込めている。
 本歌には「柿本朝臣人麻呂の歌集に曰わく。 「遠くして」 又曰「歩め黒駒」」という注が付いている。私見によれば本歌の「歩め我が駒」が最適。

3442  東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに
      (安豆麻治乃 手兒乃欲妣左賀 古要我祢弖 夜麻尓可祢牟毛 夜杼里波奈之尓)
 「東道(あづまぢ)の」「東国への道の」。「手児(てご)の呼坂」は所在不詳。「東国への道にある手児の呼坂は越え難い。この分だと山中に寝ることになりそうだ。宿を貸してくれる家もないのに」という歌である。

3443  うらもなく我が行く道に青柳の萌りて立てれば物思ひ出つも
      (宇良毛奈久 和我由久美知尓 安乎夜宜乃 波里弖多弖礼波 物能毛比弖都母)
 「うらもなく」は「心もなく」、「萌(は)りて」は「芽吹いて」という意味。「何気なく歩いていたら行く道に青柳が芽吹いていたので物思いに誘われた」という歌である。

3444  伎波都久の岡の茎韮我れ摘めど籠にも満たなふ背なと摘まさね
      (伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛<美>多奈布 西奈等都麻佐祢)
 「伎波都久(きはつく)の岡」は未詳。「茎韮(くくみら)」はよく分からないがニラのこと。掛け合い歌か。「伎波都久の岡の茎韮は摘んでも摘んでも籠にいっぱいにならないわ。じゃああなた、あなたのいい人と二人して摘めば」という歌である。

3445  港の葦が中なる玉小菅刈り来我が背子床の隔しに
      (美奈刀能 安之我奈可那流 多麻古須氣 可利己和我西古 等許乃敝太思尓)
 「葦(あし)が中なる」は「葦の中に生い茂る」という意味。「玉小菅(こすげ)」の玉は美称。意味不明瞭なのは結句の「床の隔(へだ)しに」。「隔(へだ)しに」は「隔(へだ)てに」の東国方言。それはそれでよいとして、「今まで共寝していたがこれからは小菅で仕切り、別床にしよう」という意味か?。夫婦に亀裂?。が、「刈り来我が背子」という口調からして亀裂が入ったとは思われない。「互いに落ち着く」という意味のようだ。
 「港の葦の中に生い茂る小菅を刈り取って来てよ。ねえ、あなた。ちょっと仕切った方が互いに落ち着くからさ」という歌である。
           (2016年4月25日記)
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場違いの話題

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 前回、英会話クラブの例会に出席したら、Free talkingの話題の一つに今回の熊本大地震が取り上げられた。「今回の地震について私たちに何が出来ると思いますか」というテーマだった。このテーマを提出した人の気持ちは分からないわけではない。が、こういうテーマが突如提出されると、微妙な問題なのでとまどう方が少なくない。ごたぶんにもれず、私もまたとまどうばかりだった。
 自由に発言しあうFree talkingなので、気軽に発言し、過度に神経質になったり過度に深刻に考えて発言することはない。それは重々よく承知しているつもりだが、正面切ってまともに取り上げられると、やはりとまどいを隠しきれない。 
 雑談を兼ねて普段は気軽に話がはずむのに「うーむ」や「えーと」が多くなりがちだった。私のしていることと言えば、スーパーに設けられた義捐箱に、100円硬貨を時々投げ入れるくらいのこと。他に特別なことはしていない。したがって人様に話すような事柄ではない。
 英会話クラブ。それが団体の意志として役員の方々が何かを発議するという話なら、各々の意見が交わされるに相違ない。が、裸で「今回の地震について私たちに何が出来ると思いますか」と突如問われたりしたら、やはりなんと答えていいかとまどう。
 こんな経験は団体に属している人ならなにがしかの経験がおありになるに相違ない。タイムリーな話題だから飛び出したテーマなんだろうが、地震への思いは人により千差万別、微妙な思いが絡んでいる人々も少なくあるまい。なので、こういうテーマはタイムリーであっても、できたら提案者はあまり気軽に取り上げてほしくない。少なくとも、一考した上で話題にしてもらうと助かる。うまく言えないが、なんとなく、Free talkingの場に出すのは場違いの感を禁じ得ない。
            (2016年4月26日)
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希望残した選挙結果

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政治経済等時事問題おしゃべり
 去年の7月17日、阿部内閣は衆議院で安保法案を強硬採決してから9ヶ月余が立つ。くどいようだが、私が怒りを覚えるのはその内容よりも、憲法違反ということで大多数の法曹界(いわゆる法の専門家)が反対し、かつ、国民の大部分の声を無視して強行採決した事実である。「国民はそのうちに忘れるさ」とうそぶいている与党議員の声が聞こえるような無視だ。
 どういうことかというと、法治国の最高にして最大の規範たる憲法を、もっとも守らなければならない議員が自ら破って議決してよいのかということだ。順序は全く逆だろう。それが正しい選択なら憲法を改正してから行うのが筋ではないか、というのが私の素朴な疑問である。その最初の試金石となるのが今月の24日に行われた衆院北海道5区及び衆院京都3区の補欠選挙であった。
 京都3区の場合は自民党が対立候補を見送ったので、民進党前議員の泉健太氏の独走態勢となり、6万5051票を獲得して当選した。二位の森夏枝氏は、2万710票なので以下の諸候補とともに大差で敗れ去った。

 事実上、注目を集めたのは、北海道5区だ。与野党一騎打ちだったからだ。
 まず結果を示すと、次のとおり。
 ▽和田義明(自民・新)当選、13万5842票。
 ▽池田真紀(無・新)、12万3517票。
 この票差だけ見ると、「池田さんよ、惜しかったなあ」である。が、この北海道5区は完全な保守王国。たとえば、前回および前々回の選挙結果を紹介すると、次の通りである。
前回。
 当 町村信孝 70 自由民主党 前 131,394票
  勝部賢志 55 民主党   新  94,975票
  鈴木龍次 54 日本共産党 新  31,523票
前々回
 当 町村信孝 68 自由民主党 前  128,435票
  中前茂之 40 民主党   新  69,075票
  西田雄二 49 みんなの党 新  41,025票
  鈴木龍次 52 日本共産党 新  21,422票
  森山佳則 45 幸福実現党 新   4,200票
 いかがであろう。全く勝負になっていない。かつ、今回の和田義明氏は町村氏のむすめ婿のよしである。
 さて、こんな中で今回の和田、池田両氏の票差をごらんいただきたい。たった一万票差しかない。破れたとはいえ、差はあってなきがごとき肉薄ぶりだ。
 できれば池田氏に勝利してほしかったが、よくぞここまで肉薄したものだと感心せざるを得ない。決して国民は馬鹿ではない。強行採決沙汰は決して忘れていない証拠である。「人の噂も七十五日」というが、今回は270日余経ても忘れない。保守王国に肉薄した事実は逆に「日を追うごとに事情が分かってきて「今回は与党に退場願おう」という意志の現れとみたい。衆参同一選挙が囁かれているが、早めの選挙の方が与党有利に働くに相違ない。民進党を始め野党側はじっくり構えていればよかろう。
 私たちのすべき行動は一人でも多く選挙に出かけて投票率を上げることである。投票率さえ少しあがっていれば、北海道5区は池田さんが逆転していたかもしれない。そこに私は法治国家の国民の良識を信じたい。
              (2016年4月27日)
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万葉集読解・・・217(3446~3460番歌)

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 巻13~16メニュー へ   
そ の 218 へ 
    
     万葉集読解・・・217(3446~3460番歌)
3446  妹なろが使ふ川津のささら荻葦と人言語りよらしも
      (伊毛奈呂我 都可布河泊豆乃 佐左良乎疑 安志等比登其等 加多理与良斯毛)
 「妹なろ」は例によって親しい彼女に呼びかける東国訛り。「あの子」というニュアンス。「使ふ川津の」は「川辺の物洗い場」。「ささら萩」は「細かい萩」でここまで「葦(あし)」を導く序歌という。萩は葦(あし)に似ているから萩を葦に代用したと「岩波大系本」はいう。単なる序歌なら萩を代用させなくとも直接「葦」を当て、「悪し」で受ければよさそうだ。何より「あの子が使う洗い場」という言い方が生活臭があって極めて具体的。本当に第三句までを序歌と解してよいのだろうか。私は序歌ではなく実質だと思う。従って「葦」は「悪し」を導くのではなく、そのまま「葦」である。
 「あの子が使う川辺の洗い場に細かい萩が生えている、いや萩ではなくしっかり者の葦さ、と人々は言っているよ」という歌である。

3447  草蔭の安努な行かむと墾りし道安努は行かずて荒草立ちぬ
      (久佐可氣乃 安努奈由可武等 波里之美知 阿努波由加受弖 阿良久佐太知奴)
 「草蔭の」は枕詞説もあるが枕詞(?)。もう一例3192番歌に「草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ」とある。「荒れた草陰」という意味か。「安努(あぬ)」は未詳。「荒れた草陰を通して安努への道を開拓しようとしたが、安努には達せず、草が荒れ放題になっている」という歌である。

3448  花散らふこの向つ峰の乎那の峰のひじにつくまで君が代もがも
      (波奈治良布 己能牟可都乎乃 乎那能乎能 比自尓都久麻提 伎美我与母賀母)
 歌意が取りづらい歌である。「花散らふ」は「桜の花が散っている」ことだが、通常目前の桜の散る様を言う。当たり前である。少し離れて桜を見れば散りつつあるか否かなど分からない。「向つ峰(を)の乎那(をな)の峰(を)の」は「向かいの山の乎那の峰の」という意味だが、桜の花が散っている様子など分かりようがない。「ひじにつくまで」は「州(ひじ)につくまで」ないし「泥(ひぢ)につくまで」と解釈され、浜名湖のことと想定されるのが一般解である。このままでは解しがたいので「花散らふ」は「花が散る季節」と季節を補って解し、「ひじにつくまで」を「峰が州になるまで長く」と解してみる。が、峰が浸かって州になるのは桁違いの後の世のことだろう。目前の「花散らふ」現象とあまりにもかけ離れている。本当に歌意が取りづらい歌だ。ひょっとしてこの歌は主人(君)が重態に陥った際の歌ではなかろうか。そう思って全体の歌意を考えるとなんとか自然に歌意が通った。
 「桜の散る季節が向かいの山の乎那の峰にやってこようとしている。その花が散って湖面に流れ込むまで、せめて主人が無事であってほしい」という歌である。

3449  白栲の衣の袖を麻久良我よ海人漕ぎ来見ゆ波立つなゆめ
      (思路多倍乃 許呂母能素悌乎 麻久良我欲 安麻許伎久見由 奈美多都奈由米)
 「白栲(しろたへ)の」は「真っ白な」。「麻久良我(まくらが)よ」は地名だという。未詳。「よ」は「ゆ」(~より)の東国訛り。その麻久良我は「巻く良我」と見ると、「~袖を」までは序歌。1093番歌に「三諸のその山なみに子らが手を巻向山は継ぎしよろしも」とあるがその「巻向山」と同じ趣向。「なゆめ」は強い禁止。「白栲の着物の袖を巻くではないが、麻久良我から海人がこちらに向かって漕いでくるのが見える。決して波立つなよ、ゆめゆめ」という歌である。

3450  乎久佐男と乎具佐受家男と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちめり
      (乎久佐乎等 乎具佐受家乎等 斯抱布祢乃 那良敝弖美礼婆 乎具佐可知馬利)
 「乎久佐男(をくさを)」は「乎久佐部落の若い衆」という意味か。同様に「乎具佐受家男(をぐさずけを)」は「乎具佐受家部落の若い衆」という意味。そうだとすると、「乎久佐部落の若い衆と乎具佐受家部落の若い衆とを潮舟のように並べてみれば乎具佐受家衆が勝つだろうよ」という歌である。

3451  左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒はたぐとも我はそとも追じ
      (左奈都良能 乎可尓安波麻伎 可奈之伎我 古麻波多具等毛 和波素登毛波自)
 左奈都良(さなつら)は所在不詳。「愛(かな)しきが駒」は「愛(いと)しい馬」で「が」は「我が駒」のように所有格。「たぐとも」は「食ぶとも」の訛りと思われる。「そとも追(は)じ」は「しっ、しっと追い立てる」という意味である。「左奈都良(さなつら)岡に粟を蒔いて育てるけれど、あの愛しい馬(男の馬か)が食べようと、しっ、しっと追い立てたりしませんわ」という歌である。

3452  おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに
      (於毛思路伎 野乎婆奈夜吉曽 布流久左尓 仁比久佐麻自利 於非波於布流我尓)
 「おもしろき」は「趣のある」。「な焼きそ」は「な~そ」の禁止形。「趣のあるこの野は焼き払わないでおくれ。古草に新草が混じって生えて来るのも趣があるから」という歌である。

3453  風の音の遠き我妹が着せし衣手本のくだりまよひ来にけり
      (可是能等能 登抱吉和伎母賀 吉西斯伎奴 多母登乃久太利 麻欲比伎尓家利)
 「風の音(と)の」は枕詞(?)。この語まで枕詞とする書があるとは驚きだ。このほかに「風の音」は3例あるが、そのままどんぴしゃり「風の音」の意で十分。もっとも本歌の場合は消息という意味である。「手本のくだり」は「袖口」のこと。「まよひ来にけり」は「綻びにけり」という意味である。「風の便りに聞くしかない遠くの妻が着せてくれた着物の袖口が綻んできた」という歌である。

3454  庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾
      (尓波尓多都 安佐提古夫須麻 許余比太尓 都麻余之許西祢 安佐提古夫須麻)
 「庭に立つ」も枕詞説がある。本歌以外に短歌の例に521番歌「庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな」とある。そのままの意でよく、むろん枕詞(?)。「麻手小衾(こぶすま)」の小は美称。衾は上布団、すなわち「麻で作った上ぶとん」。「庭に植えた麻で作った麻の上ぶとん。出来たての今夜は夫が寄ってきてくれないかな、この麻の上ぶとんに」という歌である。
 以上、3438~3454番歌までは雑歌。

 相聞歌(3455~3566番歌)
3455  恋しけば来ませ我が背子垣つ柳末摘み枯らし我れ立ち待たむ
      (古非思家婆 伎麻世和我勢古 可伎都楊疑 宇礼都美可良思 和礼多知麻多牟)
 「垣つ柳」は「垣根の柳」のこと。「末摘み枯らし」は「枝先の芽を摘み摘みしながら」という意味である。「私が恋しかったらいらして下さい。あなた。垣根の柳の枝先の芽を摘み摘みしながら立ってお待ちしますわ」という歌である。

3456  うつせみの八十言のへは繁くとも争ひかねて我を言なすな
      (宇都世美能 夜蘇許登乃敝波 思氣久等母 安良蘇比可祢弖 安乎許登奈須那)
 「うつせみの」は「この世の」ないし「世間の」という意味。「八十言(やそこと)のへ」は「八十言の葉」の訛り。「言(こと)なすな」は「口に出さないでね」という意味。「世間の噂は激しいでしょうが、それに負けて私のことを口に出さないでね」という歌である。

3457  うちひさす宮の我が背は大和女の膝まくごとに我を忘らすな
      (宇知日佐須 美夜能和我世波 夜麻登女乃 比射麻久其登尓 安乎和須良須奈)
 「うちひさす」は枕詞。「大和女(やまとめ)」は宮仕えの女と考えるのが一般的だが、そうでなくとも大和近郊の女性と考えてもいいだろう。「宮に仕える私の彼は、大和の女性の膝を枕にすることもありましょう。でも私のことは忘れないでね」という歌である。

3458  汝背の子や等里の岡道しなかだ折れ我を哭し泣くよ息づくまでに
      (奈勢能古夜 等里乃乎加恥志 奈可太乎礼 安乎祢思奈久与 伊久豆君麻弖尓)
 「汝背の子や」は二人称ではなく一人称の古形だという、「私のあなた」といったニュアンス。「等里(とり)」は所在不詳。「岡道(ぢ)しなかだ折れ」のしは強意、「道が中だるみしているように」という意味である。「私のあなた、等里の岡道が中だるみしているように最近熱意がないわね。泣けてきてため息が出てくるわ」という歌である。

3459  稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ
      (伊祢都氣波 可加流安我手乎 許余比毛可 等能乃和久胡我 等里弖奈氣可武)
 「かかる我が手を」は「赤くひび割れた私の手を」という意味である。他は平明歌。「稲をつくので赤くひび割れた私の手を、今夜もまた御殿の若様がお取りになって可哀想にとお嘆きになるのでしょうか」という歌である。

3460  誰れぞこの屋の戸押そぶるにふなみに我が背を遣りて斎ふこの戸を
      (多礼曽許能 屋能戸於曽夫流 尓布奈未尓 和<我>世乎夜里弖 伊波布許能戸乎)
 「誰れぞこの屋の戸押そぶる」は「誰れなの、この家の戸をがたぴしと押すのは」という意味である。「にふなみ」は新嘗(にひなめ)の東国訛り。新嘗は神に新穀を捧げる神事。「斎(いは)ふこの戸を」は「家内にこもって身を清めていること」。
 「誰れなの、この家の戸をがたぴしと押すのは。新嘗祭を迎えて夫を外に遣り、家内にこもって身を清めているこの私なのに」という歌である。
           (2016年4月29日記)
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