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万葉集読解・・・159(2479~2496番歌)

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     万葉集読解・・・159(2479~2496番歌)
2479  さね葛後も逢はむと夢のみに誓ひわたりて年は経につつ
      (核葛 後相 夢耳 受日度 年經乍)
 「さね葛(かづら)」は常緑蔓性低木。第四句の「誓(うけ)ひわたりて」だが、2433番歌に「~妹に逢はむと誓ひつるかも」とある。「神に祈り続けて」という意味である。
 「さね葛のようにつるが延びて後に逢えるだろうと、夢の中だけで神様に祈り続けているうちに年は過ぎてゆく」という歌である。

2480  道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は [或本の歌に云う「いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば」]
      (路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀? [或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者])
 「いちしの花」はどんな花か未詳。「いちしろく」を導く序歌。
 「道の辺に咲くいちしの花ではないが、はっきりと人が皆知る所となってしまった、我が恋の上の妻のことを」という歌である。
 異伝歌は「はっきりと人に知れ渡ってしまった、いつもいつも彼女のことを思っているので」となっている。

2481  大野らにたどきも知らず標結ひてありかつましじ我が恋ふらくは
      (大野 跡状不知 印結 有不得 吾眷)
 原文「大野」は「岩波大系本」ら3書は「大野らに」と五音読みに訓じている。が、「ら」に特別な意味は認められない。「佐々木本」は単に「大野に」と4音に訓じている。「大野らに」の五音読みがいいとすれば、あるいは親愛の「ら」か。「たどき」は手段や様子のこと。「ありかつましじ」は484番歌等に使用されているが、「そのままでよいのでしょうか」という意味である。
 「広い野にみさかいなくしめ縄を張ってしまったが、そのままでよいのだろうか。恋情にまかせて彼女と契りを結んでしまって」という歌である。

2482  水底に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて恋ふるこのころ
      (水底 生玉藻 打靡 心依 戀比日)
 上三句は比喩的序歌。玉藻の玉は美称。
 「水底に生えている玉藻がうちなびくように、あなたになびいてしまい恋しくてならないこの頃です」という歌である。

2483  敷栲の衣手離れて玉藻なす靡きか寝らむ我を待ちかてに
      (敷栲之 衣手離而 玉藻成 靡可宿濫 和乎待難尓)
 「敷栲(しきたへ)の」は枕詞説もあるが、「敷いた寝床」という意味で十分通る場合が多い。「衣手(ころもで)離(か)れて」は「そばに相手の衣手がない」つまり「ひとり寝」を意味している。
 「寝床を敷いてひとり寝をしていることだろうか。玉藻のようになびいて寝たいのに。この私を待ちかねて」という歌である。

2484  君来ずは形見にせむと我がふたり植ゑし松の木君を待ち出でむ
      (君不来者 形見為等 我二人 殖松木 君乎待出牟)
 万葉歌にしては珍しい擬人化の表現を用いた歌である。「あなたと二人で植えたこの松と共に」という擬人化である。私には大変な秀歌に思われる。
 「この松は、あなたがいらっしゃらない場合は形見にしようと二人で植えた松の木です。その松はあなたがやって来るのを待ってきっと芽を出すことでしょう(だからきっと逢いに来て下さいますよね)」という歌である。

2485  袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり
      (袖振 可見限 吾雖有 其松枝 隠在)
 本歌は、871番歌~875番歌にかけて詠われている佐用姫伝説を思い起こさせるような歌である。佐用姫伝説とは、夫の大伴佐提比古(おほとものさぢひこ)が朝命により朝鮮半島の任那(みまな)に渡ることになり、別れを悲しんで山の上に登り、夫に向かって領巾(ひれ)を振ったという伝説。やや意訳気味に本歌を口語訳してみよう。
 「姿が見えん限りに袖を振って見送ったけれど、とうとうあの人の姿は遠ざかっていって松の枝に隠れてしまった」という歌である。

2486   茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに
      (珍海 濱邊小松 根深 吾戀度 人子姤)
 「茅渟(ちぬ)の海」は大阪湾のこと。「人の子ゆゑに」とは「人妻なので」ということである。
 「茅渟(ちぬ)の海の浜辺に生えている小松は根を深くおろしている。その根のように私は深く密かに恋続けるよりほかに術がない。彼女は人妻なので」という歌である。

 本歌には「ある本にいう」として次の異伝歌が記されている。
  「茅沼の海の潮干の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の児ゆゑに」(血沼之海之 潮干能小松 根母己呂尓 戀屋度 人児故尓)
 「浜辺」が「潮干」(干潟か?)になっているが、歌意は本歌と同様としてよかろう。

2487  奈良山の小松が末のうれむぞは我が思ふ妹に逢はずやみなむ
      (平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止<者>)
 奈良山は奈良市北方の山、橘諸兄(たちばなのもろえ)の旧宅のあった所とされる。「奈良山の小松が末(うれ)の」は「うれむぞ」を導く序歌。「うれむぞ」はもう一例、327番歌に「海神の沖に持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ」とある。その際に私は「うれむぞ」は「結局は」という意味だと記した。むろん本歌も同様である。
 「奈良山の小松が末のうれむぞではないが、我が恋する彼女には逢わずじまいになることだろう」という歌である。

2488  磯の上に立てるむろの木ねもころに何しか深め思ひそめけむ
      (礒上 立廻香<樹> 心哀 何深目 念始)
 「むろの木」は各地の海岸に自生する針葉樹、ハイネズのこととされる。這うように延び、しっかりと根を張ることから、「~むろの木」は「ねもころに」を導く序歌となっている。「ねもころに」はいうまでもなく「ねんごろに」。「入念、深くしっかりと」といった意味。
 「磯の上にしっかり根を張るむろの木のごとく、どうして私は深く深く思い入れてしまったのだろう、あの子に」という歌である。

2489  橘の本に我を立て下枝取り成らむや君と問ひし子らはも
      (橘 本我立 下枝取 成哉君 問子等)
 やや物語めいた歌。まるで映画のワンシーンのような趣がある。「子らはも」は親愛の「ら」。「問ひし」は過去形になので、実際は実を結ばなかったのだろうか?。
 「橘の木の下に私を向かい合って立たせ、下枝をつかんで、私たちの恋は実るでしょうか、あなた、と問いかけたあの子だったのに」という歌である。

2490  天雲に翼打ちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば
      (天雲尓 翼打附而 飛鶴乃 多頭々々思鴨 君不座者)
 鶴は「たづ」と詠まれていたので、「~飛ぶ鶴(たづ)の」までは「たづたづしかも」を導く序歌。「たづたづしかも」は「心細く不安」という意味である。「あなたがいらっしゃらないので不安で心細い」という歌である。

2491  妹に恋ひ寐ねぬ朝明に鴛鴦のこゆかく渡る妹が使か
      (妹戀 不寐朝明 男為鳥 従是此度 妹使)
 「こゆかく渡る」は「こんなふうにして渡る」すなわち「夫婦仲良く渡る」という意味である。鴛鴦(オシドリ)は古来夫婦仲がよいことで有名。「彼女が恋しくて眠られない明け方に鴛鴦が仲むつまじく飛んでいく。早くそうなりたいという彼女の使いなのだろうか」という歌である。

2492  思ひにしあまりにしかばにほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも
      (念 餘者 丹穂鳥 足沾来 人見鴨)
 「思ひにしあまりにしかば」は「思いあまって」という意味。にほ鳥はカイツブリのこと。「なづさひ来しを」は「難渋してやって来たが」という意味である。
 「恋しさに思いあまって雨中をカイツブリのようにびしょぬれになってやってきたが、人はどのように見ただろうか」という歌である。

2493  高山の嶺行くししの友を多み袖振らず来ぬ忘ると思ふな
      (高山 峯行完 友衆 袖不振来 忘念勿)
 「しし」について、「岩波大系本」は補注を設けて「万葉動物考」の説を詳細に紹介している。概略「シシは食用の鹿や猪を指すことが普通。が、鹿や猪は高山の峰づたいに群を作って行くことはない。なのでここのシシはカモシカと考えられる」としている。「多み」は「~ので」の「み」。
 「高山を嶺づたいに群れを成していくカモシカのように連れ立っている人が多かったので、袖を振らずにやってきたが、だからといってお前のことを忘れていたわけではないのだよ」という歌である。

2494  大船に真梶しじ貫き漕ぐ間もここだ恋ふるを年にあらばいかに
      (大船 真楫繁拔 榜間 極太戀 年在如何)
 「真梶(まかじ)しじ貫き」は「多くの梶を取りつけて」という意味である。「ここだ」は「こんなにも」という意味。
 「大船に多くの梶を取りつけて漕ぐ間さえこんなにもあの子が恋しくてならないのに、一年も逢えなかったらどんなに愛しいだろう」という歌である。

2495  たらちねの母が養ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも
      (足常 母養子 眉隠 隠在妹 見依鴨)
 「たらちねの」はお馴染みの枕詞。「たらちねの~繭隠り(まゆごもり)」は彼女が家にこもっていることの比喩。結句の「見むよしもがも」は「逢う由がないものか」という意味である。 「母親が飼っている蚕は繭にこもっているが、その蚕のように家にこもっているあの子に逢う手段はないものか」という歌である。

2496  肥人の額髪結へる染木綿の染みにし心我れ忘れめや [一云 忘らえめやも]
      (肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉 [一云 所忘目八方])
 肥人(こまひと)は熊本県球磨地方の人のこととされる。染木綿(しめゆふ)は染めた木綿。
 「肥人(こまひと)が前髪を結ぶ染木綿(しめゆふ)のように染まってしまった私。どうしてあの人のことが忘れられようか」という歌である。
 異伝歌の結句は「忘れられようか」となっているが本歌とほぼ同意。
           (2015年5月5日記、2018年11月9日)
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