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万葉集読解・・・220(3491~3505番歌)

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      万葉集読解・・・220(3491~3505番歌)
3491  柳こそ伐れば生えすれ世の人の恋に死なむをいかにせよとぞ
      (楊奈疑許曽 伎礼波伴要須礼 余能比等乃 古非尓思奈武乎 伊可尓世余等曽)
 「生えすれ」は「生えこそすれ」の省略形。平明歌。
「柳なら伐(き)れば生えてもこよう。が、私は、この世の人の身。恋い焦がれて死にそうなのになんとしよう」という歌である。

3492  小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも
      (乎夜麻田乃 伊氣能都追美尓 左須楊奈疑 奈里毛奈良受毛 奈等布多里波母)
 小山田(をやまだ)という地名はいくつもあり、特定は不可。「成りも成らずも」は柳にかけて二人の間を言っている。
 「小山田(をやまだ)の池の堤に挿し木した柳が根付くか否かは、そう、私たち二人の恋が成就するか否かにかかっている」という歌である。

3493  遅速も汝をこそ待ため向つ峰の椎の小やでの逢ひは違はじ
      (於曽波夜母 奈乎許曽麻多賣 牟可都乎能 四比乃故夜提能 安比波多我
 「遅速も」は「遅かれ速かれ」という意味。「椎の小やでの」は「椎の小枝の」の訛り。「枝先が重なり合う」ことを言っている。
 「遅かれ速かれあなたを待ちましょう。向かいの峰の椎の木が枝先を伸ばしてやがて重なり合うのはまちがいないでしょうから」という歌である。
 異伝歌は次の通りである。
      遅速も君をし待たむ向つ峰の椎の小枝の時は過ぐとも
      (於曽波夜毛 伎美乎思麻多武 牟可都乎能 思比乃佐要太能 登吉波須具登母)
 下二句が「椎の小枝の時は過ぐとも」となっている。「小枝の時が経過して大枝になっても」という意味で、「いつまでもお待ちします」という歌である。

3494  子持山若かへるでのもみつまで寝もと我は思ふ汝はあどか思ふ
      (兒毛知夜麻 和可加敝流弖能 毛美都麻弖 宿毛等和波毛布 汝波安杼可毛布)
 子持山(こもちやま)は群馬県沼田市と渋川市との境界にある。標高1300mほど。「かへるで」は「かへで」の、「あどか」は「などか」の東国訛り。万葉歌らしいあっけらかんとした歌。
 「子持山(こもちやま)の楓の若木が紅葉するまでも、お前と寝ようと思う。お前はどう思う」という歌である。

3495  巌ろの沿ひの若松限りとや君が来まさぬうらもとなくも
      (伊波保呂乃 蘇比能和可麻都 可藝里登也 伎美我伎麻左奴 宇良毛等奈久文)
 「巌(いはほ)ろの」は「巌(いはほ)らの」の東国訛り。「~沿ひの若松」は「待つを」導く序歌。「うらもとなくも」は「心もとないこと」という意味である。
 「岩沿いに生える若松ではないが、待つのも今回限りとおっしゃるのですか。あなたがいらっしゃらなくなると、心もとなくてたまりませんわ」という歌である。

3496  橘の古婆の放髪が思ふなむ心うつくしいで我れは行かな
      (多知婆奈乃 古婆乃波奈里我 於毛布奈牟 己許呂宇都久思 伊弖安礼波伊可奈)
 「橘(たちばな)の」は武蔵国橘樹郡(現在神奈川県川崎市と横浜市にまたがる一帯)のことという。古婆(こば)は所在不詳。「放髪(はなり)が」は「髪を結い上げていない少女が」という意味。
 「橘(たちばな)の古婆(こば)にいる髪を結い上げていない少女が、思う心が美しい。さあ、今からその少女の許へ行こう」という歌である。

3497  川上の根白高萱あやにあやにさ寝さ寝てこそ言に出にしか
      (可波加美能 祢自路多可我夜 安也尓阿夜尓 左宿佐寐弖許曽 己登尓弖尓思可)
 「川上の根白高萱(ねじろたかがや)」は「「川上に生える、根が白く丈の高い萱(かや)草」のことで「あやにあやに」を導く序歌というのが定説。萱をわざわざ「根が白く丈の高い萱」などと表現するのだろうか。何かすっきりしない。原文は「祢自路多可我夜」。「根城高賀屋」といった地名ないし場所ではなかろうか。「あやにあやに」は「むしょうに」という意味。「さ寝さ寝てこそ」は「共寝を重ねたので」。これが私の解である。
 「川上の根城の高賀屋で、むしょうに共寝を重ねたので噂に立ってしまった」という歌となる。

3498  海原の根柔ら小菅あまたあれば君は忘らす我れ忘るれや
      (宇奈波良乃 根夜波良古須氣 安麻多安礼婆 伎美波和須良酒 和礼和須流礼夜)
 海原(うなはら)は海辺のこと。「根柔(ねやは)ら小菅」は塩莎草(シホクグ)のことで、広辞苑に「カヤツリグサ科の多年草、海浜の湿地に群生」とある。「あまたあれば」は「群生しているので」という意味である。「多くいる女性に目移りする」ことを言っている。
 「海浜に群生する塩莎草(シホクグ)のように、あなたは多くいる女性に目移りして私のことはお忘れでしょう。が、私の方は忘れることがありましょうか」という歌である。

3499  岡に寄せ我が刈る萱のさね萱のまことなごやは寝ろとへなかも
      (乎可尓与西 和我可流加夜能 佐祢加夜能 麻許等奈其夜波 祢呂等敝奈香母)
 「岡に寄せ」は刈っている萱(かや)は水辺に生えているので、「陸地に引き寄せる」こと。「さね萱」は「さ根萱」のことで根のついた萱。「さ」は美称。第四句「まことなごやは」は「ほんに柔らか」という意味か。末尾の「は」も気になる。萱は屋根を葺くのに使われるようにガサガサした草。この句は「まこと凪(な)ご夜は」で、「凪ぎ夜は」の東国訛り。そして第五句の「寝ろとへなかも」は「寝ると言ふのかい」の東国訛りだろう。
 「海辺の萱(かや)を刈り取っては陸地に引き寄せ、その根のついた萱で波静かな夜に寝ようと言うのかい」という歌である。

3500  紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに
      (牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 祢乎遠敝奈久尓)
 紫草(むらさき)は染料に使う紫草のこと。根っこもすべて染料に使う。「うら愛(かな)しけを」の「うら」は「心」という意味。「寝を終へなくに」は「共寝もしていないのになあ」という意味である。
 「紫草(むらさき)は根っこもすべて染料に使うという。が、私はといえば、あの子がこころ愛(いと)しいのに、共寝もしていない」という歌である。

3501  安波峰ろの峰ろ田に生はるたはみづら引かばぬるぬる我を言な絶え
      (安波乎呂能 乎呂田尓於波流 多波美豆良 比可婆奴流奴留 安乎許等奈多延)
 安波(あは)は安房(千葉県)の山というが、はっきりしない。二つの「峰(を)ろ」は東国訛りの「ろ」。親しみの表現。「生(お)はる」は「生ふる」の、「たはみづら」は「たはみづる」の東国訛り。「たはみづら」は蔓草のこと。本歌は3378番歌の「入間道の大家が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね」に類似している。
 「安波の峰の山田に生える蔓草のように、引けばずるずる寄ってくるように、私と連絡を絶やさないでほしい」という歌である。

3502  我が目妻人は放くれど朝顔のとしさへこごと我は離るがへ
      (和我目豆麻 比等波左久礼杼 安佐我保能 等思佐倍己其登 和波佐可流我倍)
 「我が目妻」は「私の愛しい妻」という意味。「人は放(さ)くれど」は「人は割こうとするが」という意味である。「としさへこごと」は古来難句。結句の「離(さか)るがへ」は「離れるものか」という意味。全体の歌意を考えると、朝顔が唐突である。「あさがほの」は「あさかおの」の東国訛りではなかろうか。「としさへ」は「ときさへの」やはり東国訛り。「こごと」は「小言」。表題訓はそのままにしておくが、以上の解で一応歌意は通る。
 「私の愛しい妻、人は割こうとするが、朝、顔を合わせるときさへ小言が聞こえる。が、私は離れるものか」という歌である。

3503  安齊可潟潮干のゆたに思へらばうけらが花の色に出めやも
      (安齊可我多 志保悲乃由多尓 於毛敝良婆 宇家良我波奈乃 伊呂尓弖米也母)
 「安齊可潟(あぜかがた)」は所在不詳。「うけらが花」は広辞苑を引くと「おけらの古名」とある。「おけら」を引くと「キク科の多年草。山野に自生」とある。「潮干のゆたに思へらば」は「潮がゆったり引いていくようにのんびり思っているなら」という意味。
 「安齊可潟(あぜかがた)の潮がゆったり引いていくようにのんびり思っているなら、鮮やかなおけらの花のように顔に出るものだろうか」という歌である。

3504  春へ咲く藤の末葉のうら安にさ寝る夜ぞなき子ろをし思へば
      (波流敝左久 布治能宇良葉乃 宇良夜須尓 左奴流夜曽奈伎 兒呂乎之毛倍婆)
 「春へ咲く」は「春辺咲く」という意味で、「春頃咲く」こと。「藤の末葉(うらば)の」は「枝の先端に垂れ下がる藤の花」のこと。ここまで次句の「うら安に」を導く序歌。「うら安に」は「心やすらかに」という意味。「子ろをし」は「子ら」の東国訛り。親愛の「ろ」。「し」は強意の「し」。
 「春頃、枝の先端に垂れ下がる藤の花。心やすらかに眠る夜もない。あの子のことを思うと」という歌である。

3505  うちひさつ宮の瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も
      (宇知比佐都 美夜能瀬河泊能 可保婆奈能 孤悲天香眠良武 <伎>曽母許余比毛)
 「うちひさつ」は「うちひさす」の東国訛り。枕詞。「宮の瀬川」は所在不詳。「かほ花」は1630番歌や2288番歌にも詠われている。朝顔、かきつばた、むくげ等諸説あってはっきりしない。これらの歌の内容から考えると、「かほ花」は具体的な花の名ではなく、その場面場面で使われる顔に似た花だろう。
 「(あの子は)宮の瀬川に咲くかお花のように恋しい顔を向けて眠っていることだろう。昨夜も今夜も」という歌である。
           (2016年5月11日記、2019年3月29日)
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