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万葉集読解・・・222(3523~3536番歌)

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      万葉集読解・・・222(3523~3536番歌)
3523  坂越えて安倍の田の面に居る鶴のともしき君は明日さへもがも
      (佐可故要弖 阿倍乃田能毛尓 為流多豆乃 等毛思吉伎美波 安須左倍母我毛)
 安倍(あべ)は静岡市駿河湾に注ぐ阿部川のことか?。「ともしき君は」は「羨ましい」すなわち「心惹かれるあの方が」という意味である。
 「坂を越えて飛んできた鶴が、ここ阿部川近辺の田んぼの水面(中)に降りているが、その鶴のように心惹かれるあの方が明日も来てくれないかなあ」という歌である。

3524  まを薦の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする
      (麻乎其母能 布能<末>知可久弖 安波奈敝波 於吉都麻可母能 奈氣伎曽安我須流)
 まを薦(こも)は3464番歌に「~、まを薦の同じ枕は、~」とある。イラクサ(苧麻)で編んだ薦のこと。「逢はなへば」は「逢えないので」という意味。
 「二人の間はイラクサ薦(こも)の節と節の間のように近くにいながら逢えないので、遠い沖の鴨さながらに私は嘆いている」という歌である。

3525  水久君野に鴨の這ほのす子ろが上に言緒ろ延へていまだ寝なふも
      (水久君野尓 可母能波抱能須 兒呂我宇倍尓 許等乎呂波敝而 伊麻太宿奈布母)
 「水久君野(みくくの)に」は所在不詳。あるいは次句が「鴨の這(は)ほのす」となっているので、湿地帯か?。「這(は)ほのす」は「這(は)ゐなす」の東国訛り。「子ろ」は「子ら」の東国訛りで親愛の呼び方。「言緒(ことを)ろ延(は)へて」はちょっと悩ましい。「言」は言葉だが、「緒ろ延へて」は「長々かける」あるいは「鴨の這ほのす」の譬喩で「そっとしのばす」か?。後者にとることにする。
 「草が生えるみくく野に鴨が這うさまをなして進んでいくように、あの子にそっと長らく声をかけているが、いまだに共寝に至っていない」という歌である。

3526  沼二つ通は鳥がす我が心二行くなもとなよ思はりそね
      (奴麻布多都 可欲波等里我栖 安我己許呂 布多由久奈母等 奈与母波里曽祢)
 「沼二つ」の「二つ」は通常沼にかかる。が「鳥がす」を「鳥が巣」と解すると、二つは巣にかかる。いづれの意味だろう。ただ、「二つ」と「巣」の間はいかにも離れ過ぎている。さらに、鳥は同時期に巣を二つ作ると聞いたことがない。やはり、「沼二つ」は「二つの沼」と言う意味だろう。「通(かよ)は」は「通ふ」の東国訛り。「鳥がす」はやはり「鳥が巣」。ただし巣は一つ。「二(ふた)行くなもと」は「二行くなむと」の東国訛り。「なよ思はりそね」は「な~そ」の禁止形。よは強意。ねも強意。
 「エサを求めて二つの沼と巣の間を通う鳥のように、我が心が二股かけているなどと、決して思ってくれるなよ」という歌である。

3527  沖に住も小鴨のもころ八尺鳥息づく妹を置きて来のかも
      (於吉尓須毛 乎加母乃毛己呂 也左可杼利 伊伎豆久伊毛乎 於伎弖伎努可母)
 「沖に住(す)も」は「沖に住む」の、結句の「置きて来のかも」は「置きて来むかも」の東国訛り。「小鴨」の小は可愛いという美称。「八尺鳥(やさかどり)」は本歌しか例がないので正確なことは不明。「長く潜る鳥」という意味だとすると「カイツブリ」のことか。「岩波大系本」以下各書とも「もころ」は「同じように」という意味だとしている。
 さて、「もころ」が「同じように」という意味だとすると「小鴨のもころ」は「小鴨のように」という意味になる。比喩なら何の比喩かは別にしてこれで十分。不意に「八尺鳥」が出てくるのが解せない。他方「もころ」は本歌だけではない。1809番長歌や3486番歌等に出てくる。決して「同じように」という意味ではない。1809番長歌の一節に「~もころ男に負けてはあらじと~」とあって、「競争相手」という意味であることが分かる。これで歌意が通った。
 「沖に住む鴨とその競争相手の八尺鳥(カイツブリ)は水中にもぐりっこをしている。そんな風に長くため息をしているに相違ない妻を置いて私は旅だって来てしまった」という歌である。

3528  水鳥の立たむよそひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも
      (水都等利乃 多々武与曽比尓 伊母能良尓 毛乃伊波受伎尓弖 於毛比可祢都母)
 「よそひに」は「身支度に」という意味。「妹のら」は「妹ら」の強意か。
 「水鳥が飛び立つように、身支度もほどほどに彼女に物もいわずにあわてて旅だったため、情に堪えられない」という歌である。

3529  等夜の野に兎狙はりをさをさも寝なへ子ゆゑに母に嘖はえ
      (等夜乃野尓 乎佐藝祢良波里 乎佐乎左毛 祢奈敝古由恵尓 波伴尓許呂波要)
 「等夜(とや)の野」は下総(しもうさ)国印旛郡(千葉県北部)にあった鳥屋郷とされる。「狙(ねら)はり」は「狙へり」の、「寝なへ」は「寝ない」の東国訛り。「~兎(をさぎ)狙はり」は「をさをさも」を導く序歌。「をさをさも」は「ろくすっぽ」という意味。「嘖(ころ)はえ」は「こっぴどく叱られ」という意味。
 「等夜(とや)の野に兎を狙っているだけで、ろくすっぽ寝てもいないあの子なのに・・・。その母親にこっぴどく叱られてしまった」という歌である。

3530  さを鹿の伏すや草むら見えずとも子ろが金門よ行かくしえしも
      (左乎思鹿能 布須也久草無良 見要受等母 兒呂我可奈門欲 由可久之要思母)
 「さを鹿の」のさは美称。「子ろ」は「子ら」の東国訛り。「金門よ」は「金門ゆ」の東国訛りか。「金門を通って」という意味。「行かくし」のしは強意の「し」。「えしも」は「うれしい」という意味。
 「牡鹿が伏していると草むらから見えないように、あの子がいる金門の前を通って行くのはうれしいもんだな」という歌である。

3531  妹をこそ相見に来しか眉引きの横山辺ろの獣なす思へる
      (伊母乎許曽 安比美尓許思可 麻欲婢吉能 与許夜麻敝呂能 思之奈須於母敝流)
 「相見に来しか」は「逢いに来たのに」という意味。「眉引きの横山辺ろの」は「眉のように横に長い山の辺りの」という意味。本歌のポイントは結句の「獣(しし)なす思へる」。 手元の3書は次のように解している。
  a「うるさく思うとは」(「岩波大系本」)
  b「人のことを~思いおって」(「伊藤本」)
  c「けものの様に思っている。家の人は」(「中西本」)
 3書は、一様に歌の作者以外の「思い」と解している。作歌の場合、主語が省略されている場合は作者自身の思いが原則なのである。これは当然のことであって説明の要はあるまい。作者以外の場合は「思はむ」ないしは「思ふらむ」と表現する。多くの場合は主語を略さない。あるいは「言」を使って「言繁み」のように表現する。通常、主語省略の場合は作者自身が原則。問題はそれで歌意が通るか否かである。私は通るとみて歌作の原則に従って作者の思いと取りたい。
 「彼女に逢いに来たというのに、眉のように横に長い山の辺りをうろつくけもののように思えてきた」という歌である。

3532  春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも
      (波流能野尓 久佐波牟古麻能 久知夜麻受 安乎思努布良武 伊敝乃兒呂波母)
 「春の野に草食(は)む駒の口やまず」は「やまず」を導く序歌。駒は馬のこと。「子ろ」は「子ら」の東国訛り。
 「春の野に草を食む馬の口がやまないように、私のことをしきりに偲んでいることだろうな、家に残した彼女(妻)は」という歌である。

3533  人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
      (比登乃兒乃 可奈思家之太波 々麻渚杼里 安奈由牟古麻能 乎之家口母奈思)
 「しだ」は「時」のこと。「浜洲鳥」は具体的な鳥名不明。あるいは干潟にいる鳥全般。本歌は歌意がさっぱり分からない。上二句と下三句がどうつながっているのか全く不明。上二句と下三句がつながらないだけでなく、浜洲鳥と馬のつながりも分からない。標記どおり口語訳すると、こうなる。
 「人の子が愛しくてならない時、浜洲鳥のように、足を痛める馬が惜しいとは思わない」という歌である。

3534  赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の子らはも
      (安可胡麻我 可度弖乎思都々 伊弖可天尓 世之乎見多弖思 伊敝能兒良波母)
 赤駒は赤い馬のこと。「出でかてにせしを」は「出かけるのをためらっていると」という意味である。「見立てし」は「立って見る」すなわち「見送った」という意味。「子ら」は親愛のら。
 「赤馬に乗って出発しながら出かけるのをためらっていると、立って見送ってくれた家のあの子(妻)が(忘れられない)」という歌である。

3535  己が命をおほにな思ひそ庭に立ち笑ますがからに駒に逢ふものを
      (於能我乎遠 於保尓奈於毛比曽 尓波尓多知 恵麻須我可良尓 古麻尓安布毛能乎)
 「己が命(を)を」は「己が緒を」(原文「於能我乎遠」)とした方がいいだろう。「ご自分の長い命を」という意味である。「おほに」は「おろそかに」という意味。「な思ひそ」は「な~そ」の禁止形。「笑ますがからに」は「微笑んでいると」という意味である。
 「ご自分の命をおろそかにしないで下さい。ご無事でいて下さい。私が庭に立って微笑んで迎えに出ていると、あなたの駒(あなた様)に逢えるというではありませんか」という歌である。

3536  赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ
      (安加胡麻乎 宇知弖左乎妣吉 己許呂妣吉 伊可奈流勢奈可 和我理許武等伊布)
 「赤駒を打ちて」は「赤い馬に鞭打って」という意味。「さ緒」は手綱を緒といったもの。さは美称。「心引き」は「心情」のこと。「我がり」は暗がりと同じで、「私の許に」という意味である。
 「赤い馬に鞭打っち、手綱を引き締めて、どんな心映えのお方が私の許へいらっしゃるというのかしら」という歌である。
           (2016年5月21日記、2019年3月29日)
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