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万葉集読解・・・225(3567~3577番歌)

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      万葉集読解・・・225(3567~3577番歌)
3567  置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも
      (於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛)
 本歌から3571番歌まで、防人歌(さきもりうた)。防人は辺境を守る人。全訳古語辞典に「主として、壱岐(いき)・対馬(つしま)・筑紫(つくし)の守備兵で、三年ごとの輪番、おもに、東国出身者が徴発された。」とある。
 「ま愛(かな)し」は強意の「ま」。「梓(あづさ)の弓」は梓の木で作った弓。「弓束(ゆづか)にもがも」は「弓束であればなあ」という願望。弓束は矢を引くとき左手で握る弓の部分。
 「置いていかなければならない彼女は本当に愛(いと)しい。携えていく梓弓の弓束であればなあ」という歌である。

3568  後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを
      (於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎)
 「後れ居て」は「家に残されて」という意味。防人として出かける夫が朝出かける「いつもの狩猟」と同様、何気ない様子で夫を見送る場面が、ぐっとくる。
 「家に残されて恋い焦がれるのは苦しゅうございます。朝出かけられる猟に携えて出かけられるあなたの弓になりとうございます」という歌である。
 左注に「右の二首は問答歌」とある。

3569  防人に立ちし朝けの金門出に手ばなれ惜しみ泣きし子らはも
      (佐伎母理尓 多知之安佐氣乃 可奈刀悌尓 手婆奈礼乎思美 奈吉思兒良波母)
 「朝け」は「朝明け」の略。「金門」は門の美称。「子ら」は親愛の「ら」。
 「防人として出発するにあたり、朝明けの門を出るとき、つないだ手を離す際、それを惜しんで泣いたよな、あの子はなあ」という歌である。

3570  葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲はむ
      (安之能葉尓 由布宜里多知弖 可母我鳴乃 左牟伎由布敝思 奈乎波思努波牟)
 「夕(ゆふべ)し」は強意の「し」。
 「葦(あし)の葉に夕霧が立ちこめて、鴨の鳴き声が寒々と聞こえる。そんなゆうべにはひとしおあなたのことが偲ばれる」という歌である。

3571  己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間
      (於能豆麻乎 比登乃左刀尓於吉 於保々思久 見都々曽伎奴流 許能美知乃安比太)
 「人の里」は「他人が住む里に」という心情。「おほほしく」は2449番歌や3003番歌に使われているように「ぼんやりと」という意味である。
 「自分の妻を他人が住む里に置いてきて、ぼんやりと思い出しつつやってきた、この間の道を」という歌である。

3572  あど思へか阿自久麻山の弓絃葉のふふまる時に風吹かずかも
      (安杼毛敝可 阿自久麻夜末乃 由豆流波乃 布敷麻留等伎尓 可是布可受可母)
 本歌から譬喩歌(ひゆか)。
 「あど思へか」は「など思へか」の東国訛り。「何と思っているのか」という意味。阿自久麻山(あじくまやま)は未詳。「弓絃葉(ゆづるは)」はユズリハのことで、常緑高木。「ふふまる」は「ふふめる」の東国訛り。「つぼみ」のこと。つぼみを少女にたとえた歌。
 「何と思っているのか、あんたは。阿自久麻山(あじくまやま)のユズリハはいまだつぼみだから、風が吹くものかとたかをくくっているのかい」という歌である。

3573  あしひきの山かづらかげましばにも得がたきかげを置きや枯らさむ
      (安之比奇能 夜麻可都良加氣 麻之波尓母 衣我多奇可氣乎 於吉夜可良佐武)
 「あしひきの」は枕詞。「山かづらかげ」はヒカゲのカズラのこと。広辞苑に「常緑シダ植物」とある。女の比喩。「ましばにも」は2488番歌にあったように「しばしも(少しも)」ないし「めったに」という意味。
 「ヒカゲのカズラのような美女は滅多に得られないぞ。そのカズラを置きっぱなしにして枯らしてしまってよいのか」という歌である。

3574  小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ
      (乎佐刀奈流 波奈多知波奈乎 比伎余治弖 乎良無登須礼杼 宇良和可美許曽)
 「小里(をさと)なる」の小里は地名か否か不詳。「小里に咲く」という意味。「うら若みこそ」は「うら若いのでためらわれる」こと。花橘(はなたちばな)は若い女の比喩。
 「小里(をさと)に咲く花橘(はなたちばな)の枝をひっぱって折り取ろうとするのだが、まだうら若いので折るのがためらわれる」という歌である。

3575  美夜自呂の砂丘辺に立てるかほが花な咲き出でそねこめて偲はむ
      (美夜自呂乃 須可敝尓多弖流 可保我波奈 莫佐吉伊<R>曽祢 許米弖思努波武)
 美夜自呂(みやじろ)は所在不詳。「砂丘(すか)辺」は東国訛りだろう。「海沿いの丘のあたり」のこと。「かほが花」は3505番歌の読解にも記したが、朝顔、かきつばた、むくげ等諸説あってはっきりしない。具体的な花の名ではなく、その場面場面で使われる顔に似た花だろう。「な咲き出でそね」は「な~そ」の禁止形。「ね」は確認の「ね」。
 「美夜自呂(みやじろ)の海沿いの丘のあたりに立っているかほ花よ。ぱっと咲き出さないでよね。心をこめて愛したいから」という歌である。

3576  苗代の小水葱が花を衣に摺り馴るるまにまにあぜか愛しけ
      (奈波之呂乃 <古>奈宜我波奈乎 伎奴尓須里 奈流留麻尓末仁 安是可加奈思家)
 苗代(なはしろ)は稲の苗を育てる所。「小水葱(こなぎ)が花」はミズアオイ科の一年草。「衣に摺(す)り」は「衣に染めて」という意味。「馴るるまにまに」は「着馴れるにしたがって」という意味。「あぜか」は「などか」の東国訛り。女を着物に比喩。
 「苗代に生える小水葱(こなぎ)の青紫の花を着物に染めて、着慣れるにしたがってなんとも愛しい」という歌である。

3577  愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく今し悔しも
      (可奈思伊毛乎 伊都知由可米等 夜麻須氣乃 曽我比尓宿思久 伊麻之久夜思母)
 比喩歌は前歌で終わり、本歌一歌のみ挽歌となっている。「いづち行かめと」は「どこへ行くのか(死んでしまうとは)」という意味である。「そがひに」は「背を向け合って」という意味。
 「愛しい妻が死んでしまうとは思わないで、山菅(やますげ)の根のように背を向け合って寝たこともあるが、今となっては悔しくてたまらない」という歌である。
 巻14の国名がはっきりしない歌について「以上の歌はいまだにいずこの国の山川を指すかはっきりしない」という注が付いている。
       以上で巻14の完了である。
           (2016年6月7日記、2019年3月30日)
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