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万葉集読解・・・251(3957~3964番歌)
頭注に「弟の長逝(永眠)を悲しんで作った歌一首並びに短歌」とある。弟は大伴書持(おほともふみもち)。
3957番長歌
天離る 鄙治めにと 大君の 任けのまにまに 出でて来し 我れを送ると あをによし 奈良山過ぎて 泉川 清き河原に 馬留め 別れし時に ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく 斎ひて待てと 語らひて 来し日の極み 玉桙の 道をた遠み 山川の 隔りてあれば 恋しけく 日長きものを 見まく欲り 思ふ間に 玉梓の 使の来れば 嬉しみと 我が待ち問ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟の命 なにしかも 時しはあらむを はだすすき 穂に出づる秋の 萩の花 にほへる宿を [注1原文参照] 朝庭に 出で立ち平し 夕庭に 踏み平げず 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちたなびくと 我れに告げつる (注2原文参照)。
(安麻射加流 比奈乎佐米尓等 大王能 麻氣乃麻尓末尓 出而許之 和礼乎於久流登 青丹余之 奈良夜麻須疑氐 泉河 伎欲吉可波良尓 馬駐 和可礼之時尓 好去而 安礼可敝里許牟 平久 伊波比氐待登 可多良比氐 許之比乃伎波美 多麻保許能 道乎多騰保美 山河能 敝奈里氐安礼婆 孤悲之家口 氣奈我枳物能乎 見麻久保里 念間尓 多麻豆左能 使乃家礼婆 宇礼之美登 安我麻知刀敷尓 於餘豆礼能 多波許登等可毛 波之伎余思 奈弟乃美許等 奈尓之加母 時之<波>安良牟乎 波太須酒吉 穂出秋乃 芽子花 尓保敝流屋戸乎 [言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭 故謂之花薫庭也] 安佐尓波尓 伊泥多知奈良之 暮庭尓 敷美多比良氣受 佐保能宇知乃 里乎徃過 安之比紀乃 山能許奴礼尓 白雲尓 多知多奈妣久等 安礼尓都氣都流 [佐保山火葬 故謂之佐保乃宇知乃佐刀乎由吉須疑])
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万葉集読解・・・251(3957~3964番歌)
頭注に「弟の長逝(永眠)を悲しんで作った歌一首並びに短歌」とある。弟は大伴書持(おほともふみもち)。
3957番長歌
天離る 鄙治めにと 大君の 任けのまにまに 出でて来し 我れを送ると あをによし 奈良山過ぎて 泉川 清き河原に 馬留め 別れし時に ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく 斎ひて待てと 語らひて 来し日の極み 玉桙の 道をた遠み 山川の 隔りてあれば 恋しけく 日長きものを 見まく欲り 思ふ間に 玉梓の 使の来れば 嬉しみと 我が待ち問ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟の命 なにしかも 時しはあらむを はだすすき 穂に出づる秋の 萩の花 にほへる宿を [注1原文参照] 朝庭に 出で立ち平し 夕庭に 踏み平げず 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちたなびくと 我れに告げつる (注2原文参照)。
(安麻射加流 比奈乎佐米尓等 大王能 麻氣乃麻尓末尓 出而許之 和礼乎於久流登 青丹余之 奈良夜麻須疑氐 泉河 伎欲吉可波良尓 馬駐 和可礼之時尓 好去而 安礼可敝里許牟 平久 伊波比氐待登 可多良比氐 許之比乃伎波美 多麻保許能 道乎多騰保美 山河能 敝奈里氐安礼婆 孤悲之家口 氣奈我枳物能乎 見麻久保里 念間尓 多麻豆左能 使乃家礼婆 宇礼之美登 安我麻知刀敷尓 於餘豆礼能 多波許登等可毛 波之伎余思 奈弟乃美許等 奈尓之加母 時之<波>安良牟乎 波太須酒吉 穂出秋乃 芽子花 尓保敝流屋戸乎 [言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭 故謂之花薫庭也] 安佐尓波尓 伊泥多知奈良之 暮庭尓 敷美多比良氣受 佐保能宇知乃 里乎徃過 安之比紀乃 山能許奴礼尓 白雲尓 多知多奈妣久等 安礼尓都氣都流 [佐保山火葬 故謂之佐保乃宇知乃佐刀乎由吉須疑])
長歌は用語の解説は最小限にとどめるので悪しからず。訳文を参照されたい。
奈良山は奈良市北方の山。京都との県境。泉川は奈良県十津川のこと。「玉桙(ほこ)の」は枕詞。「玉梓(づさ)の」も枕詞的用語。「およづれのたはこと」は「人惑わしの戯言」のこと。「はしきよし」は「ああ、いとしい」という嘆息。
奈良山は奈良市北方の山。京都との県境。泉川は奈良県十津川のこと。「玉桙(ほこ)の」は枕詞。「玉梓(づさ)の」も枕詞的用語。「およづれのたはこと」は「人惑わしの戯言」のこと。「はしきよし」は「ああ、いとしい」という嘆息。
(口語訳)
「遠く隔たった田舎の地を治めるために、大君のご命令を受けて都を出る、この私を見送ってくれた。奈良山を過ぎ、泉川の清らかな河原に馬を留め、別れんとする際、何事もなく無事に帰ってくるから、祈って待っていてくれと語ってやってきた。道は遠く、山川が隔たっているので恋しく、日々が長く思われた。会いたいものだと思っている時に玉梓(づさ)の使いがやってきた。嬉しくてならず待って訊ねると、人惑わしの戯言なのか、ああ、いとしい弟の死去を知らされた。時は今でなくともいくらもあろうに、すすきが穂を出す秋の、よりにもよってそなたは、萩の花が咲くその庭(注1)に朝出て踏みしめたり、夕べに踏みしめずに死んだのだ。佐保の里を通り過ぎて山の木の先の上にのぼり、白雲になってたなびいているなどと、この私に知らせて寄越したのだ。(注2)」
本文には用語の後に注が付いている。
注1、その庭(弟は花草花樹が好きで多く庭に植えて愛でていた)。
注2、佐保の里を通り過ぎて(弟は佐保山に火葬。なので佐保の里を通り過ぎ、という)
「遠く隔たった田舎の地を治めるために、大君のご命令を受けて都を出る、この私を見送ってくれた。奈良山を過ぎ、泉川の清らかな河原に馬を留め、別れんとする際、何事もなく無事に帰ってくるから、祈って待っていてくれと語ってやってきた。道は遠く、山川が隔たっているので恋しく、日々が長く思われた。会いたいものだと思っている時に玉梓(づさ)の使いがやってきた。嬉しくてならず待って訊ねると、人惑わしの戯言なのか、ああ、いとしい弟の死去を知らされた。時は今でなくともいくらもあろうに、すすきが穂を出す秋の、よりにもよってそなたは、萩の花が咲くその庭(注1)に朝出て踏みしめたり、夕べに踏みしめずに死んだのだ。佐保の里を通り過ぎて山の木の先の上にのぼり、白雲になってたなびいているなどと、この私に知らせて寄越したのだ。(注2)」
本文には用語の後に注が付いている。
注1、その庭(弟は花草花樹が好きで多く庭に植えて愛でていた)。
注2、佐保の里を通り過ぎて(弟は佐保山に火葬。なので佐保の里を通り過ぎ、という)
3958 ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも
(麻佐吉久登 伊比?之物能乎 白雲尓 多知多奈妣久登 伎氣婆可奈思物)
「ま幸(さき)くと」は「無事でいてくれよと」という意味である。
「無事でいてくれよと言い置いたのに、白雲になってたなびいていると聞いて悲しい」という歌である。
(麻佐吉久登 伊比?之物能乎 白雲尓 多知多奈妣久登 伎氣婆可奈思物)
「ま幸(さき)くと」は「無事でいてくれよと」という意味である。
「無事でいてくれよと言い置いたのに、白雲になってたなびいていると聞いて悲しい」という歌である。
3959 かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを
(可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物<能>乎)
「かからむと」は「こんなことになると」という意味である。
「こんなことになると前々から知っていれば、越の海の荒磯の波を見せておくんだったのに」という歌である。
左注に「右は、天平十八年秋九月廿五日、越中守大伴宿祢家持、遥かに弟の喪を聞いて悲しんで作った」とある。天平十八年は746年。弟は大伴書持(おほともふみもち)。
(可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物<能>乎)
「かからむと」は「こんなことになると」という意味である。
「こんなことになると前々から知っていれば、越の海の荒磯の波を見せておくんだったのに」という歌である。
左注に「右は、天平十八年秋九月廿五日、越中守大伴宿祢家持、遥かに弟の喪を聞いて悲しんで作った」とある。天平十八年は746年。弟は大伴書持(おほともふみもち)。
頭注に「相い歡ぶ歌二首(越中守大伴宿祢家持作)」とある。
3960 庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに
(庭尓敷流 雪波知敝之久 思加乃未尓 於母比?伎美乎 安我麻多奈久尓)
第二句でいったん切れる。その解釈が本歌の神髄。「しかのみに」は「それ以上に」という意味。
「庭に降る雪は降りしきって幾重にも積もりました。けれども私はそれ以上に幾度も幾度もあなたを思って待っていました」という歌である。
3960 庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに
(庭尓敷流 雪波知敝之久 思加乃未尓 於母比?伎美乎 安我麻多奈久尓)
第二句でいったん切れる。その解釈が本歌の神髄。「しかのみに」は「それ以上に」という意味。
「庭に降る雪は降りしきって幾重にも積もりました。けれども私はそれ以上に幾度も幾度もあなたを思って待っていました」という歌である。
3961 白波の寄する磯廻を漕ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君
(白浪乃 余須流伊蘇<未>乎 榜船乃 可治登流間奈久 於母保要之伎美)
「磯廻(いそみ)」は「磯のあたり」という意味。
「白波が寄せてくる磯のあたりを漕ぐとき梶を取るのに忙しいが、そんな梶さえ取る暇もないほど、あなたのことを思い続けている」という歌である。
左注に大略こうある。「天平十八年八月掾大伴宿祢池主(いけぬし)が大帳使(租税等を記した帳簿を届ける役)となって都に赴き、同年十一月帰還して本務に復帰。そこで宴会を催し歓楽。時に雪が降り積雪一尺に及ぶ。同じ時漁夫の船が入り海に浮かぶ。そこでその景観と心情を大伴家持詠う」。天平十八年は746年。掾(じょう)は国司(国の役所)に置かれた四部官の一つ。先の3946番歌参照。
頭注に「突然悪病にかかり死にそうになった。その時の悲しみを述べた一首並びに短歌」とある。
3962番長歌
大君の 任けのまにまに 大夫の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離る 鄙に下り来 息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡き 床に臥い伏し 痛けくし 日に異に増さる たらちねの 母の命の 大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと 待たすらむ 心寂しく はしきよし 妻の命も 明けくれば 門に寄り立ち 衣手を 折り返しつつ 夕されば 床打ち払ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹も兄も 若き子どもは をちこちに 騒き泣くらむ 玉桙の 道をた遠み 間使も 遺るよしもなし 思ほしき 言伝て遣らず 恋ふるにし 心は燃えぬ たまきはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒し男すらに 嘆き伏せらむ
(大王能 麻氣能麻尓々々 大夫之 情布里於許之 安思比奇能 山坂古延弖 安麻射加流 比奈尓久太理伎 伊伎太尓毛 伊麻太夜須米受 年月毛 伊久良母阿良奴尓 宇<都>世美能 代人奈礼婆 宇知奈妣吉 等許尓許伊布之 伊多家苦之 日異益 多良知祢乃 <波>々能美許等乃 大船乃 由久良々々々尓 思多呉非尓 伊都可聞許武等 麻多須良牟 情左夫之苦 波之吉与志 都麻能美許登母 安氣久礼婆 門尓餘里多知 己呂母泥乎 遠理加敝之都追 由布佐礼婆 登許宇知波良比 奴婆多麻能 黒髪之吉? 伊都之加登 奈氣可須良牟曽 伊母毛勢母 和可伎兒等毛<波> 乎知許知尓 佐和吉奈久良牟 多麻保己能 美知乎多騰保弥 間使毛 夜流余之母奈之 於母保之伎 許登都?夜良受 孤布流尓思 情波母要奴 多麻伎波流 伊乃知乎之家騰 世牟須辨能 多騰伎乎之良尓 加苦思?也 安良志乎須良尓 奈氣枳布勢良武)
「息だにも」は「息つく間なく」すなわち「何の休息もなく」。「うつせみの」は「はかない」とか「現世の」という意味。「たらちねの」、「ぬばたまの」、「たまきはる」等は枕詞。「ゆくらゆくらに」は「ゆらゆらと」ということ。「はしきよし」は「ああ、いとしい」という嘆息。「間使(まづかひ)も」は「二人の間を行き来する使いも」という意味。
(白浪乃 余須流伊蘇<未>乎 榜船乃 可治登流間奈久 於母保要之伎美)
「磯廻(いそみ)」は「磯のあたり」という意味。
「白波が寄せてくる磯のあたりを漕ぐとき梶を取るのに忙しいが、そんな梶さえ取る暇もないほど、あなたのことを思い続けている」という歌である。
左注に大略こうある。「天平十八年八月掾大伴宿祢池主(いけぬし)が大帳使(租税等を記した帳簿を届ける役)となって都に赴き、同年十一月帰還して本務に復帰。そこで宴会を催し歓楽。時に雪が降り積雪一尺に及ぶ。同じ時漁夫の船が入り海に浮かぶ。そこでその景観と心情を大伴家持詠う」。天平十八年は746年。掾(じょう)は国司(国の役所)に置かれた四部官の一つ。先の3946番歌参照。
頭注に「突然悪病にかかり死にそうになった。その時の悲しみを述べた一首並びに短歌」とある。
3962番長歌
大君の 任けのまにまに 大夫の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離る 鄙に下り来 息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡き 床に臥い伏し 痛けくし 日に異に増さる たらちねの 母の命の 大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと 待たすらむ 心寂しく はしきよし 妻の命も 明けくれば 門に寄り立ち 衣手を 折り返しつつ 夕されば 床打ち払ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹も兄も 若き子どもは をちこちに 騒き泣くらむ 玉桙の 道をた遠み 間使も 遺るよしもなし 思ほしき 言伝て遣らず 恋ふるにし 心は燃えぬ たまきはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒し男すらに 嘆き伏せらむ
(大王能 麻氣能麻尓々々 大夫之 情布里於許之 安思比奇能 山坂古延弖 安麻射加流 比奈尓久太理伎 伊伎太尓毛 伊麻太夜須米受 年月毛 伊久良母阿良奴尓 宇<都>世美能 代人奈礼婆 宇知奈妣吉 等許尓許伊布之 伊多家苦之 日異益 多良知祢乃 <波>々能美許等乃 大船乃 由久良々々々尓 思多呉非尓 伊都可聞許武等 麻多須良牟 情左夫之苦 波之吉与志 都麻能美許登母 安氣久礼婆 門尓餘里多知 己呂母泥乎 遠理加敝之都追 由布佐礼婆 登許宇知波良比 奴婆多麻能 黒髪之吉? 伊都之加登 奈氣可須良牟曽 伊母毛勢母 和可伎兒等毛<波> 乎知許知尓 佐和吉奈久良牟 多麻保己能 美知乎多騰保弥 間使毛 夜流余之母奈之 於母保之伎 許登都?夜良受 孤布流尓思 情波母要奴 多麻伎波流 伊乃知乎之家騰 世牟須辨能 多騰伎乎之良尓 加苦思?也 安良志乎須良尓 奈氣枳布勢良武)
「息だにも」は「息つく間なく」すなわち「何の休息もなく」。「うつせみの」は「はかない」とか「現世の」という意味。「たらちねの」、「ぬばたまの」、「たまきはる」等は枕詞。「ゆくらゆくらに」は「ゆらゆらと」ということ。「はしきよし」は「ああ、いとしい」という嘆息。「間使(まづかひ)も」は「二人の間を行き来する使いも」という意味。
(口語訳)
「大君のご命令のままに男気を振り起こし、山や坂を越えて遠い遠い田舎に下ってきた。息つく暇もなく、いまだ休めず忙しかった。年月もいくらも経っていないのに、はかない世の生身の人間のこととて、ぐったりと床に伏してしまった。苦痛は日に日に増さる。母上が大船がゆれるようにゆらゆらと恋しい。母上はいつ帰ってくるやらと待っておられることと思うと心寂しい。ああ、あのいとしいわが妻も朝明けには門に寄り立って袖を折り返し、夕方になると床をきれいに払い清め、黒髪を頭の下に敷いて床につき、いつ帰ってくるだろうと嘆いていることだろう。妹もお兄ちゃんも幼い子供たちはあっちこちに動き回って騒いだり泣いたりしているだろう。けれども道が遠いので、妻と私の間を行き来する使いをしばしば送る手だてはない。思い通りの言づてを送る事が出来ず、恋しさが募って心は燃え上がるばかりだ。限りある命、何とかしたいのだが、何の手だてもない。こうして、荒々しき男子たる者が、ただ嘆いて伏していなければならないというのか」
「大君のご命令のままに男気を振り起こし、山や坂を越えて遠い遠い田舎に下ってきた。息つく暇もなく、いまだ休めず忙しかった。年月もいくらも経っていないのに、はかない世の生身の人間のこととて、ぐったりと床に伏してしまった。苦痛は日に日に増さる。母上が大船がゆれるようにゆらゆらと恋しい。母上はいつ帰ってくるやらと待っておられることと思うと心寂しい。ああ、あのいとしいわが妻も朝明けには門に寄り立って袖を折り返し、夕方になると床をきれいに払い清め、黒髪を頭の下に敷いて床につき、いつ帰ってくるだろうと嘆いていることだろう。妹もお兄ちゃんも幼い子供たちはあっちこちに動き回って騒いだり泣いたりしているだろう。けれども道が遠いので、妻と私の間を行き来する使いをしばしば送る手だてはない。思い通りの言づてを送る事が出来ず、恋しさが募って心は燃え上がるばかりだ。限りある命、何とかしたいのだが、何の手だてもない。こうして、荒々しき男子たる者が、ただ嘆いて伏していなければならないというのか」
3963 世間は数なきものか春花の散りの乱ひに死ぬべき思へば
(世間波 加受奈枳物能可 春花乃 知里能麻我比尓 思奴倍吉於母倍婆)
「世間は」は「世の中は」という意味。「数なきものか」は「数にも入らないものか」、すなわち「はかないものか」という意味。「散りの乱(まが)ひに」は3700番歌に「あしひきの山下光る黄葉の散りの乱ひは今日にもあるかも」とある。「散り乱れる」という意味である。
「この世はなんとはかないものだろう。春の桜がはらはらと散り乱れるように死んでいくかと思えば」という歌である。
(世間波 加受奈枳物能可 春花乃 知里能麻我比尓 思奴倍吉於母倍婆)
「世間は」は「世の中は」という意味。「数なきものか」は「数にも入らないものか」、すなわち「はかないものか」という意味。「散りの乱(まが)ひに」は3700番歌に「あしひきの山下光る黄葉の散りの乱ひは今日にもあるかも」とある。「散り乱れる」という意味である。
「この世はなんとはかないものだろう。春の桜がはらはらと散り乱れるように死んでいくかと思えば」という歌である。
3964 山川のそきへを遠みはしきよし妹を相見ずかくや嘆かむ
(山河乃 曽伎敝乎登保美 波之吉余思 伊母乎安比見受 可久夜奈氣加牟)
「そきへ」は「遙か隔たった」という意味。「遠み」は「~ので」の「み」。「はしきよし」は「ああ、いとしい」という嘆息。「山川を隔てて遙か遠く離れているので、ああ、いとしい彼女と逢いもならず、こうして嘆いていなければならないのか」という歌である。
左注に「天平十九年春二月廿日越中國守が家に病気で伏せっているときの歌」とある。天平十九年は747年。守は言うまでもなく大伴家持。
(2016年9月21日記、2019年4月7日)
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(山河乃 曽伎敝乎登保美 波之吉余思 伊母乎安比見受 可久夜奈氣加牟)
「そきへ」は「遙か隔たった」という意味。「遠み」は「~ので」の「み」。「はしきよし」は「ああ、いとしい」という嘆息。「山川を隔てて遙か遠く離れているので、ああ、いとしい彼女と逢いもならず、こうして嘆いていなければならないのか」という歌である。
左注に「天平十九年春二月廿日越中國守が家に病気で伏せっているときの歌」とある。天平十九年は747年。守は言うまでもなく大伴家持。
(2016年9月21日記、2019年4月7日)