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万葉集読解・・・258(4017~4031番歌)

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     万葉集読解・・・258(4017~4031番歌)
4017  あゆの風 [越俗語東風謂之あゆの風是也] いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小船漕ぎ隠る見ゆ
      (東風 [越俗語東風謂之安由乃可是也] 伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫祢 許藝可久流見由)
 「あゆの風」であるが、4006番長歌に「~あゆの風 いたくし吹けば ~」とある。そして歌中に注記があって「越国では東の風のことを(あゆの風)という」とある。歌中に用語に注を付すのは極めて異例。「あゆの風」という言い方は方言であったようだ。「奈呉(なご)」は富山県射水市(旧新湊市)の海。
 「あゆの風が激しく吹いているようだ。奈呉(なご)で海人(あま)が釣する小舟があわてて浦陰に避難するのが見える」という歌である。

4018  港風寒く吹くらし奈呉の江に妻呼び交し鶴多に鳴く [一云 鶴騒くなり]
      (美奈刀可是 佐牟久布久良之 奈呉乃江尓 都麻欲妣可波之 多豆左波尓奈久 [一云 多豆佐和久奈里])
 「奈呉(なご)」は前歌参照。「鶴多(さは)に」は「鶴が多く」という意味。
 「河口に寒々と風が吹いているようだ。奈呉(なご)の入り江に妻を呼び交わし、多くの鶴がが鳴いている。」という歌である。
 異伝歌は「鶴騒ぐなり」とある。

4019  天離る鄙ともしるくここだくも繁き恋かも和ぐる日もなく
      (安麻射可流 比奈等毛之流久 許己太久母 之氣伎孤悲可毛 奈具流日毛奈久)
 「天離る鄙(ひな)」は「遠く遠く離れた田舎の地」。「しるく」は「もっとも」のこと。「ここだくも」は2157番歌に「夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも」とあるように「しきりに」という意味。「和(な)ぐる日」は「心やわらぐ日」という意味である。
 「遠く遠く離れた田舎(なご)の地とはなるほどもっともだ。しきりに故郷が恋しくて、心やわらぐ日とてない」という歌である。

4020  越の海の信濃[濱名也]の浜を行き暮らし長き春日も忘れて思へや
      (故之能宇美能 信濃[濱名也]乃波麻乎 由伎久良之 奈我伎波流比毛 和須礼弖於毛倍也)
 「信濃の浜」は所在不詳。富山県射水市(旧新湊市)の浜に相違ない。「思へや」は「思うものだろうか」という意味。
 「越の海の信濃の浜を行きつ戻りつして暮らしているが、長い春の一日も片時も故郷を忘れることはない」という歌である。
 左注に「右の四首は廿年春正月廿九日大伴宿祢家持」とある。天平廿年は748年。

 頭注に「砺波郡(となみこほり)雄神(をかみ)の河邊で作った一首」とある。雄神は富山県砺波市庄川付近。
4021  雄神川紅にほふ娘子らし葦付[水松之類]取ると瀬に立たすらし
(乎加未河<泊> 久礼奈為尓保布 乎等賣良之 葦附[水松之類]等流登 湍尓多々須良之)
 「葦付(あしつき)」は葦に付く藻の一種で食用にされる。歌中に「水松の類」と注記がある。
 「雄神川は紅色に染まっている。娘子(をとめ)たちが葦付(あしつき)海苔を取ろうと、瀬に立っているらしい」という歌である。

 頭注に「婦負郡(ねひこほり)鵜坂(うさか)川の川辺で作った一首」とある。婦負郡は富山市から射水市にまたがって存在した郡。鵜坂川はかって婦負郡に鵜坂村があり、そこを流れていた川と目される。
4022  鵜坂川渡る瀬多みこの我が馬の足掻きの水に衣濡れにけり
      (宇佐可河泊 和多流瀬於保美 許乃安我馬乃 安我枳乃美豆尓 伎奴々礼尓家里)
 「多み」は通常「さはみ」だが、本歌は「をほみ」(原文「於保美」)となっている。みは「~ので」の「み」。
 「鵜坂川は渡らなければならない瀬が多いので、馬が歩く水しぶきで私の着物は濡れてしまう」という歌である。

 頭注に「鵜を潜らせる人を見て作った一首」とある。
4023  婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり
      (賣比河波能 波夜伎瀬其等尓 可我里佐之 夜蘇登毛乃乎波 宇加波多知家里)
 「婦負(ねひ)川」は富山市内を流れる神通川の一部と目される。婦負は前歌頭注参照。
 「八十伴(やそとも)の男」は「大勢の役人」という意味。が、本歌の場合は鵜飼い人を役に見立てて言ったと考えられる。
 「婦負(ねひ)川の早き瀬ごとに篝火を焚き、鵜飼い役の男たちは鵜を操っている」という歌である。

 頭注に「新川郡(にひかはこほり)延槻(はひつき)川を渡る時作った一首」とある。新川郡は越中国東側にあった郡。現在でも中新川郡、下新川郡がある。延槻(はひつき)川は富山県魚津市を流れる早月川。
4024  立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも
      (多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛)
 立山は富山県の有名な立山連峰。鐙(あぶみ)は馬の足踏み具。
 「立山の雪が溶け出してきたのだろうか。早月川の渡瀬を渡るとき、鐙(あぶみ)が浸かってしまった」という歌である。

 頭注に「氣太神宮に参拝した際、海辺に行った時作った一首」とある。氣太神宮は気多神社のことで二つある。一つは富山県高岡市伏木にある気多神社。国府のあった近く。一つは石川県羽咋市にある気多大社。能登半島にある。両社とも延喜式に掲載されている式内社で、まぎらわしい。本歌は気多大社のこと。
4025  志雄路から直越え来れば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも
      (之乎路可良 多太古要久礼婆 波久比能海 安佐奈藝思多理 船梶母我毛)
 志雄路(しをぢ)は富山県氷見市から石川県羽咋市に至る街道。かって途中に志雄町があった。現在は石川県羽咋郡宝達志水町。「船楫もがも」は「舟の梶でもあればよいものを」という願望。
 「志雄(しを)街道からまっすぐ越えてくると、羽咋(はくひ)の海は朝なぎ時だった。こんな時、舟の梶でもあればよいものを」という歌である。

 頭注に「能登郡(のとのこほり)香嶋(かしま)の津から船を発し、熊来(くまき)村に向かう時作った二首」とある。 香嶋の津は不詳。熊来村はかって石川県鹿島郡にあった村
4026  鳥総立て船木伐るといふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代神びぞ
      (登夫佐多? 船木伎流等伊<布> 能登乃嶋山 今日見者 許太知之氣思物 伊久代神備曽)
 旋頭歌。「鳥総(とぶさ)立て」は樹を切り倒した後、切り株にその梢を立てて山神を祀る習慣があった。
 「鳥総(とぶさ)を立てて神に祈って船木を切り出すという能登の島山。今日見ると木々が茂るに繁っている。この木々は幾代を経て神々しくなったのだろう」という歌である。

4027  香島より熊来をさして漕ぐ船の楫取る間なく都し思ほゆ
      (香嶋欲里 久麻吉乎左之氐 許具布祢能 河治等流間奈久 京<師>之於母<倍>由)
 香島や熊来は前歌参照。「都し」は強意のし。
 「香島から熊来に向かって舟を漕いでいく。梶を取る暇がないほど都のことがひっきりなしに思われる」という歌である。

 頭注に「鳳至郡(ふげしこほり)の饒石川(にぎしかは)を渡る時作った一首」とある。鳳至郡は石川県輪島市から能登町及び穴水町にかけてあった郡。饒石川は大きくない川なので探し辛いが、輪島市の南西部を流れる仁岸川。
4028  妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占延へてな
      (伊母尓安波受 比左思久奈里奴 尓藝之河波 伎欲吉瀬其登尓 美奈宇良波倍弖奈)
 「水占(みなうら)延へてな」は水占いを行うことだが、どんな占いか不明。
 「久しく妻に逢わないけれど、饒石川(にぎしかは)の清らかな瀬ごとに水占いをしてみよう」という歌である。

 頭注に「珠洲郡(すすのこほり)から船出し、太沼郡(たぬまこほり)に帰り、長浜の浦に泊まって月の光を仰ぎ見ながら作った一首」とある。珠洲郡は能登半島の先端部に石川県珠洲市があり、その一帯にあった郡。太沼郡は不明。長浜の浦は3991番長歌に詠われている松田江の長浜かという。「松田江」は富山県高岡市伏木から氷見市氷見に至る入り江状の海岸。
4029  珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり
      (珠洲能宇美尓 安佐妣良伎之弖 許藝久礼婆 奈我波麻能宇良尓 都奇弖理尓家里)
 「朝開きして」は「朝船出をして」という意味。
 「珠洲の海に朝船出をして漕いで来ると、長浜の浦に月が照り輝いていた」という歌である。
 左注に「右の歌は民に貸し出した春の稲田を検察するため、諸郡を巡航し、その時と所を目撃して作った。大伴宿祢家持」とある。本歌により、能登国(石川県)の一部は当時、越中国(富山県)に属していたことが分かる。
 
 頭注に「鴬が晩く鳴くを恨む歌一首」とある。
4030  鴬は今は鳴かむと片待てば霞たなびき月は経につつ
      (宇具比須波 伊麻波奈可牟等 可多麻弖婆 可須美多奈妣吉 都奇波倍尓都追)
 「片待てば」は「こちらが一方的に心待ちにしている」という状態である。
 「ウグイスは今に鳴くだろうと、心待ちにしている内に、カスミがたなびくようになり、月は過ぎ去っていく」という歌である。

 頭注に「酒を造れる歌一首」とある。
4031  中臣の太祝詞言言ひ祓へ贖ふ命も誰がために汝れ
      (奈加等美乃 敷刀能里等其等 伊比波良倍 安賀布伊能知毛 多我多米尓奈礼)
 中臣は天児屋根命の子孫。古事記によれば、天照大御神が岩戸隠れしたとき、岩戸の前で祝詞を唱えた神。いわゆる祭事を司る神。古事記には「天児屋根命は中臣連の祖」とある。後に藤原氏の氏神ともなった。「太祝詞言(ふとのりとごと)」は「大祝詞」のこと。「言ひ祓(はら)へ」は「唱えて」ということ。「贖(あが)ふ」は「つぐなう」ないし「汚れを落とす」という意味。
 「中臣が太祝詞言(ふとのりとごと)を唱え、命の汚れを落とすのは、いったい誰がためだろう。ほかならぬあなたのためだよ」という歌である。
 左注に「大伴宿祢家持作」とある。
       巻17完了
           (2016年10月22日記、2019年4月9日)
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