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そ の 260 へ
万葉集読解・・・259(4032~4048番歌)
頭注に「天平廿年春三月廿三日、左大臣橘家の使者、造酒司令史(さけのつかさのさくわん)田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)を守大伴宿祢家持の邸宅に招いて接待。ここに新歌並びに古詠歌を示し、各々思いを述べる。」とある。天平廿年は748年。左大臣橘は橘諸兄(たちばなのもろえ)のこと。令史(さかん)は地方官ではなく、中央の官職。
4032 奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
(奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢 於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敝利許牟)
「奈呉(なご)の海」は富山県射水市の海。旧新湊市。現在射水市新湊庁舎があり、その前の海岸。「しまし」は「しばし」。
「舟をしばし貸して下され。奈呉(なご)の海の沖に出て行って、波が立ち寄せて来るかどうか見て帰って来ますから」という歌である。
そ の 260 へ
万葉集読解・・・259(4032~4048番歌)
頭注に「天平廿年春三月廿三日、左大臣橘家の使者、造酒司令史(さけのつかさのさくわん)田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)を守大伴宿祢家持の邸宅に招いて接待。ここに新歌並びに古詠歌を示し、各々思いを述べる。」とある。天平廿年は748年。左大臣橘は橘諸兄(たちばなのもろえ)のこと。令史(さかん)は地方官ではなく、中央の官職。
4032 奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
(奈呉乃宇美尓 布祢之麻志可勢 於伎尓伊泥弖 奈美多知久夜等 見底可敝利許牟)
「奈呉(なご)の海」は富山県射水市の海。旧新湊市。現在射水市新湊庁舎があり、その前の海岸。「しまし」は「しばし」。
「舟をしばし貸して下され。奈呉(なご)の海の沖に出て行って、波が立ち寄せて来るかどうか見て帰って来ますから」という歌である。
4033 波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の間なき恋にぞ年は経にける
(奈美多<底>波 奈呉能宇良<未>尓 余流可比乃 末奈伎孤悲尓曽 等之波倍尓家流)
「奈呉(なご)の浦」は前歌参照。
「波が立つと、奈呉(なご)の浦辺に間も置かず寄ってくる貝。そのように押し寄せてくる恋のせいで、いつのまにか年が過ぎてしまった」という歌である。
(奈美多<底>波 奈呉能宇良<未>尓 余流可比乃 末奈伎孤悲尓曽 等之波倍尓家流)
「奈呉(なご)の浦」は前歌参照。
「波が立つと、奈呉(なご)の浦辺に間も置かず寄ってくる貝。そのように押し寄せてくる恋のせいで、いつのまにか年が過ぎてしまった」という歌である。
4034 奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今ぞ鳴くなる
(奈呉能宇美尓 之保能波夜非波 安佐里之尓 伊<泥>牟等多豆波 伊麻曽奈久奈流)
「奈呉(なご)の海」は前歌参照。「潮の早干(はやひ)ば」は「潮が早く引けば」、すなわち「潮が早く引かぬか」という意味。「あさりしに」は「エサを啄(ついば)もうと」という意味。
「奈呉(なご)の海の潮が早く引かないかと待ちかまえ、エサを取りに飛び立とうと鶴たちは今鳴き立てている。」という歌である。
(奈呉能宇美尓 之保能波夜非波 安佐里之尓 伊<泥>牟等多豆波 伊麻曽奈久奈流)
「奈呉(なご)の海」は前歌参照。「潮の早干(はやひ)ば」は「潮が早く引けば」、すなわち「潮が早く引かぬか」という意味。「あさりしに」は「エサを啄(ついば)もうと」という意味。
「奈呉(なご)の海の潮が早く引かないかと待ちかまえ、エサを取りに飛び立とうと鶴たちは今鳴き立てている。」という歌である。
4035 霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
(保等登藝須 伊等布登伎奈之 安夜賣具左 加豆良尓<勢>武日 許由奈伎和多礼)
「いとふ時なし」は原義のままだと「嫌な時などない」という意味。が、ここは「いつやって来てもいいよ」という意味である。
「ホトトギスよ、いつやって来てもいいよ。アヤメ草で髪を飾り立てる日こそやってきて鳴き渡ってくれよ」という歌である。
左注に「右の四首は田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
(保等登藝須 伊等布登伎奈之 安夜賣具左 加豆良尓<勢>武日 許由奈伎和多礼)
「いとふ時なし」は原義のままだと「嫌な時などない」という意味。が、ここは「いつやって来てもいいよ」という意味である。
「ホトトギスよ、いつやって来てもいいよ。アヤメ草で髪を飾り立てる日こそやってきて鳴き渡ってくれよ」という歌である。
左注に「右の四首は田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
頭注に「明日と定めて布勢水海に遊覧に出かけ、述懐して各々作った歌」とある。
4036 いかにある布勢の浦ぞもここだくに君が見せむと我れを留むる
(伊可尓安流 布勢能宇良曽毛 許己太久尓 吉民我弥世武等 和礼乎等登牟流)
布勢の水海(みづうみ)はかって富山県高岡市にある二上山の北方にあった塩水湖。3991番長歌頭注参照。「ここだくに」は「しきりに」。
「どんな浜なのだろう、布勢の浦は。私に見せようとしきりに私を留めるのは」という歌である。
左注に「右の一首、田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
4036 いかにある布勢の浦ぞもここだくに君が見せむと我れを留むる
(伊可尓安流 布勢能宇良曽毛 許己太久尓 吉民我弥世武等 和礼乎等登牟流)
布勢の水海(みづうみ)はかって富山県高岡市にある二上山の北方にあった塩水湖。3991番長歌頭注参照。「ここだくに」は「しきりに」。
「どんな浜なのだろう、布勢の浦は。私に見せようとしきりに私を留めるのは」という歌である。
左注に「右の一首、田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
4037 乎布の崎漕ぎた廻りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに [一云 君が問はすも]
(乎敷乃佐吉 許藝多母等保里 比祢毛須尓 美等母安久倍伎 宇良尓安良奈久尓 [一云 伎美我等波須母])
「乎布(をふ)の崎」は布勢の水海にあったとされる崎。「ひねもす」は終日。与謝野蕪村の、「春の海ひねもすのたりのたり哉」はあまりにも有名な句。
「乎布(をふ)の崎を漕ぎ回ると、一日中見ていても飽くような浦ではありません」という歌である。
異伝歌には「あなたが訊ねられるけれど」とある。
左注に「右の一首、守大伴宿祢家持作」とある。
(乎敷乃佐吉 許藝多母等保里 比祢毛須尓 美等母安久倍伎 宇良尓安良奈久尓 [一云 伎美我等波須母])
「乎布(をふ)の崎」は布勢の水海にあったとされる崎。「ひねもす」は終日。与謝野蕪村の、「春の海ひねもすのたりのたり哉」はあまりにも有名な句。
「乎布(をふ)の崎を漕ぎ回ると、一日中見ていても飽くような浦ではありません」という歌である。
異伝歌には「あなたが訊ねられるけれど」とある。
左注に「右の一首、守大伴宿祢家持作」とある。
4038 玉櫛笥いつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉も拾はむ
(多麻久之氣 伊都之可安氣牟 布勢能宇美能 宇良乎由伎都追 多麻母比利波牟)
「玉櫛笥(くしげ)」の玉は美称。櫛笥は櫛箱。「布勢の海」は前々歌参照。
「玉櫛笥のように早く夜が明けてほしい。布勢の海の浦を歩みながら玉(小石ないし貝)も拾おう」という歌である。
(多麻久之氣 伊都之可安氣牟 布勢能宇美能 宇良乎由伎都追 多麻母比利波牟)
「玉櫛笥(くしげ)」の玉は美称。櫛笥は櫛箱。「布勢の海」は前々歌参照。
「玉櫛笥のように早く夜が明けてほしい。布勢の海の浦を歩みながら玉(小石ないし貝)も拾おう」という歌である。
4039 音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上らじ年は経ぬとも
(於等能未尓 伎吉底目尓見奴 布勢能宇良乎 見受波能保良自 等之波倍奴等母)
「布勢の浦」は4036番歌参照。「見ずは上らじ」は「見ないまま都には帰るまい」ということ。
「評判だけ聞いて、まだ目にしない布勢の浦を見ないまま都には帰るまい、たとえ年が明けても」という歌である。
(於等能未尓 伎吉底目尓見奴 布勢能宇良乎 見受波能保良自 等之波倍奴等母)
「布勢の浦」は4036番歌参照。「見ずは上らじ」は「見ないまま都には帰るまい」ということ。
「評判だけ聞いて、まだ目にしない布勢の浦を見ないまま都には帰るまい、たとえ年が明けても」という歌である。
4040 布勢の浦を行きてし見てばももしきの大宮人に語り継ぎてむ
(布勢能宇良乎 由<吉>底之見弖婆 毛母之綺能 於保美夜比等尓 可多利都藝底牟)
「布勢の浦」は前歌参照。「ももしきの」は枕詞。
「布勢の浦に出かけて見てきたら、都の大宮人たちにも語り継ぎましょう」という歌である。
(布勢能宇良乎 由<吉>底之見弖婆 毛母之綺能 於保美夜比等尓 可多利都藝底牟)
「布勢の浦」は前歌参照。「ももしきの」は枕詞。
「布勢の浦に出かけて見てきたら、都の大宮人たちにも語り継ぎましょう」という歌である。
4041 梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてら
(宇梅能波奈 佐伎知流曽能尓 和礼由可牟 伎美我都可比乎 可多麻知我底良)
「君が使を」はこのままではわかりにくいが、「家持からの使いが呼びにくるのを」という意味である。「片待ちがてら」は「その使いを待ちながら」という意味。
「梅の花が咲いて散るという園に私は行ってみよう。あなたからの使いがやってくるのを一方では待ちながら」という歌である。
(宇梅能波奈 佐伎知流曽能尓 和礼由可牟 伎美我都可比乎 可多麻知我底良)
「君が使を」はこのままではわかりにくいが、「家持からの使いが呼びにくるのを」という意味である。「片待ちがてら」は「その使いを待ちながら」という意味。
「梅の花が咲いて散るという園に私は行ってみよう。あなたからの使いがやってくるのを一方では待ちながら」という歌である。
4042 藤波の咲き行く見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり
(敷治奈美能 佐伎由久見礼婆 保等登<藝>須 奈久倍<吉>登伎尓 知可豆伎尓家里)
「藤波の咲き行く見れば」は「藤の花が波のように次から次へと咲いてゆくのを見ると」という意味である。
「藤の花が波のように次から次へと咲いてゆくのを見ると、いよいよホトトギスが鳴く時が近づいてきましたね」という歌である。
左注に「右の五首、田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
(敷治奈美能 佐伎由久見礼婆 保等登<藝>須 奈久倍<吉>登伎尓 知可豆伎尓家里)
「藤波の咲き行く見れば」は「藤の花が波のように次から次へと咲いてゆくのを見ると」という意味である。
「藤の花が波のように次から次へと咲いてゆくのを見ると、いよいよホトトギスが鳴く時が近づいてきましたね」という歌である。
左注に「右の五首、田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
4043 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも [一頭云 霍公鳥]
(安須能比能 敷勢能宇良<未>能 布治奈美尓 氣太之伎奈可<受> 知良之底牟可母 [一頭云 保等登藝須])
布勢の水海(みづうみ)はかって富山県高岡市にある二上山の北方にあった塩水湖。「けだし」は「もしかして」という意味。2929番歌の「宵々に我が立ち待つにけだしくも君来まさずは苦しかるべし」等に実例がある。
「明日の布勢の浦辺に咲く波のような藤の花に、もしかして(ホトトギスは)やって来て鳴かないで花は散るにまかせることになるかもしれませんね」という歌である。
異伝歌は「発句がホトトギス」とある。大伴家持が万葉集の編者だとしたら本人の歌なのに妙な注である。
左注に「右の一首、大伴宿祢家持が前歌に応えて作った歌。また、それ以前の十首は廿四日の宴に作った歌」とある。4032番歌頭注参照。
(安須能比能 敷勢能宇良<未>能 布治奈美尓 氣太之伎奈可<受> 知良之底牟可母 [一頭云 保等登藝須])
布勢の水海(みづうみ)はかって富山県高岡市にある二上山の北方にあった塩水湖。「けだし」は「もしかして」という意味。2929番歌の「宵々に我が立ち待つにけだしくも君来まさずは苦しかるべし」等に実例がある。
「明日の布勢の浦辺に咲く波のような藤の花に、もしかして(ホトトギスは)やって来て鳴かないで花は散るにまかせることになるかもしれませんね」という歌である。
異伝歌は「発句がホトトギス」とある。大伴家持が万葉集の編者だとしたら本人の歌なのに妙な注である。
左注に「右の一首、大伴宿祢家持が前歌に応えて作った歌。また、それ以前の十首は廿四日の宴に作った歌」とある。4032番歌頭注参照。
頭注に「廿五日布勢水海に行く道中、馬上で口ずさんだ二首」とある。廿五日は天平廿年(748)春三月。布勢の水海(みづうみ)は前歌参照。
4044 浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟
(波萬部余里 和我宇知由可波 宇美邊欲<里> 牟可倍母許奴可 安麻能都里夫祢)
平明歌。
「私たちが、浜辺の方から海辺に向かっているが、沖から迎えにやってきてくれないのだろうか。海人(あま)の釣舟よ」という歌である。
4044 浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟
(波萬部余里 和我宇知由可波 宇美邊欲<里> 牟可倍母許奴可 安麻能都里夫祢)
平明歌。
「私たちが、浜辺の方から海辺に向かっているが、沖から迎えにやってきてくれないのだろうか。海人(あま)の釣舟よ」という歌である。
4045 沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ
(於伎敝欲里 美知久流之保能 伊也麻之尓 安我毛布支見我 弥不根可母加礼)
「沖辺より~いや増しに」まで比喩。「御船かもかれ」は「彼方の船は御船かも」という意味。
「沖の方から満ちてくる潮がいっそう増してくるように慕わしく思われる。それはあなた様の御船ではありませんか。あの彼方の船は」という歌である。
(於伎敝欲里 美知久流之保能 伊也麻之尓 安我毛布支見我 弥不根可母加礼)
「沖辺より~いや増しに」まで比喩。「御船かもかれ」は「彼方の船は御船かも」という意味。
「沖の方から満ちてくる潮がいっそう増してくるように慕わしく思われる。それはあなた様の御船ではありませんか。あの彼方の船は」という歌である。
頭注に「水海に到着して遊覧する時、各々思いを述べて作った歌」とある。
4046 神さぶる垂姫の崎漕ぎ廻り見れども飽かずいかに我れせむ
(可牟佐夫流 多流比女能佐吉 許支米具利 見礼登<毛>安可受 伊加尓和礼世牟)
「垂姫(たるひめ)の崎」は布勢の水海(みづうみ)(4043番歌参照)にあったという崎。
「神々しい垂姫(たるひめ)の崎を漕ぎ回って、いくら見ても見飽きない絶景。私はいかにせん」という歌である。
左注に「右の一首、田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
4046 神さぶる垂姫の崎漕ぎ廻り見れども飽かずいかに我れせむ
(可牟佐夫流 多流比女能佐吉 許支米具利 見礼登<毛>安可受 伊加尓和礼世牟)
「垂姫(たるひめ)の崎」は布勢の水海(みづうみ)(4043番歌参照)にあったという崎。
「神々しい垂姫(たるひめ)の崎を漕ぎ回って、いくら見ても見飽きない絶景。私はいかにせん」という歌である。
左注に「右の一首、田邊史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)作」とある。
4047 垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ
(多流比賣野 宇良乎許藝都追 介敷乃日波 多努之久安曽敝 移比都支尓勢牟)
「垂姫(たるひめ)」は前歌参照。
「垂姫(たるひめ)の浦を漕ぎ回って今日という日は楽しく遊んで下さりませ。後の語りぐさにしましょう」という歌である。
左注に「右の一首、遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)作」とある。遊行女婦(うかれめ)は宴席等に携わった女性。
(多流比賣野 宇良乎許藝都追 介敷乃日波 多努之久安曽敝 移比都支尓勢牟)
「垂姫(たるひめ)」は前歌参照。
「垂姫(たるひめ)の浦を漕ぎ回って今日という日は楽しく遊んで下さりませ。後の語りぐさにしましょう」という歌である。
左注に「右の一首、遊行女婦(うかれめ)土師(はにし)作」とある。遊行女婦(うかれめ)は宴席等に携わった女性。
4048 垂姫の浦を漕ぐ舟梶間にも奈良の我家を忘れて思へや
(多流比女能 宇良乎許具不祢 可治末尓母 奈良野和藝<弊>乎 和須礼?於毛倍也)
「垂姫(たるひめ)」は前々歌参照。「梶間にも」は「舟を漕ぐ梶の間も」という意味。「忘れて思へや」は「忘れることがあろうか」という意味である。
「垂姫(たるひめ)の浦を漕ぎながら梶を操る、その合間も奈良の我が家を忘れることがあろうか」という歌である。
左注に「右の一首、大伴家持作」とある。
(2016年10月30日記、2019年4月9日)
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(多流比女能 宇良乎許具不祢 可治末尓母 奈良野和藝<弊>乎 和須礼?於毛倍也)
「垂姫(たるひめ)」は前々歌参照。「梶間にも」は「舟を漕ぐ梶の間も」という意味。「忘れて思へや」は「忘れることがあろうか」という意味である。
「垂姫(たるひめ)の浦を漕ぎながら梶を操る、その合間も奈良の我が家を忘れることがあろうか」という歌である。
左注に「右の一首、大伴家持作」とある。
(2016年10月30日記、2019年4月9日)