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万葉集読解・・・132(1974~1993番歌)

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     万葉集読解・・・132(1974~1993番歌)
1974  春日野の藤は散りにて何をかもみ狩の人の折りてかざさむ
      (春日野之 藤者散去而 何物鴨 御狩人之 折而将挿頭)
 春日野は平城京の東方一帯に広がる野。「何をかも」は「(藤の代わりに)いったい何を」という意味である。「春日野の藤の花はもう散ってしまった。その野で狩りをする方々はいったい何の花を折り取って頭に飾るのでしょう」という歌である。

1975  時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しくあるべみ
      (不時 玉乎曽連有 宇能花乃 五月乎待者 可久有)
 「時ならず」は「まだ時期ではないのに」という意味である。結句「久しくあるべみ」の「み」は例によって「~なので」。「まだ時期ではないのに卯の花の実を通して早々と飾り玉を作った。本来なら卯の花を貫くのは五月(旧暦、現在の夏季)だが、それまでまだ久しいので待ちきれず作りました」という歌である。

1976  卯の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや
      (宇能花乃 咲落岳従 霍公鳥 鳴而沙<度> 公者聞津八)
 題詞に「問答」とある。相手に問いかけた歌。「岡ゆ」の「ゆ」は「~から」の「ゆ」。「卯の花が咲いて散っている岡からホトトギスが鳴きながらわたっていく。その鳴き声を君は耳にしただろうか」という歌である。

1977  聞きつやと君が問はせる霍公鳥しののに濡れてこゆ鳴き渡る
      (聞津八跡 君之問世流 霍公鳥 小竹野尓所沾而 従此鳴綿類)
 「しののに濡れて」は「しっとり濡れて」、「こゆ」の「ゆ」は「~から」の「ゆ」。「鳴き声を聞いたかいとお尋ねのホトトギスは、しっとり濡れながらここから鳴きながらわたっていきました。」という歌である。

1978  橘の花散る里に通ひなば山霍公鳥響もさむかも
      (橘 花落里尓 通名者 山霍公鳥 将令響鴨)
 譬喩歌(たとえ歌)。
 「響(とよ)もさむかも」は「鳴き立てるだろうか」の意。「橘の花が散る里にしげしげと足を運べば山ホトトギスは鳴き立てるだろうか」という歌である。たとえ歌とあるが、女性をホトトギスに喩えたものか?。

1979  春さればすがるなす野の霍公鳥ほとほと妹に逢はず来にけり
      (春之在者 酢軽成野之 霍公鳥 保等穂跡妹尓 不相来尓家里)
 区分は夏相聞歌。1979~1995番歌の17首。
 鳥に寄せての歌
 各書とも、第三句までを序歌ないしそれに類する感覚で捉え、実質は下二句とみて「すんでのところで彼女に逢わずじまいになるところだった」という歌としている。「すがる」をジガバチの古名としているが、私にはピンとこない。確かに「すがる」は長歌ではあるが、3791番歌に「飛び翔ける すがるのごとき」と使われている。そして「飛び翔ける~」とあるように、ジガバチにぴったりである。またジガバチの活動期は夏から秋にかけてであり、「春されば(春になったので)」という早春の風物にそぐわない。
 では、どう解するかだが、正直に言って難解歌である。「すんでのところで彼女に逢わずじまいになるところだった」というが、肝心のどういう状況下でのことなのか全く不明。これだけで歌になるとは考えられない。とりあえず、「すがるなす」の「すがる」がジガバチのことでないことだけは確かだろう。一案だが「すがるなす」は「すがりつくように」だと解したい。「春になったので野のホトトギスの鳴き声のように私はすがりつくように彼女に逢いにいってやっとなんとか逢えた」という歌である。これが私の解である。「ほとほと」は「やっと~」の意だ。こうして相聞歌らしくなった。

1980  五月山花橘に霍公鳥隠らふ時に逢へる君かも
      (五月山 花橘尓 霍公鳥 隠合時尓 逢有公鴨)
 「隠(かく)らふ時に」は「家でこもっていたら」という意味。「山は五月、花橘の茂みの中のホトトギスのように家にこもっていたらあの人が逢いにきてくれた」という歌である。

1981  霍公鳥来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも
      (霍公鳥 来鳴五月之 短夜毛 獨宿者 明不得毛)
 「明かしかねつも」は「なかなか夜明けにならない」という意味である。「ホトトギスが鳴き立てる短夜の五月(新暦六月)もひとりで寝ているとなかなか夜明けにならない」という歌である。

1982  ひぐらしは時と鳴けども片恋に手弱女我れは時わかず泣く
      (日倉足者 時常雖鳴 我戀 手弱女我者 不定哭)
 蝉に寄せての歌
 「時と鳴けども」は「時を定めて鳴くけれども」の意。「手弱女(たわやめ)」は「かよわい女」ということだが、男が自分のことを「丈夫(ますらを)」と表現するのと対照的である。「ひぐらしは時を定めて鳴くけれども、かよわい女に過ぎない私は片思いがつらくて時を定めず泣いています」という歌である。

1983  人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば
      (人言者 夏野乃草之 繁友 妹与吾<師> 携宿者)
 草に寄せての歌
 「人言(ひとこと)は」は「人の口は」、「携はり寝(ね)ば」は「手に手を取り合って寝られれば」という意味である。「人の口は野の夏草のように繁くはびこるだろうが、それでも私は彼女と手に手を取って寝られれば構わない」という歌である。

1984  このころの恋の繁けく夏草の刈り掃へども生ひしくごとし
      (廼者之 戀乃繁久 夏草乃 苅掃友 生布如)
 「このころの恋の繁けく」は「このごろの恋心の激しさは」という意味。「このごろの恋心の激しさは刈り掃(はら)っても掃っても生い茂る夏草のようだ」という歌である。

1985  ま葛延ふ夏野の繁くかく恋ひばまこと我が命常ならめやも
      (真田葛延 夏野之繁 如是戀者 信吾命 常有目八<面>)
 「ま葛延(は)ふ」の「ま」は元来は「真性」の「ま」だが、「御」のような美称語。「常ならめやも」は「通常の状態でいられようか」すなわち「命がいくつあっても足りない」という状態。「夏の葛草が繁くはびこるように恋い焦がれていたら、ほんと、このままでは命がいくつあっても足りない」という歌である。

1986   我れのみやかく恋すらむかきつはた丹つらふ妹はいかにかあるらむ
      (吾耳哉 如是戀為良武 垣津旗 丹頬合妹者 如何将有)
 「かきつばた」はアヤメに似たアヤメ科の花。「丹つらふ」は1911番歌に「さ丹つらふ~」と出ていた。「赤みを帯びた面のように美しい」という意味である。「こんなに恋い焦がれているのは私の方だけだろうか。かきつばたのように美しい赤みを帯びた顔のあの子の方はどう思っているのだろうか」という歌である。

1987  片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて
      (片搓尓 絲S曽吾搓 吾背兒之 花橘乎 将貫跡母日手)
 花に寄せての歌。
 「片縒(よ)りに糸をぞ我が縒(よ)る」だが、具体的にはよく意味が分からない。「片縒り」は一本の糸という説もあるが、一本では糸は縒れない。花橘を糸と寄り合わせて輪飾りにする際、輪にしないで長い一本の紐飾りにするという意味だろうか。相手の頭の飾りにしようとすれば輪状にしなければならない。要するに私の方ばかりが恋い焦がれている「片思い」という意味。「あの方が頭飾りに出来るように差し上げようと一生懸命花橘を糸と寄り合わせていますが、いったいいつになったら差し上げられるようになるのかしら」という歌である。

1988  鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
      (鴬之 徃来垣根乃 宇能花之 厭事有哉 君之不来座)
 「卯(う)の花の」までは「憂(う)き」を導く序歌。「ウグイスの通ってくる垣根に咲く卯の花、その(う)ではないけれど、何か憂き(不愉快な)ことでもあるのかしら、ちっともあの方は来て下さらないけれど」という歌である。

1989  卯の花の咲くとは無しにある人に恋ひやわたらむ片思にして
      (宇能花之 開登波無二 有人尓 戀也将渡 獨念尓指天)
 「咲くとは無しに」は「咲くことも無く」、「片思にして」は「片思いのまま」という意味。「卯の花の咲くようにあの方とは咲くこともなくずっと恋続けていくのみだろうか、片思いのまま」という歌である。

1990  我れこそば憎くもあらめ我がやどの花橘を見には来じとや
      (吾社葉 憎毛有目 吾屋前之 花橘乎 見尓波不来鳥屋)
 「我がやどの」は例によって「我が庭の」。「私が憎いとでもお思いでしょうか。我が庭の花橘を見にもいらっしゃらないとは」という歌である。

1991  霍公鳥来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや
      (霍公鳥 来鳴動 岡<邊>有 藤浪見者 君者不来登夜)
 前歌に似た心情。「ホトトギスがやってきてしきりに鳴き響かせています。その岡には美しい藤の花が咲いています。それでもあなたはいらっしゃらないおつもりですか」という歌である。

1992  隠りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出よ朝な朝な見む
      (隠耳 戀者苦 瞿麦之 花尓開出与 朝旦将見)
 「隠(こも)りのみ」は「ひとりひそかに」の意。「ひとりひそかに恋続けるのはつらい。せめてなでしこの花になって我が庭に咲き出てきて下さい。そうすれば毎朝、毎朝眺められますのに」という歌である。

1993  外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも
      (外耳 見筒戀牟 紅乃 末採花之 色不出友)
 「外(よそ)のみに」は「遠目にでも」という意味である。末摘花(すえつむはな)はベニバナのこと。「遠目にでもお姿を見てお慕いしましょう。紅色の鮮やかなベニバナのように咲くことがなくても」という歌である。
           (2015年1月10日記)
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