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万葉集読解・・・276(4238~4250番歌)
頭注に「二月二日、守(かみ)の舘に参集して宴を開き作った歌」とある。守は長官で、すなわち大伴家持。
4238 君が行きもし久にあらば梅柳誰れとともにか我がかづらかむ
(君之徃 若久尓有婆 梅柳 誰与共可 吾縵可牟)
「君が行き」は左注により廣縄が都に旅立つことを指す。「我がかづらかむ」は「私は髪飾りにして楽しんだらいいのだろう」という意味である。
「貴君が旅だって長くなったら、梅や柳の季節になったら私は誰と一緒にそれらを髪飾りにして楽しんだらいいのだろう」という歌である。
左注に「右は、判官久米朝臣廣縄(くめのあそみひろつな)が正税帳を持参して京師(みやこ)に旅立つにあたり、守大伴宿祢家持、此の歌を作る。越中の風土は梅花や柳の綿毛は三月になって初めて咲く」とある。判官は掾(じょう)のこlとで、国司に置かれた四部官、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。正税帳は租税の出納帳で、年に一回それを持って都に報告に行かなければならない。
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万葉集読解・・・276(4238~4250番歌)
頭注に「二月二日、守(かみ)の舘に参集して宴を開き作った歌」とある。守は長官で、すなわち大伴家持。
4238 君が行きもし久にあらば梅柳誰れとともにか我がかづらかむ
(君之徃 若久尓有婆 梅柳 誰与共可 吾縵可牟)
「君が行き」は左注により廣縄が都に旅立つことを指す。「我がかづらかむ」は「私は髪飾りにして楽しんだらいいのだろう」という意味である。
「貴君が旅だって長くなったら、梅や柳の季節になったら私は誰と一緒にそれらを髪飾りにして楽しんだらいいのだろう」という歌である。
左注に「右は、判官久米朝臣廣縄(くめのあそみひろつな)が正税帳を持参して京師(みやこ)に旅立つにあたり、守大伴宿祢家持、此の歌を作る。越中の風土は梅花や柳の綿毛は三月になって初めて咲く」とある。判官は掾(じょう)のこlとで、国司に置かれた四部官、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。正税帳は租税の出納帳で、年に一回それを持って都に報告に行かなければならない。
頭注に「霍公鳥(ホトトギス)を詠んだ歌」とある。
4239 二上の峰の上の茂に隠りにしその霍公鳥待てど来鳴かず
(二上之 峯於乃繁尓 許毛<里>尓之 <彼>霍公鳥 待<騰>来奈賀受)
「二上の峰」は富山県高岡市にある山。
「二上山の峰の茂みにこもってしまったホトトギス。待っても待ってもやって来て鳴いてくれない」という歌である。
左注に「右は四月十六日、大伴宿祢家持が作った歌」とある。
4239 二上の峰の上の茂に隠りにしその霍公鳥待てど来鳴かず
(二上之 峯於乃繁尓 許毛<里>尓之 <彼>霍公鳥 待<騰>来奈賀受)
「二上の峰」は富山県高岡市にある山。
「二上山の峰の茂みにこもってしまったホトトギス。待っても待ってもやって来て鳴いてくれない」という歌である。
左注に「右は四月十六日、大伴宿祢家持が作った歌」とある。
頭注に「春日に神を祭る日に藤原太后がお作りになった歌。すなわち、入唐大使藤原朝臣清河(ふぢはらのあそみきかは)に賜った歌」とある。春日は奈良県春日大社のことで、藤原氏の氏神を祀る。藤原太后は光明皇后(聖武天皇の皇后)のこと。遣唐大使清河(きよかは)は光明皇后の甥に当たる。
4240 大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち
(春日野尓 伊都久三諸乃 梅花 榮而在待 還来麻泥)
「真楫しじ貫き」は「梶をいっせいに取り付けて」ということ、「斎(いは)へ」は「お守り下さい」という意味。
「大船に梶をいっせいに取り付けてこの子を唐の国へ遣わします。船出する一行をお守り下さい、神々のみなさま」という歌である。
4240 大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち
(春日野尓 伊都久三諸乃 梅花 榮而在待 還来麻泥)
「真楫しじ貫き」は「梶をいっせいに取り付けて」ということ、「斎(いは)へ」は「お守り下さい」という意味。
「大船に梶をいっせいに取り付けてこの子を唐の国へ遣わします。船出する一行をお守り下さい、神々のみなさま」という歌である。
頭注に「大使藤原朝臣清河の歌」とある。
4241 春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで
(春日野尓 伊都久三諸乃 梅花 榮而在待 還来麻泥)
「斎(いつ)く三諸(みもろ)」は「神聖な神社」のこと。
「春日野に植えられている神聖な神社の梅の花よ、咲き誇って待っていておくれ。私が帰ってくるまで」という歌である。
4241 春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで
(春日野尓 伊都久三諸乃 梅花 榮而在待 還来麻泥)
「斎(いつ)く三諸(みもろ)」は「神聖な神社」のこと。
「春日野に植えられている神聖な神社の梅の花よ、咲き誇って待っていておくれ。私が帰ってくるまで」という歌である。
頭注に「大納言藤原家で開かれた入唐使たちの餞別の宴での歌、主人作」とある。大納言藤原とは藤原仲麻呂。
4242 天雲の行き帰りなむものゆゑに思ひぞ我がする別れ悲しみ
(天雲乃 去還奈牟 毛能由恵尓 念曽吾為流 別悲美)
「ものゆゑに」の解釈が悩ましい。「長らく」ととるか「すぐ帰ってくるのに」ととるかである。当時の遣唐使は大変な旅、前者の解しか考えられない。
「天雲が高い大空を行って帰って来るような遠い遠い旅路と私には思われる。別れが悲しくて辛い」という歌である。
4242 天雲の行き帰りなむものゆゑに思ひぞ我がする別れ悲しみ
(天雲乃 去還奈牟 毛能由恵尓 念曽吾為流 別悲美)
「ものゆゑに」の解釈が悩ましい。「長らく」ととるか「すぐ帰ってくるのに」ととるかである。当時の遣唐使は大変な旅、前者の解しか考えられない。
「天雲が高い大空を行って帰って来るような遠い遠い旅路と私には思われる。別れが悲しくて辛い」という歌である。
頭注に「民部少輔(みんぶのせうふ)多治比真人土作(たぢひのまひとはにし)の歌」とある。民部少輔は内務を司る民部省の次官。
4243 住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ
(住吉尓 伊都久祝之 神言等 行得毛来等毛 舶波早家无)
「住吉(すみのえ)」は「住吉神社」のこと。現在大阪市住吉区に鎮座する住吉(すみよし)大社。「斎(いつ)く祝(はふり)が」は「神に奉仕する神官が」という意味である。「神言(かむごと)と」は「神のお告げによれば」ということ。
「住吉神社に奉仕する神官が聞いた神のお告げによると、行きも帰りも船はすいすいと進むでしょう」という歌である。
4243 住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ
(住吉尓 伊都久祝之 神言等 行得毛来等毛 舶波早家无)
「住吉(すみのえ)」は「住吉神社」のこと。現在大阪市住吉区に鎮座する住吉(すみよし)大社。「斎(いつ)く祝(はふり)が」は「神に奉仕する神官が」という意味である。「神言(かむごと)と」は「神のお告げによれば」ということ。
「住吉神社に奉仕する神官が聞いた神のお告げによると、行きも帰りも船はすいすいと進むでしょう」という歌である。
頭注に「大使藤原朝臣清河の歌」とある。
4244 あらたまの年の緒長く我が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ
(荒玉之 年緒長 吾念有 兒等尓可戀 月近附奴)
「あらたまの」は枕詞。「年の緒(を)長く」は「長い月日と」という意味。「子らに」は身内や仲間の人々を指す。親愛の「ら」。
「まだまだ先のことと思っていた月日が過ぎ、皆様方が恋しくてならなくなるだろう、出発の日が近づいてきました」という歌である。
4244 あらたまの年の緒長く我が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ
(荒玉之 年緒長 吾念有 兒等尓可戀 月近附奴)
「あらたまの」は枕詞。「年の緒(を)長く」は「長い月日と」という意味。「子らに」は身内や仲間の人々を指す。親愛の「ら」。
「まだまだ先のことと思っていた月日が過ぎ、皆様方が恋しくてならなくなるだろう、出発の日が近づいてきました」という歌である。
頭注に「天平五年(733年)入唐使に贈る歌と短歌、作者未詳」とある。
4245番長歌
そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 任けらゆる 我が背の君を かけまくの ゆゆし畏き 住吉の 我が大御神 船の舳に 領きいまし 船艫に み立たしまして さし寄らむ 礒の崎々 漕ぎ泊てむ 泊り泊りに 荒き風 波にあはせず 平けく 率て帰りませ もとの朝廷に
(虚見都 山跡乃國 青<丹>与之 平城京師由 忍照 難波尓久太里 住吉乃 三津尓舶能利 直渡 日入國尓 所遣 和我勢能君乎 懸麻久乃 由々志恐伎 墨吉乃 吾大御神 舶乃倍尓 宇之波伎座 船騰毛尓 御立座而 佐之与良牟 礒乃埼々 許藝波底牟 泊々尓 荒風 浪尓安波世受 平久 率而可敝理麻世 毛等能國家尓)
4245番長歌
そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 任けらゆる 我が背の君を かけまくの ゆゆし畏き 住吉の 我が大御神 船の舳に 領きいまし 船艫に み立たしまして さし寄らむ 礒の崎々 漕ぎ泊てむ 泊り泊りに 荒き風 波にあはせず 平けく 率て帰りませ もとの朝廷に
(虚見都 山跡乃國 青<丹>与之 平城京師由 忍照 難波尓久太里 住吉乃 三津尓舶能利 直渡 日入國尓 所遣 和我勢能君乎 懸麻久乃 由々志恐伎 墨吉乃 吾大御神 舶乃倍尓 宇之波伎座 船騰毛尓 御立座而 佐之与良牟 礒乃埼々 許藝波底牟 泊々尓 荒風 浪尓安波世受 平久 率而可敝理麻世 毛等能國家尓)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「そらみつ」、「あをによし」、「おしてる」は枕詞。、「住吉(すみのえ)の」は前々歌参照。御津(みつ)は住吉大社の近くにあって、遣唐使発着の港だった。「任(ま)けらゆる」は「任ぜられ」という、「かけまくの」は「口にかけるのも」という意味。「領(うしは)きいまし」は「支配され」という、「さし寄らむ」は「(船が)立ち寄る」という意味である。
(口語訳)
「大和の国奈良の都から難波に下って、住吉の御津で船に乗る。そしてまっすぐ海を渡り、日の入る国唐に赴くよう任ぜられた、遣唐使の君よ。口にするのも恐れ多い住吉大社の我らが大御神、船の舳先(へさき)を支配なさるべく艫(とも)にお立ちになって、船の立ち寄る磯の崎々へ安全にお泊め下さいませ。停泊する崎々で暴風や荒波に遇わせることなく、どうか平穏に帰ってきて、もとの都に戻れるよう、お導き下さい」という歌である。
「大和の国奈良の都から難波に下って、住吉の御津で船に乗る。そしてまっすぐ海を渡り、日の入る国唐に赴くよう任ぜられた、遣唐使の君よ。口にするのも恐れ多い住吉大社の我らが大御神、船の舳先(へさき)を支配なさるべく艫(とも)にお立ちになって、船の立ち寄る磯の崎々へ安全にお泊め下さいませ。停泊する崎々で暴風や荒波に遇わせることなく、どうか平穏に帰ってきて、もとの都に戻れるよう、お導き下さい」という歌である。
反歌一首
4246 沖つ波辺波な越しそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊つるまで
(奥浪 邊波莫越 君之舶 許藝可敝里来而 津尓泊麻泥)
「な越しそ」は「な~そ」の禁止形。「津に泊つるまで」は「この御津に停泊するまで」という意味。
「沖の波も岸辺の波も越えてくるほど立たないでおくれ。遣唐使の君一行が船を漕いで、この御津に帰って停泊するまで」という歌である。
4246 沖つ波辺波な越しそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊つるまで
(奥浪 邊波莫越 君之舶 許藝可敝里来而 津尓泊麻泥)
「な越しそ」は「な~そ」の禁止形。「津に泊つるまで」は「この御津に停泊するまで」という意味。
「沖の波も岸辺の波も越えてくるほど立たないでおくれ。遣唐使の君一行が船を漕いで、この御津に帰って停泊するまで」という歌である。
頭注に「阿倍朝臣老人(あへのあそみおきな)が唐に遣わされる時、別れを悲しんで母に奉った歌」とある。。
4247 天雲のそきへの極み我が思へる君に別れむ日近くなりぬ
(天雲能 曽伎敝能伎波美 吾念有 伎美尓将別 日近成奴)
「そきへの極み」は「遠隔の極み」。「思へる君に」の君は通常男性への呼びかけだが、題詞から母への呼びかけと分かる。目上の人にも使っている。
「おお空の天雲の遠い遠隔の極みまで思っている母上、別れなければならない日が近くなりました」という歌である。
左注に「右の歌は越中の大目(だいさかん)高安倉人種麻呂(くらひとのたねまろ)が傳誦したもの。ただし、作歌年月は聞いたときのまま」とある。大目は国司に置かれた四部官、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。目(さかん)は大、小あったようだ。
4247 天雲のそきへの極み我が思へる君に別れむ日近くなりぬ
(天雲能 曽伎敝能伎波美 吾念有 伎美尓将別 日近成奴)
「そきへの極み」は「遠隔の極み」。「思へる君に」の君は通常男性への呼びかけだが、題詞から母への呼びかけと分かる。目上の人にも使っている。
「おお空の天雲の遠い遠隔の極みまで思っている母上、別れなければならない日が近くなりました」という歌である。
左注に「右の歌は越中の大目(だいさかん)高安倉人種麻呂(くらひとのたねまろ)が傳誦したもの。ただし、作歌年月は聞いたときのまま」とある。大目は国司に置かれた四部官、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。目(さかん)は大、小あったようだ。
頭注に「七月十七日を以て(廣縄は)少納言に選任される。そこで悲別の歌を作って廣縄(ひろつな)の舘に二首を贈り届ける。」とある。この時掾(じょう)久米朝臣廣縄(くめのあそみ)ひろつな)は朝集使(正税帳使)として奈良の都に出かけていた。つまり、廣縄は留守だったわけである。納言は大中小などが設けられていたが、基本的には上下への言葉の伝達役だった。なお、掾(じょう)は国司の3番目の官。
4248 あらたまの年の緒長く相見てしその心引き忘らえめやも
(荒玉乃 年緒長久 相見?之 彼心引 将忘也毛)
「あらたまの」は枕詞。「年の緒長く」は「長い年月」、「心引き」は「心を寄せて頂き」という意味。
「長い年月、お互いに顔を見合わせ、心を寄せて頂いたことを忘れることができましょうか」という歌である。
4248 あらたまの年の緒長く相見てしその心引き忘らえめやも
(荒玉乃 年緒長久 相見?之 彼心引 将忘也毛)
「あらたまの」は枕詞。「年の緒長く」は「長い年月」、「心引き」は「心を寄せて頂き」という意味。
「長い年月、お互いに顔を見合わせ、心を寄せて頂いたことを忘れることができましょうか」という歌である。
4249 石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて初鷹猟だにせずや別れむ
(伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹猟太尓 不為哉将別)
「石瀬野(いはせの)」は不詳。富山県高岡市と富山市に岩瀬とつく地名が複数あって決めがたい。が国府のあった高岡市の石瀬が有力。「秋萩しのぎ」は「秋萩を押さえつけて」という意味。
「石瀬野に秋萩を押さえつけて、馬を並べ、今年初の鷹狩りさえしないままお別れしなくちゃいけないのでしょうか」という歌である。
左注に「右は八月四日に贈り届ける」とある。
(伊波世野尓 秋芽子之努藝 馬並 始鷹猟太尓 不為哉将別)
「石瀬野(いはせの)」は不詳。富山県高岡市と富山市に岩瀬とつく地名が複数あって決めがたい。が国府のあった高岡市の石瀬が有力。「秋萩しのぎ」は「秋萩を押さえつけて」という意味。
「石瀬野に秋萩を押さえつけて、馬を並べ、今年初の鷹狩りさえしないままお別れしなくちゃいけないのでしょうか」という歌である。
左注に「右は八月四日に贈り届ける」とある。
頭注に「大帳使(廣縄)の入京への旅立ちを八月五日と決めた。そこで、四日に国司の料理人の料理する料理を用意し、介内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきなはまろ)の舘ではなむけの宴を開催。時に大伴宿祢家持歌を作る」とある。介(すけ)は国司に置かれた2番目の官。大帳使は正税帳使のこと。正税帳は税の出納簿で年一回都へ報告に行く。
4250 しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも
(之奈謝可流 越尓五箇年 住々而 立別麻久 惜初夜可<毛>)
「しなざかる」は枕詞説もあるが、「遠く離れた」と解してよかろう。「住み住みて」は「共に住んできた」という気持ちが込められている。
「都から遠く離れた越中に共に五年住んできたあなたと立ち別れになったけれど、名残惜しくてたまらない、今宵は」という歌である。
(2017年1月25日記、2019年4月14日)
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4250 しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも
(之奈謝可流 越尓五箇年 住々而 立別麻久 惜初夜可<毛>)
「しなざかる」は枕詞説もあるが、「遠く離れた」と解してよかろう。「住み住みて」は「共に住んできた」という気持ちが込められている。
「都から遠く離れた越中に共に五年住んできたあなたと立ち別れになったけれど、名残惜しくてたまらない、今宵は」という歌である。
(2017年1月25日記、2019年4月14日)