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そ の 134 へ
万葉集読解・・・133(1994~2007番歌)
1994 夏草の露別け衣着けなくに我が衣手の干る時もなき
(夏草乃 露別衣 不著尓 我衣手乃 干時毛名寸)
露に寄せての歌
読解が悩ましい歌。上三句を単に涙の比喩と解すれば歌意は簡明。「露に濡れた着物を着ているわけではないのに」となる。おそらくそう解して差し支えない。ただ別解も考えられる。「露にまみれた夏草を踏みしめて来るわけでもない待つ身の女なのに」ともとれる。難点は結句の「干(ふ)る時もなき」である。相手が逢いにやってくるのなら「涙で乾く間もない」と結句する必要がない。が、一年一度しか逢えない相手。その時期が近づくにつれ、恋情が募るとすればこういう結句もあり得よう。私にはどちらとも決めかねる。ここでは、「露にまみれた夏草を踏みしめて行くわけではなく待っているだけの女の身。なのに私の着ている着物の袖は涙で乾く時がありません」という歌としておきたい。
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万葉集読解・・・133(1994~2007番歌)
1994 夏草の露別け衣着けなくに我が衣手の干る時もなき
(夏草乃 露別衣 不著尓 我衣手乃 干時毛名寸)
露に寄せての歌
読解が悩ましい歌。上三句を単に涙の比喩と解すれば歌意は簡明。「露に濡れた着物を着ているわけではないのに」となる。おそらくそう解して差し支えない。ただ別解も考えられる。「露にまみれた夏草を踏みしめて来るわけでもない待つ身の女なのに」ともとれる。難点は結句の「干(ふ)る時もなき」である。相手が逢いにやってくるのなら「涙で乾く間もない」と結句する必要がない。が、一年一度しか逢えない相手。その時期が近づくにつれ、恋情が募るとすればこういう結句もあり得よう。私にはどちらとも決めかねる。ここでは、「露にまみれた夏草を踏みしめて行くわけではなく待っているだけの女の身。なのに私の着ている着物の袖は涙で乾く時がありません」という歌としておきたい。
1995 六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして
(六月之 地副割而 照日尓毛 吾袖将乾哉 於君不相四手)
日に寄せての歌
前歌と同じく、激しい恋情の歌。「水無月(新暦では真夏の七月)、地面さえ裂けるかんかん照りの日でも私の着物の袖は涙で乾くことがありません。あなたにお逢いできないので」という歌である。
(六月之 地副割而 照日尓毛 吾袖将乾哉 於君不相四手)
日に寄せての歌
前歌と同じく、激しい恋情の歌。「水無月(新暦では真夏の七月)、地面さえ裂けるかんかん照りの日でも私の着物の袖は涙で乾くことがありません。あなたにお逢いできないので」という歌である。
1996 天の川水さへに照る舟泊てて舟なる人は妹と見えきや
(天漢 水左閇而照 舟竟 舟人 妹等所見寸哉)
本歌から秋雜歌(1996~2238番歌の243首)。2093番歌まで七夕の歌。
「水さへに照る」は「水に照り映えた」という意味で、原文は「水左閇而照」。これを「岩波大系本」は1319番歌の「大海の水底照らし(原文「水底照之」)」や1861番歌の「能登川の水底さへに(原文「水底并尓」)の例を挙げて原文に底の一字を補って「水底左閇而照」ではないかとしている。大変有力な見解だが、字余りになる難点がある。また、本歌は船が接岸した時の様子なので水底というよりも川岸の水面。原文の変更は慎重の上にも慎重であるべきで、敢えて変更する必要はあるまい。「舟なる人」はむろん牽牛星。結句の「妹と見えきや」は「彼女(織姫)の目に映じただろうか」という意味である。
「天の川の川岸に照り映えた美しい舟が到着した。その舟の主牽牛星の姿が織り姫には見えただろうか」という歌である。
(天漢 水左閇而照 舟竟 舟人 妹等所見寸哉)
本歌から秋雜歌(1996~2238番歌の243首)。2093番歌まで七夕の歌。
「水さへに照る」は「水に照り映えた」という意味で、原文は「水左閇而照」。これを「岩波大系本」は1319番歌の「大海の水底照らし(原文「水底照之」)」や1861番歌の「能登川の水底さへに(原文「水底并尓」)の例を挙げて原文に底の一字を補って「水底左閇而照」ではないかとしている。大変有力な見解だが、字余りになる難点がある。また、本歌は船が接岸した時の様子なので水底というよりも川岸の水面。原文の変更は慎重の上にも慎重であるべきで、敢えて変更する必要はあるまい。「舟なる人」はむろん牽牛星。結句の「妹と見えきや」は「彼女(織姫)の目に映じただろうか」という意味である。
「天の川の川岸に照り映えた美しい舟が到着した。その舟の主牽牛星の姿が織り姫には見えただろうか」という歌である。
1997 久方の天の川原にぬえ鳥のうら歎げましつすべなきまでに
(久方之 天漢原丹 奴延鳥之 裏歎座都 乏諸手丹)
「久方の」はお馴染みの枕詞。ぬえ鳥はトラツグミだが枕詞説もある。牽牛星と織り姫とどちらを焦点にした歌か不明。常識的には織り姫だろう。「(一年一度の逢う瀬を終えて牽牛星が帰っていったので)織り姫は天の川原でトラツグミの鳴き声のようになすすべもないほど泣いておられた」という歌である。
(久方之 天漢原丹 奴延鳥之 裏歎座都 乏諸手丹)
「久方の」はお馴染みの枕詞。ぬえ鳥はトラツグミだが枕詞説もある。牽牛星と織り姫とどちらを焦点にした歌か不明。常識的には織り姫だろう。「(一年一度の逢う瀬を終えて牽牛星が帰っていったので)織り姫は天の川原でトラツグミの鳴き声のようになすすべもないほど泣いておられた」という歌である。
1998 我が恋を嬬は知れるや行く舟の過ぎて来べしや言も告げなむ
(吾戀 嬬者知遠 徃船乃 過而應来哉 事毛告火)
第二句「嬬者知遠(原文)」を「佐々木本」は「妻は知れるや」と訓じている。が、「岩波大系本」はなぜか「夫は知れるを」と訓じている。これにならってか「伊藤本」も「夫は知れるを」と訓じている。これに対し、「中西本」は「妻はいや遠く」としている。注目してほしいのは妻と夫の相違である。嬬は妻の意であり、夫に代替が利くはずもない。なぜ夫と代えられるのだろう。最低限、嬬を夫の意とする歌の例示が必要だ。状況からしても妻が自然なのに・・・。天の川を舟に乗ってやってくるのは牽牛。そしてやはり舟に乗って去っていくのも牽牛。一年に一度逢いに来たのに去っていく時「さよなら」の一言もない織り姫にカツを入れる歌である。「別れが辛いのは私も一緒。なのに、いよいよ舟に乗り込んで去る時が来たというのに、さようならの一言もない」という歌である。実際は前歌にあるように織り姫は別れの辛さに言葉も出ない有様。牽牛はそれを十分承知の上で、「ちゃんと送り出してよ」と言ったのである。要するに「元気を出してね」というのが歌意なのである。
(吾戀 嬬者知遠 徃船乃 過而應来哉 事毛告火)
第二句「嬬者知遠(原文)」を「佐々木本」は「妻は知れるや」と訓じている。が、「岩波大系本」はなぜか「夫は知れるを」と訓じている。これにならってか「伊藤本」も「夫は知れるを」と訓じている。これに対し、「中西本」は「妻はいや遠く」としている。注目してほしいのは妻と夫の相違である。嬬は妻の意であり、夫に代替が利くはずもない。なぜ夫と代えられるのだろう。最低限、嬬を夫の意とする歌の例示が必要だ。状況からしても妻が自然なのに・・・。天の川を舟に乗ってやってくるのは牽牛。そしてやはり舟に乗って去っていくのも牽牛。一年に一度逢いに来たのに去っていく時「さよなら」の一言もない織り姫にカツを入れる歌である。「別れが辛いのは私も一緒。なのに、いよいよ舟に乗り込んで去る時が来たというのに、さようならの一言もない」という歌である。実際は前歌にあるように織り姫は別れの辛さに言葉も出ない有様。牽牛はそれを十分承知の上で、「ちゃんと送り出してよ」と言ったのである。要するに「元気を出してね」というのが歌意なのである。
1999 赤らひく色ぐはし子をしば見れば人妻ゆゑに我れ恋ひぬべし
(朱羅引 色妙子 數見者 人妻故 吾可戀奴)
「赤らひく」は枕詞(?)。「赤らひく」は本歌も含めて4例。他の3例を原文ともども書き出してみると次の通りである。
「赤らひく 日も暮るるまで」(赤羅引 日母至闇)・・619番長歌。
「赤らひく 朝行く君を」(朱引 朝行公)・・・・・・2389番歌。
「赤らひく 肌も触れずて」(朱引 秦不經)・・・・・2399番歌。
ごらんのように、一例として同じ語にかかっていない。これに対し「赤らひく」を「赤みを帯びた」という普通形容詞と解すれば4例すべて意味が通るのである。
「色ぐはし子」は原文「色妙子」。「色も妙なる女性」という意味である。「しば見れば」は「よくよく眺めれば」である。問題は下二句。「しば見れば」に続けて「人妻ゆゑに」では意味をなさない。なので、ここは「しば見れば我れ恋ひぬべし」ときて「人妻ゆゑに」となるところ。すなわち「人妻ゆゑに」を強調する倒置表現になっている。「ほんのり(顔が)朱に染まった彼女をよくよく眺めると、恋に落ちそうになる。けれども彼女は人妻なので・・・」という歌である。
(朱羅引 色妙子 數見者 人妻故 吾可戀奴)
「赤らひく」は枕詞(?)。「赤らひく」は本歌も含めて4例。他の3例を原文ともども書き出してみると次の通りである。
「赤らひく 日も暮るるまで」(赤羅引 日母至闇)・・619番長歌。
「赤らひく 朝行く君を」(朱引 朝行公)・・・・・・2389番歌。
「赤らひく 肌も触れずて」(朱引 秦不經)・・・・・2399番歌。
ごらんのように、一例として同じ語にかかっていない。これに対し「赤らひく」を「赤みを帯びた」という普通形容詞と解すれば4例すべて意味が通るのである。
「色ぐはし子」は原文「色妙子」。「色も妙なる女性」という意味である。「しば見れば」は「よくよく眺めれば」である。問題は下二句。「しば見れば」に続けて「人妻ゆゑに」では意味をなさない。なので、ここは「しば見れば我れ恋ひぬべし」ときて「人妻ゆゑに」となるところ。すなわち「人妻ゆゑに」を強調する倒置表現になっている。「ほんのり(顔が)朱に染まった彼女をよくよく眺めると、恋に落ちそうになる。けれども彼女は人妻なので・・・」という歌である。
2000 天の川安の渡りに舟浮けて秋立つ待つと妹に告げこそ
(天漢 安渡丹 船浮而 秋立待等 妹告与具)
「天の川安の渡りに」とある。『古事記』及び『日本書紀』によると、天界には安の河原があって、天照大神が洞窟内にこもって天界が闇に包まれたとき、どうしたらいいだろうと、八百万(やほろづ)の神々がその河原に集まって相談する場面がある。「安の渡り」は自然にこの神話が連想される。「秋立つ待つと」は「再会できる七夕の秋がやってくるのを待っていると」という意味である。「妹(いも)に告げこそ」は彼女(織り姫)への伝言である。「天の川の安の河原の船着き場で舟を浮かべ、七夕の秋がやってくるのを心待ちしていると彼女に伝えてほしい」という歌である。
(天漢 安渡丹 船浮而 秋立待等 妹告与具)
「天の川安の渡りに」とある。『古事記』及び『日本書紀』によると、天界には安の河原があって、天照大神が洞窟内にこもって天界が闇に包まれたとき、どうしたらいいだろうと、八百万(やほろづ)の神々がその河原に集まって相談する場面がある。「安の渡り」は自然にこの神話が連想される。「秋立つ待つと」は「再会できる七夕の秋がやってくるのを待っていると」という意味である。「妹(いも)に告げこそ」は彼女(織り姫)への伝言である。「天の川の安の河原の船着き場で舟を浮かべ、七夕の秋がやってくるのを心待ちしていると彼女に伝えてほしい」という歌である。
2001 大空ゆ通ふ我れすら汝がゆゑに天の川道をなづみてぞ来し
(従蒼天 徃来吾等須良 汝故 天漢道 名積而叙来)
歌意は平明だが、「大空を自在に翔けられるなら一足飛びに織り姫の所に舞い降りればいいじゃないか」と意地悪な質問を発したくなる。が、そこは七夕伝説。サンタクロース伝説と同様と受け取めればいいだろう。「大空を自在に駆けめぐる私だが、定めに従ってあなたに逢うために、天の川を難渋しながらやってきたよ」という歌である。
(従蒼天 徃来吾等須良 汝故 天漢道 名積而叙来)
歌意は平明だが、「大空を自在に翔けられるなら一足飛びに織り姫の所に舞い降りればいいじゃないか」と意地悪な質問を発したくなる。が、そこは七夕伝説。サンタクロース伝説と同様と受け取めればいいだろう。「大空を自在に駆けめぐる私だが、定めに従ってあなたに逢うために、天の川を難渋しながらやってきたよ」という歌である。
2002 八千桙の神の御代よりともし妻人知りにけり継ぎてし思へば
(八千戈 神自御世 乏孋 人知尓来 告思者)
「八千桙の神の御代より」は「大国主命の御代から」という意味。大国主命(おほくにぬしのみこと)は『古事記』や『日本書紀』の神話に登場する神。出雲大社の祭神。がここは「遠い神話の時代から」くらいの感覚で十分。「ともし妻」は「逢うことが乏しい妻」つまり一年一度の七夕の日にしか逢えない織り姫のこと。「遠い神話の時代から七夕の日にしか逢えない妻のことは人々に知れ渡ることになった。毎年毎年語り継がれてきたことを思うと」という歌である。
(八千戈 神自御世 乏孋 人知尓来 告思者)
「八千桙の神の御代より」は「大国主命の御代から」という意味。大国主命(おほくにぬしのみこと)は『古事記』や『日本書紀』の神話に登場する神。出雲大社の祭神。がここは「遠い神話の時代から」くらいの感覚で十分。「ともし妻」は「逢うことが乏しい妻」つまり一年一度の七夕の日にしか逢えない織り姫のこと。「遠い神話の時代から七夕の日にしか逢えない妻のことは人々に知れ渡ることになった。毎年毎年語り継がれてきたことを思うと」という歌である。
2003 我が恋ふる丹のほの面こよひもか天の川原に石枕まかむ
(吾等戀 丹穂面 今夕母可 天漢原 石枕巻)
「丹(に)のほの面(おもわ)」は1999番歌に「赤らひく色ぐはし子~」と詠われていたと同様の表現。「我が恋い焦がれるほんのり赤い顔をしたあの子は、今宵も天の川原で石を枕にして寝ているだろうか」という歌である。
(吾等戀 丹穂面 今夕母可 天漢原 石枕巻)
「丹(に)のほの面(おもわ)」は1999番歌に「赤らひく色ぐはし子~」と詠われていたと同様の表現。「我が恋い焦がれるほんのり赤い顔をしたあの子は、今宵も天の川原で石を枕にして寝ているだろうか」という歌である。
2004 己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに
(己つ 乏子等者 竟津 荒礒巻而寐 君待難)
「己夫(おのづま)に」は「自分の夫に」。「ともしき子」は前々歌の「ともし妻」に同じ。「ら」は語調を整える「ら」。「自分の夫に滅多に逢えない織り姫は岩がゴロゴロしている港に、夫がやってくるのを待ちかねて荒磯を枕にして寝ている」という歌である。
(己つ 乏子等者 竟津 荒礒巻而寐 君待難)
「己夫(おのづま)に」は「自分の夫に」。「ともしき子」は前々歌の「ともし妻」に同じ。「ら」は語調を整える「ら」。「自分の夫に滅多に逢えない織り姫は岩がゴロゴロしている港に、夫がやってくるのを待ちかねて荒磯を枕にして寝ている」という歌である。
2005 天地と別れし時ゆ己が妻然ぞ手(年)にある秋待つ我れは
(天地等 別之時従 自孋 然叙手(年)而在 金待吾者)
『古事記』や『日本書紀』はこの世の開始は天地が分かれた時と認識しており、冒頭部にそこから神々が生まれてきたと記している。つまり「天地(あめつち)と別れし時ゆ」は「神々の生まれる遙か前の原初の時代より」という意味になる。要するに「太古の昔より」と解して差し支えない。が、一方では「これはひょっとすると、古代人の途方もない天文知識を踏まえているのではないか」という気もするのである。天の川はご承知のように銀河系星雲。そして牽牛星と織女星はむろん、わが太陽系が属する銀河系星雲の一員である。太陽が銀河系星雲の一員であることまで知っていたか否か定かでない。が、牽牛星と織女星はわが地球の誕生(天地が別れたとき)よりも以前から存在していたと認識していた可能性がある。歌の読解とは直接関係ないが、ひとこと。
第四句の「然(しか)ぞ手(年)にある」は各書とも原文の「手」を修正して「年」としている。が、みだりに原文をいじるべきではなく、私は「手」と考えて読解を試みたい。
「然(しか)ぞ手にある」は「かくて我が手中にある」という意味である。「太古の昔より織り姫は我が妻、しかして現実に我が手中にあるのは七夕の秋、その日を私は待ち続けている」という歌である。いかがであろう。
(天地等 別之時従 自孋 然叙手(年)而在 金待吾者)
『古事記』や『日本書紀』はこの世の開始は天地が分かれた時と認識しており、冒頭部にそこから神々が生まれてきたと記している。つまり「天地(あめつち)と別れし時ゆ」は「神々の生まれる遙か前の原初の時代より」という意味になる。要するに「太古の昔より」と解して差し支えない。が、一方では「これはひょっとすると、古代人の途方もない天文知識を踏まえているのではないか」という気もするのである。天の川はご承知のように銀河系星雲。そして牽牛星と織女星はむろん、わが太陽系が属する銀河系星雲の一員である。太陽が銀河系星雲の一員であることまで知っていたか否か定かでない。が、牽牛星と織女星はわが地球の誕生(天地が別れたとき)よりも以前から存在していたと認識していた可能性がある。歌の読解とは直接関係ないが、ひとこと。
第四句の「然(しか)ぞ手(年)にある」は各書とも原文の「手」を修正して「年」としている。が、みだりに原文をいじるべきではなく、私は「手」と考えて読解を試みたい。
「然(しか)ぞ手にある」は「かくて我が手中にある」という意味である。「太古の昔より織り姫は我が妻、しかして現実に我が手中にあるのは七夕の秋、その日を私は待ち続けている」という歌である。いかがであろう。
2006 彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ
(孫星 嘆須孋 事谷毛 告<尓>叙来鶴 見者苦弥)
「嘆(なげ)かす妻に」は「嘆き悲しむ妻に」、「言(こと)だにも告げにぞ来つる」は「言葉だけでもかけようとやって来た」という意味である。字面どおりに解すると、「彦星は嘆き悲しむ妻に言葉だけでもかけようとやって来た。が、現実に顔を合わせると心苦しかった」となる。が、一年一度の逢う瀬がやってくればうれしい筈である。反対に「心苦しい」では歌意が妙である。1997番歌のように去って行く際の歌ならこれでいいが、「来つる」には「去りゆく」といった解し方があるのだろうか?
(孫星 嘆須孋 事谷毛 告<尓>叙来鶴 見者苦弥)
「嘆(なげ)かす妻に」は「嘆き悲しむ妻に」、「言(こと)だにも告げにぞ来つる」は「言葉だけでもかけようとやって来た」という意味である。字面どおりに解すると、「彦星は嘆き悲しむ妻に言葉だけでもかけようとやって来た。が、現実に顔を合わせると心苦しかった」となる。が、一年一度の逢う瀬がやってくればうれしい筈である。反対に「心苦しい」では歌意が妙である。1997番歌のように去って行く際の歌ならこれでいいが、「来つる」には「去りゆく」といった解し方があるのだろうか?
2007 ひさかたの天つしるしと水無し川隔てて置きし神代し恨めし
(久方 天印等 水無<川> 隔而置之 神世之恨)
「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。「水無し川」は広大な天空の目印に作られた川、すなわち天の川のことである。水無し川なら2000番歌「天の川安の渡りに舟浮けて~」などのように「舟など浮かべられないではないか」などと屁理屈を並べてはいけない。詩的表現や文学的表現なのだから、こうした疑問を投げかけるのは野暮というものである。天の川を挟んで両岸に配置された牽牛星と織女星を題材にした歌。「大空を区切る目印に水無し川(天の川)を置き、二人を両岸に分けられてしまった神代の昔がうらめしい」という歌である。
(2015年1月13日記)
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(久方 天印等 水無<川> 隔而置之 神世之恨)
「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。「水無し川」は広大な天空の目印に作られた川、すなわち天の川のことである。水無し川なら2000番歌「天の川安の渡りに舟浮けて~」などのように「舟など浮かべられないではないか」などと屁理屈を並べてはいけない。詩的表現や文学的表現なのだから、こうした疑問を投げかけるのは野暮というものである。天の川を挟んで両岸に配置された牽牛星と織女星を題材にした歌。「大空を区切る目印に水無し川(天の川)を置き、二人を両岸に分けられてしまった神代の昔がうらめしい」という歌である。
(2015年1月13日記)