Quantcast
Channel: 古代史の道
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

万葉集読解・・・141(2140~2157番歌)

$
0
0
 巻9~12メニュー へ   
そ の 142 へ 
         
     万葉集読解・・・141(2140~2157番歌)
2140  あらたまの年の経ゆけばあどもふと夜渡る我れを問ふ人や誰れ
      (璞 年之經徃者 阿跡念登 夜渡吾乎 問人哉誰)
 「あらたまの」は枕詞。「あどもふと」は「声掛け合って(連れだって)」という意味である。私は前歌(2139番歌)を次の歌のようだと記した。
「夜渡っていく雁の姿はぼんやりしている。いったい幾夜経ったら姿がはっきりする朝方飛ぶようになるのだろう」
 その歌が本歌と関係があるかないかはっきりしない。結句は「問ふ人や誰れ」と「雁」ではなく「人」となっている。前歌に応えた歌なら奇妙なことである。鹿を詠んだ歌は次歌以降なので本歌までは雁を詠んだ歌に相違ない。そこで第四句「夜渡る我れを」までは雁のことである。「年の経ゆけば」は「年が替わって月日が経ち」すなわち「冬が去っていき」という意味のようである。以上で読解の準備が出来た。
 「冬が去っていくので私たち雁は北方へ連れ立って渡っていきつつあります。その私を呼び止めようとするのはどなたでしょう」という歌である。

2141  このころの秋の朝明に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
      (比日之 秋朝開尓 霧隠 妻呼雄鹿之 音之亮左)
 2141~2156番歌は鳴く鹿を詠んだ歌。
 「秋になったこのごろの明け方、霧の中から妻を呼ぶ牡鹿の声が聞こえる。そのすがすがしいこと」という歌である。

2142  さを鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極み靡け萩原
      (左男牡鹿之 妻整登 鳴音之 将至極 靡芽子原)
 第二句の「妻ととのふと」であるが、各書とも「妻を呼び寄せようと」と解している。奇妙な解である。「ととのふと」は原文に「整登」とあるように「整うと」であって「呼び寄せむと」ではない。とりわけ、「岩波大系本」は「ととのふー乱れているものを秩序づける」と正確に解説しておきながら、実際の歌意では「妻を呼び寄せようと」としているのである。不可解としか言いようがない。「妻を呼び寄せようと牡鹿が鳴くこと」がどうして「乱れているものを秩序づける」ことになるのか不可解なのは私だけではなかろう。
 「ととのふ(整う)」は多くの例がありそうでありながら、意外にも本歌以外には二例しかない。短歌では238番歌の「大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声」のみである。ここにいう「網子(あご)ととのふる」は「指揮官が網子を指揮して」という意味である。まさに網子を「整える」ことを意味しているのである。他の一例は199番長歌の「~御軍士を 率ひたまひ 整ふる~」で、まさに「軍を整える」なのである。
 翻って、本歌の「妻ととのふと」は「牝鹿を得て居並んで(整って)」という意味である。「とうとう獲得したぞ」という牡鹿のいわば「かちどき」の歌なのである。「鳴く声の至らむ極み」とはぴったりの表現ではないか。「牡鹿が牝鹿と居並んで、とうとう獲得したぞと、声を限りに鳴き立てている。靡け靡け萩原よ」という歌である。

2143  君に恋ひうらぶれ居れば敷の野の秋萩凌ぎさを鹿鳴くも
      (於君戀 裏觸居者 敷野之 秋芽子凌 左小壮鹿鳴裳)
 「うらぶれ居れば」は「侘びしい思いでいると」という意味である。「敷野(しきの)」は所在不明。「凌(しの)ぎ」は「踏み分けて」である。「あの方に恋い焦がれて侘びしい思いでいると敷野の萩を踏みしめて牡鹿が鳴いている」という歌である。

2144  雁は来ぬ萩は散りぬとさを鹿の鳴くなる声もうらぶれにけり
      (鴈来 芽子者散跡 左小壮鹿之 鳴成音毛 裏觸丹来)
 読解不要の平明歌。「雁はやってきて萩は散る季節になった。そして牡鹿の鳴く声も弱々しくなった」という歌である。

2145  秋萩の恋も尽きねばさを鹿の声い継ぎい継ぎ恋こそまされ
      (秋芽子之 戀裳不盡者 左壮鹿之 聲伊續伊継 戀許増益焉)
 「秋萩の恋も尽きねば」は、「萩の花がまだ十分恋しい季節なのに」という意味である。「い継ぎい継ぎ」は「次々と」だが、問題は結句の「恋こそまされ」。「恋心がまさる」という意味ではない。原文に「戀許増益焉」とあるように「恋心がつのる」という意味である。「萩の花がまだ十分恋しい季節なのに牡鹿の鳴き声が次々と聞こえてくる。その声を聞いていると恋心がつのる一方だ」という歌である。

2146  山近く家や居るべきさを鹿の声を聞きつつ寐ねかてぬかも
      (山近 家哉可居 左小壮鹿乃 音乎聞乍 宿不勝鴨)
 第二句「家や居るべき」は「家に住むのがいい」ともとれるし、「家に寝泊まりすべきか」ともとれる。「居るべき」を「いっときのこと」と解して私は後者に解しておきたい。「山近くの家には寝泊まりすべきじゃありません、牡鹿の鳴き声が耳についてなかなか眠れません」という歌である。

2147  山の辺にい行くさつ男は多かれど山にも野にもさを鹿鳴くも
      (山邊尓 射去薩雄者 雖大有 山尓文野尓文 沙小牡鹿鳴母)
 「さつ男」が狩人のこととさえ知れば、平明歌だろう。「山の辺に狩りに出かける狩人は多いが、山にいても野にいるときと同様、鳴き立てる牡鹿の声が聞こえる」という歌である。

2148  あしひきの山より来せばさを鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを
      (足日木笶 山従来世波 左小牡鹿之 妻呼音 聞益物乎)
 「あしひきの」お馴染みの枕詞。「来(き)せば」は「もしもいらっしゃったら」という仮定表現。「聞かましものを」は「お聞きになっただろうに」という反語表現。「山路をいらっしゃっていれば、妻を呼ぶ牡鹿の鳴き声をお聞きになっただろうに」という歌である。

2149  山辺にはさつ男のねらひ畏けどを鹿鳴くなり妻が目を欲り
      (山邊庭 薩雄乃祢良比 恐跡 小牡鹿鳴成 妻之眼乎欲焉)
 「さつ男」は狩人のこと。「畏(かしこ)けど」は「恐ろしいけれど」という意味。「妻が目を欲り」は「妻の目を欲し」つまり「直接逢いたい」という意味である。
 「山辺には狩人がいて、この私(牡鹿)を狙っているのが恐ろしいけれど、妻に逢いたさに鳴き声を上げるのです」という歌である。

2150  秋萩の散りゆく見ればおほほしみ妻恋すらしさを鹿鳴くも
      (秋芽子之 散去見 欝三 妻戀為良思 棹牡鹿鳴母)
 「おほほしみ」の「み」は「~ので」の「み」。「おほほし」は2139番歌等にあるように、「ぼうっとした」あるいは「気がふさぐ」という意味。「萩の花が散ってゆくのを見ていると気がふさぐのか、妻(萩)恋しさに牡鹿が盛んに鳴き立てている」という歌である。

2151  山遠き都にしあればさを鹿の妻呼ぶ声は乏しくもあるか
      (山遠 京尓之有者 狭小牡鹿之 妻呼音者 乏毛有香)
 結句の「乏(とも)しくもあるか」は「あまり聞こえてこないのだろうか」という意味である。「山から遠い都にいるので、妻を求めて鳴き立てる牡鹿の声があまり聞こえてこないのだろうか」という歌である。

2152  秋萩の散り過ぎゆかばさを鹿はわび鳴きせむな見ずは乏しみ
      (秋芽子之 散過去者 左小壮鹿者 和備鳴将為名 不見者乏焉)
 「わび鳴きせむな」は「侘びしい声で鳴き立てるだろうな」という意味である。「見ずは乏(とも)しみ」の「乏し」は前歌にあるように「あまりない」、最後の「み」は「~ので」の「み」。「萩の花が散ってしまうと、牡鹿は萩の花を見る機会が少なくて見られなくなり、侘びしい声で鳴き立てるだろうな」という歌である。

2153  秋萩の咲きたる野辺はさを鹿ぞ露を別けつつ妻どひしける
      (秋芽子之 咲有野邊者 左小牡鹿曽 露乎別乍 嬬問四家類)
 第四句の「露を別けつつ」。やや悩ましい。「露を分け分け」(「岩波大系本」)、「露を置く枝を押し分けては」(「伊藤本」)、「露を踏み分け露を踏み分け」と微妙に読解を異にしているのが、悩ましさを示している。どの解も歌意に大差なく、「よし」なのだろうが、私は「岩波大系本」がもっとも歌意に近いと思う。それは第二句に「~野辺は」と詠われているからである。牡鹿が萩の花を求めて歩き回っているのは、山中でもなければ木々の間でもない。広々とした野辺である。従って「露を別けつつ」は露の降りた草々の間のことを表現していると見るのが自然である。なので「露を別けつつ」は「露を分け分け」というより、「露の降りた草々を踏み分けつつ」という意味に相違ない。「萩の花が咲き乱れている野辺。その野辺を露の降りた草々を踏み分けつつ牡鹿は歩き回り、妻を求めて鳴き立てる」という歌である。

2154  なぞ鹿のわび鳴きすなるけだしくも秋野の萩や繁く散るらむ
      (奈何牡鹿之 和備鳴為成 蓋毛 秋野之芽子也 繁将落)
 「なぞ」は「なぜ」、「けだしくも」は「もしかしたら」という意味である。「どうして牡鹿は侘びしそうに鳴き立てるのだろう。もしかしたら秋野に咲く萩の花が次々と散っていくからであろうか」という歌である。

2155  秋萩の咲たる野辺にさを鹿は散らまく惜しみ鳴き行くものを
      (秋芽子之 開有野邊 左牡鹿者 落巻惜見 鳴去物乎)
 「散らまく惜しみ」の「み」は「~ので」の「み」。「鳴き行くものを」の「を」は詠嘆の「を」。「秋の野辺に萩が咲いている。その花が散るのを惜しんで牡鹿は鳴き立てながら歩いているのだなあ」という歌である。

2156  あしひきの山の常蔭に鳴く鹿の声聞かすやも山田守らす子
      (足日木乃 山之跡陰尓 鳴鹿之 聲聞為八方 山田守酢兒)
 「あしひきの」はお馴染みの枕詞。常蔭(とかげ)は読んで字のごとく「いつも蔭になって暗い所。うっそうと茂った木陰、巨大な岩陰等様々な場所が思い浮かぶ。鹿がいて、その鳴き声が聞こえる場所なので、常識的には「うっそうと茂った木陰」。山田は山中の田のことか?。「山中のうっそうと茂った木陰で鳴く鹿の声をお聞きでしょうか。山中で田を耕す乙女よ」という歌である。

2157  夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも
      (暮影 来鳴日晩之 幾許 毎日聞跡 不足音可聞)
 蝉を詠んだ歌。「ここだく」は1328番歌、1475番歌等多くの例があり、「こんなにも」、「しきりに」、「強く」といった意味である。「ひぐらしは夕暮れになるとやってきてしきりに鳴く。毎日毎日聞いていても飽きない鳴き声だ」という歌である。
           (2015年2月13日記)
イメージ 1


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

Trending Articles