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万葉集読解・・・145(2214~2232番歌)
2214 夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
(夕去者 鴈之越徃 龍田山 四具礼尓競 色付尓家里)
龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。本歌は2196番歌「しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり」と歌趣に相通じる所がある。「夕方になると雁が越えていく龍田山。しぐれに見舞われて競うように色づいてきた」という歌である。
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万葉集読解・・・145(2214~2232番歌)
2214 夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
(夕去者 鴈之越徃 龍田山 四具礼尓競 色付尓家里)
龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。本歌は2196番歌「しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり」と歌趣に相通じる所がある。「夕方になると雁が越えていく龍田山。しぐれに見舞われて競うように色づいてきた」という歌である。
2215 さ夜更けてしぐれな降りそ秋萩の本葉の黄葉散らまく惜しも
(左夜深而 四具礼勿零 秋芽子之 本葉之黄葉 落巻惜裳)
「な降りそ」は「な~そ」の禁止形。本葉(もとば)は末葉(うらば)に対する言い方。根元の葉。「夜が更けてからしぐれよ降らないでおくれ。いまだ残っている本葉の黄葉が散るのが惜しいから」という歌である。
(左夜深而 四具礼勿零 秋芽子之 本葉之黄葉 落巻惜裳)
「な降りそ」は「な~そ」の禁止形。本葉(もとば)は末葉(うらば)に対する言い方。根元の葉。「夜が更けてからしぐれよ降らないでおくれ。いまだ残っている本葉の黄葉が散るのが惜しいから」という歌である。
2216 故郷の初黄葉を手折り持ち今日ぞ我が来し見ぬ人のため
(古郷之 始黄葉乎 手折以 今日曽吾来 不見人之為)
結句の「見ぬ人のため」は原文に「不見人之為」とあるように、「まだ見ていない人のため」という意味。「故郷を訪ねたら、今年の初黄葉を見つけたので手折ってきて、まだ黄葉にお目にかかっていない人のために今日持ってきました」という歌である。
(古郷之 始黄葉乎 手折以 今日曽吾来 不見人之為)
結句の「見ぬ人のため」は原文に「不見人之為」とあるように、「まだ見ていない人のため」という意味。「故郷を訪ねたら、今年の初黄葉を見つけたので手折ってきて、まだ黄葉にお目にかかっていない人のために今日持ってきました」という歌である。
2217 君が家の黄葉は早く散りにけりしぐれの雨に濡れにけらしも
(君之家<乃> 黄葉早者 落 四具礼乃雨尓 所沾良之母)
読解不要だろう。「あなたの家の黄葉は早々と散ってしまいましたね。しぐれに降られて濡れてしまったのでしょうか」という歌である。
(君之家<乃> 黄葉早者 落 四具礼乃雨尓 所沾良之母)
読解不要だろう。「あなたの家の黄葉は早々と散ってしまいましたね。しぐれに降られて濡れてしまったのでしょうか」という歌である。
2218 一年にふたたび行かぬ秋山を心に飽かず過ぐしつるかも
(一年 二遍不行 秋山乎 情尓不飽 過之鶴鴨)
本歌は「~秋山を」でいったん切って読む。「~秋山なのに」という心情である。そこで、第四句の「心に飽かず」は「十分堪能しないまま」という意味だと分かる。「一年に再び訪れることのない秋の山なのに、十分堪能しないままやり過ごしてしまった」という歌である。2178番歌以降続いた黄葉を詠んだ歌は本歌で終了である。
(一年 二遍不行 秋山乎 情尓不飽 過之鶴鴨)
本歌は「~秋山を」でいったん切って読む。「~秋山なのに」という心情である。そこで、第四句の「心に飽かず」は「十分堪能しないまま」という意味だと分かる。「一年に再び訪れることのない秋の山なのに、十分堪能しないままやり過ごしてしまった」という歌である。2178番歌以降続いた黄葉を詠んだ歌は本歌で終了である。
2219 あしひきの山田作る子秀でずとも縄だに延へよ守ると知るがね
(足曳之 山田佃子 不秀友 縄谷延与 守登知金)
水田を詠んだ歌。
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「秀でずとも縄だに延へよ」は1353番歌の「~秀でずとも縄だに延へよ~」と全く同一の表現である。「穂はまだ出てきてないけれど、ちゃんと縄を張りめぐらせておきなさいよ」という意味である。結句の「~るがね」は1958番歌等多くの実例があり、「~のだから」という意味である。「山田作る子」は「山田を耕す子」という意味だが、この「子」は通常若い女性を指す。が、若い男とも取れ、山田を女性になぞらえることもできる。が、ここはすなおに女性と取っておきたい。「山田を耕している娘さんよ、穂はまだ出てきてないけれど、ちゃんと縄を張りめぐらせておきなさいよ。ここはあなたの田だと知らせるために・・・。」という歌である。
(足曳之 山田佃子 不秀友 縄谷延与 守登知金)
水田を詠んだ歌。
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「秀でずとも縄だに延へよ」は1353番歌の「~秀でずとも縄だに延へよ~」と全く同一の表現である。「穂はまだ出てきてないけれど、ちゃんと縄を張りめぐらせておきなさいよ」という意味である。結句の「~るがね」は1958番歌等多くの実例があり、「~のだから」という意味である。「山田作る子」は「山田を耕す子」という意味だが、この「子」は通常若い女性を指す。が、若い男とも取れ、山田を女性になぞらえることもできる。が、ここはすなおに女性と取っておきたい。「山田を耕している娘さんよ、穂はまだ出てきてないけれど、ちゃんと縄を張りめぐらせておきなさいよ。ここはあなたの田だと知らせるために・・・。」という歌である。
2220 さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも
(左小牡鹿之 妻喚山之 岳邊在 早田者不苅 霜者雖零)
「さを鹿の」の「さ」は強意等に使用される接頭語。「さ霧」、「さ百合」等々。「牡鹿が妻を求めてやってくる山の麓の早稲田は刈らずにおこう。霜が降りるようになっても」という歌である。読解は平明。が、本歌は肝心の歌意が分からない。「鹿のために稲を刈らずにおく」というのなら分かるが、鹿は稲は食べないという。となると、歌意不明としかいいようがない。鹿と萩は秋の風物詩として格好の風景。そこで萩を妻に見立てて詠われることは珍しくないが、鹿と稲の取り合わせは珍しい。「水田を詠んだ歌」の一環なのに、その水田を刈らないままにしておくとは何の歌意があるのであろう。
(左小牡鹿之 妻喚山之 岳邊在 早田者不苅 霜者雖零)
「さを鹿の」の「さ」は強意等に使用される接頭語。「さ霧」、「さ百合」等々。「牡鹿が妻を求めてやってくる山の麓の早稲田は刈らずにおこう。霜が降りるようになっても」という歌である。読解は平明。が、本歌は肝心の歌意が分からない。「鹿のために稲を刈らずにおく」というのなら分かるが、鹿は稲は食べないという。となると、歌意不明としかいいようがない。鹿と萩は秋の風物詩として格好の風景。そこで萩を妻に見立てて詠われることは珍しくないが、鹿と稲の取り合わせは珍しい。「水田を詠んだ歌」の一環なのに、その水田を刈らないままにしておくとは何の歌意があるのであろう。
2221 我が門に守る田を見れば佐保の内の秋萩すすき思ほゆるかも
(我門尓 禁田乎見者 沙穂内之 秋芽子為酢寸 所念鴨)
佐保は大伴氏の根拠地のひとつで、大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)が居を構えていた所。「我が家の門のあたりの田を見張っていると、佐保の里の秋萩やすすきが思い起こされる」という歌である。本歌も前歌同様、肝心の歌意に不明な点がある。佐保の里は作者の故郷なのだろうか、それとも訪れたことがあって、そこの萩やすすきに感銘を受けたということだろうか。
(我門尓 禁田乎見者 沙穂内之 秋芽子為酢寸 所念鴨)
佐保は大伴氏の根拠地のひとつで、大伴坂上郎女(おおとものさかのうへのいらつめ)が居を構えていた所。「我が家の門のあたりの田を見張っていると、佐保の里の秋萩やすすきが思い起こされる」という歌である。本歌も前歌同様、肝心の歌意に不明な点がある。佐保の里は作者の故郷なのだろうか、それとも訪れたことがあって、そこの萩やすすきに感銘を受けたということだろうか。
2222 夕去らずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも
(暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛)
河を詠んだ歌。
「夕されば」は29例に及ぶが、本歌に見る「夕去らず」は本歌のほかに二例しかない。「毎夕」という意味である。三輪川は奈良県桜井市に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)の近くを流れる川。大神神社は私も訪れたことがあるが、日本最古の神社のひとつ。本殿をもたない珍しい神社。三輪山そのものをご神体として仰ぐ。荘厳にして清冽な気が漲る。それを念頭に置いて鑑賞すると味わい深い。「毎夕蛙の鳴く声が聞こえる三輪川、その清冽な瀬の音を聞くのは本当にいいものだ」という歌である。
(暮不去 河蝦鳴成 三和河之 清瀬音乎 聞師吉毛)
河を詠んだ歌。
「夕されば」は29例に及ぶが、本歌に見る「夕去らず」は本歌のほかに二例しかない。「毎夕」という意味である。三輪川は奈良県桜井市に鎮座する大神神社(おおみわじんじゃ)の近くを流れる川。大神神社は私も訪れたことがあるが、日本最古の神社のひとつ。本殿をもたない珍しい神社。三輪山そのものをご神体として仰ぐ。荘厳にして清冽な気が漲る。それを念頭に置いて鑑賞すると味わい深い。「毎夕蛙の鳴く声が聞こえる三輪川、その清冽な瀬の音を聞くのは本当にいいものだ」という歌である。
2223 天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士
(天海 月船浮 桂梶 懸而滂所見 月人牡子)
月を詠んだ歌。
桂楫(かつらかぢ)は桂の木で作った舟楫。2202番歌の「~月人の楓の枝の~」について、「楓と桂は文字も違う全く別の木で、それを同一視して、月の中に桂の木があるという中国伝説を持ち出すのはおかしい」という意味のことを述べた。本歌の場合は原文に「桂」とあるので、中国伝説に結びつけられなくもない。が、「月の舟浮け」とあるように、これは月世界のことではなく、月そのもの(三日月)を舟に見立てての歌なので伝説を持ち出すのはお門違いであろう。「広大な夜空の海に月の舟を浮かべ、桂で作った楫を操って海を渡っていく月男が見える」という歌である。
(天海 月船浮 桂梶 懸而滂所見 月人牡子)
月を詠んだ歌。
桂楫(かつらかぢ)は桂の木で作った舟楫。2202番歌の「~月人の楓の枝の~」について、「楓と桂は文字も違う全く別の木で、それを同一視して、月の中に桂の木があるという中国伝説を持ち出すのはおかしい」という意味のことを述べた。本歌の場合は原文に「桂」とあるので、中国伝説に結びつけられなくもない。が、「月の舟浮け」とあるように、これは月世界のことではなく、月そのもの(三日月)を舟に見立てての歌なので伝説を持ち出すのはお門違いであろう。「広大な夜空の海に月の舟を浮かべ、桂で作った楫を操って海を渡っていく月男が見える」という歌である。
2224 この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月立ち渡る
(此夜等者 沙夜深去良之 鴈鳴乃 所聞空従 月立度)
「この夜らは」の「ら」は複数を表したり、謙譲の意をこめたりと色々に使用される接尾語だが、ここでは語調を整えるための「ら」。「さ夜」の「さ」はお馴染みの接頭語。2220番歌参照。「今宵はすっかり夜が更けたらしい。雁の鳴き声が聞こえる夜空を月が渡って行く」という歌である。
(此夜等者 沙夜深去良之 鴈鳴乃 所聞空従 月立度)
「この夜らは」の「ら」は複数を表したり、謙譲の意をこめたりと色々に使用される接尾語だが、ここでは語調を整えるための「ら」。「さ夜」の「さ」はお馴染みの接頭語。2220番歌参照。「今宵はすっかり夜が更けたらしい。雁の鳴き声が聞こえる夜空を月が渡って行く」という歌である。
2225 我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし
(吾背子之 挿頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思)
月光の美しさを詩的に表現した歌。その洒落た表現を念頭に置いて読めば、すんなり歌意が伝わってくるだろう。「さやかに」は「はっきりと」ないしは「よくよくみなさい」という意味である。「あの人がかざしにしている萩には露が光っている。よくよくご覧よと月は照らし出しているらしい」という歌である。
(吾背子之 挿頭之芽子尓 置露乎 清見世跡 月者照良思)
月光の美しさを詩的に表現した歌。その洒落た表現を念頭に置いて読めば、すんなり歌意が伝わってくるだろう。「さやかに」は「はっきりと」ないしは「よくよくみなさい」という意味である。「あの人がかざしにしている萩には露が光っている。よくよくご覧よと月は照らし出しているらしい」という歌である。
2226 心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな
(無心 秋月夜之 物念跡 寐不所宿 照乍本名)
「もとな」は618番歌等にあるように、「心もとない」ないしは「しきりに」という意味。「物思いに耽っているその私の胸の内を無情にもはっきり照らし出す秋の月、寝ようにもなかなか眠られない私をこれでもかとしきりに照らし出す」という歌である。
(無心 秋月夜之 物念跡 寐不所宿 照乍本名)
「もとな」は618番歌等にあるように、「心もとない」ないしは「しきりに」という意味。「物思いに耽っているその私の胸の内を無情にもはっきり照らし出す秋の月、寝ようにもなかなか眠られない私をこれでもかとしきりに照らし出す」という歌である。
2227 思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし
(不念尓 四具礼乃雨者 零有跡 天雲霽而 月夜清焉)
結句の「月夜さやけし」は「くっきりして清らかな月夜」の意。「思いがけずしぐれが降ったけれど、空は晴れ渡ってきて今夜の月夜はくっきりして清らかだ」という歌である。
(不念尓 四具礼乃雨者 零有跡 天雲霽而 月夜清焉)
結句の「月夜さやけし」は「くっきりして清らかな月夜」の意。「思いがけずしぐれが降ったけれど、空は晴れ渡ってきて今夜の月夜はくっきりして清らかだ」という歌である。
2228 萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに
(芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國)
「ををり」は1421番歌等にあるように満開状態のこと。たわわに花が咲いた状態。結句の「恋まさらくに」は人に対する恋心ではない。萩の美しさへの賛歌だ。「萩の花が今を盛りと枝もたわわに咲き誇っている。その萩を見よとばかり、月はくっきりと照らし出す。が、照らせば照らすほどますます萩に惹かれる」という歌である。
(芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國)
「ををり」は1421番歌等にあるように満開状態のこと。たわわに花が咲いた状態。結句の「恋まさらくに」は人に対する恋心ではない。萩の美しさへの賛歌だ。「萩の花が今を盛りと枝もたわわに咲き誇っている。その萩を見よとばかり、月はくっきりと照らし出す。が、照らせば照らすほどますます萩に惹かれる」という歌である。
2229 白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも
(白露乎 玉作有 九月 在明之月夜 雖見不飽可聞)
本歌にいう「玉」はたんに「丸い玉」という意味ではない。1598番歌「さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露」で述べたように「真珠」のことに相違ない。「有明の月夜」は「明け方の月夜」のこと。「白露を真珠とみまごうばかりに照らし出す九月(むろん旧暦)の明け方の月は美しく、見ても見ても見飽きることがない」という歌である。
(白露乎 玉作有 九月 在明之月夜 雖見不飽可聞)
本歌にいう「玉」はたんに「丸い玉」という意味ではない。1598番歌「さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露」で述べたように「真珠」のことに相違ない。「有明の月夜」は「明け方の月夜」のこと。「白露を真珠とみまごうばかりに照らし出す九月(むろん旧暦)の明け方の月は美しく、見ても見ても見飽きることがない」という歌である。
2230 恋ひつつも稲葉かき別け家居れば乏しくもあらず秋の夕風
(戀乍裳 稲葉掻別 家居者 乏不有 秋之暮風)
風を詠んだ歌。
「稲葉かき別け家居れば」の「家」は、仮廬(かりほ)、すなわち、秋の田を刈り入れるため寝泊まりする仮小屋のことに相違ない。したがって「恋ひつつも」は「本屋が恋しいけれど」という意味である。「乏しくもあらず」は1820番歌にそのまま使われているが、「少なくない」すなわち「けっこう多い」という意味。「本屋が恋しいけれど、稲の葉をかきわけるように作られた仮小屋にいてもしきりに吹く秋の夕風(秋の到来)が感じられる」という歌である。
(戀乍裳 稲葉掻別 家居者 乏不有 秋之暮風)
風を詠んだ歌。
「稲葉かき別け家居れば」の「家」は、仮廬(かりほ)、すなわち、秋の田を刈り入れるため寝泊まりする仮小屋のことに相違ない。したがって「恋ひつつも」は「本屋が恋しいけれど」という意味である。「乏しくもあらず」は1820番歌にそのまま使われているが、「少なくない」すなわち「けっこう多い」という意味。「本屋が恋しいけれど、稲の葉をかきわけるように作られた仮小屋にいてもしきりに吹く秋の夕風(秋の到来)が感じられる」という歌である。
2231 萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く
(芽子花 咲有野邊 日晩之乃 鳴奈流共 秋風吹)
「~なへに」は「~とともに」の意。「萩の花が咲き誇る野辺にひぐらしが鳴いているが、同時に秋の風も吹き渡っている」という歌である。
(芽子花 咲有野邊 日晩之乃 鳴奈流共 秋風吹)
「~なへに」は「~とともに」の意。「萩の花が咲き誇る野辺にひぐらしが鳴いているが、同時に秋の風も吹き渡っている」という歌である。
2232 秋山の木の葉もいまだもみたねば今朝吹く風は霜も置きぬべく
(秋山之 木葉文未赤者 今旦吹風者 霜毛置應久)
「もみたねば」は「もみたむ」の否定形。1551番歌等に使われている。「紅葉に色づく」という意味である。「秋山の木の葉はまだ色づいていないのに、今朝吹いている風は霜が降りそうに思われるほど冷たい」という歌である。
(2015年3月2日記)
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(秋山之 木葉文未赤者 今旦吹風者 霜毛置應久)
「もみたねば」は「もみたむ」の否定形。1551番歌等に使われている。「紅葉に色づく」という意味である。「秋山の木の葉はまだ色づいていないのに、今朝吹いている風は霜が降りそうに思われるほど冷たい」という歌である。
(2015年3月2日記)