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そ の 150 へ
万葉集読解・・・149(2291~2309番歌)
2291 朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも
(朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者為鴨)
「朝(あした)咲き夕(ゆふべ)は消(け)ぬる」は、思わず「論語」の孔子の言葉「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」を連想してしまいそうな二句である。月草は露草のこと。結句の「~かも」はいうまでもなく仮定の「かも」ではなく詠嘆の「かも」。「朝咲いて夕方にはしぼんでしまう露草のようにはかない恋をしています」という歌である。
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万葉集読解・・・149(2291~2309番歌)
2291 朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも
(朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者為鴨)
「朝(あした)咲き夕(ゆふべ)は消(け)ぬる」は、思わず「論語」の孔子の言葉「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」を連想してしまいそうな二句である。月草は露草のこと。結句の「~かも」はいうまでもなく仮定の「かも」ではなく詠嘆の「かも」。「朝咲いて夕方にはしぼんでしまう露草のようにはかない恋をしています」という歌である。
2292 秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に
(蜒野之 尾花苅副 秋芽子之 花乎葺核 君之借廬)
秋津野は奈良県吉野町ないし和歌山県牟婁町(現田辺市内)の野と言われるが不詳。「花を葺(ふ)かさね」は「屋根に添えて下さい」という意味である。仮廬は仮小屋。「秋津野の尾花(ススキの穂)を刈り取って、仮小屋の屋根をこしらへるとき、萩の花も添えて下さいましな」という歌である。
(蜒野之 尾花苅副 秋芽子之 花乎葺核 君之借廬)
秋津野は奈良県吉野町ないし和歌山県牟婁町(現田辺市内)の野と言われるが不詳。「花を葺(ふ)かさね」は「屋根に添えて下さい」という意味である。仮廬は仮小屋。「秋津野の尾花(ススキの穂)を刈り取って、仮小屋の屋根をこしらへるとき、萩の花も添えて下さいましな」という歌である。
2293 咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの秋萩を見せつつもとな
(咲友 不知師有者 黙然将有 此秋芽子乎 令視管本名)
「黙(もだ)もあらむ」は「是非もない」つまり「何とも思わない」、「もとな」は「心もとなく」ないしは「しきりに」という意味。「咲いたことも知らずにいたら何とも思いませんのに、咲いた萩の花をお見せになるものだから心安らかではいられませんわ」という歌である。百人一首にある権中納言敦忠の「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」にどこか相通ずるような歌である。
(咲友 不知師有者 黙然将有 此秋芽子乎 令視管本名)
「黙(もだ)もあらむ」は「是非もない」つまり「何とも思わない」、「もとな」は「心もとなく」ないしは「しきりに」という意味。「咲いたことも知らずにいたら何とも思いませんのに、咲いた萩の花をお見せになるものだから心安らかではいられませんわ」という歌である。百人一首にある権中納言敦忠の「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」にどこか相通ずるような歌である。
2294 秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
(秋去者 鴈飛越 龍田山 立而毛居而毛 君乎思曽念)
山に寄せて。龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。上三句は「立ちても」と承けるための序歌。「秋がやってくると、雁が飛び越えてゆくという龍田山。立っていても座っていてもあなたのことが思われてなりません」という歌である。
(秋去者 鴈飛越 龍田山 立而毛居而毛 君乎思曽念)
山に寄せて。龍田山は奈良県生駒郡の山の一つ。上三句は「立ちても」と承けるための序歌。「秋がやってくると、雁が飛び越えてゆくという龍田山。立っていても座っていてもあなたのことが思われてなりません」という歌である。
2295 我が宿の葛葉日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも
(我屋戸之 田葛葉日殊 色付奴 不<来>座君者 何情曽毛)
黄葉に寄せて。「日に異(け)に」は「日ごとに」。「我が家の庭の葛の葉が日ごとに色づいてきました。なのにあなたはいらっしゃいません。どういうおつもりですか」という歌である。
(我屋戸之 田葛葉日殊 色付奴 不<来>座君者 何情曽毛)
黄葉に寄せて。「日に異(け)に」は「日ごとに」。「我が家の庭の葛の葉が日ごとに色づいてきました。なのにあなたはいらっしゃいません。どういうおつもりですか」という歌である。
2296 あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ
(足引乃 山佐奈葛 黄變及 妹尓不相哉 吾戀将居)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「山さな葛(かづら)」は通説ではサネカズラ(ビナンカズラ)のことされる。もしそうなら、常緑樹で淡黄色の花をつける。実は赤い小球の集合で美しい。「もみつまで」は「色づくまで」すなわち「秋深くなるまで」という意味。「山サネカズラが色づく秋深くなるまで彼女に逢わずじまいになるのかなと思って恋焦がれて暮らしています」という歌である。
(足引乃 山佐奈葛 黄變及 妹尓不相哉 吾戀将居)
「あしひきの」はお馴染みの枕詞。「山さな葛(かづら)」は通説ではサネカズラ(ビナンカズラ)のことされる。もしそうなら、常緑樹で淡黄色の花をつける。実は赤い小球の集合で美しい。「もみつまで」は「色づくまで」すなわち「秋深くなるまで」という意味。「山サネカズラが色づく秋深くなるまで彼女に逢わずじまいになるのかなと思って恋焦がれて暮らしています」という歌である。
2297 黄葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを
(黄葉之 過不勝兒乎 人妻跡 見乍哉将有 戀敷物乎)
「過ぎかてぬ子を」の「過ぎかてぬ」は1190番歌に「舟泊ててかし振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも」とある。「見過ごしがたい」という意味である。「もみじ葉が散ってゆくのを見るようには見過ごしがたいあの子なのに、ただ人妻と見ていなければならないのだろうか。こんなに恋い焦がれているのに」という歌である。
(黄葉之 過不勝兒乎 人妻跡 見乍哉将有 戀敷物乎)
「過ぎかてぬ子を」の「過ぎかてぬ」は1190番歌に「舟泊ててかし振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも」とある。「見過ごしがたい」という意味である。「もみじ葉が散ってゆくのを見るようには見過ごしがたいあの子なのに、ただ人妻と見ていなければならないのだろうか。こんなに恋い焦がれているのに」という歌である。
2298 君に恋ひしなえうらぶれ我が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ
(於君戀 之奈要浦觸 吾居者 秋風吹而 月斜焉)
月に寄せて。「しなえうらぶれ」は「打ちしおれてしょんぼりと」ということである。「あなたに恋い焦がれて打ちしおれてしょんぼりと時を過ごしていたら、秋風が吹き、いつの間にか月が西に傾いてしまいました」という歌である。
(於君戀 之奈要浦觸 吾居者 秋風吹而 月斜焉)
月に寄せて。「しなえうらぶれ」は「打ちしおれてしょんぼりと」ということである。「あなたに恋い焦がれて打ちしおれてしょんぼりと時を過ごしていたら、秋風が吹き、いつの間にか月が西に傾いてしまいました」という歌である。
2299 秋の夜の月かも君は雲隠りしましく見ねばここだ恋しき
(秋夜之 月疑意君者 雲隠 須臾不見者 幾許戀敷)
「月かも」は「月であろうか」、「しましく」は「しばらく」、「ここだ」は「非常に」ないし「しきりに」という意味。「あなたは秋の夜のあの美しいお月様でしょうか。しばらくの間雲に隠れて見えなくなっただけでも恋しくてたまりません」という歌である。
(秋夜之 月疑意君者 雲隠 須臾不見者 幾許戀敷)
「月かも」は「月であろうか」、「しましく」は「しばらく」、「ここだ」は「非常に」ないし「しきりに」という意味。「あなたは秋の夜のあの美しいお月様でしょうか。しばらくの間雲に隠れて見えなくなっただけでも恋しくてたまりません」という歌である。
2300 九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我れ恋ひめやも
(九月之 在明能月夜 有乍毛 君之来座者 吾将戀八方)
「九月(ながつき)の有明の月夜」は「ありつつも」を引き出す序歌。その「ありつつも」は「ずっとこのまま」という意味である。「有明の月夜ではありませんが、このままずっといらっしゃって下されば、どうして私が恋焦がれたりするでしょうか」という歌である。
(九月之 在明能月夜 有乍毛 君之来座者 吾将戀八方)
「九月(ながつき)の有明の月夜」は「ありつつも」を引き出す序歌。その「ありつつも」は「ずっとこのまま」という意味である。「有明の月夜ではありませんが、このままずっといらっしゃって下されば、どうして私が恋焦がれたりするでしょうか」という歌である。
2301 よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜は君をしぞ思ふ
(忍咲八師 不戀登為跡 金風之 寒吹夜者 君乎之曽念)
夜に寄せて。「よしゑやし」は2030番歌にも「よしゑやし直ならずとも~」とあったように、「たとえ~とも」という意味。「恋ひじとすれど」は「恋心など抱くまい」という意味である。「たとえ思い切って恋心など抱くまいと決意したところで、寒い秋風が吹く夜はあなたのことが恋しくてたまらなくなる」という歌である。
(忍咲八師 不戀登為跡 金風之 寒吹夜者 君乎之曽念)
夜に寄せて。「よしゑやし」は2030番歌にも「よしゑやし直ならずとも~」とあったように、「たとえ~とも」という意味。「恋ひじとすれど」は「恋心など抱くまい」という意味である。「たとえ思い切って恋心など抱くまいと決意したところで、寒い秋風が吹く夜はあなたのことが恋しくてたまらなくなる」という歌である。
2302 ある人しあな心なと思ふらむ秋の長夜を寝覚め臥すのみ
(或者之 痛情無跡 将念 秋之長夜乎 寐臥耳)
初句の「或者之」(原文)は注意深く取って訓じないと、意味不明ないし漠然とした歌になってしまう。たとえば、「岩波大系本」はこれを「けだしくも」と訓じ、「もしや」という意味だとしている。「もしや」と取ると必然的に「思ふらむ」の主体は「あなた」ということになる。が、それでは歌意は通らない。事実、「岩波大系本」は「おそらく、あなたは何と心無ことかと思っているでしょう。秋の夜長を臥せって寝ているばかりで」という歌だとしている。これでは「あなたは私がのんべんだらりと寝ていると思っている」という妙な歌意になり、作者の心情を述べるという歌の根本から離れてしまっている。歌意は「寝覚め臥すのみ」にあり、作者の心情の吐露にあると見なければならない。
なので、「或者之」は文字通り「ある人の」と訓じなければ意味が通らない。そしてそう訓じている書もある。ただし、「之」は強めの「し」ととるのがいいと思うので、「ある人し」が私の訓で、そう標記しておく。これによって、「思ふらむ」の主体は「ある人し」すなわち「見る人によっては」つまり第三者ということになる。なので「臥すのみ」は作者の恋煩いを示していることと分かる。「あな心なと」は「ああ心ないと」で、すなわち「なんと無粋な」という意味である。以上で読解の準備が整った。
「人様が見るとなんと無粋なことよと思うかもしれない。秋の夜長をただ寝ているだけじゃないかと・・・。あの人に恋煩って臥せっているというのに」という歌である。典型的な相聞歌のひとつなのである。
(或者之 痛情無跡 将念 秋之長夜乎 寐臥耳)
初句の「或者之」(原文)は注意深く取って訓じないと、意味不明ないし漠然とした歌になってしまう。たとえば、「岩波大系本」はこれを「けだしくも」と訓じ、「もしや」という意味だとしている。「もしや」と取ると必然的に「思ふらむ」の主体は「あなた」ということになる。が、それでは歌意は通らない。事実、「岩波大系本」は「おそらく、あなたは何と心無ことかと思っているでしょう。秋の夜長を臥せって寝ているばかりで」という歌だとしている。これでは「あなたは私がのんべんだらりと寝ていると思っている」という妙な歌意になり、作者の心情を述べるという歌の根本から離れてしまっている。歌意は「寝覚め臥すのみ」にあり、作者の心情の吐露にあると見なければならない。
なので、「或者之」は文字通り「ある人の」と訓じなければ意味が通らない。そしてそう訓じている書もある。ただし、「之」は強めの「し」ととるのがいいと思うので、「ある人し」が私の訓で、そう標記しておく。これによって、「思ふらむ」の主体は「ある人し」すなわち「見る人によっては」つまり第三者ということになる。なので「臥すのみ」は作者の恋煩いを示していることと分かる。「あな心なと」は「ああ心ないと」で、すなわち「なんと無粋な」という意味である。以上で読解の準備が整った。
「人様が見るとなんと無粋なことよと思うかもしれない。秋の夜長をただ寝ているだけじゃないかと・・・。あの人に恋煩って臥せっているというのに」という歌である。典型的な相聞歌のひとつなのである。
2303 秋の夜を長しと言へど積もりにし恋を尽せば短くありけり
(秋夜乎 長跡雖言 積西 戀盡者 短有家里)
「恋を尽せば」がキーワードだが、含意が難解。私は、前歌と同じ作者だと見て、「恋煩いに陥るまで苦しみ抜いたので」という意味に取った。「秋の夜は長いと言うけれど、積もりに積もった心が恋煩いに陥るまで苦しみ抜いたので、過ぎてしまえば短く感じられる」という歌である。
(秋夜乎 長跡雖言 積西 戀盡者 短有家里)
「恋を尽せば」がキーワードだが、含意が難解。私は、前歌と同じ作者だと見て、「恋煩いに陥るまで苦しみ抜いたので」という意味に取った。「秋の夜は長いと言うけれど、積もりに積もった心が恋煩いに陥るまで苦しみ抜いたので、過ぎてしまえば短く感じられる」という歌である。
2304 秋つ葉ににほへる衣我れは着じ君に奉らば夜も着るがね
(秋都葉尓 々寶敝流衣 吾者不服 於君奉者 夜毛著金)
衣に寄せて。「にほへる」は「染まる」という意味。結句の「夜も着るがね」は、364番歌の結句「語り継ぐがね」の「がね」と同意である。「かもしれないのだから」という意味である。「秋の木の葉の色に染まったようなこの着物、私は着ないであなた様に差し上げようと存じます。夜も着て下さると思うので」という歌である。
(秋都葉尓 々寶敝流衣 吾者不服 於君奉者 夜毛著金)
衣に寄せて。「にほへる」は「染まる」という意味。結句の「夜も着るがね」は、364番歌の結句「語り継ぐがね」の「がね」と同意である。「かもしれないのだから」という意味である。「秋の木の葉の色に染まったようなこの着物、私は着ないであなた様に差し上げようと存じます。夜も着て下さると思うので」という歌である。
2305 旅にすら紐解くものを言繁みまろ寝ぞ我がする長きこの夜を
(旅尚 襟解物乎 事繁三 丸宿吾為 長此夜)
問答歌。「言(こと)繁み」は「噂がうるさいので」という意味。「まろ寝」は、二句目の「紐解く」に対応させた表現で、(紐を解かず)着物を着たまま寝ること。「紐解く」は通常共寝の意味に使われるが、本歌の場合は「旅にすら」とあるように「家にいるのに」を強調するために使われている。「旅先にあっても着物の紐を解いて楽な格好で寝るのに、噂がうるさいので、家に居ながら長い夜を帯を締めたまま寝なければならない。あなたを思って」という歌である。
(旅尚 襟解物乎 事繁三 丸宿吾為 長此夜)
問答歌。「言(こと)繁み」は「噂がうるさいので」という意味。「まろ寝」は、二句目の「紐解く」に対応させた表現で、(紐を解かず)着物を着たまま寝ること。「紐解く」は通常共寝の意味に使われるが、本歌の場合は「旅にすら」とあるように「家にいるのに」を強調するために使われている。「旅先にあっても着物の紐を解いて楽な格好で寝るのに、噂がうるさいので、家に居ながら長い夜を帯を締めたまま寝なければならない。あなたを思って」という歌である。
2306 しぐれ降る暁月夜紐解かず恋ふらむ君と居らましものを
(四具礼零 暁月夜 紐不解 戀君跡 居益物)
前歌に応えた女性の歌。「紐解かず」は前歌と異なってここでは「共寝」すなわち「共寝する人もいらっしゃらない」という意味である。「恋ふらむ君と」は「(私のことを)思って下さるお方と一緒に」という意味である。「しぐれ降る暁の寒い月夜、共寝する方もいらっしゃらなくて、ひとり(私のことを)思って下さるというお方と一緒に居られたらうれしい」という歌である。
(四具礼零 暁月夜 紐不解 戀君跡 居益物)
前歌に応えた女性の歌。「紐解かず」は前歌と異なってここでは「共寝」すなわち「共寝する人もいらっしゃらない」という意味である。「恋ふらむ君と」は「(私のことを)思って下さるお方と一緒に」という意味である。「しぐれ降る暁の寒い月夜、共寝する方もいらっしゃらなくて、ひとり(私のことを)思って下さるというお方と一緒に居られたらうれしい」という歌である。
2307 黄葉に置く白露の色端にも出でじと思へば言の繁けく
(於黄葉 置白露之 色葉二毛 不出跡念者 事之繁家口)
「黄葉(もみぢば)に置く白露の」だが、葉にぴっしりついた白露はキラキラ光ってよく目立つ。「その白露のように」と詠っている。「思へば」は「思っているのに」という意味。「黄葉にぴっしりついてキラキラ光る白露のように目立たないよう顔色には出すまいと思っているのに人の噂のうるさいことよ」という歌である。こうとしか解釈のしようがないが、どこか腑に落ちない。「目立たない」ということをいうために持ち出す比喩として白露は目立ちすぎる。「~ほどにも目立たないように」と詠うのが自然だと私には思われるからである。解釈のどこかが間違っているのであろうか。
(於黄葉 置白露之 色葉二毛 不出跡念者 事之繁家口)
「黄葉(もみぢば)に置く白露の」だが、葉にぴっしりついた白露はキラキラ光ってよく目立つ。「その白露のように」と詠っている。「思へば」は「思っているのに」という意味。「黄葉にぴっしりついてキラキラ光る白露のように目立たないよう顔色には出すまいと思っているのに人の噂のうるさいことよ」という歌である。こうとしか解釈のしようがないが、どこか腑に落ちない。「目立たない」ということをいうために持ち出す比喩として白露は目立ちすぎる。「~ほどにも目立たないように」と詠うのが自然だと私には思われるからである。解釈のどこかが間違っているのであろうか。
2308 雨降ればたぎつ山川岩に触れ君が砕かむ心は持たじ
(雨零者 瀧都山川 於石觸 君之摧 情者不持)
「たぎつ山川」は「ほとばしり流れる山がわ」のこと。「雨が降るとほとばしり流れる山がわが岩に当たって砕けるように、あなたの心を砕くような気持は持っていませんからご安心を」という歌である。
本歌には左注が付いていて、「右の一首は秋の歌とは言えないが、前歌に応えた歌なのでここに掲載する」とある。この左注によって前歌は男の歌と知られる。が、どこか腑に落ちない前歌の不審さは解消されない。
(雨零者 瀧都山川 於石觸 君之摧 情者不持)
「たぎつ山川」は「ほとばしり流れる山がわ」のこと。「雨が降るとほとばしり流れる山がわが岩に当たって砕けるように、あなたの心を砕くような気持は持っていませんからご安心を」という歌である。
本歌には左注が付いていて、「右の一首は秋の歌とは言えないが、前歌に応えた歌なのでここに掲載する」とある。この左注によって前歌は男の歌と知られる。が、どこか腑に落ちない前歌の不審さは解消されない。
2309 祝部らが斎ふ社の黄葉も標縄越えて散るといふものを
(祝部等之 齊經社之 黄葉毛 標縄越而 落云物乎)
譬喩歌。「祝部(ほふり)らが斎(いは)ふ社(やしろ)の」は「神官たちが祭って大事にしている神社の」という意味である。「神官たちが祭って大事にしている神社のモミジでさえ張り巡らせた標縄を越えて散るというのに」という歌である。両親を神官に、娘をモミジにたとえた歌。
(2015年3月20日記)
(祝部等之 齊經社之 黄葉毛 標縄越而 落云物乎)
譬喩歌。「祝部(ほふり)らが斎(いは)ふ社(やしろ)の」は「神官たちが祭って大事にしている神社の」という意味である。「神官たちが祭って大事にしている神社のモミジでさえ張り巡らせた標縄を越えて散るというのに」という歌である。両親を神官に、娘をモミジにたとえた歌。
(2015年3月20日記)