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万葉集読解・・・153(2365~2380番歌)

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     万葉集読解・・・153(2365~2380番歌)
2365  うちひさす宮道に逢ひし人妻ゆゑに玉の緒の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き
      (内日左須 宮道尓相之 人妻姤 玉緒之 念乱而 宿夜四曽多寸)
 旋頭歌。「うちひさす」も「玉の緒の」も枕詞。「人妻姤」(原文)を「人妻ゆゑに」と訓むのがいいか否かは疑問のあるところ。あるいは「姤」に着目して「奥方ゆゑに」とした方がいいのかも。「宮に通う道で高貴な奥方らしき人に出合ったが、奥方故に恋い焦がれてはいけないと、思い悩んで寝付かれない夜が多い」という歌である。

2366  まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ
      (真十鏡 見之賀登念 妹相可聞 玉緒之 絶有戀之 繁比者)
 旋頭歌。「まそ鏡」も「玉の緒の」も枕詞。第三句「妹も逢はぬかも」は「妹に逢わないかなあ」(「岩波大系本」ほか)と解されている。ならば「妹も」の「も」は何であろう。「妹に」と訓ずればよさそうなのに。「妹も」という訓が踏襲されてきたのには何か理由があるのだろう。第三句の原文は「妹相可聞」。「妹尓相可聞」となっていないので、「妹に」と訓みづらいのである。伝統に従って「妹も」としているのだろうか。私は「偶然に彼女に出逢う」などという歌ではないと思う。伝統どおり「妹逢はぬかも」でいいと思う。つまり原文は妹は客体ではなく主語だと言っているのである。では「も」は不要?。私は詠嘆ないし願望の「も」として残しておいていいと思う。
 「彼女に逢いたい。ああ、彼女も逢ってくれないだろうか。絶えて久しく逢っていないのでこのごろしきりに恋しい」という歌である。

2367  海原の道に乗りてや我が恋ひ居らむ大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに
      (海原乃 路尓乗哉 吾戀居 大舟之 由多尓将有 人兒由恵尓)
 旋頭歌。「海原(うなはら)の道に乗りてや」は「大海原に出て波に揺られているように」という比喩表現。「ゆたにあるらむ」は「ゆったりとした気持でいることだろう」という意味である。「大海原に出て波に揺られているように、彼女のことを恋続けている。が、彼女の方は人妻ゆえに大船に乗った気分でゆったりと暮らしているだろうに」という歌である。
 本歌には左注が付いていて、「右五首は古歌集に登載されている」とある。以上で、一連の旋頭歌は幕を閉じる。

2368  たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに
      (垂乳根乃 母之手放 如是許 無為便事者 未為國)
 以降149首(2368~2516番歌)は柿本人麿歌集より採択されている。そして、これらの歌は「正述心緒」の歌と記されている。「花とか木等に寄せて詠われた歌」ではなく「思いを直接述べた歌」というわけである。
 「たらちねの」はお馴染みの枕詞。「母が手離れ」は「一人前になって」、現代風に言えば「成人して以降」という意味。恋の切なさ、やるせなさを詠っている。「母の手から離れ、成人して以降、こんなに切なくやるせない思いにとらわれたことはいまだかってありません」という歌である。

2369  人の寝る味寐は寝ずて愛しきやし君が目すらを欲りし嘆かむ [或本歌云 君を思ふに明けにけるかも]
      (人所寐 味宿不寐 早敷八四 公目尚 欲嘆 [或本歌云 公矣思尓 暁来鴨])
 味寐(うまい)は快い眠りだが、男女の共寝を指すという説もある。が、必ずしも共寝ときめつける必要はあるまい。恋の悩みを詠った歌ととればすんなり歌意はとおる。「愛(は)しきやし」は「愛しい」ないし「恋しい」という意味。「君が目すらを」は「あなたのまなざしだけでも」という意味。「人は皆普通に熟睡に入るというのに、なかなか眠られず、恋しいあなたのまなざしだけでも欲しいと思って嘆息してしまいます」という歌である。異伝歌は結句が「あなたを思い続けているうちに夜が明けてしまいました」となっている。

2370  恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく
      (戀死 戀死耶 玉鉾 路行人 事告無)
 「恋ひ死なば恋ひも死ねとや」は「恋煩いで死ぬのなら死になさいとでもおっしゃるのですか」という意味である。「玉桙(たまほこ)の」は37例に及び、お馴染みの枕詞といってよかろう。ただ長歌が22例に及ぶのに対し短歌は15例にとどまっている。ここまではいい。が、下二句、特に結句の「言(こと)も告げなく」が悩ましい。書によって色々な解があり得る。たとえば、手元の三書は次のように解している。
  崙擦鮃圓人が(あの方の)言伝をしてくれない」(「岩波大系本」)。
 ◆崙擦鮃圓人が、あの人に逢えそうな言葉も口にしてはくれない」(「伊藤本」)。
 「道行く人は誰もあの人の言伝をしてくれないことよ」(「中西本」)。
 ,鉢は「言も告げなく」を「言伝をしてくれない」としている。が、言伝とは誰が誰に何を伝えることをいうのだろう。全く意味不明。したがって歌意が通らない。△篭貎瓦硫髻「あの人に関する情報を与えてくれない」という意味だと思うが、これも意味不明。道行く路傍の人が特定の人の情報をわざわざ彼女に告げるなどあり得ない。
 先ず、上二句の「恋煩いで死ぬのなら死になさいとでもおっしゃるのですか」を受け止めなければならない。下二句はそれに相応しい解でなければなるまい。死ねと言われて「死んでも~なのに」という下二句でないと歌意が通らない筈。では、私の解を申し上げよう。「恋煩いで死ぬのなら死になさいとでもおっしゃるのですか。そんな私が死んだところで道行く人の(世間の)噂にものぼらないのに」という歌である。判定は読者に委ねるが、これでちゃんと歌意は通ると思うがいかがだろう。

2371  心には千重に思へど人に言はぬ我が恋妻を見むよしもがも
      (心 千遍雖念 人不云 吾戀? 見依鴨)
 「人に言はぬ我が恋妻を」は「人には告げないで心中ひそかに思う恋妻を」、「見むよしもがも」は「逢う術はないのだろうか」という意味である。「心では幾重にも思い続けているのだが、人には告げないで心中ひそかに思う恋妻に逢う術はないのだろうか」という歌である。

2372  かくばかり恋ひむものぞと知らませば遠くも見べくあらましものを
      (是量 戀物 知者 遠可見 有物)
 三句目までは「恋の苦しさ」を補って読まないと歌意がつかめない。下二句は「恋などしなければよかったものを」という心情を表現したもの。「こんなにも恋することが苦しいものと知っていたら、遠くから憧れているだけでよかったものを」という歌である。

2373 いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ひはすべなし
      (何時 不戀時 雖不有 夕方任 戀無乏)
 「いつはしも」は「いつといって」、「かたまけて」は838番歌や1854番歌に使われているように「やってくると」という意味である。「いつといって恋しくないという時はないけれど、夕暮れがやってくると、やるせなくてたまらない」という歌である。

2374  かくのみし恋ひやわたらむたまきはる命も知らず年は経につつ
      (是耳 戀度 玉切 不知命 歳經管)
 「恋ひやわたらむ」は「恋続けるのだろう」という意味。「たまきはる」は枕詞。「いつまでこんなに恋続けるのだろう、この私は。いつまでも続く命ではないのに、年月ばかりが過ぎてゆく」という歌である。

2375  我れゆ後生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ
      (吾以後 所生人 如我 戀為道 相与勿湯目)
 「我れゆ後」が「私より後に」という意味だと分かれば、後は平明な歌。「私より後に生まれて来る人よ。この私のように恋に落ちてこんな苦しい目にあいなさんなよ、決して」という歌である。

2376  ますらをの現し心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば
      (健男 現心 吾無 夜晝不云 戀度)
 「現(うつ)し心も」の現(うつ)は「夢かうつつか」の「うつ」で、「現実」という意味。「恋ひしわたれば」は前々歌にあったように「恋続ける」という意味。「男らしく雄々しい心も私はなくしてしまった。夜となく昼となく、ただただ恋しいばかりで」という歌である。

2377  何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひぬ前にも死なましものを
      (何為 命継 吾妹 不戀前 死物)
 「命継ぎけむ」を「命をつないできたのだろう」などと直訳すると歌の味わいがなくなってしまう。「生きてきたんだ」で十分である。「なぜ生きてきたんだ。彼女を知る前に死んでしまえばよかったのに」という歌である。

2378  よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず我れは恋ひつつ居らむ
      (吉恵哉 不来座公 何為 不?吾 戀乍居)
 「よしゑやし」は2031番歌に「よしゑやし直ならずとも~」とあるように本来は「たとえ~とも」の意である。が、本歌には「~とも」がないので「何してんのよ」というほどの意味。「何してんのよ、来てもくれないあの人をどうして厭にもならず恋続けているんだろう、この私は」という歌である。

2379  見わたせば近き渡りをた廻り今か来ますと恋ひつつぞ居る
      (見度 近渡乎 廻 今哉来座 戀居)
 「見わたせば近き渡りを」は「みわたすと近くに見える渡し場だが」という意味。た廻(もとほ)って(迂回して)行かねばならぬから遠い、という気持を詠んでいる。「みわたすと近くに見える渡し場だけれど、近くもない迂回路に早々と降りて、今か今かと恋しいあなたを待っています」という歌である。

2380  はしきやし誰が障ふれかも玉桙の道見忘れて君が来まさぬ
      (早敷哉 誰障鴨 玉桙 路見遺 公不来座)
 「はしきやし」は「ああ悔しいこと」という一種の感嘆符。「誰が障(さ)ふれかも」は「いったい誰が邪魔をしているのでしょう」という意味である。「玉桙の」は枕詞。「ああ悔しいこと、いったい誰が邪魔をしているのでしょう。馴染みの道もお忘れになってしまったのかわが君はいらっしゃらない」という歌である。
           (2015年4月7日記)
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