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「青春ずる」とは妙な言葉である。おそらく私の造語である。私の意図はひとことでいうと「生きている」ということである。どういうことかというと、青春時代の営みは心身ともに健康な状態でないと謳歌出来ない。このことは直接年齢に関係しない。若くても妙に老成した人もおり、老齢になっても矍鑠(かくしゃく)たる人もいる。
なぜ不意にこんなことを言い出したかというと、「青春ずる」の状態でないと十分に対応できないことがあるからである。遠出したり、長時間運転したり、会合に出たり等々、何でもいいのだが、「青春ずる」の状態、すなわち、「自分が青春時代の中を生きている」という状態にいないと十全に活動出来ないことが少なくない。現在私が最も力を込めて従事している万葉集に引きつけて述べてみるとこうである。
万葉集は主として、「雑歌」、「相聞」、「挽歌」の三区分に分けられて編まれている。中でも、男女間の歌、すなわち恋愛歌を中心とする相聞歌(そうもんか)が最も大きな部分を占めている。「正述心緒」、「寄物陳思」など一見「相聞」とは関係しないかに見える区分の巻もあるが、内容的には大半が相聞歌である。
さて、相聞歌はその性格上、青春下の男女のやりとりが主だ。「そういえば若い頃にそういうこともあったなあ」と回想的に見たり、過度に客観視して見たのでは読解できない。作品は現に青春下状態の心情を詠っているのである。その心情を受け取るには読解者自身の感受性が試される。つまり「青春ずる」状態にいないと共感できない。言語学だの古文法だのは私がうといせいもあるが、二の次、三の次。大切なのは歌意を心で受ける感受性なのだ。「青春ずる」などという妙な言葉を持ち出した理由がお分かりいただけただろうか。「老成だの達観だのはくそくらえ」。これが私の「青春ずる」精神なのである。生きている限り、今後もこの「青春ずる」精神でいきたいと思っている。
(2015年4月8日)
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「青春ずる」とは妙な言葉である。おそらく私の造語である。私の意図はひとことでいうと「生きている」ということである。どういうことかというと、青春時代の営みは心身ともに健康な状態でないと謳歌出来ない。このことは直接年齢に関係しない。若くても妙に老成した人もおり、老齢になっても矍鑠(かくしゃく)たる人もいる。
なぜ不意にこんなことを言い出したかというと、「青春ずる」の状態でないと十分に対応できないことがあるからである。遠出したり、長時間運転したり、会合に出たり等々、何でもいいのだが、「青春ずる」の状態、すなわち、「自分が青春時代の中を生きている」という状態にいないと十全に活動出来ないことが少なくない。現在私が最も力を込めて従事している万葉集に引きつけて述べてみるとこうである。
万葉集は主として、「雑歌」、「相聞」、「挽歌」の三区分に分けられて編まれている。中でも、男女間の歌、すなわち恋愛歌を中心とする相聞歌(そうもんか)が最も大きな部分を占めている。「正述心緒」、「寄物陳思」など一見「相聞」とは関係しないかに見える区分の巻もあるが、内容的には大半が相聞歌である。
さて、相聞歌はその性格上、青春下の男女のやりとりが主だ。「そういえば若い頃にそういうこともあったなあ」と回想的に見たり、過度に客観視して見たのでは読解できない。作品は現に青春下状態の心情を詠っているのである。その心情を受け取るには読解者自身の感受性が試される。つまり「青春ずる」状態にいないと共感できない。言語学だの古文法だのは私がうといせいもあるが、二の次、三の次。大切なのは歌意を心で受ける感受性なのだ。「青春ずる」などという妙な言葉を持ち出した理由がお分かりいただけただろうか。「老成だの達観だのはくそくらえ」。これが私の「青春ずる」精神なのである。生きている限り、今後もこの「青春ずる」精神でいきたいと思っている。
(2015年4月8日)