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Channel: 古代史の道
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誰のための学問

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 前回のエッセイに「新学問のすすめ」という、いささか不適切なタイトルをつけた。不適切なという以上に不明瞭なタイトルというべきか。が、私の言わんとするところは私の古くからの読者なら大方推察がついたことと思う。
 そう、「万葉集」と題して私たち一般向けの書物の形を取っていながら、その実、研究用ないし研究者用の書物になっているのではないか、というのが私の疑問だった。接頭語だの接尾語だの「~の連体形」だの「~の語幹」だの、ク語法だのといった、いわば言語学、古文法に基づいた注釈がやたら多く、まさに研究者向けの書物になっている。加えて、「~頁参照」だの「~番歌注5参照」だのといった指示注が多い。以上のような状態では歌の鑑賞どころではない。それどころか研究者向けとしても煩雑な注釈群。
 こうした現状を見て、学問は一体誰のためにやっているのだという疑問を呈したくなった。医学も天文学もその他どんな学問も最終的には私たち一般人のためにやっているのではないのかという疑問だった。古文法学者や言語学者向けの、いわば仲間用語を使っての学問では後に続く人を戸惑わせるばかりではないのかという疑問だった。
 万葉集にひきつけて言えば、肝心の歌意が届くようにした上で、その読解や解釈のよしあしを世に問うべきではないのか、というのが素朴な私の疑問だった。
 こうした観点から私が言いたかったのは、学問というのは一体誰の為にあるのかという問いかけだった。その方法論も含めて、あらためて学問の原初的な出発点に立ち返るべきではないか、という問いかけだった。学問は決して仲間内のものではない。これをしっかりと脳裏に刻み、再出発していただきたい。そしてこのことを称して「新学問のすすめ」と題した次第である。決して、決して象牙の塔であってはならない。私たち一般に開かれた地点に立脚しての学問であってほしいと願ったのである。
            (2016年2月16日)
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