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万葉集読解・・・99(1436~1447番歌)

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     万葉集読解・・・99(1436~1447番歌)
1436  含めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも
      (含有常 言之梅我枝 今旦零四 沫雪二相而 将開可聞)
 次歌ととに作者は大伴宿祢村上。梅の歌。
 「含めりと言ひし」は「ふくらんできて蕾が開花しそうだと聞いたが」という意味である。「咲きぬらむかも」は「咲いたであろうか」。「開花直前と聞いたが、今朝降った沫雪に出会って無事咲いたんだろうか」という歌である。

1437  霞立つ春日の里の梅の花山のあらしに散りこすなゆめ
      (霞立 春日之里 梅花 山下風尓 落許須莫湯目)
 「霞立つ春日の里の」は「春の里の」くらいに軽く受けておけば十分。「春が来て春日の里では梅の花が咲いている。山あらしにあって散ってしまわないでおくれ」という歌である。

1438  霞立つ春日の里の梅の花花に問はむと我が思はなくに
      (霞立 春日里之 梅花 波奈尓将問常 吾念奈久尓)
 作者は大伴宿祢駿河丸(するがままろ)。
 第四句「花に問はむと」がキーワード。が、この四句,二様に取れる。ひとつは「花に問おうと(訊ねようと)」という意味。寓意歌とすれば「あなたの心を花に訊ねようと」という意味になる。ふたつめは「花自体が目的で」という意味。つまり「花を見るために行くのではなく、あなた自身に逢いに行くのです」という意味になる。どう解釈するのが適切だろう。「相聞歌」に分類されていないで「雑歌」の一首なので解釈が厄介。私としては、一応二番目の解を採用して、「春が来て春日の里では梅の花が咲いている。でも、花だけを目的にその里を訪ねようとは思いません。」という歌意ととっておきたい。

1439  時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺に霞たなびく
      (時者今者 春尓成跡 三雪零 遠山邊尓 霞多奈婢久)
 作者は中臣朝臣武良自(むらじ)。
 いうまでもないことだが「春になりぬと」は「み雪降る」にかかっているわけではない。結句の「霞たなびく」にかかっている。「今まさに春がやってきたんだなあ。いまだ雪が降っているあの遠山のあたりにも霞がたなびいている」という歌である。

1440  春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ
      (春雨乃 敷布零尓 高圓 山能櫻者 何如有良武)
 作者は河邊朝臣東人(あづまひと)。
 「しくしく降るに」は「しくしく降っているけれど」。高円山(たかまどやま)は奈良市春日山の南方の山。「春雨がしくしく降っているけれど、高円山の桜はどんな様子なんだろう」という歌である。

1441  うち霧らひ雪は降りつつしかすがに我家の苑に鴬鳴くも
      (打霧之 雪者零乍 然為我二 吾宅乃苑尓 鴬鳴裳)
 作者は大伴宿祢家持。ウグイスの歌。
 平明な歌で、「霧がかかったように細かい雪が降っているが、我家の園では早くもうウグイスが鳴いている」という歌である。

1442  難波辺に人の行ければ後れ居て春菜摘む兒を見るが悲しさ
      (難波邊尓 人之行礼波 後居而 春菜採兒乎 見之悲也)
 作者は大蔵少輔丹比屋主真人(たぢひのやぬしまひと)。少輔(せうふ)は次官。長官は卿(まへつきみ)。「岩波大系本」も「伊藤本」も「人の行ければ」を「夫がでかけ」と解し、「兒」
を女と解している。が、私には奇妙としか思われない。夫は作者の屋主真人の方であって、難波(大坂)方面に出かけているのは妻たち家人なのである。兒は女なのではなく、我が子のことだ。次歌と併せて読むと分かるが、家主真人は休暇中で息子を伴って近在の野に出かけたのだと推測出来る。「難波辺に家の者立ちたちが出かけていて留守。息子を連れて春の野に出かけたのだが、春菜を摘んでいるわが子を見ていると侘びしい」という歌である。むろん「後れ居て」は「留守居」のこと。

1443  霞立つ野の上の方に行きしかば鴬鳴きつ春になるらし
      (霞立 野上乃方尓 行之可波 鴬鳴都 春尓成良思)
 作者は丹比真人乙麻呂。細注に「屋主真人の第二子」とある。
 「野の上の方(うへのかた)」は「野が小高くなった所」。「霞立つ野の上(かみ)の方に行ってみたら、ウグイスが鳴いていたよ。春になったんだね」という歌である。

1444  山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり
      (山振之 咲有野邊乃 都保須美礼 此春之雨尓 盛奈里鶏利)
 作者は高田女王(たかたのおほきみ)。細注に「高安の女(むすめ)也」とある。
 「つぼすみれ」というスミレ品種はないようだが、1449番歌にも詠われており、「つほすみれ」といえば当時の人には分かったに相違ない。壺のようにすぼまった状態のスミレのことを指したものだろうか。「山吹が咲いている野辺につほすみれが咲いている。春雨を浴びて今真っ盛り」という歌である。

1445  風交り雪は降るとも実にならぬ我家の梅を花に散らすな
      (風交 雪者雖零 實尓不成 吾宅之梅乎 花尓令落莫)
 作者は大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)。「実にならぬ」にまだを補って「まだ実にならぬ」として読むと分かりやすい。「風交りの雪が降ることもあろうが、まだ実になっていない我家の梅。花をつけただけで終わらないでおくれよ」という歌である。

1446  春の野にあさる雉の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ
      (春野尓 安佐留雉乃 妻戀尓 己我當乎 人尓令知管)
 作者は大伴宿祢家持。春の雉の歌。
 結句の「人に知れつつ」を相聞歌の寓意と取ってとれないわけではない。ただ、本歌は雑歌に区分されており、それ以上に決定的な不審点は男女間の秘め事は通常、こう大っぴらに詠われることはない。もしも大っぴらの関係ならけたたましい雉の鳴き声を引き合いに出して、寓意歌にする必要がない。「春の野に餌をあさる雉が妻恋いのようなけたたましい鳴き声を発するのはまるで自分の居場所を人に知らせているようなものだ」という歌だが、私は「雉が妻恋しさにけたたましく鳴いている」というように単純に情景歌と解しておくのがいいと思う。

1447  世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ
      (尋常 聞者苦寸 喚子鳥 音奈都炊 時庭成奴)
 作者は大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)。
 呼子鳥はその鳴き声が人恋しげに聞こえる鳥のことで、カッコウやゴイサギのことだという。「ふだんは切ないその鳴き声も春になったのでなつかしげに聞こえる」という歌。歌意はそれでいいのだろうが、私は別解もあると思う。「世の常に」を「通常なら」すなわち「そのさなかにあるときは」と受け取り、「(恋しさがつのって)切なく苦しく聞こえる呼子鳥の声も、時期が過ぎてみると春の日のようになつかしく聞こえる」と解する。そしてこれが私の別解である。通常解か別解か。いずれがより適切かその適否は読者の判定に委ねたい。
 本歌には左注が付いていて、「本歌は天平四年(732年)三月一日佐保宅で作歌された」とある。この注は 坂上郎女が佐保に住んでいたことを直接物語るもので、頭の隅にでも記憶にとどめておくといいかもしれない。
 以上、ここまでが春雑歌の部分である。春相聞に入る次歌以降は次回に譲りたい。
           (2014年8月21日記)
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