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無常と聞くと、私たちの多くは「方丈記」や「平家物語」の冒頭部の一節を思い起こすのではなかろうか。それほど有名であり、教科書にも紹介されてきた一文だ。
ちなみにその一節を紹介すると次のとおりである。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし(方丈記)。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし(平家物語)。
無常をうたったこうした言葉は私たちの心を揺り動かす。自然や人間界の摂理を見事に突いているからに相違ない。そればかりではない。古今を通じ、国境を越えてあまねく人々に語りかけるからに相違ない。「方丈記」や「平家物語」は鎌倉時代の1200年代(1212~1243年)に成立したとみられている。
さて、次の一節は誰の言葉であろう。
天地の遠き初めよ、世間(よのなか)は常なきものと語り継ぎ流らへ来たれ、~中略~、 吹く風の見えぬがごとく行く水の止まらぬごとく常もなくうつろふ。
なんと、これは大伴家持の歌(4160番長歌)の一節なのである。次回の万葉集読解で紹介出来ると思う。家持といえば万葉歌人の代表的歌人。この歌、「方丈記」や「平家物語」よりも500年近くも遡る奈良時代の歌である。しかも「天地の遠き初めよ」と歌い出しているように、「無常は遠いいにしえより語り継がれてきた」と言っている。行く水にたとえているところなど、「方丈記」そっくりではないか。むろん、正確にいえば「方丈記」は家持の歌にそっくりではないか、というべきだろう。
万葉集がもたらす情報の豊富さに合掌である
(2016年12月21日)
無常と聞くと、私たちの多くは「方丈記」や「平家物語」の冒頭部の一節を思い起こすのではなかろうか。それほど有名であり、教科書にも紹介されてきた一文だ。
ちなみにその一節を紹介すると次のとおりである。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし(方丈記)。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし(平家物語)。
無常をうたったこうした言葉は私たちの心を揺り動かす。自然や人間界の摂理を見事に突いているからに相違ない。そればかりではない。古今を通じ、国境を越えてあまねく人々に語りかけるからに相違ない。「方丈記」や「平家物語」は鎌倉時代の1200年代(1212~1243年)に成立したとみられている。
さて、次の一節は誰の言葉であろう。
天地の遠き初めよ、世間(よのなか)は常なきものと語り継ぎ流らへ来たれ、~中略~、 吹く風の見えぬがごとく行く水の止まらぬごとく常もなくうつろふ。
なんと、これは大伴家持の歌(4160番長歌)の一節なのである。次回の万葉集読解で紹介出来ると思う。家持といえば万葉歌人の代表的歌人。この歌、「方丈記」や「平家物語」よりも500年近くも遡る奈良時代の歌である。しかも「天地の遠き初めよ」と歌い出しているように、「無常は遠いいにしえより語り継がれてきた」と言っている。行く水にたとえているところなど、「方丈記」そっくりではないか。むろん、正確にいえば「方丈記」は家持の歌にそっくりではないか、というべきだろう。
万葉集がもたらす情報の豊富さに合掌である
(2016年12月21日)