巻17~20メニュー へ
そ の 271 へ
万葉集読解・・・270(4166~4176番歌)
霍公鳥と并時の花を詠んだ歌一首と短歌
4166番長歌
時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花咲き 鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに うち嘆き 萎えうらぶれ 偲ひつつ 争ふはしに 木の暗の 四月し立てば 夜隠りに 鳴く霍公鳥 いにしへゆ 語り継ぎつる 鴬の 現し真子かも あやめぐさ 花橘を 娘子らが 玉貫くまでに あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八つ峰飛び越え ぬばたまの 夜はすがらに 暁の 月に向ひて 行き帰り 鳴き響むれど なにか飽き足らむ
(毎時尓 伊夜目都良之久 八千種尓 草木花左伎 喧鳥乃 音毛更布 耳尓聞 眼尓視其等尓 宇知嘆 之奈要宇良夫礼 之努比都追 有争波之尓 許能久礼<能> 四月之立者 欲其母理尓 鳴霍公鳥 従古昔 可多<里>都藝都流 鴬之 宇都之真子可母 菖蒲 花橘乎 (女+感)嬬良我 珠貫麻泥尓 赤根刺 晝波之賣良尓 安之比奇乃 八丘飛超 夜干玉<乃> 夜者須我良尓 暁 月尓向而 徃還 喧等余牟礼杼 何如将飽足)
そ の 271 へ
万葉集読解・・・270(4166~4176番歌)
霍公鳥と并時の花を詠んだ歌一首と短歌
4166番長歌
時ごとに いやめづらしく 八千種に 草木花咲き 鳴く鳥の 声も変らふ 耳に聞き 目に見るごとに うち嘆き 萎えうらぶれ 偲ひつつ 争ふはしに 木の暗の 四月し立てば 夜隠りに 鳴く霍公鳥 いにしへゆ 語り継ぎつる 鴬の 現し真子かも あやめぐさ 花橘を 娘子らが 玉貫くまでに あかねさす 昼はしめらに あしひきの 八つ峰飛び越え ぬばたまの 夜はすがらに 暁の 月に向ひて 行き帰り 鳴き響むれど なにか飽き足らむ
(毎時尓 伊夜目都良之久 八千種尓 草木花左伎 喧鳥乃 音毛更布 耳尓聞 眼尓視其等尓 宇知嘆 之奈要宇良夫礼 之努比都追 有争波之尓 許能久礼<能> 四月之立者 欲其母理尓 鳴霍公鳥 従古昔 可多<里>都藝都流 鴬之 宇都之真子可母 菖蒲 花橘乎 (女+感)嬬良我 珠貫麻泥尓 赤根刺 晝波之賣良尓 安之比奇乃 八丘飛超 夜干玉<乃> 夜者須我良尓 暁 月尓向而 徃還 喧等余牟礼杼 何如将飽足)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「時ごとに」は「刻々変わる時毎に」すなわち「四季折々に」という意味である。「萎(しな)えうらぶれ」は「侘びしい思いに駆られ」、「争ふはしに」は「目移りしている間に」という意味。「鴬の 現(うつ)し真子かも」は「ウグイスの子なのか」ということ。「あかねさす」、「あしひきの」、「ぬばたまの」はそれぞれ枕詞。「昼はしめらに」は「昼はひっきりなしに」という意味。
(口語訳)
四季折々に興趣があり、数多くの草木に花が咲く。鳴く鳥の種類も変わり、つれて鳴き声も変わっていく。そうした風物の声を耳にし、目にするたびに、興に打たれ、侘びしい思いに駆られる。そうこうして目移りしている間に、木々の葉がうっそうとしてくる四月がやって来ると、夜の闇越にホトトギスの鳴く声がする。昔から語り継いできたウグイスの子たちの鳴き声もする。アヤメグサや花橘を娘子たちが薬玉に通す季節になる。昼はひっきりなしに多くの峰々に響き渡る鳥の声、夜は夜で暁の月に向かって行ったり来たりの鳴き響く声。どうしてこんな風物に飽きることがあろう。
四季折々に興趣があり、数多くの草木に花が咲く。鳴く鳥の種類も変わり、つれて鳴き声も変わっていく。そうした風物の声を耳にし、目にするたびに、興に打たれ、侘びしい思いに駆られる。そうこうして目移りしている間に、木々の葉がうっそうとしてくる四月がやって来ると、夜の闇越にホトトギスの鳴く声がする。昔から語り継いできたウグイスの子たちの鳴き声もする。アヤメグサや花橘を娘子たちが薬玉に通す季節になる。昼はひっきりなしに多くの峰々に響き渡る鳥の声、夜は夜で暁の月に向かって行ったり来たりの鳴き響く声。どうしてこんな風物に飽きることがあろう。
反歌二首
4167 時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも
(毎時 弥米頭良之久 咲花乎 折毛不折毛 見良久之余志<母>)
「時ごとに」は前歌参照。「四季折々に興趣深く咲く花、折り取ってもよし、そのまま眺めるのもよし」という歌である。
4167 時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも
(毎時 弥米頭良之久 咲花乎 折毛不折毛 見良久之余志<母>)
「時ごとに」は前歌参照。「四季折々に興趣深く咲く花、折り取ってもよし、そのまま眺めるのもよし」という歌である。
4168 毎年に来鳴くものゆゑ霍公鳥聞けば偲はく逢はぬ日を多み [毎年謂之等之乃波]
(毎年尓 来喧毛能由恵 霍公鳥 聞婆之努波久 不相日乎於保美 [毎年謂之等之乃波])
「逢はぬ日を多み」のみは「~ので」のみ。「逢わない日が多いので」という意味である。「毎年やって来て鳴くホトトギスだからその声を聞けばなつかしい。年がら年中鳴く鳥ではないので」という歌である。
なお、歌末の注に「毎年は「としのは」という」とある。
左注に「右は廿日に作る。季節がやってきたわけではないけれど」とある。
(毎年尓 来喧毛能由恵 霍公鳥 聞婆之努波久 不相日乎於保美 [毎年謂之等之乃波])
「逢はぬ日を多み」のみは「~ので」のみ。「逢わない日が多いので」という意味である。「毎年やって来て鳴くホトトギスだからその声を聞けばなつかしい。年がら年中鳴く鳥ではないので」という歌である。
なお、歌末の注に「毎年は「としのは」という」とある。
左注に「右は廿日に作る。季節がやってきたわけではないけれど」とある。
頭注に「京(みやこ)にいる尊母に贈ろうと作歌し、家婦に誂えた一首と短歌」とある。家婦とは妻のことで、家持の妻は坂上大嬢(さかのうへのおほいらつめ)。尊母は妻の母で坂上郎女(さかのうへのいらつめ)のこと。この頭注によれば妻は都から越中にやってきていたらしい。その彼女が都に帰ることになり、尊母に歌作して届けるよう依頼したらしい。
4169番長歌
霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言 朝夕に 聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取るといふ 白玉の 見が欲し御面 直向ひ 見む時までは 松柏の 栄えいまさね 貴き我が君 [御面謂之美於毛和]
(霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曽能未見都追 嘆蘇良 夜須<家>奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面 多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 [御面謂之美於毛和])
4169番長歌
霍公鳥 来鳴く五月に 咲きにほふ 花橘の かぐはしき 親の御言 朝夕に 聞かぬ日まねく 天離る 鄙にし居れば あしひきの 山のたをりに 立つ雲を よそのみ見つつ 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを 奈呉の海人の 潜き取るといふ 白玉の 見が欲し御面 直向ひ 見む時までは 松柏の 栄えいまさね 貴き我が君 [御面謂之美於毛和]
(霍公鳥 来喧五月尓 咲尓保布 花橘乃 香吉 於夜能御言 朝暮尓 不聞日麻祢久 安麻射可流 夷尓之居者 安之比奇乃 山乃多乎里尓 立雲乎 余曽能未見都追 嘆蘇良 夜須<家>奈久尓 念蘇良 苦伎毛能乎 奈呉乃海部之 潜取云 真珠乃 見我保之御面 多太向 将見時麻泥波 松栢乃 佐賀延伊麻佐祢 尊安我吉美 [御面謂之美於毛和])
「聞かぬ日まねく」は「聞かぬ日が多く」すなわち「聞かない日が積み重なり」という意味である。「山のたをりに」は「山々の間」をいう。「奈呉の海」は富山県射水市(旧新湊市)。現在射水市新湊庁舎がある。そこの前の海岸。
(口語訳)
ホトトギスがやってきて鳴く五月。咲きにおう橘の花のように、かぐわしい母上のお言葉。朝夕に聞かない日が積み重なりました。遠く離れた田舎にいるものですから、都とは山々が隔たっています。その間に立つ雲を見ては心休まる時はなく、苦しゅう思いでおります。ここ、奈呉の海の海人(あま)が潜って採るという真珠のように、拝見したいと思う母上のお顔。直接お逢いできる日がくるまで、どうか松や柏のようにお元気でいて下さい。母上様。(歌注に「御面は(みおもあ)という」とある。)
ホトトギスがやってきて鳴く五月。咲きにおう橘の花のように、かぐわしい母上のお言葉。朝夕に聞かない日が積み重なりました。遠く離れた田舎にいるものですから、都とは山々が隔たっています。その間に立つ雲を見ては心休まる時はなく、苦しゅう思いでおります。ここ、奈呉の海の海人(あま)が潜って採るという真珠のように、拝見したいと思う母上のお顔。直接お逢いできる日がくるまで、どうか松や柏のようにお元気でいて下さい。母上様。(歌注に「御面は(みおもあ)という」とある。)
反歌一首
4170 白玉の見が欲し君を見ず久に鄙にし居れば生けるともなし
(白玉之 見我保之君乎 不見久尓 夷尓之乎礼婆 伊家流等毛奈之)
「白玉」は真珠。「鄙(ひな)にし」は「田舎に」。しは強意。「真珠のようにお目にかかりたくてならないあなた様を見ないまま長くなりました。田舎にいるので生きた心地もありません」という歌である。
4170 白玉の見が欲し君を見ず久に鄙にし居れば生けるともなし
(白玉之 見我保之君乎 不見久尓 夷尓之乎礼婆 伊家流等毛奈之)
「白玉」は真珠。「鄙(ひな)にし」は「田舎に」。しは強意。「真珠のようにお目にかかりたくてならないあなた様を見ないまま長くなりました。田舎にいるので生きた心地もありません」という歌である。
頭注に「廿四日は立夏の四月節なり。廿三日の夕暮れに霍公鳥が来て暁に声を出して鳴いたので作った歌二首」とある。四月は旧暦で5月から6月にかけての初夏。
4171 常人も起きつつ聞くぞ霍公鳥この暁に来鳴く初声
(常人毛 起都追聞曽 霍公鳥 此暁尓 来喧始音)
「常人も」は「世間の人々も」。「世間の人々も目を覚まし聞くというではないか。ホトトギスがやって来て暁に鳴く、その初声を」という歌である。
4171 常人も起きつつ聞くぞ霍公鳥この暁に来鳴く初声
(常人毛 起都追聞曽 霍公鳥 此暁尓 来喧始音)
「常人も」は「世間の人々も」。「世間の人々も目を覚まし聞くというではないか。ホトトギスがやって来て暁に鳴く、その初声を」という歌である。
4172 霍公鳥来鳴き響めば草取らむ花橘を宿には植ゑずて
(霍公鳥 来喧響者 草等良牟 花橘乎 屋戸尓波不殖而)
「響(とよ)めば」は「鳴き響けば」。結句の「宿には植ゑずて」はどこか舌足らずの表現。「宿には」は「庭には」ということ。「家の庭に植えるまでもなく」という意味のようだ。「ホトトギス、来て鳴き響くようになったら、田の草を取りに野に出て聞こう。家の庭に花橘を植えるまでもなく」という歌である。
(霍公鳥 来喧響者 草等良牟 花橘乎 屋戸尓波不殖而)
「響(とよ)めば」は「鳴き響けば」。結句の「宿には植ゑずて」はどこか舌足らずの表現。「宿には」は「庭には」ということ。「家の庭に植えるまでもなく」という意味のようだ。「ホトトギス、来て鳴き響くようになったら、田の草を取りに野に出て聞こう。家の庭に花橘を植えるまでもなく」という歌である。
京(みやこ)の丹比家(たぢひけ)に贈る歌
4173 妹を見ず越の国辺に年経れば我が心どのなぐる日もなし
(妹乎不見 越國敝尓 經年婆 吾情度乃 奈具流日毛無)
「妹(いも)を見ず」の妹は親しくしていた寡婦のことか。「心どの」は「心の置きどころ」。「あなたにお逢いしないまま越の国に来て年が経ち、私の心の置きどころもなく和む日もありません」という歌である。
4173 妹を見ず越の国辺に年経れば我が心どのなぐる日もなし
(妹乎不見 越國敝尓 經年婆 吾情度乃 奈具流日毛無)
「妹(いも)を見ず」の妹は親しくしていた寡婦のことか。「心どの」は「心の置きどころ」。「あなたにお逢いしないまま越の国に来て年が経ち、私の心の置きどころもなく和む日もありません」という歌である。
頭注に「筑紫大宰府の時開かれた春苑の宴で追って応えた梅の歌一首」とある。家持の父大伴旅人が、天平二年(730年)正月、自宅で開いた宴会のことを指しているようだ。が、この時家持は12歳前後の年少者。この時の梅花の歌は815番歌以下32首に納められている。815番歌は「正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ」である。
4174 春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし
(春裏之 樂終者 梅花 手折乎伎都追 遊尓可有)
12歳前後の年少者だった家持が記録に残っている梅の花の歌を見て、これに応えた歌とされるが、どうか?。「楽しき終(をへ)は」は「楽しい極み」という意味。「春の楽しみの中で最も楽しいのは梅の花を手折って招き寄せて遊び興ずることであろう」という歌である。
左注に「右の一首は廿七日、興を催して作れり」とある。
霍公鳥を詠んだ歌二首
4175 霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさかづらくまでに離るる日あらめや [も、の、は、三個の文字を欠く]
(霍公鳥 今来喧曽无 菖蒲 可都良久麻泥尓 加流々日安良米也 [毛能波三箇辞闕之])
「かづらくまでに」は「髪飾りする時節までは」という意味である。「ホトトギスが今やって来て鳴き始めた。アヤメグサを髪飾りにする時節(五月)までいなくなるなんてあるものか」という歌である。
歌末注は、も、の、は、不使用の意味。
4174 春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし
(春裏之 樂終者 梅花 手折乎伎都追 遊尓可有)
12歳前後の年少者だった家持が記録に残っている梅の花の歌を見て、これに応えた歌とされるが、どうか?。「楽しき終(をへ)は」は「楽しい極み」という意味。「春の楽しみの中で最も楽しいのは梅の花を手折って招き寄せて遊び興ずることであろう」という歌である。
左注に「右の一首は廿七日、興を催して作れり」とある。
4175 霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさかづらくまでに離るる日あらめや [も、の、は、三個の文字を欠く]
(霍公鳥 今来喧曽无 菖蒲 可都良久麻泥尓 加流々日安良米也 [毛能波三箇辞闕之])
「かづらくまでに」は「髪飾りする時節までは」という意味である。「ホトトギスが今やって来て鳴き始めた。アヤメグサを髪飾りにする時節(五月)までいなくなるなんてあるものか」という歌である。
歌末注は、も、の、は、不使用の意味。
4176 我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず [も、の、は、て、に、を、六個の文字を欠く]
(我門従 喧過度 霍公鳥 伊夜奈都可之久 雖聞飽不足 [毛能波氐尓乎六箇辞闕之])
読解不要の平明歌といってよかろう。「我が家の門を鳴きながら通りすぎてゆくホトトギス。本当に懐かしく、聞いても聞いてもきき足りない」という歌である。
歌末注は、も、の、は、て、に、を、不使用の意味。
(2016年12月30日記)
![イメージ 1]()
(我門従 喧過度 霍公鳥 伊夜奈都可之久 雖聞飽不足 [毛能波氐尓乎六箇辞闕之])
読解不要の平明歌といってよかろう。「我が家の門を鳴きながら通りすぎてゆくホトトギス。本当に懐かしく、聞いても聞いてもきき足りない」という歌である。
歌末注は、も、の、は、て、に、を、不使用の意味。
(2016年12月30日記)