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万葉集読解・・・289(4404~4412番歌)

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     万葉集読解・・・289(4404~4412番歌)
4404  難波道を行きて来までと我妹子が付けし紐が緒絶えにけるかも
      (奈尓波治乎 由伎弖久麻弖等 和藝毛古賀 都氣之非毛我乎 多延尓氣流可母)
 「難波道」は難波(大阪)に至る道。作者が上毛野(かみつけの)国(群馬県)の人だから群馬県から難波までの道程ということになる。防人(さきもり)としていくのであるから、筑紫まであるが、難波までは陸路だった。難波から船路。つまり、難波が一つの区切りと考えられていた。
 「難波道を通って行き、また難波道を通ってお帰りになるまでと妻が付けてくれた着物の紐。その紐が切れてしまった」という歌である。
 左注に「右は、助丁、上毛野牛甘(かみつけののうしかひ)の歌」とある。助丁は國造(くに」のみやつこ)の下級使用人。

4405  我が妹子が偲ひにせよと付けし紐糸になるとも我は解かじとよ
      (和我伊母古我 志濃比尓西餘等 都氣志<非>毛 伊刀尓奈流等母 和波等可自等余)
 「偲ひにせよと」は「私を偲ぶよすがにして下さいと」という意味である。
 「わが妻が私を偲ぶよすがにして下さいと付けてくれた着物の紐、たとえ糸のように細くなろうとも解くものか」という歌である。
 左注に「右は、朝倉益人(あさくらのますひと)の歌」とある。

4406  我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも
      (和我伊波呂尓 由加毛比等母我 久佐麻久良 多妣波久流之等 都氣夜良麻久母)
 「我が家(いは)」(原文「和我伊波」)は「我が家(いへ)」の訛り。「家ろ」は親しみのろ。「行かも」は「行かむ」の訛り。「人もが」は願望。「草枕」は枕詞。
 「我が家のある故郷に行く人がいないかなあ。その人に、旅は苦しいと家の人に告げてもらうのに」という歌である。
 左注に「右は、大伴部節麻呂(おほともべのふしまろ)の歌」とある。

4407  ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
      (比奈久母理 宇須比乃佐可乎 古延志太尓 伊毛賀古比之久 和須良延奴加母)
 「ひな曇り」は本歌一例しかなく、枕詞(?)。「薄日曇り」の意味だろうか。「越えしだに」は3615番歌と4367番歌に「忘れもしだは」とある。「忘れむ季(き)だは」の訛りと思われ、時の意味。
 「薄日さすというではないが、碓氷の坂を越えて行くとき、妻が恋しく、忘れられない」という歌である。
 左注に「右は、他田部子磐前(をさたべのこいはさき)の歌」とある。
 4404番歌以下四首の注として「二月廿三日、上野國の防人部領使、大目正六位下上毛野君駿河(かみつけののきみするが)がとりまとめ、奉った歌の數十二首、但し拙劣歌は登載せず」とある。防人部領使(さきもりのことりづかひ)は防人を京に引率する役目。二月廿三日は天平勝宝7年(755年)。目は国司(国の役所)に置かれた四部官。守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。4番目の官。駿河が奉った相手は大伴家持。

 頭注に「防人の悲別の情を述べた歌及び短歌」とある。
4408番長歌
   大君の 任けのまにまに 島守に 我が立ち来れば ははそ葉の 母の命は み裳の裾 摘み上げ掻き撫で ちちの実の 父の命は 栲づのの 白髭の上ゆ 涙垂り 嘆きのたばく 鹿子じもの ただ独りして 朝戸出の 愛しき我が子 あらたまの 年の緒長く 相見ずは 恋しくあるべし 今日だにも 言問ひせむと 惜しみつつ 悲しびませば 若草の 妻も子どもも をちこちに さはに囲み居 春鳥の 声のさまよひ 白栲の 袖泣き濡らし たづさはり 別れかてにと 引き留め 慕ひしものを 大君の 命畏み 玉桙の 道に出で立ち 岡の崎 い廻むるごとに 万たび かへり見しつつ はろはろに 別れし来れば 思ふそら 安くもあらず 恋ふるそら 苦しきものを うつせみの 世の人なれば たまきはる 命も知らず 海原の 畏き道を 島伝ひ い漕ぎ渡りて あり廻り 我が来るまでに 平けく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住吉の 我が統め神に 幣奉り 祈り申して 難波津に 船を浮け据ゑ 八十楫貫き 水手ととのへて 朝開き 我は漕ぎ出ぬと 家に告げこそ
      (大王乃 麻氣乃麻尓々々 嶋守尓 和我多知久礼婆 波々蘇婆能 波々能美許等波 美母乃須蘇 都美安氣可伎奈O 知々能未乃 知々能美許等波 多久頭<努>能 之良比氣乃宇倍由 奈美太多利 奈氣伎乃多婆久 可胡自母乃 多太比等里之? 安佐刀O乃 可奈之伎吾子 安良多麻乃 等之能乎奈我久 安比美受波 古非之久安流倍之 今日太<尓>母 許等騰比勢武等 乎之美都々 可奈之備麻勢婆 若草之 都麻母古騰母毛 乎知己知尓 左波尓可久美為 春鳥乃 己恵乃佐麻欲比 之路多倍乃 蘇O奈伎奴良之 多豆佐波里 和可礼加弖尓等 比伎等騰米 之多比之毛能乎 天皇乃 美許等可之古美 多麻保己乃 美知尓出立 乎可<乃>佐伎 伊多牟流其等尓 与呂頭多妣 可弊里見之都追 波呂々々尓 和可礼之久礼婆 於毛布蘇良 夜須久母安良受 古布流蘇良 久流之伎毛乃乎 宇都世美乃 与能比等奈礼婆 多麻伎波流 伊能知母之良受 海原乃 可之古伎美知乎 之麻豆多比 伊己藝和多利弖 安里米具利 和我久流麻O尓 多比良氣久 於夜波伊麻佐祢 都々美奈久 都麻波麻多世等 須美乃延能 安我須賣可未尓 奴佐麻都利 伊能里麻乎之弖 奈尓波都尓 船乎宇氣須恵 夜蘇加奴伎 可古<等登>能倍弖 安佐婢良伎 和波己藝O奴等 伊弊尓都氣己曽)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「島守に」とは「この日本列島の守衛として」という意味である。大伴家持の時代には日本が列島の島々から成っていることが認識されており、筑紫に行って守衛に就くとは東国を含めた列島を守衛することだと認識されていた。それが島守の意味である。「ははそ葉の母」は「ブナ科の木」(ははそ葉)と同音の母を導いた表現。「ちちの実の父」は「乳の木ないしトチノキ」と同音から導いた表現。4164番長歌にも同例がある。「栲綱(たくづの)の」はコウゾの繊維で作った綱で、白髭の形容。三つとも枕詞的表現。「鹿子(かご)じもの」は「鹿の子のように」。「言(こと)問ひせむと」は「会話をしようでないか」という意味である。

 (口語訳)
 「大君のご任命なさるままに、列島の守衛に防人として家を出立してきた。その際、ははそ葉の母上は裳裾をつまみ上げ、私の頭をかき上げ撫でられた。また、ちちの実の父上は栲綱(たくづの)のような白髭に涙を流されておっしゃった。「鹿の子のように、たったひとりで朝、旅立つ愛しい我が子。長年月逢えなくなると思うと悲しく恋しい。せめて今日だけでも語り合おうではないか」と・・・。名残を惜しまれ、悲しまれるので、妻も子供もあちこちから寄ってきて私を取り囲む。春鳥のように声をあげ、着物の袖を泣きぬらし、手にとりすがった。そうして別れ辛いと私を引き留め、慕う。が、恐れ多くも大君のご命令とあれば、出立しなければならない。丘や岬を回るたびに幾たびも振り返り別れ、はるばるやってきた。旅の空は心は安からず、故郷の空は恋しく苦しい。この世に生きている生身の人である以上、明日の命も知れない身。恐ろしい海原の道を島伝いに漕ぎ回っていく。どうか私が無事に帰ってこられるように。それまで両親は平穏でいてほしい。妻は達者でいてほしい。住吉の神様に供え物をしてお祈りした。 難波津に船を浮かべ、船に梶をぴっしり取り付け、水夫(かこ)を取りそろえ、朝が明ける早朝に漕ぎ出していったと故郷の家の者にお伝え下さい。」

4409  家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね
      (伊弊婢等乃 伊波倍尓可安良牟 多比良氣久 布奈O波之奴等 於夜尓麻乎佐祢)
 「家人の」は言うまでもなく「故郷の家の人」。「斎(いは)へにかあらむ」は「祈ってくれているからだろう」という意味。
 「故郷の家の人たちが祈ってくれているからだろう。無事に船出して筑紫に向かったと親に伝えて下さい」という歌である。

4410  み空行く雲も使と人は言へど家づと遣らむたづき知らずも
      (美蘇良由久 々母々都可比等 比等波伊倍等 伊弊頭刀夜良武 多豆伎之良受母)
 「家づと」は「故郷の家の手みやげ」のこと。「たづき」は「手段」ないし「方法」。
 「大空を流れゆく雲も使いだと人は言うが、故郷の家へみやげを送ろうと思っても、どうしていいのか分からない」という歌である。

4411  家づとに貝ぞ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど
      (伊弊都刀尓 可比曽比里弊流 波麻奈美波 伊也<之>久々々二 多可久与須礼騰)
 「家づと」は前歌参照。浜波は浜に押し寄せてくる波。「しくしく」は「しきりに」という意味である。
 「故郷の家の手みやげにしようと思って貝を拾っている。その浜に波がしきりに、高く押し寄せてくるけれど」という歌である。

4412  島蔭に我が船泊てて告げ遣らむ使を無みや恋ひつつ行かむ
      (之麻可氣尓 和我布祢波弖? 都氣也良牟 都可比乎奈美也 古非都々由加牟)
 「使を無みや」は「~無いので」の「み」に語勢を強める助詞「や」が付いたもの。「(海上では)使いを頼むわけにはいかず」という意味。
 「島陰に私の船が停泊したが、海上ではここの様子を告げて故郷に知らせる使いは無く、このまま故郷に思いを馳せながら航海を続けることになろう」という歌である。
 左注に「二月廿三日、兵部少輔大伴宿祢家持」とある。二月廿三日は天平勝宝7年(755年)。「兵部少輔」は兵部省次官。
           (2017年3月28日記)
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