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万葉集読解・・・286(4371~4383番歌)
4371 橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも
(多知波奈乃 之多布久可是乃 可具波志伎 都久波能夜麻乎 古比須安良米可毛)
「筑波の山」は茨城県南西部にある筑波山」。「恋ひずあらめかも」は「恋わずにいられようか」という反語表現。
「橘の木陰を吹く風の芳しいこと。筑波山を恋わずにいられようか」という歌である。
左注に「右は助丁、占部廣方(うらべのひろかた)の歌」とある。助丁は國造(くにのみやつこ)の使用人のひとつ。
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万葉集読解・・・286(4371~4383番歌)
4371 橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも
(多知波奈乃 之多布久可是乃 可具波志伎 都久波能夜麻乎 古比須安良米可毛)
「筑波の山」は茨城県南西部にある筑波山」。「恋ひずあらめかも」は「恋わずにいられようか」という反語表現。
「橘の木陰を吹く風の芳しいこと。筑波山を恋わずにいられようか」という歌である。
左注に「右は助丁、占部廣方(うらべのひろかた)の歌」とある。助丁は國造(くにのみやつこ)の使用人のひとつ。
4372番長歌
足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く 荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く 馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは斎はむ 諸々は 幸くと申す 帰り来までに
(阿志加良能 美佐可多麻波理 可閇理美須 阿例波久江由久 阿良志乎母 多志夜波婆可流 不破乃世伎 久江弖和波由久 牟麻能都米 都久志能佐伎尓 知麻利為弖 阿例波伊波々牟 母呂々々波 佐祁久等麻乎須 可閇利久麻弖尓)
足柄の み坂給はり 返り見ず 我れは越え行く 荒し夫も 立しやはばかる 不破の関 越えて我は行く 馬の爪 筑紫の崎に 留まり居て 我れは斎はむ 諸々は 幸くと申す 帰り来までに
(阿志加良能 美佐可多麻波理 可閇理美須 阿例波久江由久 阿良志乎母 多志夜波婆可流 不破乃世伎 久江弖和波由久 牟麻能都米 都久志能佐伎尓 知麻利為弖 阿例波伊波々牟 母呂々々波 佐祁久等麻乎須 可閇利久麻弖尓)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「足柄」は神奈川県南西部。「み坂給はり」は「神が与えた坂」という意味。「越(く)え行く」(原文「久江由久」)は「越え行く」の訛り。{越(く)えて」も同様。「立しや」は「立ちや」の訛り。「不破の関」は岐阜県不破郡にあった関所。「馬の爪」は本歌一例しかなく枕詞(?)。
(口語訳)
神が設けられた足柄峠の坂。後を振り返らずに私は越えてゆく。荒々しい男でさえためらう不破の関を越えて私はゆく。馬の蹄がすり減るという遠い筑紫の崎まで行ってとどまる。そこで私は身を清めて祈りを捧げよう。故郷のみなみなはご無事でと祈ってくれる。無事に帰って来るまで。
神が設けられた足柄峠の坂。後を振り返らずに私は越えてゆく。荒々しい男でさえためらう不破の関を越えて私はゆく。馬の蹄がすり減るという遠い筑紫の崎まで行ってとどまる。そこで私は身を清めて祈りを捧げよう。故郷のみなみなはご無事でと祈ってくれる。無事に帰って来るまで。
左注に「右は倭文部可良麻呂(しとりべのからまろ)の歌」とある。
4360番歌以下の十三首の総注として「二月十四日、常陸國の防人部領使、大目正七位上息長真人國嶋(おきながのまひとくにしま)がとりまとめ、奉った歌の數十七首、但し拙劣歌は登載せず」とある。防人部領使(さきもりのことりづかひ)は防人を京に引率する役目。二月十四日は天平勝宝7年(755年)。目は国司(国の役所)に置かれた四部官。守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。4番目の官。國嶋が奉った相手は大伴家持。
4360番歌以下の十三首の総注として「二月十四日、常陸國の防人部領使、大目正七位上息長真人國嶋(おきながのまひとくにしま)がとりまとめ、奉った歌の數十七首、但し拙劣歌は登載せず」とある。防人部領使(さきもりのことりづかひ)は防人を京に引率する役目。二月十四日は天平勝宝7年(755年)。目は国司(国の役所)に置かれた四部官。守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の一つ。4番目の官。國嶋が奉った相手は大伴家持。
4373 今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは
(祁布与利波 可敝里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊埿多都和例波)
「醜(しこ)の」は「醜のますらを」(117番歌)や「醜の醜草」(3062番歌)のように、へりくだった形容に使われている。「微力ながら」というニュアンス。
「今日ただいまから、後ろを振り返ることなく、微力ながら大君の御楯となって出で立つ、おいらは」という歌である。
左注に「右は、火長の今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)の歌」とある。兵士十人を単位として火(か)と呼んだ。その長が火長である。
(祁布与利波 可敝里見奈久弖 意富伎美乃 之許乃美多弖等 伊埿多都和例波)
「醜(しこ)の」は「醜のますらを」(117番歌)や「醜の醜草」(3062番歌)のように、へりくだった形容に使われている。「微力ながら」というニュアンス。
「今日ただいまから、後ろを振り返ることなく、微力ながら大君の御楯となって出で立つ、おいらは」という歌である。
左注に「右は、火長の今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)の歌」とある。兵士十人を単位として火(か)と呼んだ。その長が火長である。
4374 天地の神を祈りてさつ矢貫き筑紫の島を指して行く我れは
(阿米都知乃 可美乎伊乃里弖 佐都夜奴伎 都久之乃之麻乎 佐之弖伊久和例波)
「さつ矢貫き」は「靫(ゆき)に矢を入れて」という意味。靫は細長い箱形の容器で、矢が50本入れられたという。
「天地の神々に祈りを捧げ、さつ矢を貫いて筑紫の島を指して進む、私は」という歌である。
左注に「右は、火長の大田部荒耳(おほたべのあらみみ)の歌」とある。火長は前歌参照。
(阿米都知乃 可美乎伊乃里弖 佐都夜奴伎 都久之乃之麻乎 佐之弖伊久和例波)
「さつ矢貫き」は「靫(ゆき)に矢を入れて」という意味。靫は細長い箱形の容器で、矢が50本入れられたという。
「天地の神々に祈りを捧げ、さつ矢を貫いて筑紫の島を指して進む、私は」という歌である。
左注に「右は、火長の大田部荒耳(おほたべのあらみみ)の歌」とある。火長は前歌参照。
4375 松のけの並みたる見ればいは人の我れを見送ると立たりしもころ
(麻都能氣乃 奈美多流美礼波 伊波妣等乃 和例乎美於久流等 多々理之母己呂)
「松のけの」は「松の木の」の訛り。「いは人の」は「家人の」の訛り。「立たりし」は「立てりし」の訛り。「もころ」は「のごとく」という意味。
「松の木が並んで立っているのを見ると、家の人々が並んで私を見送ってくれた様子にそっくりだ」という歌である。
左注に「右は、火長の物部真嶋(もののべのましま)の歌」とある。火長は前歌に同じ。
(麻都能氣乃 奈美多流美礼波 伊波妣等乃 和例乎美於久流等 多々理之母己呂)
「松のけの」は「松の木の」の訛り。「いは人の」は「家人の」の訛り。「立たりし」は「立てりし」の訛り。「もころ」は「のごとく」という意味。
「松の木が並んで立っているのを見ると、家の人々が並んで私を見送ってくれた様子にそっくりだ」という歌である。
左注に「右は、火長の物部真嶋(もののべのましま)の歌」とある。火長は前歌に同じ。
4376 旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ
(多妣由<岐>尓 由久等之良受弖 阿母志々尓 己等麻乎佐受弖 伊麻叙久夜之氣)
「母父(あもしし)に」(原文「阿母志々尓」)は「母父(おもちち)に」の訛り。「悔しけ」は「悔しき」の訛り。
「長の旅路になるとも知らないで、母父に別れの言葉も告げずに出てきたが、今となってみると悔しい」という歌である。
左注に「右は寒川郡の上丁、川上臣老(かはかみのおみおゆ)の歌」とある。寒川郡(さむかはのこほり)は栃木県にあった郡のことで、現在の小山市南部にあたる。上丁は國造(くにのみやつこ)の上級使用人。
(多妣由<岐>尓 由久等之良受弖 阿母志々尓 己等麻乎佐受弖 伊麻叙久夜之氣)
「母父(あもしし)に」(原文「阿母志々尓」)は「母父(おもちち)に」の訛り。「悔しけ」は「悔しき」の訛り。
「長の旅路になるとも知らないで、母父に別れの言葉も告げずに出てきたが、今となってみると悔しい」という歌である。
左注に「右は寒川郡の上丁、川上臣老(かはかみのおみおゆ)の歌」とある。寒川郡(さむかはのこほり)は栃木県にあった郡のことで、現在の小山市南部にあたる。上丁は國造(くにのみやつこ)の上級使用人。
4377 母刀自も玉にもがもや戴きてみづらの中に合へ巻かまくも
(阿母刀自母 多麻尓母賀母夜 伊多太伎弖 美都良乃奈可尓 阿敝麻可麻久母)
「母刀自(あもとじ)」(原文「阿母刀自」)は「おもとじ」の訛り。刀自は家事の中心女性。母の敬称。「みづら」は少年の髪型。「合へ巻かまくも」は「一緒に巻き込むのだが」という意味である。
「母上がもしも玉であってくれたら、おしいただいてみづら髪に一緒に巻き込むんだけど」という歌である。
左注に「右は津守宿祢小黒栖(つもりのすくねをぐるす)の歌」とある。
(阿母刀自母 多麻尓母賀母夜 伊多太伎弖 美都良乃奈可尓 阿敝麻可麻久母)
「母刀自(あもとじ)」(原文「阿母刀自」)は「おもとじ」の訛り。刀自は家事の中心女性。母の敬称。「みづら」は少年の髪型。「合へ巻かまくも」は「一緒に巻き込むのだが」という意味である。
「母上がもしも玉であってくれたら、おしいただいてみづら髪に一緒に巻き込むんだけど」という歌である。
左注に「右は津守宿祢小黒栖(つもりのすくねをぐるす)の歌」とある。
4378 月日やは過ぐは行けども母父が玉の姿は忘れせなふも
(都久比夜波 須具波由氣等毛 阿母志々可 多麻乃須我多波 和須例西奈布母)
「月日(つく)ひ」(原文「都久比」)は「月日(つき)ひ」の訛り。「過ぐは」は「過ぎは」の訛り。「「母父(あもしし)が」は前々歌参照。「忘れせなふも」は「忘れかねつも」の東国表現。
「月日は過ぎて行くけれど、母さん、父さんの玉のようなお姿は忘れようがありません」という歌である。
左注に「右は都賀郡の上丁、中臣部足國(なかとみべのたりくに)の歌」とある。都賀郡(つがのこほり)は栃木県日光市から鹿沼市にかけてあった郡。上丁は前々歌参照。
(都久比夜波 須具波由氣等毛 阿母志々可 多麻乃須我多波 和須例西奈布母)
「月日(つく)ひ」(原文「都久比」)は「月日(つき)ひ」の訛り。「過ぐは」は「過ぎは」の訛り。「「母父(あもしし)が」は前々歌参照。「忘れせなふも」は「忘れかねつも」の東国表現。
「月日は過ぎて行くけれど、母さん、父さんの玉のようなお姿は忘れようがありません」という歌である。
左注に「右は都賀郡の上丁、中臣部足國(なかとみべのたりくに)の歌」とある。都賀郡(つがのこほり)は栃木県日光市から鹿沼市にかけてあった郡。上丁は前々歌参照。
4379 白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度袖振る
(之良奈美乃 与曽流波麻倍尓 和可例奈波 伊刀毛須倍奈美 夜多妣蘇弖布流)
「寄そる」は「寄する」の訛り。「すべなみ」は「~ので」のみ。「八度袖振る」は「幾度も袖を振る」という意味である。
「白波が打ち寄せてくる故郷のこの浜辺から離れていってしまえば、どうしようもなく、幾度も幾度も袖を振る」という歌である。
左注に「右は足利郡の上丁、大舎人部祢麻呂(おほとねりべのねまろ)の歌」とある。足利郡(あしかがのこほり)は栃木県足利市から佐野市にかけてあった郡。上丁は前歌に同じ。
(之良奈美乃 与曽流波麻倍尓 和可例奈波 伊刀毛須倍奈美 夜多妣蘇弖布流)
「寄そる」は「寄する」の訛り。「すべなみ」は「~ので」のみ。「八度袖振る」は「幾度も袖を振る」という意味である。
「白波が打ち寄せてくる故郷のこの浜辺から離れていってしまえば、どうしようもなく、幾度も幾度も袖を振る」という歌である。
左注に「右は足利郡の上丁、大舎人部祢麻呂(おほとねりべのねまろ)の歌」とある。足利郡(あしかがのこほり)は栃木県足利市から佐野市にかけてあった郡。上丁は前歌に同じ。
4380 難波門を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく
(奈尓波刀乎 己岐O弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多可祢尓 久毛曽多奈妣久)
「神さぶる」は「神々しい」。生駒山は、奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある山。
「難波の港を漕ぎ出して、見ると、神々しい生駒山に雲がたなびいている」という歌である。
左注に「右は梁田郡の上丁、大田部三成(おほたべのみなり)の歌」とある。梁田郡(やなだのこほり)は栃木県足利市北西部あった郡。上丁は前歌に同じ。
(奈尓波刀乎 己岐O弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多可祢尓 久毛曽多奈妣久)
「神さぶる」は「神々しい」。生駒山は、奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある山。
「難波の港を漕ぎ出して、見ると、神々しい生駒山に雲がたなびいている」という歌である。
左注に「右は梁田郡の上丁、大田部三成(おほたべのみなり)の歌」とある。梁田郡(やなだのこほり)は栃木県足利市北西部あった郡。上丁は前歌に同じ。
4381 国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし
(久尓具尓乃 佐岐毛利都度比 布奈能里弖 和可流乎美礼婆 伊刀母須敝奈之)
平明歌。「いともすべなし」は「なんともやるせない」。
「国々の防人が集まって、船に乗り込み、別れていくのを見るとなんともやるせない」という歌である。
左注に「右は河内郡の上丁、神麻續部嶋麻呂(かむをみべのしままろ)の歌」とある。河内
郡(かふちのこほり)は栃木県宇都宮市から下野市一帯に広がっていた郡。現在も上三川町が同郡に残っている。上丁は前歌に同じ。
(久尓具尓乃 佐岐毛利都度比 布奈能里弖 和可流乎美礼婆 伊刀母須敝奈之)
平明歌。「いともすべなし」は「なんともやるせない」。
「国々の防人が集まって、船に乗り込み、別れていくのを見るとなんともやるせない」という歌である。
左注に「右は河内郡の上丁、神麻續部嶋麻呂(かむをみべのしままろ)の歌」とある。河内
郡(かふちのこほり)は栃木県宇都宮市から下野市一帯に広がっていた郡。現在も上三川町が同郡に残っている。上丁は前歌に同じ。
4382 ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人にさす
(布多富我美 阿志氣比等奈里 阿多由麻比 和我須流等伎尓 佐伎母里尓佐須)
「ふたほがみ」は諸説あってはっきりしたことは未詳。歌意からして作者を指名した土地のかみ(長官)か。「悪しけ」は「悪しき」の訛り。「あたゆまひ」は「あたやまひ」の訛りで、急病、仮病説とがある。仮病の歌を大伴家持に奉ることなどないだろうから、急病か。
「ふたほがみは意地の悪いお人だ。急病にかかった際に私を防人に指名するのですから」という歌である。
左注に「右は那須郡の上丁、大伴部廣成(おおともべのひろなり)の歌」とある。那須郡(なすのこほり)は栃木県那須塩原市からさくら市一帯に広がっていた郡。現在も那須町と那珂川町が同郡に残っている。上丁は前歌に同じ。
(布多富我美 阿志氣比等奈里 阿多由麻比 和我須流等伎尓 佐伎母里尓佐須)
「ふたほがみ」は諸説あってはっきりしたことは未詳。歌意からして作者を指名した土地のかみ(長官)か。「悪しけ」は「悪しき」の訛り。「あたゆまひ」は「あたやまひ」の訛りで、急病、仮病説とがある。仮病の歌を大伴家持に奉ることなどないだろうから、急病か。
「ふたほがみは意地の悪いお人だ。急病にかかった際に私を防人に指名するのですから」という歌である。
左注に「右は那須郡の上丁、大伴部廣成(おおともべのひろなり)の歌」とある。那須郡(なすのこほり)は栃木県那須塩原市からさくら市一帯に広がっていた郡。現在も那須町と那珂川町が同郡に残っている。上丁は前歌に同じ。
4383 津の国の海の渚に船装ひ立し出も時に母が目もがも
(都乃久尓乃 宇美能奈伎佐尓 布奈餘曽比 多志O毛等伎尓 阿母我米母我母)
4380番歌参照。津の国は摂津の国。難波津は摂津にあった。、「母が目もがも」は「母に一目会えたらなあ」という意味。
「難波津で船飾りし、出航する時、母に一目会えたらなあ」という歌である。
左注に「右は塩屋郡上丁、丈部足人(はせべのたるひと)の歌」とある。塩屋郡(しほのやのこほり)は塩谷郡といい、栃木県矢板市から日光市一帯に広がっていた郡。現在も塩谷町と高根沢町が同郡に残っている。上丁は前歌に同じ。
4373番歌以下の十一首の総注として「二月十四日、下野國の防人部領使、正六位上田口朝臣大戸(たぐちのあそみあほへ)がとりまとめ、奉った歌の數十八首、但し拙劣歌は登載せず」とある。防人部領使は4372番歌左注参照。
(2017年3月13日記)
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(都乃久尓乃 宇美能奈伎佐尓 布奈餘曽比 多志O毛等伎尓 阿母我米母我母)
4380番歌参照。津の国は摂津の国。難波津は摂津にあった。、「母が目もがも」は「母に一目会えたらなあ」という意味。
「難波津で船飾りし、出航する時、母に一目会えたらなあ」という歌である。
左注に「右は塩屋郡上丁、丈部足人(はせべのたるひと)の歌」とある。塩屋郡(しほのやのこほり)は塩谷郡といい、栃木県矢板市から日光市一帯に広がっていた郡。現在も塩谷町と高根沢町が同郡に残っている。上丁は前歌に同じ。
4373番歌以下の十一首の総注として「二月十四日、下野國の防人部領使、正六位上田口朝臣大戸(たぐちのあそみあほへ)がとりまとめ、奉った歌の數十八首、但し拙劣歌は登載せず」とある。防人部領使は4372番歌左注参照。
(2017年3月13日記)