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万葉集読解・・・291(4425~4439番歌)

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     万葉集読解・・・291(4425~4439番歌)
4425  防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず
      (佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受)
 「物思ひもせず」は「呑気に噂ばなしをして」という気持ち。
 「今度防人(さきもり)に行くのはどこの旦那さんでしょうね、と問いかける人を見ると羨ましい。呑気に噂ばなしをして」という歌である。

4426  天地の神に幣置き斎ひつついませ我が背な我れをし思はば
      (阿米都之乃 可未尓奴佐於伎 伊波比都々 伊麻世和我世奈 阿礼乎之毛波婆)
 「天地(あめつし)の」(原文「阿米都之乃」)は「天地(あめつち)の」の訛り。「幣(ぬさ)は神様への供え物。「斎(いは)ひつつ」は「祈りつつ」という意味である。
 「天地の神々にお供え物をして、お祈り下さい、あなた。私のことが心配でしたら」という歌である。

4427  家の妹ろ我を偲ふらし真結ひに結ひし紐の解くらく思へば
      (伊波乃伊毛呂 和乎之乃布良之 麻由須比尓 由須比之比毛乃 登久良久毛倍婆)
 「家(いは)の妹ろ」(原文「伊波乃伊毛呂」)は「家(いへ)の妹ろ」の訛りで、ろは親愛のろ。「真結(まゆす)ひに」は「しっかり結んだ」という意味。
 「故郷の家にいる妻は私のことを偲んでいるらしい、しっかり結んだ着物の紐が解けてくるのを思うと」という歌である。

4428  我が背なを筑紫は遣りて愛しみえひは解かななあやにかも寝む
      (和我世奈乎 都久志波夜利弖 宇都久之美 叡比波登加奈々 阿夜尓可毛祢牟)
 「我が背なを」は「我が背子を」の、「筑紫は遣りて」は「筑紫へ遣りて」の訛り。「えひは解かなな」は「帯は解かずに」の訛り。
 「私のあの人を筑紫へ旅立たせた今、慕わしくて着物の帯は解かないで悩ましく寝ることになろうか」という歌である。

4429  馬屋なる縄立つ駒の後るがへ妹が言ひしを置きて悲しも
      (宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛)
 馬屋につないである馬が縄を切って行くことを夫にたとえた歌か、ないしは実際に乗って旅だったかはこの歌だけでは分からない。実際に馬に乗って旅だったと解釈したい。「後るがへ」は「後るかは」の訛りで、反語表現。「おくれるものか」という心情。
 「馬屋につないである馬の縄を切って、旅立ってきたが、後れるものかと言ってすがった妻を置いてきたのが悲しい」という歌である。

4430  荒し男のいをさ手挟み向ひ立ちかなるましづみ出でてと我が来る
      (阿良之乎乃 伊乎佐太波佐美 牟可比多知 可奈流麻之都美 伊埿弖登阿我久流)
 「いをさ」は「い小矢」のことで、いは強調。「かなるましづみ」は未詳。「妻があきらめて静まるのを待って」という意味かと思われる。「出でてと」は「出でてぞ」の訛り。
 「勇ましい男が持つという小矢を手挟んで出発の用意をし、妻があきらめて静まるのを待って旅だってやってきた、私は」という歌である。

4431  笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る衣に増せる子ろが肌はも
      (佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛)
 「着(か)る」(原文「加流」)は「着(け)る」の訛り。「子ろ」は「彼女」のことで、ろは親愛のろ。
 「笹の葉が風で騒ぐ霜の夜に着物を7枚も着るけれど、あの子の肌の暖かさにはかなわない」という歌である。

4432  障へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやに悲しも
      (佐弁奈弁奴 美許登尓阿礼婆 可奈之伊毛我 多麻久良波奈礼 阿夜尓可奈之毛)
 「障(さ)へなへぬ」は「拒み得ない」という意味である。
 「拒み得ない大君のご命令なので、いとしい彼女の手枕を離れ、やってきたが、切なく悲しい」という歌である。
 左注に「右の八首は過去の防人(さきもり)の歌なり。主典刑部少録正七位上、磐余伊美吉諸君(いはれのいみきもろきみ)が抜き写して、兵部少輔大伴宿祢家持に贈ったものである」とある。主典(さかん)は四等官。刑部少録は刑部省の書記。「刑部省」は裁判や行刑を司る所。 「兵部少輔」は兵部省次官。
 
 頭注に「三月三日に検校防人(さきもり)を検校する勅使と兵部の使人等が一同に会し、宴(うたげ)したとき作った歌三首」とある。勅使は朝廷から難波に遣わされ、防人の点検を行った。兵部の使人は兵部省の役人。三月三日は天平勝宝7年(755年)。
4433  朝な朝な上がる雲雀になりてしか都に行きて早帰り来む
      (阿佐奈佐奈 安我流比婆理尓 奈里弖之可 美也古尓由伎弖 波夜加弊里許牟)
 「なりてしか」は「なりたいものだ」という意味。
 「毎朝、毎朝、空高く上がるヒバリになりたいものだ。都に飛んで行って朝早く帰って来るのに」という歌である。
 左注に「右は勅使、紫微大弼安倍沙美麻呂朝臣(あべのさみまろ)朝臣(あそみ)の歌」とある。紫微大弼(しびのだいひつ)は紫微中台の次官。兵事を司る役所として天平勝宝元年(749年)に新設された。

4434  雲雀上がる春へとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく
      (比婆里安我流 波流弊等佐夜尓 奈理奴礼波 美夜古母美要受 可須美多奈妣久)
 「春へ」は「春辺」のこと。「さやに」は「すっかり」。
 「雲雀が上がるのを見るとすっかり春めいてきた。霞がたなびいて都の方が見えない」という歌である。

4435  ふふめりし花の初めに来し我れや散りなむ後に都へ行かむ
      (布敷賣里之 波奈乃波自米尓 許之和礼夜 知里奈牟能知尓 美夜古敝由可無)
 「ふふめりし花」は「つぼんできた桜」のことだろう。
 「桜がまだつぼみだった頃に(難波に)やってきた私ども散った後に都に帰ることになろうか」という歌である。
 左中に「右二首は兵部使少輔大伴宿祢家持」とある。「兵部少輔」は兵部省次官。

 頭注に「昔、交替した防人(さきもり)の歌」とある。
4436  闇の夜の行く先知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも
      (夜未乃欲能 由久左伎之良受 由久和礼乎 伊都伎麻<佐>牟等 登比之古良波母)
 「いつ来まさむと問ひし子ら」はと言って別れて来るのだから、妻ではなく、恋人だったのだろう。
 「闇夜を行くようなものでどこに行くのか分からないおいらなのに、今度はいつおいでになりますの、とあの子は言ったよな」という歌である。

 頭注に「先(さき)の太上天皇の御製になった霍公鳥の歌」とある。この左注の細注(小さな文字注)に「日本根子高瑞日清足姫(やまとねこたかみづひきよたらしひめ)天皇」とある。これは元正天皇のことで、細注は天皇の本名。
4437  霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも
      (冨等登藝須 奈保毛奈賀那牟 母等都比等 可氣都々母等奈 安乎祢之奈久母)
 「本(もと)つ人」は「昔懐かしい人」ないし「亡き人」という意味。「かけつつ」は「心にかけながら」。「もとな」は「しきりに」。「我を音し泣くも」は「泣けてならない」で、3471番歌に「しまらくは寝つつもあらむを夢のみにもとな見えつつ我を音し泣くる」とある。
 「ホトトギスよ、もっと鳴いておくれ。亡き人を心に思いだしてしきりに泣けてきてならない」という歌である。

 頭注に「薩妙觀、詔に応えて奉った歌」とある。本歌は前歌の元正天皇御製歌に応えた歌。薩妙觀(せちめうくわん)は渡来系の帰化人ではないかと言われ、天皇に仕える内命婦(うちのみょうぶ)。内命婦は五位以上の女官。
4438  霍公鳥ここに近くを来鳴きてよ過ぎなむ後に験あらめやも
      (保等登藝須 許々尓知可久乎 伎奈伎弖余 須疑奈无能知尓 之流志安良米夜母)
 「来鳴きてよ」は「来て鳴いてちょうだい」という意味。「験(しるし)あらめやも」は「何の甲斐性がありましょうや」という意味である。
 「ホトトギス、この近くに来て鳴いてちょうだい。時期がはずれて鳴いてみたって何の甲斐性がありましょうや」という歌である。

 頭注に「冬の日、靭負の御井に幸(いでま)した時、内命婦石川朝臣(いしかはあそみ)詔に応えて雪を詠んだ歌、細注に名は邑婆(おほば)」とある。靭負(ゆけひ)の御井は、皇居緒門を警護する衛門府の井戸のこと。内命婦は前歌参照。
4439  松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が隠り居るらむ
      (麻都我延乃 都知尓都久麻埿 布流由伎乎 美受弖也伊毛我 許母里乎流良牟)
 「妹が隠り居るらむ」は「あなたは家にこもっているのでしょう」という意味である。作者は内命婦。「妹」と気軽にいう、その妹は誰だろう。まさか勅を発した太上天皇のことである筈はない。読解にとまどったが、左注により解消した。つまり、太上天皇になりかわって詠まれた歌なのである。
 「松の枝が重みで地に着くほどに降る見事な雪、でも、この雪を見ることなくあなたは部屋にこもっているのにね」という歌である。
 左注に「時に、水主内親王は寝食もままならない状態で臥せっておられ、参内出来なかった。そこでこの日、太上天皇(元正天皇)は、水主内親王に贈るから雪を詠んだ歌を差し出すようにと命婦たちにおっしゃった。命婦たちは歌作できなかったけれど、一人、石川命婦がこの歌を作って差し出した」とある。水主内親王(もいとりのひめみこ)は天智天皇の皇女。この左注により、石川命婦が元正天皇になりかわって歌作したことが分かる。さらに水主内親王はこの時元正天皇に仕えていたらしいことが分かる。
 さらに左注に「右の四首は上総國の大掾正六位上大原真人今城(いまき)が伝え詠んだ歌。年月未詳」とある。
           (2017年4月10日記)
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