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万葉集読解・・・293(4454~4464番歌)
頭注に「十一月廿八日、左大臣、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の邸宅に集まって開いた宴での歌一首」とある。十一月廿八日は天平勝宝7年(755年)。左大臣は橘諸兄(たちばなのもろえ)。橘奈良麻呂は橘諸兄の子。
4454 高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪
(高山乃 伊波保尓於布流 須我乃根能 祢母許呂其呂尓 布里於久白雪)
「巌(いはほ)に生ふる」は「岩に生えている」という意味。「菅(すが)の根」はカヤツリグサ科の菅(すげ)のことで、菅笠などに使われた。その根は絡み合ってしっかり付着している。「ねもころごろに」は、菅の根のようにしっかり雪が付着している様を言っている。
「高い山の岩に生えている菅の根のように、降り積もった白雪の見事なこと」という歌である。
左注に「右は左大臣の歌」とある。
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万葉集読解・・・293(4454~4464番歌)
頭注に「十一月廿八日、左大臣、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の邸宅に集まって開いた宴での歌一首」とある。十一月廿八日は天平勝宝7年(755年)。左大臣は橘諸兄(たちばなのもろえ)。橘奈良麻呂は橘諸兄の子。
4454 高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪
(高山乃 伊波保尓於布流 須我乃根能 祢母許呂其呂尓 布里於久白雪)
「巌(いはほ)に生ふる」は「岩に生えている」という意味。「菅(すが)の根」はカヤツリグサ科の菅(すげ)のことで、菅笠などに使われた。その根は絡み合ってしっかり付着している。「ねもころごろに」は、菅の根のようにしっかり雪が付着している様を言っている。
「高い山の岩に生えている菅の根のように、降り積もった白雪の見事なこと」という歌である。
左注に「右は左大臣の歌」とある。
頭注に「天平元年、班田の時、使者だった葛城王が山背國から宮廷の薩妙觀命婦等の所に贈った歌」とある。細注に「手みやげの芹子(せり)に添えて」とある。
天平元年は729年。班田の時とは、6年ごとに行われる班田に天平元年が当たっていた。班田収授は簡単に言うと、田畑を朝廷のものとし、6年に1度人民に土地を配分(口分田)する制度であった。使者は口分田を行う官員であるが、葛城王はその長官。葛城王(かづらきのおほきみ)は後に橘の姓を賜り左大臣となる。橘諸兄。山背國(やましろのくに)は現在の京都市辺り。
薩妙觀(せちめうくわん)は渡来系の帰化人ではないかと言われ、天皇に仕える内命婦(うちのみょうぶ)だった。内命婦は五位以上の女官。
4455 あかねさす昼は田賜びてぬばたまの夜のいとまに摘める芹子これ
(安可祢左須 比流波多々婢弖 奴婆多麻乃 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼)
「あかねさす」と「ぬばたまの」は枕詞。「田賜(たた)びて」は「田を与える」すなわち「田を配分する仕事で」ということ。芹子(せり)は水田で栽培。若葉は香りがよく食用になる。
「あかねさす昼間は田を配分する仕事で忙しく、夜になってから公務の合間につんだのだよ、この芹子(せり)は」という歌である。
天平元年は729年。班田の時とは、6年ごとに行われる班田に天平元年が当たっていた。班田収授は簡単に言うと、田畑を朝廷のものとし、6年に1度人民に土地を配分(口分田)する制度であった。使者は口分田を行う官員であるが、葛城王はその長官。葛城王(かづらきのおほきみ)は後に橘の姓を賜り左大臣となる。橘諸兄。山背國(やましろのくに)は現在の京都市辺り。
薩妙觀(せちめうくわん)は渡来系の帰化人ではないかと言われ、天皇に仕える内命婦(うちのみょうぶ)だった。内命婦は五位以上の女官。
4455 あかねさす昼は田賜びてぬばたまの夜のいとまに摘める芹子これ
(安可祢左須 比流波多々婢弖 奴婆多麻乃 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼)
「あかねさす」と「ぬばたまの」は枕詞。「田賜(たた)びて」は「田を与える」すなわち「田を配分する仕事で」ということ。芹子(せり)は水田で栽培。若葉は香りがよく食用になる。
「あかねさす昼間は田を配分する仕事で忙しく、夜になってから公務の合間につんだのだよ、この芹子(せり)は」という歌である。
頭注に「薩妙觀命婦が前歌に報えて贈ってきた歌」とある。薩妙觀命婦は前歌頭注参照。
4456 大夫と思へるものを太刀佩きて可尓波の田居に芹子ぞ摘みける
(麻須良乎等 於毛敝流母能乎 多知波吉弖 可尓波乃多為尓 世理曽都美家流)
可尓波(かには)は京都府木津川市内にあった棚倉村の田を指すとされる。
「まあ、立派なお方と思っておりますのに、そんなお方が太刀を腰にさして可尓波の田んぼにお入りになって芹子(せり)を摘んで下さったのですね」という歌である。
左注に「右二首は左大臣が読み聞かせた歌である」とある。細注が付いていて、「左大臣は葛城王のことで、後に橘姓を賜う」とある。
4456 大夫と思へるものを太刀佩きて可尓波の田居に芹子ぞ摘みける
(麻須良乎等 於毛敝流母能乎 多知波吉弖 可尓波乃多為尓 世理曽都美家流)
可尓波(かには)は京都府木津川市内にあった棚倉村の田を指すとされる。
「まあ、立派なお方と思っておりますのに、そんなお方が太刀を腰にさして可尓波の田んぼにお入りになって芹子(せり)を摘んで下さったのですね」という歌である。
左注に「右二首は左大臣が読み聞かせた歌である」とある。細注が付いていて、「左大臣は葛城王のことで、後に橘姓を賜う」とある。
頭注に「天平勝寳八歳丙申の年、二月朔乙酉廿四日戊申、太上天皇、大后、河内離宮に行幸され、壬子の日(廿八日)に、難波宮においでになった。三月七日、河内國伎人郷、馬國人(うまのくにひと)の家で催された宴の時の歌三首」とある。太上天皇は聖武上皇、大后は光明皇太后のことであるが、孝謙天皇のことは記されていない。続日本紀には天皇は廿四日に「行幸難波」、廿八日には「行至難波宮」とあって、太上天皇や大后と同行だったか別行だったか不明。が、これは特記事項であって、直接歌には関係しない。
三月七日は天平勝宝八年(756年)。河内國伎人郷(くれのさと)は大阪市平野区にあったとされる。
4457 住吉の浜松が根の下延へて我が見る小野の草な刈りそね
(須美乃江能 波麻末都我根乃 之多<婆>倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢)
「住吉(すみのえ)」「は大阪市南部。「草な刈りそね」は「な~そ」の禁止形。
「住吉の浜に立っている松の根は地中に長く延びている。そんな松の根のように心中深く思っているので、眼前に見える小野の草は刈らずにそのままにしておいて下さい」という歌である。
左注に「右は兵部少輔大伴宿祢家持の歌」とある。「兵部少輔」は兵部省次官。
三月七日は天平勝宝八年(756年)。河内國伎人郷(くれのさと)は大阪市平野区にあったとされる。
4457 住吉の浜松が根の下延へて我が見る小野の草な刈りそね
(須美乃江能 波麻末都我根乃 之多<婆>倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢)
「住吉(すみのえ)」「は大阪市南部。「草な刈りそね」は「な~そ」の禁止形。
「住吉の浜に立っている松の根は地中に長く延びている。そんな松の根のように心中深く思っているので、眼前に見える小野の草は刈らずにそのままにしておいて下さい」という歌である。
左注に「右は兵部少輔大伴宿祢家持の歌」とある。「兵部少輔」は兵部省次官。
4458 にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも [古新未詳]
(尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 [古新未詳])
「にほ鳥」はカイツブリのこと。水鳥。「息長(おきなわ)川」は滋賀県米原市を流れる天野川。
「息長いカイツブリのような名の息長川の流れが途絶えることはあっても、貴殿と語る話題は尽きません」という歌である。歌注に「古歌か新歌か未詳」とある。
左注に「右は、主人散位寮の散位馬史國人(うまのふひとくにひと)の歌」とある。式部省散位寮は、位はあっても官職のない、いわば散位の者を管掌する部署。
(尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 [古新未詳])
「にほ鳥」はカイツブリのこと。水鳥。「息長(おきなわ)川」は滋賀県米原市を流れる天野川。
「息長いカイツブリのような名の息長川の流れが途絶えることはあっても、貴殿と語る話題は尽きません」という歌である。歌注に「古歌か新歌か未詳」とある。
左注に「右は、主人散位寮の散位馬史國人(うまのふひとくにひと)の歌」とある。式部省散位寮は、位はあっても官職のない、いわば散位の者を管掌する部署。
4459 葦刈りに堀江漕ぐなる梶の音は大宮人の皆聞くまでに
(蘆苅尓 保<里>江許具奈流 可治能於等波 於保美也比等能 未奈伎久麻泥尓)
「葦刈りに」は「葦(あし)を刈り取るために」ということ。堀江は難波宮の近くの堀江と思われる。後期難波宮に都が遷都された時期の歌であろう。天平から天平宝字年代にかけての750年前後あたりの歌。
「葦を刈り取るために堀江を漕ぐ梶の音は大宮に仕える人たちの誰もが聞こえたことでしょう」という歌である。
左注に「右は、式部少丞大伴宿祢池主が読み上げた歌。すなわち、兵部大丞大原真人今城(いまき)が先日詠んだ歌」とある。大、少丞(じょう)は式部省の三等官。池主はかって越中で大伴家持の部下だった人物。
(蘆苅尓 保<里>江許具奈流 可治能於等波 於保美也比等能 未奈伎久麻泥尓)
「葦刈りに」は「葦(あし)を刈り取るために」ということ。堀江は難波宮の近くの堀江と思われる。後期難波宮に都が遷都された時期の歌であろう。天平から天平宝字年代にかけての750年前後あたりの歌。
「葦を刈り取るために堀江を漕ぐ梶の音は大宮に仕える人たちの誰もが聞こえたことでしょう」という歌である。
左注に「右は、式部少丞大伴宿祢池主が読み上げた歌。すなわち、兵部大丞大原真人今城(いまき)が先日詠んだ歌」とある。大、少丞(じょう)は式部省の三等官。池主はかって越中で大伴家持の部下だった人物。
4460 堀江漕ぐ伊豆手の舟の梶つくめ音しば立ちぬ水脈早みかも
(保利江己具 伊豆手乃船乃 可治都久米 於等之婆多知奴 美乎波也美加母)
「伊豆手の舟」は伊豆で作られた小型の舟で、「伊豆舟風の」という意味。「梶つくめ」は。図でないと分からないが、1546番歌に「妹がりと我が行く道の川しあればつくめ結ぶと夜ぞ更けにける」とあるように、梶をつなぎとめるものらしい。「水脈(みを)」は水路、水脈。
「堀江を漕ぐ伊豆舟風の梶つくめはしばしば音を立てる。水路の流れが速いからだろうか」という歌である。
(保利江己具 伊豆手乃船乃 可治都久米 於等之婆多知奴 美乎波也美加母)
「伊豆手の舟」は伊豆で作られた小型の舟で、「伊豆舟風の」という意味。「梶つくめ」は。図でないと分からないが、1546番歌に「妹がりと我が行く道の川しあればつくめ結ぶと夜ぞ更けにける」とあるように、梶をつなぎとめるものらしい。「水脈(みを)」は水路、水脈。
「堀江を漕ぐ伊豆舟風の梶つくめはしばしば音を立てる。水路の流れが速いからだろうか」という歌である。
4461 堀江より水脈さかのぼる梶の音の間なくぞ奈良は恋しかりける
(保里江欲利 美乎左香能保流 梶音乃 麻奈久曽奈良波 古非之可利家留)
「音の間なくぞ」は「音がひっきりなしに聞こえると」という意味である。
「(難波の)堀江から水路をさかのぼる梶の音がひっきりなしに聞こえると、奈良が恋しくてたまらない」という歌である。
(保里江欲利 美乎左香能保流 梶音乃 麻奈久曽奈良波 古非之可利家留)
「音の間なくぞ」は「音がひっきりなしに聞こえると」という意味である。
「(難波の)堀江から水路をさかのぼる梶の音がひっきりなしに聞こえると、奈良が恋しくてたまらない」という歌である。
4462 舟競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも
(布奈藝保布 保利江乃可波乃 美奈伎波尓 伎為都々奈久波 美夜故杼里香蒙)
都鳥(みやこどり)はユリカモメとされる。
「競うように舟が行き交う堀江の水際にやって来て鳴いているのはユリカモメだろうか」という歌である。
左注に「右の三首は堀江の近くで作った歌」とある。
(布奈藝保布 保利江乃可波乃 美奈伎波尓 伎為都々奈久波 美夜故杼里香蒙)
都鳥(みやこどり)はユリカモメとされる。
「競うように舟が行き交う堀江の水際にやって来て鳴いているのはユリカモメだろうか」という歌である。
左注に「右の三首は堀江の近くで作った歌」とある。
4463 霍公鳥まづ鳴く朝明いかにせば我が門過ぎじ語り継ぐまで
(保等登藝須 麻豆奈久安佐氣 伊可尓世婆 和我加度須疑自 可多利都具麻O)
このまま読解しようとすると、歌意難解というより不明となる。原因は「いかにせば」にある。「ホトトギスが最初に鳴く朝明け、どのようにしたら我が家の門を通り過ぎないで飛び去れるのだろう」と、まともに取ると、分からなくなる。この「いかにせば」は強い反語表現なのである。
「ホトトギスが初めて鳴く朝、誰が気づかないまま、ホトギスが門を飛び去っていくというのか。その無粋が語り草になるというのに」という歌である。
(保等登藝須 麻豆奈久安佐氣 伊可尓世婆 和我加度須疑自 可多利都具麻O)
このまま読解しようとすると、歌意難解というより不明となる。原因は「いかにせば」にある。「ホトトギスが最初に鳴く朝明け、どのようにしたら我が家の門を通り過ぎないで飛び去れるのだろう」と、まともに取ると、分からなくなる。この「いかにせば」は強い反語表現なのである。
「ホトトギスが初めて鳴く朝、誰が気づかないまま、ホトギスが門を飛び去っていくというのか。その無粋が語り草になるというのに」という歌である。
4464 霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ
(保等登藝須 可氣都々伎美我 麻都可氣尓 比毛等伎佐久流 都奇知可都伎奴)
「霍公鳥懸けつつ」は「ホトトギスの鳴き声を気にかけながら」という意味である。「君が」は一般的な呼びかけ表現。「あなたがた」ないし「われわれが」という意味。
「ホトトギスの鳴き声を気にかけながらわれらが待っていた季節。松の木陰で着物の紐を解いて開放的になる時が近づいてきた」という歌である。
左注に「右五首は、廿日、大伴宿祢家持が興に乗って作った歌」とある。廿日は三月廿日のことで、天平勝宝8年(756年)。
(2017年4月20日記)
(保等登藝須 可氣都々伎美我 麻都可氣尓 比毛等伎佐久流 都奇知可都伎奴)
「霍公鳥懸けつつ」は「ホトトギスの鳴き声を気にかけながら」という意味である。「君が」は一般的な呼びかけ表現。「あなたがた」ないし「われわれが」という意味。
「ホトトギスの鳴き声を気にかけながらわれらが待っていた季節。松の木陰で着物の紐を解いて開放的になる時が近づいてきた」という歌である。
左注に「右五首は、廿日、大伴宿祢家持が興に乗って作った歌」とある。廿日は三月廿日のことで、天平勝宝8年(756年)。
(2017年4月20日記)
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