万葉集読解・・・4-1(25~33番歌)
頭注「天皇御製歌」とある。天皇は四十代天武天皇。
0025番長歌
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
(三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎)
頭注「天皇御製歌」とある。天皇は四十代天武天皇。
0025番長歌
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
(三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「み吉野の耳我(みみが)の嶺」は奈良県吉野郡の山だが不詳。み吉野のみは美称。「隈(くま)もおちず」は「曲がり角という曲がり角」という意味である。
(口語訳)
み吉野の耳我の嶺に時しれず雪が降る、絶え間なく雨が降る。その雪の時知れないように、 その雨の絶え間がないように、曲がり角という曲がり角に不安に襲われながらやってきたよ、この山道を。
み吉野の耳我の嶺に時しれず雪が降る、絶え間なく雨が降る。その雪の時知れないように、 その雨の絶え間がないように、曲がり角という曲がり角に不安に襲われながらやってきたよ、この山道を。
或本の歌
0026番長歌
み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
(三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎)
0026番長歌
み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
(三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎)
ほぼ前歌に同じだが、「降りける」が「降るといふ」になっている。
(口語訳)
み吉野の耳我の山に時しれず雪が降るという、絶え間なく雨が降るという。その雪の時知れないように、 その雨の絶え間がないように、曲がり角という曲がり角に不安に襲われながらやってきたよ、この山道を。
左注に「右は少しづつ変わっている句がある。よってここに重ねて載せる」とある。
み吉野の耳我の山に時しれず雪が降るという、絶え間なく雨が降るという。その雪の時知れないように、 その雨の絶え間がないように、曲がり角という曲がり角に不安に襲われながらやってきたよ、この山道を。
左注に「右は少しづつ変わっている句がある。よってここに重ねて載せる」とある。
頭注に「天皇、吉野宮に幸(いで)まされた時の御製歌」とある。天皇は四十代天武天皇。
以上の背景を頭に入れて本歌をお読み戴きたい。「よし」と「よく」が繰り返し連呼される本歌は一見言葉遊びに見えるが、決してそうではないことが分かる。
「昔から吉野は素晴らしいところ(吉い野)だといわれているが、本当にそうではないか。お前たちよく見て頭にきざみつけておくといい」という歌である。
天武はこう詠い、伴の人々にその思い入れの深さを吐露しているのである。
左注に「紀には、天武八年(己卯年)五月(庚辰を朔日とする甲申の日(五日)吉野宮に幸(いで)ます、と」とある。
頭注に「藤原宮御宇の天皇の代、高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)元年(丁亥年)の歌。持統十一年軽太子に譲位し、尊号を太上天皇という」とある。高天原廣野姫天皇は四十一代持統天皇。軽太子は四十二代文武天皇。この注はわかり辛い。丁亥年は687年で持統元年に当たる。が、即位したのは690年で、持統十一年は697年。つまり、持統は即位4年前からの称制なのである。
「天皇御製歌」とある天皇はむろん持統天皇。
0028 春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
白栲の(しろたえの)は目に痛いほど真っ白なという意味。初夏の鮮やかな抒景歌。結句に「天の香具山」を置いたことで、香久山に焦点があたり、広々として伸びやかな奥行きのある光景が浮かび上がる。焦点を「白栲の衣」から一転「天の香具山」に移す詠法は非凡としか思われない。たとえば私なら、次のように詠んだかもしれない。「春過ぎて夏来るらし香久山に干され出でたる白栲の衣」。どうしても真っ白な「白栲の衣」に焦点を当ててしまうのである。それを一転香久山にしたために光景の広がりだけではなく、かえって衣の白さが強調される効果を生んでいる。秀逸歌と言えよう。持統天皇は歌才豊かな女帝だったのだろうか。伸びやかな万葉歌を代表する歌のひとつといってよいと思う。
「春過ぎて夏がやってきたようだ。目に痛いほど真っ白な衣が干してある。(背後を)天の香具山にして」という歌である。
0027 淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見
天武天皇は奈良県中央部の飛鳥の地に都を構えたが、そこから少し南に下ったところが吉野の地である。この吉野は狩場としても愛好されたが、なんといっても壬申の乱(六七二年)前夜天武天皇が逃れた地である。天武天皇(大海人皇子)はこの吉野で挙兵する。天武にとっていわば第二の故郷である。天武天皇の皇后は後の持統天皇。『日本書紀』によれば、その持統天皇は吉野に30回ほどもしばしば行幸を繰り返している。吉野に対する天武天皇の思い入れが並大抵ではなかったことが推察される。
(淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三)
以上の背景を頭に入れて本歌をお読み戴きたい。「よし」と「よく」が繰り返し連呼される本歌は一見言葉遊びに見えるが、決してそうではないことが分かる。
「昔から吉野は素晴らしいところ(吉い野)だといわれているが、本当にそうではないか。お前たちよく見て頭にきざみつけておくといい」という歌である。
天武はこう詠い、伴の人々にその思い入れの深さを吐露しているのである。
左注に「紀には、天武八年(己卯年)五月(庚辰を朔日とする甲申の日(五日)吉野宮に幸(いで)ます、と」とある。
「天皇御製歌」とある天皇はむろん持統天皇。
0028 春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
(春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山)
この歌もさきに見た20番歌「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と並んで最も有名な歌のひとつである。白栲の(しろたえの)は目に痛いほど真っ白なという意味。初夏の鮮やかな抒景歌。結句に「天の香具山」を置いたことで、香久山に焦点があたり、広々として伸びやかな奥行きのある光景が浮かび上がる。焦点を「白栲の衣」から一転「天の香具山」に移す詠法は非凡としか思われない。たとえば私なら、次のように詠んだかもしれない。「春過ぎて夏来るらし香久山に干され出でたる白栲の衣」。どうしても真っ白な「白栲の衣」に焦点を当ててしまうのである。それを一転香久山にしたために光景の広がりだけではなく、かえって衣の白さが強調される効果を生んでいる。秀逸歌と言えよう。持統天皇は歌才豊かな女帝だったのだろうか。伸びやかな万葉歌を代表する歌のひとつといってよいと思う。
「春過ぎて夏がやってきたようだ。目に痛いほど真っ白な衣が干してある。(背後を)天の香具山にして」という歌である。
頭注に「近江の荒れた都を通り過ぎる時、柿本朝臣人麻呂が作った歌」とある。
0029番 長歌
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ [或云 宮ゆ] 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを [或云 めしける] そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え [或云 そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて] いかさまに 思ほしめせか [或云 思ほしけめか] 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる [或云 霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる] ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも [或云 見れば寂しも]
(玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 [或云 自宮] 阿礼座師 神之<盡> 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 [或云 食来] 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 [或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而] 何方 御念食可 [或云 所念計米可] 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 [或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留] 百礒城之 大宮處 見者悲<毛> [或云 見者左夫思毛])
0029番 長歌
玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ [或云 宮ゆ] 生れましし 神のことごと 栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下 知らしめししを [或云 めしける] そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え [或云 そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて] いかさまに 思ほしめせか [或云 思ほしけめか] 天離る 鄙にはあれど 石走る 近江の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる [或云 霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる] ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも [或云 見れば寂しも]
(玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 [或云 自宮] 阿礼座師 神之<盡> 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 [或云 食来] 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 [或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而] 何方 御念食可 [或云 所念計米可] 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 [或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留] 百礒城之 大宮處 見者悲<毛> [或云 見者左夫思毛])
「畝傍の山の橿原のひじりの御代」は初代天皇の神武天皇のことを言っており、奈良県橿原市に神武天皇陵がある。栂(つが)の木は、マツ科の常緑高木。高さ30m以上に達する。「そらにみつ」は枕詞。全部で6例あり、すべて長歌。通常「そらみつ」と使われ、「そらにみつ」は本歌のみ。「玉たすき」、「あをによし」、「石(いは)走る」、「ももしきの」はみな枕詞。「楽浪(ささなみ)の」は「琵琶湖西南岸地方一帯」をいう。
(口語訳)
畝傍の山のある橿原(かしはら)で即位された神武天皇の御代から(あるいは「宮から」)神としてお生まれになり、栂(つが)の木ではないが、次々と天下を治められ(あるいは「治められてきた」)のに、その大和の地を置いて、奈良山を越え(あるいは「大和を置いて奈良山を越えられた」)のはいかに思われてのことでしょう。(あるいは「思われたのでしょう」)。遠く離れた田舎である近江の国は琵琶湖西南岸の大津の宮に天下をお治めになった。その神の命(みこと)がいらっしゃった大宮(みやこ)はここにあったと聞いている。大殿はここだと言われているが、そこには春草が生い茂っている。霞がたなびく春の日が霧にけむっている(あるいは「霞がたなびく春の日が霧にけむっているのは夏草が生い茂っている」)のだろうか。草茂るここが官人たちがいた大宮どころかと、見るのは悲しい(あるいは「見るのは寂しい」)。
反歌
0030 ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ
「ここささなみの志賀の辛崎よ、今もよい所。お前は大宮人たちが舟遊びにやってくるのを待っているのか。待っても待ってもやって来ないのに」という歌である。
畝傍の山のある橿原(かしはら)で即位された神武天皇の御代から(あるいは「宮から」)神としてお生まれになり、栂(つが)の木ではないが、次々と天下を治められ(あるいは「治められてきた」)のに、その大和の地を置いて、奈良山を越え(あるいは「大和を置いて奈良山を越えられた」)のはいかに思われてのことでしょう。(あるいは「思われたのでしょう」)。遠く離れた田舎である近江の国は琵琶湖西南岸の大津の宮に天下をお治めになった。その神の命(みこと)がいらっしゃった大宮(みやこ)はここにあったと聞いている。大殿はここだと言われているが、そこには春草が生い茂っている。霞がたなびく春の日が霧にけむっている(あるいは「霞がたなびく春の日が霧にけむっているのは夏草が生い茂っている」)のだろうか。草茂るここが官人たちがいた大宮どころかと、見るのは悲しい(あるいは「見るのは寂しい」)。
0030 ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ
(樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津)
「ささなみの志賀の辛崎(からさき)」とは滋賀県琵琶湖西南岸に営まれた大津京の近辺。大津京は天智天皇の大宮が置かれたところ。「ここささなみの志賀の辛崎よ、今もよい所。お前は大宮人たちが舟遊びにやってくるのを待っているのか。待っても待ってもやって来ないのに」という歌である。
0031 ささなみの志賀の [一云 比良の] 大わだ淀むとも昔の人にまたも逢 はめやも [一云 逢はむと思へや]
「ささなみの滋賀の大曲の流れがとまったように静かになる。このようにじっと待っている。昔の人にこんなに会いたいのに」という歌である。
異伝歌は「志賀の」が大津京の少し北方の比良になっているが、歌意はほぼ同意。
柿本人麻呂の歌は勢いもあり荘重な宮廷歌人として名高い。確かに長歌にその才能が横溢していて歌聖と呼ばれるに相応しい。が、人麻呂はそうした歌に加えて、ここに示したような、素直に心に染みこんでくる歌も作っている。こうした両面を持ち合わせている点にこそ、歌聖と呼ばれるに相応しい歌人だと私などは思う。
(左散難弥乃 志我能 [一云 比良乃] 大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛 [一云 将會跡母戸八])
「ささなみ」は前歌参照。「大わだ」は「大曲」のことで、陸地が湾状に切れ込んだ場所。「ささなみの滋賀の大曲の流れがとまったように静かになる。このようにじっと待っている。昔の人にこんなに会いたいのに」という歌である。
異伝歌は「志賀の」が大津京の少し北方の比良になっているが、歌意はほぼ同意。
柿本人麻呂の歌は勢いもあり荘重な宮廷歌人として名高い。確かに長歌にその才能が横溢していて歌聖と呼ばれるに相応しい。が、人麻呂はそうした歌に加えて、ここに示したような、素直に心に染みこんでくる歌も作っている。こうした両面を持ち合わせている点にこそ、歌聖と呼ばれるに相応しい歌人だと私などは思う。
頭注に「高市古人、近江の旧都を感傷して作った歌」とある。細注に「或書には高市連黒人(たけちのむらじくろひと)という」とある。
0032 いにしへの人に我れあれやささなみの古き都を見れば悲しき
「むかし、むかしの人なのだろうか、この私は。ささなみの古き都をみると悲しい」という歌である。
0032 いにしへの人に我れあれやささなみの古き都を見れば悲しき
(古 人尓和礼有哉 樂浪乃 故京乎 見者悲寸)
「古」一文字で「いにしへの」と訓まれている。なぜ「の」を示す「之」ないし「乃」がないのにこう訓むのか私には分からない。初句は五音なので慣用表記なのだろう。「古き都」は近江の大津京。「ささなみ」は前々歌参照。「見れば悲しき」とは単刀直入の表現だが、そのようにストレートに伝えずにはいられない心情が読み取れる。「むかし、むかしの人なのだろうか、この私は。ささなみの古き都をみると悲しい」という歌である。
0033 ささなみの国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも
「ささなみの大津の守り神がいるこの地も、うらさびて荒れ果てている。そんな都を目にするのは何と悲しいことだろう」という歌である。
(2013年1月27日記、2017年5月31日)
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(樂浪乃 國都美神乃 浦佐備而 荒有京 見者悲毛)
「国つ御神」は大津の守り神。神がお守り下さっていた都は今は荒れ果てて見る影もない。前歌が「見れば悲しき」、そうして当歌が「見れば悲しも」と「き」と「も」の一字違い。が、当歌の方が強い詠嘆感情を呼び起こす。「うらさびて荒れたる都」とあるのでいっそうその感が強い。「ささなみの大津の守り神がいるこの地も、うらさびて荒れ果てている。そんな都を目にするのは何と悲しいことだろう」という歌である。
(2013年1月27日記、2017年5月31日)