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万葉集読解・・・4-2(34~44番歌)

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     万葉集読解・・・4-2(34~44番歌)
 頭注に「川嶋皇子が紀伊國に幸(いで)ます時の御作」とある。細注に「或いは山上憶良作という」とある。川島皇子(かわしまのみこ)は三十八代天智天皇の第二皇子。紀伊國は和歌山県南部から三重県南部にまたがる国。
0034  白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ [一云 年は経にけむ]
(白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武 [一云 年者經尓計武])
『日本書紀』に登場する皇子たちがしばしば万葉歌の作者として登場するのは興味深い。単なる系図上の人物ではなく、生きた人物として生の声を忍ぶことができるのは実に素晴らしい。古代史にふくらみをもたらすことは間違いない。
 「手向けぐさ」は「捧げた品々」の意。布、帯、玉の類か。
 「白波が打ち寄せる浜辺の松の枝に架かっている、手向けの品々、いかほど長年月経てきたのだろう」という歌である。
 見知らぬ人が架けた「手向草」と解するのが素直だが、謀反の疑いで落命した大津皇子(四十代天武天皇の皇子)に捧げられたものと解すると、いっそう哀傷の情を感じ取ることが出来る。なので、こう鑑賞するのも悪くない、と思う。
 左注に「日本紀には朱鳥四年(庚寅年)秋九月、天皇は紀伊國に幸(いで)ますとある」とある。朱鳥四年は持統4年(690年)。天皇は四十一代持統天皇。

 頭注に「背の山を越える時、阿閇皇女が作った歌」とある。背の山は和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山。紀ノ川の右岸(北側)にある。阿閇皇女(あへのひめみこ)は三十八代天智天皇の第4皇女。
0035  これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背の山
(此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山)
 「背」は、恋人、夫の意。作者の阿閇皇女は夫と死別後まだ一年半。
 「この山が大和にいて見たいと恋い焦がれていた背の山なのね、紀伊にあって名に負っているこの山が」という歌である。
 
 頭注に「吉野宮に幸(いで)まされていた時、柿本朝臣人麻呂が作った歌」とある。行幸された天皇は四十一代持統天皇。吉野は奈良県吉野郡。吉野川流域。桜の名所。
0036番長歌
  やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも
  (八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟競 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高思良珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可問)

 長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「きこしめす」は「お聞きになる」、「お召し上がりになる」等々多くの意味があるが、ここは「お治めになる」という意味。「秋津の野辺」は吉野宮が作られていた場所。「やすみしし」や「ももしきの」は枕詞。「高知らす」は「高く立派にお治めになる」という意味。

 (口語訳)
 我が大君がお治めになる、天の下には多くの国々があるけれど、山と川の清らかなここ川の中。吉野の国の花が散っては咲き、また散る秋津の野辺に、太く立派な宮柱をお建てになったこの宮。大宮人たちは舟を並べて、朝、川を渡る。夕べは競うようにして、川を渡る。この川が絶えることなく、この山のように、高く立派にお治めになる。ほとばしりたぎる滝の、宮が立っている場所は見ても見ても飽きがこないことよ。

  反歌
0037  見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む
(雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟)
 常滑(とこなめ)は広辞苑を引くと「岩にいつも生えている水苔」とある。美しい清流に群生する緑色の苔が思い浮かぶ。この吉野の宮、大君の持統天皇がしげしげと行幸を繰り返した場所。「またかへり見む」はこんな事情を反映しているのだろう。
 「見ても見ても飽きることがない吉野川、岩にいつも生えている水苔の周囲を清流が流れ下っていく。またやってきて眺めたいものだ」という歌である。

0038番長歌
  やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山 山神の 奉る御調と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり [一云 黄葉かざし] 行き沿ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
  (安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為勢婆 疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭<刺>理 [一云 黄葉加射之] 逝副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨)

 「神ながら神さびせすと」は「神であるまま神らしくなさる」という意味である。「たたなはる」は「幾重にも重なる」、「大御食(おほみけ)に」は「お食事に」という意味。

 (口語訳)
 我が大君は、神であるまま神らしくなさっている。水流がたぎりたつ吉野川の中に高殿を高く高く建てられて、お登りになり、国見をなさると、幾重にも重なる青い垣根のような山々の神が貢ぎ物を捧げる。春の頃は花々をかざし、秋がやってくると色づいたモミジをかかげ(一に言う「モミジをかざし」)、御目にとまる。高殿のそばを流れ下る川の神も、大君のお食事に捧げようと、上流では鵜飼いを設け、下流ではすくい網を設けている。山も川も、こうして大君に仕える、そんな御代であることよ。

  反歌
0039  山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも
(山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母)
 「山川も依りて」は「山も川も大君をよりどころにして」という意味である。
 「山も川も大君をよりどころにして仕える神であるから、大君は激流渦巻く川の中へ舟出をされる」という歌である。
 「激流渦巻く川へ」とは文字通りならすさまじい光景。が、実際はゆったりと舟遊びに興じられた図であろう。柿本人麿らしい荘重な表現である。
 左注に「日本紀には「三年(己丑年)、正月天皇は吉野宮に、八月吉野宮に、四年(庚寅年)、二月吉野宮に、五月吉野宮に、五年(辛卯年)、正月吉野宮に、四月吉野宮に、それぞれ幸(いで)まされる」とある。が、(柿本人麿が)このうちのどの行幸に従駕して作歌したのか未詳」とある。『日本書紀』には四十一代持統天皇の吉野宮への行幸は31回に及んでいる。

 頭注に「(天皇)伊勢國に幸(いで)まされた時、柿本朝臣人麻呂が京に留まって作った歌」とある。天皇は四十一代持統天皇。
0040  嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
(鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 D嬬等之 珠裳乃須十二 四寳三都良武香)
 人麻呂が行幸の様子を思い描きながら作った歌。「嗚呼見の浦」は「あみのうら」と読まれているが、具体的にはどこの浦のことか諸説があってはっきりしない。が、伊勢湾のどこかの浦であろう。「玉裳」の玉は美称。
 「あみの浦に舟乗りしているおとめ(女官)たちの玉裳の裾に海水が浸かって美しい。潮が満ちてきたのだろうか」という歌である。
 まるで源氏物語絵巻でも見ているような美しい光景である。

0041  くしろつく答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
(釼著 手節乃埼二 今<日>毛可母 大宮人之 玉藻苅良<武>)
 「くしろつく」は「岩波大系本」も「伊藤本」も「答志」の枕詞としている。が、「くしろつく」は全万葉歌中この41番歌だけ。たった一例で枕詞と断定するのはいかがだろう。くしろは釧、古代の腕輪である。「・・・たまくしろ、てにとりもちて・・・」(1792番長歌)とか「たまくしろ、まきぬるいもも・・・」(2865番歌)といった例で分かるように、釧は釧そのものとして詠み込まれている。「くしろのような美しい崎と解してよかろう。答志島は三重県鳥羽市沖の離島。私も訪島したことがある。
 「飾り立てたくしろのように美しい答志の崎。今日も大宮人(女官)たちが玉藻を刈りとっているだろう」という歌である。

0042  潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を
(潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎)
 「伊良虞の島」は24番歌にも「うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む」と歌われている。いずれの歌も「島」とある所を見ると、愛知県渥美半島の先端部は当時島であったか、あるいは島と認識されていたようだ。三重県鳥羽市と渥美半島先端の伊良湖岬は意外に近く、目と鼻の先。この間に答志島、菅島、神島等が浮かんでいる。
 「潮が騒ぎ立てる伊良湖の島のあたりを漕ぐ舟に彼女は乗っているだろうか。あの荒い島のあたりを」という歌である。

 頭注に「當麻真人麻呂(たぎまのまひとまろ)の妻が作った歌」とある。
0043  我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
(吾勢枯波 何所行良武 己津物 隠乃山乎 今日香越等六)
 名張は三重県名張市。平明歌。「沖つ藻の」は名張にかかる枕詞との説がある。が、例は本歌のみ。枕詞(?)だろう。511番歌と重出歌。
 「私の夫はどのあたりを旅しているのだろう。今日あたり名張の山を越えているだろうか」という歌である。

 頭注に「石上大臣(いそのかみおほまへつきみ)従駕せし時作る歌」とある。四十一代持統天皇に従駕
0044  我妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
(吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞)
 「高みかも」や「遠みかも」の「かも」は「だろうか」の意である。「いざ見の山」は山の名だが不詳。旅行中の歌。
 「さあ妻に会おうといういざ見の山にさしかかったが、山が高いせいか、あるいは故国大和が遠いせいか、まだ見えぬ」という歌である。
 左注に「日本紀には「朱鳥六年(壬辰年)春三月丙寅を朔日とする戊辰の日(三日)、浄廣肆廣瀬王(ひろせのおほきみ)等をもって、留守官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂(みわのあそみたけちまろ)、その冠を脱いで朝(みかど=天皇)に捧げ、農繁期の前に車駕(みくるま)を動かしてはいけません、と重ねてお諫め申し上げた。が、その諫めに従われず、遂に天皇は伊勢に幸(いで)まされた。五月乙丑を朔日とする庚午の日(六日)、阿胡の行宮(かりみや)に幸(いで)まされた。」と・・・。」とある。朱鳥六年は持統六年(692年)。浄廣肆(じゃうくわうし)は当時の官位。後の従四位下に相当。阿胡(あご)は三重県志摩市にあった阿児町。
          (2013年1月27日記、2017年6月3日)
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