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万葉集読解・・・5(45~53番歌)

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     万葉集読解・・・5(45~53番歌)             
 頭注に「軽皇子、安騎野に泊まった時、柿本朝臣人麻呂が作った歌」とある。軽皇子(かるのみこ)は後の文武天皇。持統天皇の孫、時に10歳。安騎野(あきの)は奈良県宇陀市大宇陀一帯。
0045番長歌
  やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
  (八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須<等> 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「やすみしし」、「高照らす」、「こもりくの」、「玉限る」、「坂鳥の」等は枕詞。「太敷かす」は「太く立派な」という意味「初瀬の山」は奈良県桜井市の山。禁樹(さへき)押しなべ」は「遮る木々を押しのけ」という意味である。

  (口語訳)
   我が大君、すなわち日の御子は神のまま神々しくていらっしゃる。その御子は太く立派な御殿におられるが、そこからお出かけになられた。険しい初瀬の山は木々がそそりたつ荒々しい山道。遮る岩や木々を乗り越え、おしのけて進まれる。朝越えてこられ、夕方には雪が降る安騎(あき)の大野に旗のようになびくススキや小竹(しの)を押し分けて旅寝をなさる。遠い昔の旅寝を偲んで。

  短歌(原文にも「短歌」とあり、万葉集初出。反歌と同意か否か不明)
0046  安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに
(阿騎乃<野>尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良<目>八方 古部念尓)
 「安騎の野(あきのの)」は前歌頭注参照。「安騎の野」は吉野の近くなので、「いにしへ思ふに」のいにしえは吉野のことと知れば興趣は高まる。「宿る旅人」は軽皇子。
 「安騎の野に泊まられる軽皇子様は手足を伸ばしてゆったりと寝られたいだろうに、祖父母(天武天皇と持統天皇)の故地吉野のことを思うとおやすみになれますまい」という歌である。

0047  ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
(真草苅 荒野者雖有 黄葉 過去君之 形見跡曽来師)
 安騎の野の野宿を経て故地の都吉野に到着した時の歌。「君が」の「君」は軽皇子の父草壁皇子のこと。
 「黄葉の季節を過ぎ、雑草を刈り取らねばならないほどの荒れ野ですが、祖父母や父母の故地のこの吉野にやってまいりました」という歌である。

0048  東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
(東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡)
 柿本人麻呂作と伝えられるこの歌は万葉歌を代表する素晴らしい一首。「東の」は「ひむがしの」と読む。私好みかもしれないが、この歌の一番秀逸な点は、全国津々浦々、どこの野に当てはめても「ああ」と納得できる普遍性を持っているからである。かつ、一語の解説をも必要とせず、このままで、万人がすっと理解出来る平明さである。実におおらかで味わい深い一首ではないか。せせこましくなった現代でもなお、どこかの野に出かければ目にする光景である。
 「東の野に明け方の光が立ち上るのが見える。振り返ると西空に月が傾いている」という歌である。

0049  日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
(日雙斯 皇子命乃 馬副而 御猟立師斯 時者来向)
 「日並の」は「ひなみしの」で太陽並みの皇子(みこ)すなわち日の御子(ひのみこ)のこと。柿本人麻呂が仕えていたと考えられる草壁皇子のことという。その皇子が馬を勢揃いなさって準備完了。いよいよ狩りの開始の時がやってきたぞという歌。「来向ふ」であるから、太陽に向かってという勇壮な気分がみなぎる。
 「日の御子が馬を勢揃いさせて刈りをなさる時がいままさにやってきた。さあ出かけよう」という歌である。

  頭注に「藤原宮の造築に携わった役民が作った歌」とある。『日本書紀』に藤原京への遷都は持統8年(694年)とある。
0050番長歌
  やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤原が上に 食す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負へる くすしき亀も 新代と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝すらむ いそはく見れば 神ながらにあらし
  (八隅知之 吾大王 高照 日<乃>皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 桧乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須<良>牟 伊蘇波久見者 神随尓有之)

 「荒栲(あらたへ)の」は枕詞だが、藤の繊維で作られた布のことで、901番歌「荒栲の布衣をだに着せかて~」のように使われることもある。「食(を)す国を」は「治めておられる国々を」という意味。「みあらかは」は宮殿のこと。藤原宮は奈良県橿原市から明日香村にかけての藤原の地に作られた。当初規模は小さく見られていたが、近年の発掘により、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぐ都であったことが分かっている。「田上山」は滋賀県大津市南部、いわゆる琵琶湖の南部に列なる山々。「桧のつまで」は「桧の丸太」。「身もたな知らず」は「我が身のことも忘れ」という意味である。「知らぬ国」は「平服しない国」のこと。「巨勢道」は奈良県御所市に合併した葛村。「図負へる」は「不思議な図柄を負った」という意味。

  (口語訳)                       
   我が大君、日の御子がここ藤原の地に、治めておられる国々をご覧になろうと、宮殿に上られ、高く治められんと、神らしく思われる。天地も心服しているからこそ、近江の国のあの田上山の真木を切り裂いて桧の丸太にし、宇治川に玉藻のように浮かべ、流す。その丸太を引き取る作業に騒々しく働く御民(人夫)たちは家を忘れ、我が身のことも忘れ、鴨のように水に浮かびながら我らが作る日の御子の宮殿。平服しない国々も寄ってくるという、巨勢道のように我が国は常世になるだろう(帰服するだろう)という甲羅、そんな不思議な図柄を負った亀も、新しい時代に出るという泉川に持ち運んだ真木の丸太を筏に作り、川を遡らせているだろう。人夫たちが争うように精を出しているのを見ると、この仕事がまさに大君が神ながらの存在であるからであろう。
 左注に「日本紀にはこうある。「朱鳥七年(癸巳年)秋八月藤原宮の地に幸(いで)ます。八年(甲午年)春正月にも藤原宮の地に幸(いで)ます。同年の冬十二月庚戌を朔日とする乙卯の日(六日)に遷る。」と・・・」とある。朱鳥七年は持統七年(693年)。朱鳥八年は持統八年(694年)。

 頭注に「明日香宮から藤原宮に遷られた後に志貴皇子の作った御歌」とある。志貴皇子は三十八代天智天皇の皇子。
0051  采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
(婇女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久)
 采女(うねめ)は侍女のことで、『日本書紀』三十六代孝徳天皇大化二年の条に「凡采女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者」とある。郡少領(各郡の次官)以上の役職者はその姉妹及子女を采女として貢れ(たてまつれ)、すなわち差し出しなさいというもの。しかも容姿端麗の者というのであるから、身勝手に思える。が、朝廷に生活を保障され、うまくいけば天皇の子さえ生むことができるので、当時は花形だったに相違ない。歌を鑑賞する際は「美しい女官たち」くらいの感覚で十分。「遠み」は「~ので」のみ。
 「美しい女官たちの着物の袖を翻していた明日香の風、その都が遠く藤原宮に遷されたので、その風はいたづらに吹くばかり」という歌である。

 藤原宮の御井の歌
0052番長歌
  やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水
  (八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門<従> 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水)

  50番長歌の解説を参照。「埴安(はにやす)」は香具山の麓にあった池。「日の経(たて)の」は「東の」、「日の緯(よこ)の」は「西の」、「背面の」は「北の」、「かげともの」は「南の」を、各々意味している。

  (口語訳)
   我が大君、日の御子がここ藤原の地に、大宮を造築された。埴安の池の堤の上にお立ちになってご覧になると、ここ大和の国の青々とした香具山は日差しを受ける東の御門の向かいに、春山のまま木々を茂らせている。畝傍の瑞々しい山は、西の御門の向かいに、佳い山らしさを見せている。青菅に包まれた耳成山は北の御門の向かいに、美しく神々しくそびえ立っている。その名も「佳(よ)し」の吉野の山は南の御門から雲の彼方遠くにそびえる。立派な山々に囲まれたこの地で、高々と天の影になり、太陽の影になる大宮。その宮を支える命の水ぞ、永久に湧き出よ、御井のま清水よ。

  短歌
0053  藤原の大宮仕へ生れつくや處女がともは羨しきろかも
(藤原之 大宮都加倍 安礼衝哉 處女之友者 <乏>吉<呂>賀聞)
 前歌(51番歌)で采女(侍女)たちは当時は花形だったのではないかとしたが、その雰囲気がストレートに表現されている歌である。平明歌。
 「藤原の大宮に仕えるよう生まれついた乙女たち。ああ羨ましいなあ」という歌である。
 左注に「右の歌、作者未詳」とある。
          (2013年1月27日記、2017年6月8日)
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