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万葉集読解・・・117(1710~1725番歌)


     万葉集読解・・・117(1710~1725番歌)
1710  我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜
      (吾妹兒之 赤裳埿塗而 殖之田乎 苅将蔵 倉無之濱)
 赤裳(あかも)は念のために記すと、女性が腰にまとった、紅いスカートのようなもの。「ひづちて」は「濡らして」。「倉無の浜」は地名か否か不明。「倉もない浜」と解しても一向に差し支えない歌。「彼女が赤裳を泥んこにして田植えを行った田が刈り入れの時期を迎えたが、刈りとって収める倉もない浜だよ」という歌である。

1711  百づたふ八十の島廻を漕ぎ来れど粟の小島は見れど飽かぬかも
      (百傳 八十之嶋廻乎 榜雖来 粟小嶋者 雖見不足可聞)
 「百(もも)づたふ」は八十(やそ)にかかる枕詞とされるが、「百づたふ八十」は本歌のほかに1399番歌の一例しかなく、他には「百づたふ磐余の池に~」とある416番歌しかない。枕詞(?)としてよかろう。「粟(あは)の小島」はどこの島か未詳。「多くの島々の近くを漕ぎ進んできたけれど、粟の小島は見ても見飽きることがなかったなあ」という歌である。
 本歌の左注には「右二首の作者は或いは柿本朝臣人麻呂とも言われている」とある。

1712  天の原雲なき宵にぬばたまの夜渡る月の入らまく惜しも
      (天原 雲無夕尓 烏玉乃 宵度月乃 入巻ね毛)
 題詞に「筑波山に登って月を詠んだ歌」とある。が、筑波山はどこの山か不詳。
 「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。「入(い)らまく惜しも」の「入らまく」は「没していくこと」という名詞的表現。「宵の天上にせっかく雲もなく、月も皓々と輝いているのにその月がやがて没するのは惜しい」という歌である。

1713  滝の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴き渡るは誰れ呼子鳥
      (瀧上乃 三船山従 秋津邊 来鳴度者 誰喚兒鳥)
 題詞に「天皇が吉野の離宮に行幸された際の歌二首」とある。年月不記載だが、吉野行幸といえば持統天皇。おそらく持統天皇の行幸。三船の山は吉野の山。秋津辺は吉野の宮滝いったいの野。「滝の上の、あの三船の山からここ秋津辺に飛んできて呼子鳥が鳴いているが誰を呼んでいるのだろう」という歌である。

1714  落ちたぎち流るる水の岩に触れ淀める淀に月の影見ゆ
      (落多藝知 流水之 磐觸 与杼賣類与杼尓 月影所見)
 「岩に触れ」とあるのは「岩に遮られて」という意味。「山上から激しく落ちたぎってくる滝水が岩に遮られ淀んでいるが、その淀みに月が見える」という歌である。
 本歌の左注に「右三首作者未詳」とある。

1715  楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ
      (樂浪之 平山風之 海吹者 釣為海人之 袂變所見)
 題詞に「槐本(かいもと)歌」とある。「槐本」は地名か人名か不明。「槐本」は「槻本」とも書くという。だとすれば、「槐本」は、「ケヤキの木の根元」とも解しうる。「楽浪(ささなみ)の比良山」は琵琶湖西岸にある山。「釣りする海人(あま)の袖返る見ゆ」とあるので、海浜に近い場所での作歌に相違ない。「比良山から海に吹き下ろす風に釣り人の着物の袖が翻っている」という歌である。

1716  白波の浜松の木の手向けくさ幾代までにか年は経ぬらむ
      (白那弥乃 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫)
 題詞に「山上氏の歌」とある。山上憶良説もあるが、不確か。
 「手向けくさ」は「お供えもの」等のことで、花、布、紐等々色々なものがあるが、「幾代までにか年は経ぬらむ」とあるので、枝に結んだ紐とするのが妥当。「白波の打ち寄せる浜に立つ松の枝に結ばれたこの手向けの紐はどのくらい長年月を経てきたのだろう」という歌である。
 本歌には左注がついていて、「右一首は或は川嶋皇子(かわしまのみこ)御作とも伝えられている」とある。

1717  三川の淵瀬もおちず小網さすに衣手濡れぬ干す子はなしに
      (三川之 淵瀬物不落 左提刺尓 衣手潮 干兒波無尓)
 題詞に「春日氏の歌」とある。誰のことか不明。
 三川(みつかは)は所在不詳。問題は「淵瀬もおちず」。各書とも「淵も瀬も残らず」という意に解している。三川(みつかは)が特定の川の名なのか、あるいは三つの川のことかはっきりしないので確定的なことは言えない。が、各書のように「淵も瀬も残らず小網をさす」という意味だとすると、「衣手(ころもで)濡れぬ」の一句があまりにも不具合。三つの川ならもちろんだが、単独の川のこととしても、各淵や瀬に残らず小網をさすことなど可能だろうか。上流から下流まで淵や瀬がいくつあるやも知れず、離ればなれの瀬と瀬の間を往来することなどおよそ不可能。あまりにも非現実的。川に点在するすべての淵や瀬で魚をすくい取ることなど出来る筈もないが、かりにそうだとしても、着物の袖が濡れるくらいで済む話ではない。波をかぶったり足をとられたりして命の危険にさらされかねない。私はここは特定の淵瀬のことだと思う。そうでないと歌意が通らない。
 「三川のあの有名な淵瀬を夢中になって残らずさらっていたら着物の袖が濡れてしまった。乾かしてくれる彼女もいないというのに・・・。」という歌であろう。

1718  率ひて漕ぎ行く舟は高島の安曇の港に泊てにけむかも
      (足利思代 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓監鴨)
 題詞に「高市(たけち)の歌」とあり、この高市は高市黒人のこととする論者もあるが、ただ高市とあるのみで、高市の誰のことか不明。「率(あども)ひて」は「声を掛け合って」とも解されるが、字義どおり「舟を率いて」で差し支えあるまい。「高島の安曇(あど)」は1690番歌に出てきた。高島は滋賀県琵琶湖中部西岸の高島市。そこに琵琶湖に注ぐ安曇川が流れている。「舟を率いて漕いでいく舟が見えるが、高島の安曇の港にでも停泊するのだろうか」という歌である。

1719  照る月を雲な隠しそ島蔭に我が舟泊てむ泊り知らずも
      (照月遠 雲莫隠 嶋陰尓 吾船将極 留不知毛)
 春日蔵(かすがのくら)の歌。
 「な隠しそ」は例によって「な~そ」の禁止形。「明るく照らし出している月を雲よどうか隠さないでおくれ、私の舟をどこで停泊させてよいやら分からないから」という歌である。
 本歌には長々と詳細な左注がついている。以下のような注である。
 「或本に小辨作とあるが、姓だけ記して名が不記載だったり逆に姓が不記載だったりする。ここでは古記によって「春日蔵」としたが、今後、こうした場合は古記に従いたい」

1720  馬並めてうち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む
      (馬屯而 打集越来 今日見鶴 芳野之川乎 何時将顧)
 元仁(がんにん)の歌三首。読解なしでそのまま分かると思う。「馬を並べてみんなで山を越えてきて、今日やっと吉野川を見ることが出来た。この先、この吉野川をいつ見ることができるだろう」という歌である。

1721  苦しくも暮れゆく日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに
      (辛苦 晩去日鴨 吉野川 清河原乎 雖見不飽君)
 「苦しくも」は「残念ながら」という意味だが、二句目の「暮れゆく日かも」(原文「晩去日鴨」)は「暮れぬる日かも」と訓じる書もあるが、結句が余韻の残る「見れど飽かなくに」となっているので「暮れゆく日かも」の訓に従いたい。「残念ながら日が暮れて行く。吉野川の清らかな川原は見ていても飽きがこないというのに」という歌である。

1722  吉野川川波高み滝の浦を見ずかなりなむ恋しけまくに
      (吉野川 河浪高見 多寸能浦乎 不視歟成嘗 戀布真國)
 「川波高み」の「み」はおなじみ、「~なので」。前々歌によれば、元仁一行は馬でやってきており、舟で滝に遡上していく歌と見るのは不自然。「恋しけまくに」は「後で後悔する」といった意味。「吉野川の川波が高くて、滝が落下する滝壺までは見ずじまいに終わってしまうかも。後で後悔することになるだろうが」という歌である。

1723  かはづ鳴く六田の川の川柳のねもころ見れど飽かぬ川かも
      (河蝦鳴 六田乃河之 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨)
 作者は絹とある。絹は女性名だろうが、それ以上のことは不明。
 「六田(むつた)の川は1105番歌にも詠われていたが、吉野川の大淀一帯の呼び名。すなわち吉野川の一部である。各書とも「~川柳(かはやぎ)の」までは「ねもころ(じっくり)」の「ね」を導く序歌としている。とすれば、実質は下二句だけの歌。「じっくり見ていても飽きない川だよ六田の川は」という歌となるが、どこか腑に落ちない。そう解するしかないかもしれないが、「~川柳の」でいったん切れる歌としたらどうだろう。すると、「~川柳の」の「の」は詠嘆の「の」ということになる。つまり倒置表現で、初句に戻る。「川柳が立ち並びかはづ鳴く六田の川、その風情はいくら念入りに眺めていても、見飽きることがない」という歌になる。いかがであろう。極めて自然で無理のないように思われるのだが・・・。

1724  見まく欲り来しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく
      (欲見 来之久毛知久 吉野川 音清左 見二友敷)
 作者は嶋足(しまたり)。嶋足の伝は未詳。
 「見まく欲り来しくもしるく」は「一度見てみたいと思ってやってきただけあって著しく」という意味である。「ともしく」は「見足りない」。「一度見てみたいと思ってやってきた甲斐があって吉野川の川音のすがすがしさは格別。いくら見ていても飽きない」という歌である。

1725  いにしへの賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも
      (古之 賢人之 遊兼 吉野川原 雖見不飽鴨)
 作者は麻呂。麻呂は当時の男性の一般名称のような名。作者未詳とほぼ同意か。
 「賢(さか)しき人の」は特定の賢者を指しているとも一般用語とも取れるが、伝説上の人物を含むであろうから、「名高い賢人たちの」くらいに受け取っておくのが普通だろう。「昔の名高い賢者たちも遊んだという吉野の川原は見ても見ても飽きないすばらしい所だ」という歌である。
 左注に「右は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。本歌だけのことか複数歌を指しているのか不明。
           (2014年10月30日記)
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