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万葉集読解・・・6(54~67番歌)


     万葉集読解・・・6(54~67番歌)             
 頭注に「大寳元年(辛丑年)秋九月、太上天皇紀伊國に幸(いで)まされた時の歌」とある。大宝元年は701年。太上天皇は持統上皇。
0054  巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を
     (巨勢山乃 列々椿 都良々々尓 見乍思奈 許湍乃春野乎)
 巨勢山(こせやま)は近鉄吉野線やJR和歌山線の「吉野口」駅から徒歩20分ほどの所に位置する奈良県御所市の山。その七合目あたりに巨勢山口神社が鎮座する。古代には豪族巨勢氏の治下にあったとされる。
 「巨勢山のつらつら椿」は次句の「つらつらに」を導く序歌的用法。作者は眼前にその椿を見ている。が、秋9月。旧暦9月は晩秋。椿は咲いていない。そこで、巨勢山のつらつら椿は「これがつらつら椿で有名な椿なのか」という意味だと分かる。「つらつら椿」の「つらつら」は花々が連なって咲いている様。そして、後の「つらつらに」は「つくづくと」という意味。
 「これが巨勢山の有名なつらつら椿か。春の野を彩ってさぞかし美しいことだろうな。つくづく眺めて春野を思い描こう」という歌である。
 左注に「右は坂門人足(さかとのひとたり)の歌」とある。

0055  あさもよし紀人羨しも真土山行き来と見らむ紀人羨しも
     (朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母)
 「あさもよし」は枕詞。万葉集中6例ある。短歌3例、長歌3例、すべて「紀」にかかる。真土山(まつちやま)は奈良県五條市と和歌山県橋本市との境にある山。真土山は標高100メートルほどの低山だが、その山容が美しかったのだろうか。「紀人(きひと)」は「紀の国の人々」。紀伊の国はおおむね和歌山県。
 「紀の国の人々は羨ましいことだ。国境を往来するたびに真土山を見られる紀の国の人々は」という歌である。
 左注に「右は調首淡海(つきのおびとあふみ)の歌」とある。

 或本歌
0056  川上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
     (河上乃 列々椿 都良々々尓 雖見安可受 巨勢能春野者)
 この歌、54番歌にそっくりである。「巨勢の春野」という場所と季節が一致しているだけではない。「つらつら椿つらつらに」という極めて特徴的な表現が全く同一だ。
 作者は54番歌が坂門人足(さかとのひとたり)、本歌が春日蔵首老(かすがのおびとおゆ)と注記されている。春日蔵は法師だったが、大宝元年(701年)三月に還俗している。したがって、両者が同一人か?。そうなら、54番歌を作歌してから、半年後に再度巨勢の春野を訪れて本歌を詠んだことになる。
 「川上の椿が連なって咲いている。美しい花々で、つくづく見てても飽きないな。この巨勢の春野に咲く花は」という歌である。
 左注に「右は春日蔵首老(かすがのおびとおゆ)の歌」とある。

 頭注に「二年(壬寅年)、、太上天皇参河國に幸(いで)まされた時の歌」とある。二年は大宝二年(702年)。太上天皇は持統上皇。参河の國は愛知県東部。 
0057  引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
     (引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓)
 引馬野(ひくまの)は愛知県御津町(みとちょう・現豊川市)にある地名とされる。榛原(はんばら)はハンノキの原で、湿地などに群生する。『古事記』雄略天皇の条に、雄略天皇が葛城山(かつらぎやま)に上った際のエピソードが記されている。大きな猪を射かけたところ、猪に追いかけられ、榛の木に登って逃げおおせた、という記事だ。
 さて、そのハンノキだが、「にほふ榛原」とある。「にほふ」は「色づく」ないし「染まる」という意味。
 「引馬野に色づいている榛の原。さあ、一同、その原に入り乱れて入り込み、着物をハンノキに染めようではないか、旅の記念に」という歌である。
 左注に「右は、長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌」とある。

0058  いづくにか船泊てすらむ安禮の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟
     (何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟)
 安禮の崎(あれのさき)は前歌に出ている引馬野の南の崎だという。「棚無し小舟」は側板(横板)も付いていない小さな舟。
 「さっき安禮の崎(あれのさき)を漕ぎ回っていた小舟の姿が見えない。あの小舟は、今ごろどこで停泊しているのだろう」という歌である。。
 左注に「右は、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌」とある。

 頭注に「譽謝女王(よさのおほきみ)の作った歌」とある。
0059  ながらふる妻吹く風の寒き夜に吾が背の君は獨りか寝らむ
     (流經 妻吹風之 寒夜尓 吾勢能君者 獨香宿良<武>)
 「ながらふる」は「絶え間なく」。妻は「切り妻造りの家」のことだが、自分(妻である私)の意をもかけている。夫は旅の空か。
 「絶え間なく切り妻に吹く風の寒々としたこんな夜、あの人はたった独りで寝ているのだろうか」という歌である。
 地味だけどなかなかの秀歌だと思う。

 頭注に「長皇子の御歌」とある。長皇子(ながのみこ)は四十代天武天皇の皇子。
0060  宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ
     (暮相而 朝面無美 隠尓加 氣長妹之 廬利為里計武)
 「朝(あした)面無み」は「~ので」のみ。「朝、顔を合わせなかったので」という意味。名張は三重県名張市。この歌、いささか文字遊びめいている。後世盛んになる技巧的和歌のハシリと考えていいかもしれない。「名張にか」の原文は「隠尓加」、「姿を隠す」ということ。「廬(いほ)りせりけむ」は「仮宿してたのだろう」である。つまり名張(隠れる)の地名にかけた歌。
 「夜に共に寝て朝顔も会わせずに隠れるという名張で何日も何日もあの子は仮宿して私を待っていたのだろうか」という歌である。

 頭注に「付き従った舎人娘子(とねりのをとめ)が作った歌」とある。
0061  大丈夫のさつ矢手挟み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし
     (大夫之 得物矢手挿 立向 射流圓方波 見尓清潔之)
 「大丈夫(ますらを)の」は男子の美称。「立派な男の」ということ。「大丈夫の~向ひ射る」までは圓方(まどかた)を導く序歌。的(まと)を導く。「さつ矢」は矢の美称。圓方は三重県松阪市の東部一帯。
 「りりしい男が矢を手挟んで立ち、向かいに射る、その圓方の地は見るからに清々しい」という歌である。

 頭注に「三野連(みののむらじ)(名を欠く)、入唐する時、春日蔵首老(かすがのおびとおゆ)の作った歌」56番歌の作者と同じ。。
0062  ありねよし対馬の渡り海中に幣取り向けて早帰り来ね
     (在根良 對馬乃渡 々中尓 <幣>取向而 早還許年)
 「ありねよし」は本歌一例のみで枕詞(?)としておきたい。「有り峰よし」か?。三野連の無事の帰還を願って詠んだ歌。幣(ぬさ)は神に捧げる(手向ける)布等。
 「秀麗な峰々が続く対馬を渡る時、海中に幣(ぬさ)を捧げて早くお帰り下さい」という歌である。

 頭注に「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐にありし時、本郷(くに)を思って作った歌」とある。
0063  いざ子ども早く大和へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
     (去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武)
「いざ子ども」は「従者、舟子などを親しんで呼ぶ呼びかけ」。舟子はいうまでもなく「乗組員」。唐から帰国する時、乗船した一同。なので子はく氏子(うじこ)という時の「子」の意味と分かる。
 山上憶良は70歳超という、当時としては異例の高齢者。が、児らを思う歌が多いので有名な歌人。が、この歌のように「子等」と表記して従者ないし身内の意味が込められていることがあるので葉注意。山上憶良が一族の長老として身内や従者に愛情を注ぐのは自然。なので、ひとこと。「大伴の御津の浜松」は大伴氏の本拠があったとされる大阪湾の浜だという。895番歌に「大伴の御津の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早帰りませ」と詠まれている。
 「さあ、一同。早く大和へ帰ろうぞ。大伴の御津の浜辺の松もわれらを待ち焦がれていようぞ」という歌である。

 頭注に「慶雲三年(丙午年)、難波宮に行幸の際、志貴皇子の作った歌」とある。慶雲三年は706年。この時の天皇は四十二代文武天皇。志貴皇子は三十八代天智天皇の第七皇子。
0064  葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ
     (葦邊行 鴨之羽我比尓 霜零而 寒暮夕 <倭>之所念)
 「羽交ひ」は左右の羽を折り畳んだ所」
 「葦辺行く鴨の羽交いに霜が降りている。こんな寒い夕べは大和が思い出される」という歌である。
 「寒き夕べ」を「葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて」と表現した、実感のこもった素晴らしい歌である。

 頭注に「長皇子の御歌」とある。長皇子(ながのみこ)は四十代天武天皇の皇子。
0065  あられ打つ安良礼松原住吉の弟日娘女と見れど飽かぬかも
     (霰打 安良礼松原 住吉<乃> 弟日娘与 見礼常不飽香聞)
 「あられ打つ」を地名の「安良礼」にかけている。安良礼は大阪市住吉区の浜。住吉には港があって、弟日娘女(おとひをとめ)はそこの遊女と解されている。
 「あられ(霰)が降ってくるような寒々としたアラレの松原も、美しいこの弟日娘女と共に眺めていれば飽きることもないなあ」という歌である。

 頭注に「太上天皇難波宮に幸(いで)まされた時の歌」とある。太上天皇は持統上皇。
0066  大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ
     (大伴乃 高師能濱乃 松之根乎 枕宿杼 家之所偲由)
 高師の浜(たかしのはま)は大阪府高石市辺りの浜。初句に「大伴の」とあるから、63番歌にある「大伴の御津の浜」と同じく大伴氏の本拠があったとされる大阪湾の浜なのだろう。
 「大伴の高師の浜に立つ松の木の根を枕にして、寝ようとするのだが、よく寝られず、大和の家が思い起こされてならない」という歌である。
 左注に「右は置始東人(おきそめのあづまひと)の歌」とある。

0067  旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえざりせば恋ひて死なまし
     (旅尓之而 物戀之○○ ○○鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思)
 この歌も前歌と同じく旅先での歌。当時の旅はすべて徒歩。かつ、幾日もかかる大変な旅である。望郷の念に駆られて死にたくなる気持、よく分かる。
 「旅空にあってただでさえもの恋しいのに、鶴の鳴き声さえ聞こえなかったら、故郷の家恋しさに死んでしまいたい」という歌である。
 左注に「右は高安大嶋(たかやすのおほしま)の歌」とある。
          (2013年2月3日記、2017年6月10日記)
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