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日頃、私が愛読しているブログに「名歌観賞」がある。その彼が先日、芭蕉の一句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を取り上げていた。そこで芭蕉について一文を弄する気になった。先ず、この一句だが、江戸深川から出立する際に見送りにきた人々の思いに寄せて作句した一句。この句に初めて出合ったとき、「目は泪(なみだ)」に衝撃を受けた。
普通「目に泪」であり、考えて出てくる表現は「目が泪」や「目の泪」等だ。目そのものが泪を意味する「目は泪」など考えも及ばない。が、この「は」によって、「魚の目」そのものが「泪」になって別れを惜しんでいることになる。が、芭蕉の魅力はこの、一言一句の巧みさではない。なんといってもその人柄にある。あまり、知られていないが、たとえば次の句をごらんいただこう。
1:朝顔や昼は錠おろす門の垣 2:烏賊売の声まぎらはし杜宇
つまり、芭蕉は出世や栄誉に恬淡としており、客を迎えて、なお、菜汁に唐辛子を出してくれた主人に感謝している。つまり、芭蕉自らが庶民になりきり、かつ、庶民であることを少しも恥ともうらめしいとも思っていない。他方ではこんな名句を残し、
荒海や佐渡に横たふ天の河 閑さや岩にしみ入る蝉の声
俳聖と呼ばれる彼が。庶民の味方というポーズも取らず、権力に皮肉や批判めいた言動も取らず、ただ、庶民の一人として生きたその人柄に限りない魅力を覚えるのである。
(2017年6月18日)
日頃、私が愛読しているブログに「名歌観賞」がある。その彼が先日、芭蕉の一句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を取り上げていた。そこで芭蕉について一文を弄する気になった。先ず、この一句だが、江戸深川から出立する際に見送りにきた人々の思いに寄せて作句した一句。この句に初めて出合ったとき、「目は泪(なみだ)」に衝撃を受けた。
普通「目に泪」であり、考えて出てくる表現は「目が泪」や「目の泪」等だ。目そのものが泪を意味する「目は泪」など考えも及ばない。が、この「は」によって、「魚の目」そのものが「泪」になって別れを惜しんでいることになる。が、芭蕉の魅力はこの、一言一句の巧みさではない。なんといってもその人柄にある。あまり、知られていないが、たとえば次の句をごらんいただこう。
1:朝顔や昼は錠おろす門の垣 2:烏賊売の声まぎらはし杜宇
3:隠さぬぞ宿は菜汁に唐辛子
1は、朝は外を見るが、昼間は家にこもっている。2は、詩歌で詠われる杜宇(ホトトギス)の鳴く声も、生活のために必死に呼びかける烏賊(いか)売りの声にかき消される。3は、宿を貸してくれた主人は隠しもしないで、質素な菜っ葉の汁と唐辛子だけを出してくれた。という各々の意味である。つまり、芭蕉は出世や栄誉に恬淡としており、客を迎えて、なお、菜汁に唐辛子を出してくれた主人に感謝している。つまり、芭蕉自らが庶民になりきり、かつ、庶民であることを少しも恥ともうらめしいとも思っていない。他方ではこんな名句を残し、
荒海や佐渡に横たふ天の河 閑さや岩にしみ入る蝉の声
俳聖と呼ばれる彼が。庶民の味方というポーズも取らず、権力に皮肉や批判めいた言動も取らず、ただ、庶民の一人として生きたその人柄に限りない魅力を覚えるのである。
(2017年6月18日)
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