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万葉集読解・・・9(85~92番歌)

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     万葉集読解・・・9(85~92番歌)            
 ここから巻二が始まるのだが、「相聞」と銘打たれている。巻一では言及しなかったが、巻一は「雑歌」となっている。これらを分類と捉えて私自身データに反映しようと試みたが、途中で放棄した。相聞(そうもん)とは「岩波大系本」や広辞苑等を引いてみると、おおむね「個人の情感を交わし合う意で恋情歌が多い」とされ、分類の一つとされている。確かに万葉集の一部の巻では、相聞のほかに挽歌(ばんか)、譬喩歌(ひゆか)、そして雑歌(ぞうか)が立てられている。雑歌はその用語の意味からどの部にも属さない歌を集めたように見える。
 が、すでに見たように、有名な20番歌「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と、それに応えての21番歌「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」は雑歌じゃなく、相聞歌そのものである。旅先から故郷に待つ妻たちに思いを馳せる歌もたんに便宜上雑歌としただけに思われる。つまり、部立ては分類などというものではなく、各巻を担当した編者の単なる主観によるくくりに過ぎないことが分かる。事実、部立ては少しも一定していない。雑歌以下既述した4部に統一された巻は少なく、巻十一や巻十二のように8部に部立てが行われているものもあれば、巻十五や巻十七のように全く部立てがないものさえある。
 あるのは墨筆と和紙のみの古代。一文字一文字埋めていって長時間かけてやっと各巻が完成する。とうてい書き直したり、編集のために統一を図ることなど可能な筈もない。不揃いで不統一なのはむしろ当たり前なのだ。
 前置きが長くなってしまったが、要するに一個一個の歌を鑑賞するのに部立てだの分類だのに拘る必要はないのである。

  相  聞
 注に「難波高津宮の天皇の御世、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)謚り名を仁徳天皇という」とある。難波高津宮は大阪市中央区法円坂の辺りとされる。十六代仁徳天皇。
 頭注に「磐姫(いはのひめ)皇后、天皇を偲んでお作りになった歌四首」とある。磐姫は仁徳天皇の皇后。
0085  君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
     (君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 <待尓>可将待)
 「君」はむろん仁徳天皇。「日長く」は「けながく」と読み、「夫が旅立ってから随分日が経つ」ことを意味する。当時は女性は待っているというのが一般概念。それを自分から「山を越えて訪ね当てようかしら」というのであるから、その恋情は並大抵ではなかったことが伺われる。
 「あなたが旅立たれてから随分日が経ちました。山を訪ねてお迎えに行こうかしら、それともここでお待ちしましょうか」という歌である。
 左注に「右は山上憶良臣の類聚歌林に載っている」とある。類聚歌林は歌集。

0086  かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを
     (如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物<呼>)
 「恋ひつつあらずは」は「じっと待ち焦がれてなどいないで」という意味。「磐根しまきて」は「磐を枕にして」、しは強意。皇后の名「磐姫」にかけて詠み込まれている。磐姫は『古事記』では「石之日賣命」と表記されている。皇后本人とは別人の代詠の疑いもある。
 「こんな風にしてじっと待ち焦がれてなどいないで、高山の磐の根元を枕にして死んでしまいたい」という歌である。

0087  ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに
     (在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日)
 「ありつつも」は「じっとこのまま」、「霜の置くまでに」は「白髪で真っ白になるまで」という意味である。
 「じっとこのままあの方を待つことにしよう。このなびく黒髪が霜のように白髪で真っ白になるまで」という歌である。

0088  秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何時邊の方に我が恋ひやまむ
     (秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息)
 「何時邊の方(いつへのかた)に」は「どちらの方向に」という意味である。
 「秋の田の稲穂にかかる一面のあさ霞、どちらの方向に向かって恋続ければこの思いが止むことでしょう」という歌である。

 頭注に「或本にいう歌」とある。
0089  居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも
     (居明而 君乎者将待 奴婆珠<能> 吾黒髪尓 霜者零騰文)
 「居明かして」は「夜が明けるまでこのままずっと」である。「ぬばたまの」は枕詞。万葉全歌中80例にも達する。
 「夜が明けるまでこのままずっとあなたを待っています。この私の黒髪に霜が降りようとも」という歌である。
 左注に「右は古歌集に出ている。」とある。当時類聚歌林のほかに歌集が出ていたらしい。

 頭注に「古事記よると、軽太子と軽太郎女は姧(たは)けた。故に其の太子を伊豫の湯に流す。此時衣通王(軽太郎女、恋慕に絶えず、追って行く時の歌」とある。伊豫の湯は愛媛県松山市の道後温泉。軽太子(かるのひつぎのみこ)は十九代允恭天皇の皇子。軽太郎女(かるのおほいらつめ)は軽太子の同母妹。姧(たは)くは密通のことで、二人は兄妹。兄妹で関係を結ぶのは厳禁だった。
0090  君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ  [ここに山たづといふは、今の造木をいふ]
     (君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  [此云山多豆者是今造木者也])
  本歌は、磐姫(いわのひめ)の作と伝えられる85番歌「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」とほぼ同じ歌。「山尋ね」が「山たづの」、「迎へか」が「迎へを」、「待ちにか待たむ」が「待つには待たじ」と変わっている。ほぼ、同一歌がどうして掲載されているのか分からない。磐姫(いわのひめ)と軽太郎女(かるのおほいらつめ)のどちらかの作と思われるが真相は不明。実際に『古事記』にあたってみると、允恭天皇記にこの歌が出ている。
 「山たづ」だが、『古事記』はこれに注記して「今で言う造木」としている。造木(みやつこき)は現在のニワトコのことだという。が、「山たづの」は樹木の名ではなく、迎へにかかる枕詞(?)という説もある。が、同一歌としてよい85番歌には「山尋ね」とあり、ここも「山尋ね」としてよいのではなかろうか。
 「あなたが旅立たれてから随分日が経ちました。山を訪ねてお迎えに行こうかしら、ここでじっと待つのは絶えきれないので」という歌である。
 左注にこうある。「この歌は、古事記と類聚歌林に掲載されているが、同一ではない。作者も異なる。そこで日本紀に質すと、「難波高津宮御宇大鷦鷯天皇(十六代仁徳天皇)廿二年春正月、天皇は皇后に言われた。八田皇女(やたのひめみこ)を召し入れて妃にしたいとおっしゃった。が、皇后は聞き入れませんでした。そこで天皇は歌を詠んで皇后に乞われて云々。 また、卅年秋九月乙卯を朔(ついたち)とする乙丑の日(十一日)、皇后は紀伊國に幸(いで)まされ、熊野岬に到着された。そこで御綱葉(みつなかしは=常緑小高木)を取ってお帰りになった。この時、天皇は皇后の不在を伺って、八田皇女を宮中に召し入れ給う。時に皇后は難波の渡し場に帰られ、天皇が八田皇女を召されたと聞かれた。それを聞いて大いに恨みに思われて云々。またこうも云う。飛鳥宮での御世、雄朝嬬稚子宿祢(をあさづまのわくごのすくねの)天皇(十九代允恭天皇)廿三年春三月甲午を朔(ついたち)とする庚子の日(七日)、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子となさった。容姿、佳麗にして、見る者、自ずから感嘆した。同母妹の軽太娘皇女(かるのおほいらつめ)もまた艶妙にして云々。(兄妹は)密通に及び恋情の苦しみからいっとき逃れた。廿四年夏六月、天皇の食事の汁が固まって氷のようになったことがあった。怪訝に思われた天皇はその理由を占い師に占わしめた。占い師が申すには、内乱ある兆しでしょう。おそらく肉親同士に密通があったのでしょう、と云々。そこで、太娘皇女を伊予の国に移す。が、仁徳天皇紀と允恭天皇紀の二代にわたって、この歌は見られない。」
 90番歌に付けられているこの注記は異常に長い。で、出来るだけ一読して分かるように表現を工夫したつもりである。90番一歌のためにここまで執拗に注記するのは、万葉集の編纂者(読者)も、現代と同じく、男女関係には異常に関心があったからなのであろうか。

 題詞に「近江大津宮の天皇の御世、天命開別(あめみことひらかすわけのすめらみこと)謚り名を天智天皇という」とある。近江大津宮は滋賀県大津市にあった。天皇は三十八代天智天皇。
 頭注に「天皇、鏡王女(かがみのおほきみ)に賜う御歌」とある。
0091  妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを [一云 妹があたり継ぎても見むに] [一云 家居らましを]
     (妹之家毛 継而見麻思乎 山跡有 大嶋嶺尓 家母有猿尾 [一云 妹之當継而毛見武尓] [一云 家居麻之乎])
 「継ぎて」は「ずっと」すなわち「いつでも」の意。「見ましを」は「見られたら」ということである。「大島の嶺」は不詳。
 「あなたの家をずっと見ていたいものだ。大和の、あの大島の嶺に家でもあったらなあ」という歌である。
 異伝歌には「彼女のあたりをずっと見たいのに」、さらに「家に居てくれたらなあ」となっている。

 頭注に「鏡王女(かがみのおほきみ)が応えた御歌」とある。
0092  秋山の樹の下隠り行く水の我れこそ増さめ御思ひよりは
     (秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者)
 前歌に鏡王女が応えた歌である。「秋山の樹の下隠り行く水の」までの3句は自分の思いを水にたとえている。
 「秋の山の木々に隠れて流れ下る水のように、私の方こそ思いはまさる一方です。あなたが思ってくださる以上に」という歌である。
          (2013年2月9日記、2017年6月21日記)
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