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万葉集読解・・・13(132~144番歌)

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     万葉集読解・・・13(132~144番歌)
 反歌二首
0132  石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
     (石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香)
 これは131番長歌の頭注にあるように、柿本人麻呂の歌だが、彼は9年間ほど石見(いはみ。島根県西部)の国司の任にあったとされる。その任を解かれて都(大和藤原京)に上るときの歌という。なので妹(いも)は石見の国に残してきた妻ないし恋人ということになる。「石見のや」は「ああここは石見」で、高角山はその石見の山。
 「ああここは石見の高角山、その木の間より私はさかんに袖を振っているが、彼女は見てくれているだろうか」という歌である。

0133  笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば
     (小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆)
 「さやに」は「ざわざわと」という意味。平明歌。
 「笹の葉がみ山にざわざわと揺れて騒ぐように、私は石見に残してきた彼女が心残りでたまらない」という歌である。

 頭注に「或本の反歌にいう」とある。
0134  石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも
     (石見尓有 高角山乃 木間従文 吾袂振乎 妹見監鴨)
 この歌、前々歌の異伝歌である。本歌にほぼ同じ。
 「ああここは石見の高角山、その木の間からも私はさかんに袖を振っているが、彼女は見てくれただろうか」という歌である。

0135番 長歌
    つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の 黄葉の 散りの乱ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上の [一云 室上山] 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ
   (角障經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽 深海松生流 荒礒尓曽 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃 [一云 室上山] 山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而<沾>奴)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「つのさはふ」、「言(こと)さへく」、「深海松(ふかみる)の」、「延ふ蔦の」、「肝向ふ」、「大船の」、「妻ごもる」等は枕詞。「辛の崎」は島根県西部の海岸のどこかとみられる。「海石(いくり)にぞ」は「海中の岩石」のこと。「渡(わたり)の山の」と「屋上(やかみ)の山の」はいずれも所在不詳。

 (口語訳)
  石見の海の辛崎に沈む海中の岩石には海深くに松が生えている。その荒磯に玉藻が生い茂ってなびくように、共寝した彼女。海深くに生える深海松(みるまつ)のように深く思って寝た夜はいくらもなく、蔦(つた)が二手に分かれていくように別れてきてしまった。その心の痛みに堪えられず振り返ってみるが、渡の山の黄葉が散り乱れ、彼女が振っている袖もはっきりとは見えない。 屋上の山(或いは室上山という)の雲間を渡っていく月が名残惜しい。その月が隠れてくるにつれ、入日が迫ってきて、一人前の男と思っていた私の袖も悲しみで濡れてしまった。

 反歌二首
0136  青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける [一云 あたりは隠り来にける]
     (青駒之 足掻乎速 雲居曽 妹之當乎 過而来計類 [一云 當者隠来計留])
 青駒は馬のこと。「足掻(あが)きを速み」は「歩みを速めて」、雲居(くもい)は「雲がかかっているあたり」という意味である。山路を往来することの多かった古代の人々。山頂や峠から里を眺めるときの雲の姿は日常的な風景だったに相違ない。
 「馬が速度を速めてここまでやってきたが、あの雲のかかっている彼女の里のあたりを通り過ぎてきたんだなあ」という歌である。
 異伝歌は「里はもう隠れて見えなくなってしまったなあ」とある。

0137  秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む [一云 散りな乱ひそ]
     (秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曽 妹之<當>将見 [一云 知里勿乱曽])
 「しましくは」は「しばし」。「な散り乱(まが)ひそ」の「な~そ」は禁止形。「散り乱れるな」という意味である。
 「秋の山の黄葉よ。しばし散り乱れないでおくれ。妻のいる里のあたりを眺めたいから」という歌である。
 異伝歌は「散るな乱れるな」となっている。

 頭注に「或本の歌と短歌」とある。
0138番 長歌
   石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き我が寝し 敷栲の 妹が手本を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし 我が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山
   (石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山)

  131番長歌の異伝歌で、ほぼ同様。用語は131番長歌参照。

 (口語訳)
 石見の海の津には浦がなく、港に適した浦もない、と人は言い、適当な干潟も無いと人は言う。たとえ港は無くとも、たとえ干潟は無くとも、クジラは捕れる。柔田津(にぎたづ)の荒磯を指して青々とした藻や沖藻が、明け方には波に寄せられ、夕方には風が吹いて波と共に寄りに寄ってくる。そんな玉藻のように寄ってきて共寝した妻の白い手元を離れてきた。やって来たその道の曲がり角ごとに幾たびも振り返ってみた。いや里は遠く離れ、いや高い山も越えてやってきた。いとしい妻は夏草のようにしおれて嘆いていることだろう。妻のいる家の里が見たくてたまらない、こんな山などなくなればいいのに

 反歌一首
0139  石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
     (石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香)
 132番歌の「高角山」と本歌の「打歌(うつた)の山」は両者とも未詳だが、同一と考えれば両歌はほぼ同一歌
 「ああここは石見の海の打歌(うつた)の山、その木の間より私はさかんに袖を振っているが、彼女は見てくれているだろうか」という歌である。
 左注に「右の歌はほぼ同じだが、句々に異なる所もあるので重ねて載す」とある。

 頭注に「柿本朝臣人麻呂の妻依羅娘子(よさみのをとめ)の別れの歌」とある。
0140  な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ
     (勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟)
 「な思ひと」は「そんなに思い悩むな」という意味である。「恋ひずあらむ」は反語表現。
 「そんなに思い悩むなとあなたはおっしゃるけれど、いつ逢えるか分からないのに恋わずにいられましょうか」という歌である。

  挽 歌
 頭注に「後岡本宮の天皇の御代」とあり、細注に「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)譲位の後に、後岡本宮に即位したまう」とある。このままでは分かりにくいが、後岡本宮については7番歌の頭注で詳述したので、参照されたい。要するに三十五代皇極天皇が退位したが、再度後岡本宮に三十七代斉明天皇として即位(同一人物の即位を重祚(ちょうそ)という)したもの。
 さらに頭注に「有間皇子、自ら傷みて結松が枝を結ぶ歌二首」とある。有間皇子(ありまのみこ)は三十六代孝徳天皇の皇子。謀反のかどで処刑される。
0141  岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む
      (磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武)
 岩代(いはしろ)は和歌山県日高郡みなべ町の海岸にある。処刑されることを覚悟しての歌である。
 「岩代の浜の松が枝を引き結び、命があればまたこの結びを帰りに見よう」という歌である。

0142 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
      (家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛)
 これは前歌と共に皇子が護送される途次の歌。なので「家にあれば」は二度と戻れない家にいたときは」という痛ましい心情を反映している。「草枕」は枕詞。
 「家にいればご飯を立派な笥(け)に盛って生活していたのに、旅の途次なので椎の葉に盛る」という歌である。

 頭注に「長忌寸意吉麻呂見(ながのいみきおきまろ)、結び松に哀しむ歌二首」とある。
0143 岩代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも
      (磐代乃 <崖>之松枝 将結 人者反而 復将見鴨)
 有間皇子の処刑は斉明天皇4年(658年)。143~146番歌の4歌は、この関連の歌と146番歌の頭注にある。岩代は前々歌参照。「結びけむ人」は有間皇子。
 「岩代の岸の松が枝を結んだ皇子様は、無事お帰りになって結びをごらんになっただろうか」という歌である。

0144 岩代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ
      (磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念)
 「心も解けず」は「気が滅入る」こと。平明歌。
 「岩代の野中に立っている結び松、その昔処刑された有間皇子のことを思うと「気が滅入る」という歌である。
        (2013年2月27日記、2017年7月8日)
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