Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

万葉集読解・・・17-2(214~225番歌)


     万葉集読解・・・17-2(214~225番歌)
 短歌三首
0214   去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る
      (去年見而之 秋月夜者 雖渡 相見之妹者 益年離)
 211番歌とほぼ同歌。「照らせども」が「渡れども」になっている。
  「去年眺めた秋の月夜は今夜も同じように渡っていく。一緒に見た彼女との思い出もああ遠ざかっていく」という歌である。
 
0215   衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし
      (衾路 引出山 妹置 山路念邇 生刀毛無)
  212番歌とほぼ同歌。「山道を行けば」が「山道思ふに」になっている。
 「襖を引いて閉めるように妻を葬った山に別れを告げて、山道を思うと生きた心地がしない」という歌である。

0216   家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕
      (家来而 吾屋乎見者 玉床之 外向来 妹木枕)
 「我が屋」は夫婦が生活した棟ないし部屋。「外に向きけり」は「あらぬ方向に向いて転がっていた」である。なんとも痛ましく侘びしい光景である。
 「家にやって来て夫婦で寝泊まりした部屋の床から妻の木枕があらぬ方向に向いて転がっていた」という歌である。

 頭注に「吉備津の采女が死去した時、柿本朝臣人麻呂が作った歌と短歌」とある。吉備津は岡山県都窪郡(つくばぐん)で現在早島町が残る。かっては岡山市の一部、倉敷市の一部及び総社市の一部を占めていた。吉備津出身の采女(うねめ)のこと。
0217番 長歌
   秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲縄の 長き命を 露こそば 朝に置きて 夕は 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝は 失すといへ 梓弓 音聞く我れも おほに見し こと悔しきを 敷栲の 手枕まきて 剣太刀 身に添へ寝けむ 若草の その嬬の子は 寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時ならず 過ぎにし子らが 朝露のごと 夕霧のごと
   (秋山 下部留妹 奈用竹乃 騰遠依子等者 何方尓 念居可 栲紲之 長命乎 露己曽婆 朝尓置而 夕者 消等言 霧己曽婆 夕立而 明者 失等言 梓弓 音聞吾母 髣髴見之 事悔敷乎 布栲乃 手枕纒而 劔刀 身二副寐價牟 若草 其嬬子者 不怜弥可 念而寐良武 悔弥可 念戀良武 時不在 過去子等我 朝露乃如也 夕霧乃如也)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「秋山の」、「栲縄(たくなは)の」、「梓弓(あづさゆみ)」、「若草の」等は枕詞。「したへる妹」は「赤くいろづいた女性」という意味である。「子ら」は親しみのら。

 (口語訳)
   秋山のように色づき、なよなよした竹のようにしなやかな乙女。どう思ってかその長い命を、朝に置いても夕方には消える露のように、夕方に立ったかと思うと朝には消えてなくなる霧のように、はかなく消えてしまった。世を去ったという知らせを何気なく受けた私でさえ、(にわかに信じられなく)悔しかったのに。まして、手枕を巻いてぴったり寄り添って共寝した、彼女の夫は一人寂しく寝ることになってどんなに悔しく恋しい思いをしていることだろう。時ならず、朝露のように、夕霧のように、この世を去ってしまったその子を思って

 短歌二首
0218   ささなみの志賀津の子らが [一云 志賀の津の子が] 罷り道の川瀬の道を見れば寂しも
      (樂浪之 志賀津子等何[一云 志賀乃津之子我] 罷道之 川瀬道 見者不怜毛)
「ささなみの志賀」は滋賀県琵琶湖北岸に営まれた大津京の近辺。志賀津は大津。 罷(まか)り道は、葬送の道。いかにも義理で作ったような歌で、柿本人麻呂にしては凡歌と言わざるを得ない。
 「大津京に仕えていたあの子が(一に云う「志賀の津の子が」)葬送の道を送られていく川瀬の道を見るのは寂しい」という歌である。

0219   そら数ふ大津の子が逢ひし日におぼに見しかば今ぞ悔しき
      (天數 凡津子之 相日 於保尓見敷者 今叙悔)
 「そら数ふ」は枕詞。大津の子はむろん死んだ采女。「おぼに見しかば」は「ぼんやりとしか見ていなかったので」だ。この歌も前歌同様義理で作ったような歌。
 「宮で逢ったあの子がこんなことになるならよく見ておくんだった。悔しい」という歌である。

 頭注に「讃岐の狭岑嶋の海岸の岩の間に横たわる死人を見て柿本朝臣人麻呂が作った歌と短歌」とある。讃岐の沙峯島は香川県坂出市の海上に突き出た沙弥島のことだが、現在は埋め立てられて瀬戸大橋のたもとから地続きになっている。
0220番 長歌
   玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒く 鯨魚取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは
   (玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭<岑>之嶋乃 荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 欝悒久 待加戀良武 愛伎妻等者)

 「玉藻よし」は枕詞説もあるが、本歌一例のみで枕詞(?)。「国からか」は「国柄か」のことで、「風光明媚な土地柄」、「神からか」は「神柄か」のことで、「神々しい風格が備わっている」という意味である。「那珂の港ゆ」は香川県丸亀市金倉町を流れる金倉川の河口。「鯨魚(いさな)取り」、「玉桙(ほこ)の」は枕詞。

 (口語訳)
   藻が美しい讃岐の国は風光明媚な土地柄、見れども見れども飽きがこない。神々しい風格が備わっていて、天地も日月も貴く満ち足りている。神のように美しい顔を備えている。その那珂の港から船を浮かべて漕いでやってきた。すると時ならぬ風が雲の浮かぶ辺りから吹いてきた。沖の方を見ると波がうねり立ち、岸辺には白波が騒ぎ立っている。その恐ろしい海を梶が折れんばかりに船を漕ぎ進める。あちこちに多くの島が浮かんでいるが、霊妙な名を持つ狭岑の島(沙弥島)の荒磯に漕ぎつけてみた。すると、波音が激しい浜辺に真っ白な石を枕にしてその荒れ床に横たわっている人がいるではないか。この人の家が分かっていれば、行って告げ知らせもしように。妻が知ればやって来て声をかけようものを。が、ここに来る道も知らない妻はぼんやりと待ちに待っているだろうな愛しい妻は。

 反歌二首
0221   妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや
      (妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也)
 沙峯島は前歌頭注参照。ウハギは嫁菜ともいい、野菊の一種。その若菜を摘んで食べたという。「うはぎ過ぎにけらずや」は「嫁菜の季節も去っていってしまったなあ」という意味である。岩に横たわった死体を目にして「妻もあらば」と詠いだした人麻呂の心情には自らの妻の死も念頭によぎっていたのかも知れない。
 「この人の妻が一緒にいれば、摘み取って一緒に食べただろうに沙弥の山の野のウハギ。ああ、そのウハギの季節も過ぎてしまっている」という歌である。

0222   沖つ波来寄る荒磯を敷栲の枕とまきて寝せる君かも
      (奥波 来依荒磯乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞)
 「敷栲(しきたへ)の」は枕詞。「枕とまきて」は「枕として」。「寝せる君かも」は「君」とあるので分かるように「横たわっていらっしゃる君」である。沖から間断なく岩に打ち寄せて来る波。その岩に横たわっている死体。荒涼たる光景である。人麻呂の心象風景をも表しているのだろうか。
 「沖の波が打ち寄せる荒磯を枕として寝ていらっしゃるお人」という歌である。

 頭注に「柿本朝臣人麻呂、石見の國にあって自らをいたみ、死に臨んだ時の歌」とある。石見(いはみ)は島根県西部の国。東部は出雲の国。
0223   鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
      (鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有)
 鴨山は島根県のどこかだが未詳。「岩根しまける」は前歌から知られるように、「行き倒れになって岩に横たわること」。「知らにと妹が」の妹は誰のことかである。
 整理すると、人麻呂は131番歌以下に詠われているように、石見の国を去って上京の途に就く。その際妻を置いて上京し、妻を思う歌を残している。妻の名は依羅娘子(よさみのをとめ)。
 他方、人麻呂の妻は死んでいる筈で、その妻をしのんで人麻呂は207~216番歌に哀傷極まりない歌を残している。この妻の里は奈良県の藤原京の近くの「軽の道」と詠われている。 明らかに依羅娘子とは別の女性。依羅娘子のいる石見に来ていながら、彼女に逢う気力もなかったのだろうか。死に臨んで「軽の道」の女性のいる死後の世界に行くとも解釈できる。石見の彼女か死んだ彼女か、どちらであろう。判断は読者に委ねたい。
 「鴨山の海の荒磯の岩を枕にして行き倒れしようとしている私のことも知らないで、彼女は待っているのだろうか」という歌である。

 頭注に「柿本朝臣人麻呂が死去した時、妻の依羅娘子が作った歌二首」とある。依羅娘子(よさみのをとめ)は石見(いはみ)(島根県西部)に残した妻。。
0224   今日今日と我が待つ君は石川の峽に [一云 谷に] 交りてありといはずやも
      (且今日々々々 吾待君者 石水之 貝尓 [一云 谷尓] 交而 有登不言八方)
 「今日今日と」は各書とも「けふけふと」と読んでいる。私も特に異存はないけれども、「今か今か」と訓じた方がより自然だと思うが、いかがだろう。原文には「且今日々々々」とある。「けふけふと」ではなく「けふかけふか」の筈である。2323番歌には「我が背子を今か今かと(吾背子乎且今々々)」とある。「石川の峽(かひ)」は前歌の「鴨山」を指すか。
 「お帰りを今か今かとお待ちしてましたのに、あなたは石川渓谷に(一に云う「谷に」)落ち込んでしまわれたというではありませんか」という歌である。

0225   直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
      (直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲)
 「直(ただ)の逢ひ」は「直接お逢いすること」という意味である。逢ひかつましじ」は「もうじかにお会いすることはかなわなくなりました」という意味である。
 「もう、直接お逢いすることは出来なくなってしまいましたね。石川方面に雲よ出てくれ、その雲を見つつあなたをしのぼう」という歌である。
          (2013年3月18日記、2017年8月4日記)
Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

Trending Articles