万葉集読解・・・19(235~248番歌)
雜 歌
頭注に「天皇、雷岳に出でまされた時、柿本朝臣人麻呂が作った歌」とある。どの天皇か不明。雷岳(いかづちのおか)は奈良県明日香村の岳。
0235 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
(皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨)
ここから巻三に入る。廬(いほ)りは臨時に用意された仮宮。
「天皇は神でいらっしゃるから天雲にそそり立つ雷山の仮宮におられる」という歌である。今日的な目からみると何の感興も起きない儀礼歌。
左注に「右は或本に忍壁皇子に奉った歌」とある。忍壁皇子(おさかべのみこ)は四十代天武天皇の皇子。次の歌が掲載されている。
「大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます」(王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座)。「大君は神でいらっしゃるから、雲に隠れる雷山(いかづちやま)に宮をお建てになっておられる」という歌である。この歌が、なぜ独立歌になっていないのか分からない。
雜 歌
頭注に「天皇、雷岳に出でまされた時、柿本朝臣人麻呂が作った歌」とある。どの天皇か不明。雷岳(いかづちのおか)は奈良県明日香村の岳。
0235 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
(皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨)
ここから巻三に入る。廬(いほ)りは臨時に用意された仮宮。
「天皇は神でいらっしゃるから天雲にそそり立つ雷山の仮宮におられる」という歌である。今日的な目からみると何の感興も起きない儀礼歌。
左注に「右は或本に忍壁皇子に奉った歌」とある。忍壁皇子(おさかべのみこ)は四十代天武天皇の皇子。次の歌が掲載されている。
「大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます」(王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座)。「大君は神でいらっしゃるから、雲に隠れる雷山(いかづちやま)に宮をお建てになっておられる」という歌である。この歌が、なぜ独立歌になっていないのか分からない。
頭注に「天皇、志斐嫗(しひのおみな)に賜う御歌」とある。志斐嫗は伝未詳。
0236 いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり
(不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里)
前歌同様、天皇の御製歌だが、どの天皇か不明。志斐(しひ)は嫗(おみな)とあるから相当年配の女性。天皇のそばにいて長らく身の回りの世話をしてきた女性なのだろうか。二、三句目の「強ふる志斐のが強ひ語り」は文字遊びのような趣があって、まるで幼児が祖母にせがんでいるような響きがある。天皇はこの嫗に幾度も幾度も似た物語を聞いて育ったのだろう。この歌は嫗に直接賜ったとあるから、天皇の嫗に対する感謝の情を述べた歌に相違ない。
「もう聞きたくないというのに、強いて聞かせようと、あえて語って聞かせる志斐婆さんの話、このごろ聞かないが、不思議になつかしい」という歌である。
0236 いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり
(不聴跡雖云 強流志斐能我 強語 比者不聞而 朕戀尓家里)
前歌同様、天皇の御製歌だが、どの天皇か不明。志斐(しひ)は嫗(おみな)とあるから相当年配の女性。天皇のそばにいて長らく身の回りの世話をしてきた女性なのだろうか。二、三句目の「強ふる志斐のが強ひ語り」は文字遊びのような趣があって、まるで幼児が祖母にせがんでいるような響きがある。天皇はこの嫗に幾度も幾度も似た物語を聞いて育ったのだろう。この歌は嫗に直接賜ったとあるから、天皇の嫗に対する感謝の情を述べた歌に相違ない。
「もう聞きたくないというのに、強いて聞かせようと、あえて語って聞かせる志斐婆さんの話、このごろ聞かないが、不思議になつかしい」という歌である。
頭注に「志斐嫗が御製歌に応えて奉った歌」とあり、細注に「嫗の名は未詳」とある。
0237 いなと言へど語れ語れと詔らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る
(不聴雖謂 語礼々々常 詔許曽 志斐伊波奏 強語登言)
前歌に対する志斐の嫗の返歌である。
「いなと言へど」を受けて「いなと言へど」と返しているが、原文は前歌の「不聴跡雖云」に対し、こちらは「不聴雖謂」。謂で何をおっしゃいますかの意を含ませている。「詔(の)らせこそ」は「おっしゃるからこそ」。「志斐いは」は「志斐めは」である。嫗は「無理強いなさったのはあなた様ではございませんか」と遠慮会釈のない返歌。嫗はどんな女性なのか不明だが、地位や立場を離れてやりあう二人の間柄は非常に親密だったことがうかがわれる。
「聞きたくないとおっしゃりながら語れ語れと無理強いなさったのはあなた様ではございませんか。なのでこの志斐めはあえてお話申し上げたんですよ」という歌である。
0237 いなと言へど語れ語れと詔らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る
(不聴雖謂 語礼々々常 詔許曽 志斐伊波奏 強語登言)
前歌に対する志斐の嫗の返歌である。
「いなと言へど」を受けて「いなと言へど」と返しているが、原文は前歌の「不聴跡雖云」に対し、こちらは「不聴雖謂」。謂で何をおっしゃいますかの意を含ませている。「詔(の)らせこそ」は「おっしゃるからこそ」。「志斐いは」は「志斐めは」である。嫗は「無理強いなさったのはあなた様ではございませんか」と遠慮会釈のない返歌。嫗はどんな女性なのか不明だが、地位や立場を離れてやりあう二人の間柄は非常に親密だったことがうかがわれる。
「聞きたくないとおっしゃりながら語れ語れと無理強いなさったのはあなた様ではございませんか。なのでこの志斐めはあえてお話申し上げたんですよ」という歌である。
頭注に「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、詔に応えた歌」とある。長忌寸意吉麻呂は伝未詳。
0238 大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声
(大宮之 内二手所聞 網引為跡 網子調流 海人之呼聲)
ここにいう「大宮の」は都の大宮のことではない。どこの浜辺か不明だが天皇がそこへ行幸された時の歌であろう。浜辺の宮でご休息中に聞こえてきた威勢のよい海人(あま)の呼び声にふっと疑問を漏らされた天皇。「網引(あびき)すと」という一句から引き網漁の一光景と分かる。眼前に光景が浮かび、かつ、耳元に海人の人々の威勢のいいかけ声も聞こえてくる。そして過不足のない、なんと簡潔な表現であろう。それを聞く天皇ご一行の新鮮な驚きまでも表現されている。文句なく名歌中の名歌というべき歌。すでに見た48番歌の「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」に優るとも劣らぬ名歌だと私には思われる。
「大君のおられる大宮まで聞こえる。網引(あびき)をしようと網子たちをととのえる海人(あま)の威勢のいいかけ声が」という歌である。
0238 大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声
(大宮之 内二手所聞 網引為跡 網子調流 海人之呼聲)
ここにいう「大宮の」は都の大宮のことではない。どこの浜辺か不明だが天皇がそこへ行幸された時の歌であろう。浜辺の宮でご休息中に聞こえてきた威勢のよい海人(あま)の呼び声にふっと疑問を漏らされた天皇。「網引(あびき)すと」という一句から引き網漁の一光景と分かる。眼前に光景が浮かび、かつ、耳元に海人の人々の威勢のいいかけ声も聞こえてくる。そして過不足のない、なんと簡潔な表現であろう。それを聞く天皇ご一行の新鮮な驚きまでも表現されている。文句なく名歌中の名歌というべき歌。すでに見た48番歌の「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」に優るとも劣らぬ名歌だと私には思われる。
「大君のおられる大宮まで聞こえる。網引(あびき)をしようと網子たちをととのえる海人(あま)の威勢のいいかけ声が」という歌である。
頭注に「長皇子(ながのみこ)、獵路池に出でまされたとき、柿本朝臣人麻呂が作った歌と短歌」とある。長皇子は四十代天武天皇の皇子。獵路(かりぢ)の池は所在不詳。
0239番 長歌
やすみしし 我が大君 高照らす 我が日の御子の 馬並めて 御狩り立たせる 若薦を 狩路の小野に ししこそば い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ ししじもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて ひさかたの 天見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君かも
(八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞)
0239番 長歌
やすみしし 我が大君 高照らす 我が日の御子の 馬並めて 御狩り立たせる 若薦を 狩路の小野に ししこそば い匍ひ拝め 鶉こそ い匍ひ廻れ ししじもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り 畏みと 仕へまつりて ひさかたの 天見るごとく まそ鏡 仰ぎて見れど 春草の いやめづらしき 我が大君かも
(八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三猟立流 弱薦乎 猟路乃小野尓 十六社者 伊波比拝目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拝 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「やすみしし」、「わかこもを」、「まそ鏡」等は枕詞。「ししこそば」は原文「十六社者」。九九の「しし」。当時は鹿や猪を「しし」と言った。
(口語訳)
われらが大君、皇子さま、高々と光り輝く日の神の御子、馬を勢揃いして狩り場に立っておられる。その狩路の小野に鹿や猪は這いつくばって崇め、鶉(うずら)は這い回る。そんな獣たちのように、這いつくばって崇め、鶉(うずら)のように這い回る。恐れながらそのように皇子にお仕え申す。天を仰ぎ見るように見れば、春草のように、本当にういういしく、お慕わしい大君でいらっしゃいます。
われらが大君、皇子さま、高々と光り輝く日の神の御子、馬を勢揃いして狩り場に立っておられる。その狩路の小野に鹿や猪は這いつくばって崇め、鶉(うずら)は這い回る。そんな獣たちのように、這いつくばって崇め、鶉(うずら)のように這い回る。恐れながらそのように皇子にお仕え申す。天を仰ぎ見るように見れば、春草のように、本当にういういしく、お慕わしい大君でいらっしゃいます。
反歌一首
0240 ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
(久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓為有)
「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。「天行く月を網に刺し」とはむろん、池面に映じた月を網で捉えた情景のこと。蓋(きぬがさ)は大きな笠のことだが、それを天蓋に見立てて皇子を持ち上げている。柿本人麻呂らしい荘重な歌である。
「空を渡って行く月を網でさしかけ、そのまま大きな傘にされていらっしゃる」という歌である。
0240 ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
(久堅乃 天歸月乎 網尓刺 我大王者 盖尓為有)
「ひさかたの」はお馴染みの枕詞。「天行く月を網に刺し」とはむろん、池面に映じた月を網で捉えた情景のこと。蓋(きぬがさ)は大きな笠のことだが、それを天蓋に見立てて皇子を持ち上げている。柿本人麻呂らしい荘重な歌である。
「空を渡って行く月を網でさしかけ、そのまま大きな傘にされていらっしゃる」という歌である。
或本の反歌一首
0241 大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
(皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞)
この歌は前歌の異伝歌。「真木の立つ」は美称の真。前歌同様、人麻呂らしい荘重な歌。
「大君は神でいらっしゃるから、荒れた山中も立派な木々が立つ海のようにされてしまいます」という歌である。
0241 大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
(皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞)
この歌は前歌の異伝歌。「真木の立つ」は美称の真。前歌同様、人麻呂らしい荘重な歌。
「大君は神でいらっしゃるから、荒れた山中も立派な木々が立つ海のようにされてしまいます」という歌である。
頭注に「弓削皇子(ゆげのみこ)、吉野に出でまされた時の御歌」とある。弓削皇子は四十代天武天皇の皇子。
0242 滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに
(瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓)
長皇子の弟皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)の歌。弓削皇子といえば、119~122番歌の際見たように、紀皇女(きのひめみこ)への恋歌を残した皇子として有名である。
平明歌。滝壺から上を仰いで作った歌。三船の山は奈良県吉野郡吉野町の山。
「滝の上高く、三船の山に雲がかかっている。その雲のようにいつもここにいられると思っているわけではないのに」という歌である。
0242 滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに
(瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓)
長皇子の弟皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)の歌。弓削皇子といえば、119~122番歌の際見たように、紀皇女(きのひめみこ)への恋歌を残した皇子として有名である。
平明歌。滝壺から上を仰いで作った歌。三船の山は奈良県吉野郡吉野町の山。
「滝の上高く、三船の山に雲がかかっている。その雲のようにいつもここにいられると思っているわけではないのに」という歌である。
頭注に「春日王ガ応えて奉った歌」とある。この春日王は四十二代文武天皇三年(699年)に没するので、699番歌に出てくる天平十七年(745年)没の春日王とは別人。
0243 大君は千年に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
(王者 千歳二麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也)
前歌に応えた歌。この歌も平明歌。千年は「ちとせ」で末長くの意。
「大君は末長くおいでです。三船山にはいつも白雲がかかっていますが、その雲が絶えるなんてことがありましょうか」という歌である。
0243 大君は千年に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
(王者 千歳二麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也)
前歌に応えた歌。この歌も平明歌。千年は「ちとせ」で末長くの意。
「大君は末長くおいでです。三船山にはいつも白雲がかかっていますが、その雲が絶えるなんてことがありましょうか」という歌である。
或本の歌
0244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
(三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二)
歌の内容から前々歌(242番歌)の異伝歌と分かる。が、歌はほぼ同一内容。
「み吉野の三船の山に雲がかかっている。その雲のようにいつもここにいられると思っているわけではないのに」という歌である。
左注に「右は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。
0244 み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
(三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二)
歌の内容から前々歌(242番歌)の異伝歌と分かる。が、歌はほぼ同一内容。
「み吉野の三船の山に雲がかかっている。その雲のようにいつもここにいられると思っているわけではないのに」という歌である。
左注に「右は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。
頭注に「長田王(ながたのおほきみ)は筑紫に派遣され、水島を渡る時の歌二首」とある。長田王は系統未詳。水島は熊本県八代市水島町の国指定名勝の小島。
0245 聞きしごとまこと尊く奇しくも神さびをるかこれの水島
(如聞 真貴久 奇母 神左備居賀 許礼能水嶋)
「尊く」も「奇(くすしく)」も「神さび」もニュアンスの差はあれ、いずれも霊妙、神々しいといった意味の語である。「聞きしごと」は「かねて聞き及んでいたとおり」という意味。
「かねて聞き及んでいたとおり、貴く、霊妙で神々しい島だ。この水島は」という歌である。
0245 聞きしごとまこと尊く奇しくも神さびをるかこれの水島
(如聞 真貴久 奇母 神左備居賀 許礼能水嶋)
「尊く」も「奇(くすしく)」も「神さび」もニュアンスの差はあれ、いずれも霊妙、神々しいといった意味の語である。「聞きしごと」は「かねて聞き及んでいたとおり」という意味。
「かねて聞き及んでいたとおり、貴く、霊妙で神々しい島だ。この水島は」という歌である。
0246 芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ
(葦北乃 野坂乃浦従 船出為而 水嶋尓将去 浪立莫勤)
「芦北の野坂の浦」は熊本県芦北郡の浜辺。「ゆ」は起点の「から」。「波立つなゆめ」は「ゆめゆめ波立つなよ」である。水島は当時よほど有名な聖地だったらしく、現在なお、国指定名勝地とされ、龍神社が鎮座している。
「芦北の野坂の浦から船出して水島に行こうと思う。ゆめゆめ波立つなよ」という歌である。
(葦北乃 野坂乃浦従 船出為而 水嶋尓将去 浪立莫勤)
「芦北の野坂の浦」は熊本県芦北郡の浜辺。「ゆ」は起点の「から」。「波立つなゆめ」は「ゆめゆめ波立つなよ」である。水島は当時よほど有名な聖地だったらしく、現在なお、国指定名勝地とされ、龍神社が鎮座している。
「芦北の野坂の浦から船出して水島に行こうと思う。ゆめゆめ波立つなよ」という歌である。
頭注に「石川大夫が応えた歌」とあり、細注に「名を欠く」とある。左注参照。
0247 沖つ波辺波立つとも我が背子が御船の泊り波立ためやも
(奥浪 邊波雖立 和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方)
という情報で十分である。
「辺波(へなみ)」は岸に打ち寄せる波。「我が背子」は通常夫や恋人を指すが、ここは「わが主君」という意味である。結句の「波立ためやも」は前歌を受けての一句で、「波立つことなどありましょうか」という意味である。
「沖の波や岸辺に打ち寄せる波は立とうとも、わが主君の御船が停泊する港に波立つことなどありましょうか」という歌である。
左注に「今考えるに、作者の石川大夫は、慶雲年間(704~707年)に大貳に任命された、従四位下石川宮麻呂朝臣、又は神亀年間(724~728年)に小貳に任命された、正五位下石川朝臣吉美侯のいずれかと思われるが不明。」とある。
0247 沖つ波辺波立つとも我が背子が御船の泊り波立ためやも
(奥浪 邊波雖立 和我世故我 三船乃登麻里 瀾立目八方)
という情報で十分である。
「辺波(へなみ)」は岸に打ち寄せる波。「我が背子」は通常夫や恋人を指すが、ここは「わが主君」という意味である。結句の「波立ためやも」は前歌を受けての一句で、「波立つことなどありましょうか」という意味である。
「沖の波や岸辺に打ち寄せる波は立とうとも、わが主君の御船が停泊する港に波立つことなどありましょうか」という歌である。
左注に「今考えるに、作者の石川大夫は、慶雲年間(704~707年)に大貳に任命された、従四位下石川宮麻呂朝臣、又は神亀年間(724~728年)に小貳に任命された、正五位下石川朝臣吉美侯のいずれかと思われるが不明。」とある。
頭注に「又、長田王が作った歌」とある。
0248 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我れは今日見つるかも
(隼人乃 薩麻乃迫門乎 雲居奈須 遠毛吾者 今日見鶴鴨)
熊本県の西が八代海。水島はその北方に位置している。中ほどに芦北がある。芦北から八代海に出た船は北上していくのだが、その南方遙かに薩摩国(鹿児島県)が望める。
「隼人(はやと)の国薩摩の瀬戸水道に雲がかっている。遙か遠くだが私は今目にしている」という歌である。
(2013年3月25日記、2017年8月8日記)
0248 隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我れは今日見つるかも
(隼人乃 薩麻乃迫門乎 雲居奈須 遠毛吾者 今日見鶴鴨)
熊本県の西が八代海。水島はその北方に位置している。中ほどに芦北がある。芦北から八代海に出た船は北上していくのだが、その南方遙かに薩摩国(鹿児島県)が望める。
「隼人(はやと)の国薩摩の瀬戸水道に雲がかっている。遙か遠くだが私は今目にしている」という歌である。
(2013年3月25日記、2017年8月8日記)
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