万葉集読解・・・21(262~277番歌)
反 歌
0262 矢釣山木立も見えず降りまがふ雪の騒ける朝楽しも
(矢釣山 木立不見 落乱 雪驪 朝樂毛)
この歌は新田部皇子の宮に柿本人麻呂が通勤していた時の歌。矢釣山(やつりやま)は奈良県明日香村の山。皇子の宮もその近辺にあったのだろう。「降りまがふ」は「降り乱れる」、「雪の騒((さや)ける」は「雪が乱舞する」という意味で、共に雪が多い様をいっている。
「矢釣山、木立も見えないほど降り乱れ、乱舞する雪の朝は何と心楽しいことだろう」という歌である。
反 歌
0262 矢釣山木立も見えず降りまがふ雪の騒ける朝楽しも
(矢釣山 木立不見 落乱 雪驪 朝樂毛)
この歌は新田部皇子の宮に柿本人麻呂が通勤していた時の歌。矢釣山(やつりやま)は奈良県明日香村の山。皇子の宮もその近辺にあったのだろう。「降りまがふ」は「降り乱れる」、「雪の騒((さや)ける」は「雪が乱舞する」という意味で、共に雪が多い様をいっている。
「矢釣山、木立も見えないほど降り乱れ、乱舞する雪の朝は何と心楽しいことだろう」という歌である。
頭注に「刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)が上京してくるとき作った歌」とある。垂麻呂は伝未詳。
0263 馬ないたく打ちてな行きそ日ならべて見ても我が行く志賀にあらなくに
(馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國)
「馬ないたく打ちて」と「な行きそ」は「な~そ」の禁止形。「~するな」の意。「馬に鞭打って急がせるな」という意味である。「日(け)ならべて見ても」は「幾日もかけて」ということである。
「馬に鞭打ってまで急がなくとも、幾日もかけて行くまでもない滋賀の国なのだから」という歌である。
0263 馬ないたく打ちてな行きそ日ならべて見ても我が行く志賀にあらなくに
(馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國)
「馬ないたく打ちて」と「な行きそ」は「な~そ」の禁止形。「~するな」の意。「馬に鞭打って急がせるな」という意味である。「日(け)ならべて見ても」は「幾日もかけて」ということである。
「馬に鞭打ってまで急がなくとも、幾日もかけて行くまでもない滋賀の国なのだから」という歌である。
頭注に「柿本朝臣人麻呂、近江國から上京してくるとき、宇治河の辺りで作った歌」とある。
0264 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも(物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代經浪乃 去邊白不母)
「もののふの」は枕詞。物部氏が多いことから「八十うぢ」にかかるとされる。宇治川を引き出すための序。網代木(あじろぎ)は川に杭を並べて竹網を置き、魚を取る方法。
「宇治川の網代木にただよう川波はどこへ流れていくか行方知れない」という歌である。無情を詠ったという解釈もある。
頭注に「長忌寸奥麻呂歌(ながのいみきおきまろ)の歌」とある。
0265 苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに
(苦毛 零来雨可 神之埼 狭野乃渡尓 家裳不有國)
「三輪の崎狭野(さの)」は和歌山県新宮市大字三輪崎の西南とされる。なるほど三輪崎の西南に佐野がある。木ノ川の河口に当たる場所。そこのどこかに船の渡し場があったのだろうか。「苦しくも」は「鬱陶しいことよなあ」というほどの意味。
「鬱陶しいことよなあ。雨が降ってきた。三輪の崎狭野の渡し場に雨宿りする家もない」という歌である。
0265 苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに
(苦毛 零来雨可 神之埼 狭野乃渡尓 家裳不有國)
「三輪の崎狭野(さの)」は和歌山県新宮市大字三輪崎の西南とされる。なるほど三輪崎の西南に佐野がある。木ノ川の河口に当たる場所。そこのどこかに船の渡し場があったのだろうか。「苦しくも」は「鬱陶しいことよなあ」というほどの意味。
「鬱陶しいことよなあ。雨が降ってきた。三輪の崎狭野の渡し場に雨宿りする家もない」という歌である。
頭注に「柿本朝臣人麻呂の歌」とある。
0266 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
(淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思<努>尓 古所念)
近江の海は琵琶湖のこと。より限定的には近江京が置かれた琵琶湖南端部を指しているに相違ない。旅の途上で廃都に立ち寄った時の心情を詠ったものと思われる。「千鳥」は原文にも「千鳥」とあり、具体的な鳥の種類を指しているわけではあるまい。私自身はユリカモメと見ているが、「多くの鳥たち」くらいの意味にとっておけば十分だろう。「心もしのに」は「しみじみと」。旧都を思いやる歌。「汝が鳴けば」がよく効いている。
「近江の海に夕波がたっている。千鳥よ、お前が鳴けば、しみじみと昔のことが思われる」という歌である。
0266 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
(淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思<努>尓 古所念)
近江の海は琵琶湖のこと。より限定的には近江京が置かれた琵琶湖南端部を指しているに相違ない。旅の途上で廃都に立ち寄った時の心情を詠ったものと思われる。「千鳥」は原文にも「千鳥」とあり、具体的な鳥の種類を指しているわけではあるまい。私自身はユリカモメと見ているが、「多くの鳥たち」くらいの意味にとっておけば十分だろう。「心もしのに」は「しみじみと」。旧都を思いやる歌。「汝が鳴けば」がよく効いている。
「近江の海に夕波がたっている。千鳥よ、お前が鳴けば、しみじみと昔のことが思われる」という歌である。
頭注に「志貴皇子(しきのみこ)」の御歌」とある。志貴皇子は三十八代天智天皇の皇子。
0267 むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも
(牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨)
むささびは木の枝から枝へと飛び移るリスの仲間。「木末(こぬれ)求むと」の「木末」は木の梢のこと。「猟夫」は「さつを」と読む。「あしひきの」はお馴染みの枕詞。
「むささびが梢から梢に滑空して飛び移っている内に偶然に漁師に出会ってしまった」という歌である。
0267 むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫にあひにけるかも
(牟佐々婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨)
むささびは木の枝から枝へと飛び移るリスの仲間。「木末(こぬれ)求むと」の「木末」は木の梢のこと。「猟夫」は「さつを」と読む。「あしひきの」はお馴染みの枕詞。
「むささびが梢から梢に滑空して飛び移っている内に偶然に漁師に出会ってしまった」という歌である。
頭注に「長屋王(ながやのおおきみ)の故郷の歌」とある。長屋王は四十代天武天皇の孫皇子。
0268 我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり嶋待ちかねて
(吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而)
「我が背子」は「親しい人」の意味。「背子が古家」は「我が友がかって居住していた旧居」ということになる。分かり難いのが結句の「嶋待ちかねて」。「嶋」を居宅の庭ととってもいいが、「待ちかねて」が分からなくなる。ここは居宅の主(あるじ)の意ととらないと歌意が通じない。主がいなくなったことなど鳥たちには分からない。分からないからこそ「嶋の主」が現れるのを待ちかねている鳥たちの心情が哀傷を帯びてくる。鳥に託した作者の哀傷であろうか。
「君が住んでいた旧家のある里、ここ明日香には千鳥が鳴いている。ここの主人を待ちかねて」という歌である。
左注に「今考えると、この歌は明日香から藤原宮に遷った後に作ったか」とある。
0268 我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり嶋待ちかねて
(吾背子我 古家乃里之 明日香庭 乳鳥鳴成 嶋待不得而)
「我が背子」は「親しい人」の意味。「背子が古家」は「我が友がかって居住していた旧居」ということになる。分かり難いのが結句の「嶋待ちかねて」。「嶋」を居宅の庭ととってもいいが、「待ちかねて」が分からなくなる。ここは居宅の主(あるじ)の意ととらないと歌意が通じない。主がいなくなったことなど鳥たちには分からない。分からないからこそ「嶋の主」が現れるのを待ちかねている鳥たちの心情が哀傷を帯びてくる。鳥に託した作者の哀傷であろうか。
「君が住んでいた旧家のある里、ここ明日香には千鳥が鳴いている。ここの主人を待ちかねて」という歌である。
左注に「今考えると、この歌は明日香から藤原宮に遷った後に作ったか」とある。
頭注に「阿倍女郎(あべのいらつめ)の屋部坂(やべさか)の歌」とある。阿倍女郎は伝未詳。屋部坂は所在不詳。
0269 人見ずは我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて来にけり
(人不見者 我袖用手 将隠乎 所焼乍可将有 不服而来来)
この歌このままの訓みではさっぱり歌意が不明な歌である。
参考までに、手元にある諸家の訓を掲げるので考えてみていただきたい。第三句までは「人見ずはわが袖もちて隠さむを」で一致。四、五句は次のように訓を付している。
‐討韻弔弔あらむ著せずて来にけり「佐々木本」
◆’海┐弔弔あらむ着ずて来にけり「岩波大系本」
焼けつつかあらむ着ずて来にけり「伊藤本」
ぁ’海┐弔弔あらむ着せずて来にけり「中西本」
「焼けつつ」と「燃えつつ」、「着ずて」と「着せずて」に相違があるがほぼ同一の訓といってよい。したがって、訓に誤りがあるとは思えない。にもかかわらず、どの書の注や訳を読んでもさっぱり歌意が分からない。「佐々木本」は訓だけなので、他書に当たると、「岩波大系本」は古来難解として読解を示していない。他の二書は「わが袖もちて隠さむを」を手がかりに何とか相聞歌(恋歌)として読もうと苦労している。が、肝心の歌の区分は相聞歌ではなく雑歌として採録されている。初句の「人見ずは」は何であろう。相聞歌なら「人目をはばかって」と解釈したいが、原文は「人不見者」となっていて、人目を引くどころか「人は見ていない」のである。見ていないのだから隠す必要はなく、「袖もちて隠さむを」は意味不明。「人見ずや」と反語的に解釈しようにも反語表現はたとえば2296番歌「妹尓不相哉」(妹に逢わずや)のように末尾が「哉」になっている。「人不見者」の「者」は主格の「は」、反語ではあり得ない。「焼けつつあらむ」は何が焼けているのか不明。「着ずて来にけり」も誰のことか分からない。主語が省略される場合は通常作者自身のことである。本歌を相聞歌ととろうとすると、何のことかわからない。
さて、本歌はそのまま素直に雑歌と考え、主語も全部作者と考えて読み解いたらどうか。歌意が自然に通ると思うがいかがだろう。
「人様は見てなどいないでしょう。私が袖で赤茶けかけた袿(うちき)(下着)を隠していても。でも(恥ずかしいから)その袿(うちき)は着ないできました」という歌である。
0269 人見ずは我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて来にけり
(人不見者 我袖用手 将隠乎 所焼乍可将有 不服而来来)
この歌このままの訓みではさっぱり歌意が不明な歌である。
参考までに、手元にある諸家の訓を掲げるので考えてみていただきたい。第三句までは「人見ずはわが袖もちて隠さむを」で一致。四、五句は次のように訓を付している。
‐討韻弔弔あらむ著せずて来にけり「佐々木本」
◆’海┐弔弔あらむ着ずて来にけり「岩波大系本」
焼けつつかあらむ着ずて来にけり「伊藤本」
ぁ’海┐弔弔あらむ着せずて来にけり「中西本」
「焼けつつ」と「燃えつつ」、「着ずて」と「着せずて」に相違があるがほぼ同一の訓といってよい。したがって、訓に誤りがあるとは思えない。にもかかわらず、どの書の注や訳を読んでもさっぱり歌意が分からない。「佐々木本」は訓だけなので、他書に当たると、「岩波大系本」は古来難解として読解を示していない。他の二書は「わが袖もちて隠さむを」を手がかりに何とか相聞歌(恋歌)として読もうと苦労している。が、肝心の歌の区分は相聞歌ではなく雑歌として採録されている。初句の「人見ずは」は何であろう。相聞歌なら「人目をはばかって」と解釈したいが、原文は「人不見者」となっていて、人目を引くどころか「人は見ていない」のである。見ていないのだから隠す必要はなく、「袖もちて隠さむを」は意味不明。「人見ずや」と反語的に解釈しようにも反語表現はたとえば2296番歌「妹尓不相哉」(妹に逢わずや)のように末尾が「哉」になっている。「人不見者」の「者」は主格の「は」、反語ではあり得ない。「焼けつつあらむ」は何が焼けているのか不明。「着ずて来にけり」も誰のことか分からない。主語が省略される場合は通常作者自身のことである。本歌を相聞歌ととろうとすると、何のことかわからない。
さて、本歌はそのまま素直に雑歌と考え、主語も全部作者と考えて読み解いたらどうか。歌意が自然に通ると思うがいかがだろう。
「人様は見てなどいないでしょう。私が袖で赤茶けかけた袿(うちき)(下着)を隠していても。でも(恥ずかしいから)その袿(うちき)は着ないできました」という歌である。
頭注に「高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の旅先の歌八首」とある。高市連黒人は持統天皇、文武天皇朝の歌人。格調の高い自然詠歌人として万葉集を代表する歌人の一人。
0270 旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ
(客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保船 奥榜所見)
旅の途上で、高台ないし山頂から海の沖を一人眺めると、なんとなく物寂しくも人恋しい思いに見舞われる。筆者自身幾度経験したか分からない思いである。そほは赤土のこと。「赤のそほ船」というのだからよほど鮮やかな赤船だったのだろう。もの恋しさに加えて沖ゆく船に旅情をそそられる、しみじみとした好歌である。
「旅にあって、なんとも物寂しく人恋しくて山下を眺めると、真っ赤な色をした船が沖を漕いでいくのが見える」という歌である。
0270 旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ
(客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保船 奥榜所見)
旅の途上で、高台ないし山頂から海の沖を一人眺めると、なんとなく物寂しくも人恋しい思いに見舞われる。筆者自身幾度経験したか分からない思いである。そほは赤土のこと。「赤のそほ船」というのだからよほど鮮やかな赤船だったのだろう。もの恋しさに加えて沖ゆく船に旅情をそそられる、しみじみとした好歌である。
「旅にあって、なんとも物寂しく人恋しくて山下を眺めると、真っ赤な色をした船が沖を漕いでいくのが見える」という歌である。
0271 桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る
(櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡)
桜田は名古屋市南区の旧桜田町。年魚市潟(あゆちがた)は藤前干潟を含む入り江一帯のことに相違ない。筆者自身数限りないほど干潟を訪れて野鳥観察に時の経つのを忘れた。
「桜田へ鶴が鳴きながら渡っていく。年魚市潟(あゆちがた)、潮が引いたのだろう。鶴が鳴きながら渡っていく」という歌である。
(櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡)
桜田は名古屋市南区の旧桜田町。年魚市潟(あゆちがた)は藤前干潟を含む入り江一帯のことに相違ない。筆者自身数限りないほど干潟を訪れて野鳥観察に時の経つのを忘れた。
「桜田へ鶴が鳴きながら渡っていく。年魚市潟(あゆちがた)、潮が引いたのだろう。鶴が鳴きながら渡っていく」という歌である。
0272 四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隠る棚無し小舟
(四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟)
四極山(しはつやま)も笠縫(かさぬい)の島も所在不詳。「棚無し小舟」は側板(横板)も付いていない小さな舟。その小舟が島影に隠れようとする瞬間の、まるで絵はがきのような情景。
「四極山を越えた向こうを見ると、笠縫の島を漕いでいく小舟がまさに島陰に隠れようとしている」という歌である。
(四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟)
四極山(しはつやま)も笠縫(かさぬい)の島も所在不詳。「棚無し小舟」は側板(横板)も付いていない小さな舟。その小舟が島影に隠れようとする瞬間の、まるで絵はがきのような情景。
「四極山を越えた向こうを見ると、笠縫の島を漕いでいく小舟がまさに島陰に隠れようとしている」という歌である。
0273 磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く
(磯前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴)
「漕ぎ廻(た)み行けば」は「舟で漕ぎめぐってゆくと」である。近江の海は琵琶湖のこと。「八十(やそ)の港」は「数多くの港」、「さはに」は「数多く」という意味。
「磯辺を漕ぎめぐってゆくと、琵琶湖の数多い港、港に鶴が群れていて、鳴いている」という歌である。
(磯前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴)
「漕ぎ廻(た)み行けば」は「舟で漕ぎめぐってゆくと」である。近江の海は琵琶湖のこと。「八十(やそ)の港」は「数多くの港」、「さはに」は「数多く」という意味。
「磯辺を漕ぎめぐってゆくと、琵琶湖の数多い港、港に鶴が群れていて、鳴いている」という歌である。
0274 我が舟は比良の港に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
(吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去来)
比良の港は琵琶湖西岸、大津市近辺。「漕ぎ泊てむ」は「この港で泊まることになろう」、「沖へな離(さか)り」は「な~そ」の禁止形。
「我が舟は比良の港で停泊することになろう。沖の方へ流されないように願う。夜も更けてきた」という歌である。
(吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去来)
比良の港は琵琶湖西岸、大津市近辺。「漕ぎ泊てむ」は「この港で泊まることになろう」、「沖へな離(さか)り」は「な~そ」の禁止形。
「我が舟は比良の港で停泊することになろう。沖の方へ流されないように願う。夜も更けてきた」という歌である。
0275 いづくにか我は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば
(何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者)
「高島の勝野」は前歌にある比良を少し北上した地。
「私はどこで泊まればいい。高島の勝野の原の、この日が暮れてしまったら」という歌である。
(何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者)
「高島の勝野」は前歌にある比良を少し北上した地。
「私はどこで泊まればいい。高島の勝野の原の、この日が暮れてしまったら」という歌である。
0276 妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる {一本云 三河の二見の道ゆ別れなば我が背も我れも一人かも行かむ}
(妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴){一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去}
「妹(いも)」は旅先で出会った彼女か。三河の二見は、愛知県豊川市の国府町と御油町の境界付近と言われる。
「彼女も私も一体だからか三河の二見の道から別れがたい」という歌である。
この歌には「一本云」として女性側の歌が併記されている。
「三河の二見の道から別れたらあなたも私も一人で行くことになります」という歌である。
(妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴){一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去}
「妹(いも)」は旅先で出会った彼女か。三河の二見は、愛知県豊川市の国府町と御油町の境界付近と言われる。
「彼女も私も一体だからか三河の二見の道から別れがたい」という歌である。
この歌には「一本云」として女性側の歌が併記されている。
「三河の二見の道から別れたらあなたも私も一人で行くことになります」という歌である。
0277 早来ても見てましものを山背の多賀の槻群散りにけるかも
(速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨)
「早来ても見てましものを」は「もっと早く来て、見てみたかったのに」という意味。山背(やましろ)は京都府南部。多賀は京都府綴喜郡井手町内。多賀神社が鎮座する。槻群(つきむら)は、紅葉が美しい欅(けやき)の群落のこと。
「もっと早く来て、見てみたかった、山背の多賀に。紅葉が美しい欅(けやき)の群落はもう散り敷いてしまった」という歌である。
(2013年3月31日記、2017年8月16日)
(速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨)
「早来ても見てましものを」は「もっと早く来て、見てみたかったのに」という意味。山背(やましろ)は京都府南部。多賀は京都府綴喜郡井手町内。多賀神社が鎮座する。槻群(つきむら)は、紅葉が美しい欅(けやき)の群落のこと。
「もっと早く来て、見てみたかった、山背の多賀に。紅葉が美しい欅(けやき)の群落はもう散り敷いてしまった」という歌である。
(2013年3月31日記、2017年8月16日)
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