Quantcast
Channel: 古代史の道
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

万葉集読解・・・32(424~440番歌)

$
0
0

     万葉集読解・・・32(424~440番歌)
 頭注に「或本の反歌二首」とある。
0424   こもりくの泊瀬娘子が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
      (隠口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方)
 「こもりくの」は枕詞。例外なく泊瀬にかかる。泊瀬は奈良県桜井市の郷の名。玉の乱れを心の乱れに喩えている。「ありと言はずやも」は「~だというではありませんか」である。
 「泊瀬娘子(はつせをとめ)が手に巻いている玉の紐が切れて乱れているというではありませんか」という歌である。

0425   川風の寒き泊瀬を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや
      (河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶)
 「似る人も逢へや」は「岩波大系本」に従えば「似た人にも逢いはしない」。諸家はおおむね「~、君が嘆きながら歩き回る~」としている。が、妙な解釈である。「逢いはしない」と嘆いているのは作者である。君は通常相手の男のことで「君ないしあなた」の意味。蛇足ながら男が相手の女性を指す場合は妹(いも)という。「似た人にも逢いはしない」と嘆いているのは作者自身。主語が略されている場合は作者自身を指す。実作者なら常識。「君嘆きつつ」なら主体は君だが、「嘆きつつ君が」となっている。
 「寒風の中私は川辺を嘆きつつ歩き回っている。けれどもかっては共に歩いた、あなたが歩く姿に似た人にさえ出会わない。ああ」という歌である。
 左注に「この二首は紀皇女が薨去した後に山前王が石田王に代わって作った歌」とある。

 頭注に「柿本朝臣人麻呂、香具山の死体を見て悲しんで作った歌」とある。香具山は奈良県橿原市の山。
0426   草枕旅の宿りに誰が夫か国忘れたる家待たまくに
      (草枕 羈宿尓 誰嬬可 國忘有 家待<真>國)
 415番歌で、竜田山に横たわる死者を目にして悲しんだ聖徳太子の歌を見たばかりだが、この歌なども同種の歌であり、人麻呂自身が行き倒れ死を直前にした歌(223番歌)を遺している。草枕は枕詞とされているが、旅といえば行き倒れと背中合わせだったらしい当時の状況と関連のある用語という気がする。「国忘れたる」は「故郷の国にたどり着けず」、「家待たまくに」は「家では妻が待っているだろうに」という意味である。
 「草を枕に眠っているのは、誰の夫だろう。故郷の国にたどり着けず、家では妻が待っているだろうに」という歌である。

 頭注に「田口廣麻呂(たぐちのひろまろ)の死去に際し、詠った刑部垂麻呂(おさかべのたるまろ)の歌」とある。
0427   百足らず八十隈坂に手向けせば過ぎにし人にけだし逢はむかも
      (百不足 八十隅坂尓 手向為者 過去人尓 盖相牟鴨 )
 「百足らず」は枕詞。「八十隈坂(やそくまさか)」の八十は多くという意味で、隈坂は曲がり角。「手向けせば」とあるので道祖神なり峠神なり何らかの神の類に相違ない。「過ぎにし人」は「あの世にいった人」という意味である。
 「山のあちこちに鎮座する神様に花等を手向ければ、あの世にいった人にもしや会えるかも」という歌である。

 頭注に「土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬山(はつせのやま)に火葬せし時詠った柿本人麻呂の歌」とある。
0428   こもりくの初瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
      (隠口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟)
 「こもりくの」は枕詞。例外なく泊瀬にかかる。泊瀬山は奈良県桜井市の山。
 「あの泊瀬山の山あいに雲がただよっているが、葬ったあの子であろうか」という歌である。

 頭注に「溺れ死んだ出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬した時詠った柿本朝臣人麻呂の歌二首」とある。
0429   山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく
      (山際従 出雲兒等者 霧有哉 吉野山 嶺霏霺)
 「山の際(ま)ゆ」は「山あいから」。「子ら」は親愛のら。「霧なれや」は「霧になってしまったのだろうか」である。
 「山あいから嶺に立ちのぼるあの子は霧になってしまったのだろうか。吉野の山の嶺にたなびいているあの霧は」という歌である。

0430   八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
      (八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆颯)
 「八雲さす」は「岩波大系本」も「伊藤本」も出雲にかかる枕詞としている。そしてご丁寧に「八雲立つ」ともいう、としている。が、「八雲立つ」という用例は万葉集に全く見当たらない。「八雲さす」も他に用例はなく、本歌のみ。私の記憶に誤りがなければ『古事記』や『日本書紀』にも全く見当たらない。枕詞(?)。出雲(いづも)は島根県東部。念のため西部は石見(いはみ)。吉野川はいうまでもなく奈良県吉野を流れる川。
 「八雲さす出雲の国のあの子の黒髪は吉野川の沖にただよっている」という歌である。 

 頭注に「勝鹿の真間娘子(ままのをとめ)の墓を通り過ぎる時、山部宿祢赤人が作った歌と短歌」とある。
0431番 長歌
   いにしへに ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 伏屋立て 妻問ひしけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我れは 忘らゆましじ
   (古昔 有家武人之 倭文幡乃 帶解替而 廬屋立 妻問為家武 勝壮鹿乃 真間之手兒名之 奥槨乎 此間登波聞杼 真木葉哉 茂有良武 松之根也 遠久寸 言耳毛 名耳母吾者 不可忘)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「倭文幡(しつはた)の」は古代の織物。勝鹿は東京都葛飾区あたりで、千葉県にかけての一帯。「真間の手児名(てこな)」は伝説の美女。「奥つ城(おくつき)」は墓。「真木の葉」の真は美称で「木の葉」のこと。

 (口語訳)
   昔むかし、ある男は、倭文織りの帯を解き交わそうと寝屋を建て、求婚したという美女、葛飾の真間の手児名のその墓所はここだと聞いていた。が、木の葉が生い茂り、松の根が出て分からない。遠い昔の伝説の美女、真間の手児名という名前だけでも私は忘れない。

 反 歌
0432   我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ
      (吾毛見都 人尓毛将告 勝壮鹿之 間間能手兒名之 奥津城處)
 「勝鹿の真間の手児名」と「奥つ城(おくつき)」は長歌参照。千葉、埼玉、東京にまたがる一帯。真間は市川市内。「奥津城(おくつき)ところ」は墓のこと。大和から遙々とやってきた赤人がわざわざ立ち寄って歌にするくらいだから、当時、真間の手児名の墓といえば、「ああ」と分かるほど有名な存在だったのだろう。
 「私も見たぞ人にも告げようぞ。葛飾の手児名の墓のことを」という歌である。

0433   葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
      (勝壮鹿乃 真々乃入江尓 打靡 玉藻苅兼 手兒名志所念)
 平明歌。
 「葛飾の真間の入江にうち靡く藻を刈り取っていたに相違ない手児名のことがしのばれる」という歌である。

 頭注に「和銅四年(辛亥年)、河邊宮人、姫嶋の松原に美人の死体を見て悲しんで作った歌四首」とある。 この頭注、228番歌の頭注と瓜二つである。その際は二首。今回は四首。合わせて六首が河邊宮人の歌。前回と今回。同じく死去した女性を偲ぶ歌。六首が何かの都合で万葉集の巻2と巻4に分載されたのだろうか。
0434   風早の美穂の浦廻の白つつじ見れども寂しなき人思へば [或云 見れば悲しもなき人思ふに]
      (加座皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者 [或云 見者悲霜 無人思丹])
 美穂は228番歌に詠われている姫島なら大阪湾に浮かぶ小島か?
 「風の激しい美穗の浦に咲く白つつじを見るにつけ寂しい。死んだ彼女が思われて」という歌である。異伝歌もほぼ同意。

0435   みつみつし久米の若子がい触れけむ礒の草根の枯れまく惜しも
      (見津見津四 久米能若子我 伊觸家武 礒之草根乃 干巻惜裳)
 「みつみつし」は本歌のみ、枕詞(?)。307~309番歌に見えるように、久米の若子(わくご)は神として長らく石室に鎮座している。
 「みずみずしかった若子が触れた磯の草根が枯れていくのは惜しい」という歌である。

0436   人言の繁きこのころ玉ならば手に巻き持ちて恋ひずあらましを
      (人言之 繁比日 玉有者 手尓巻持而 不戀有益雄)
 次歌までは死んだ女性を見て悲しんで作った歌の筈である。なのに「人言の繁きこのころ」(人の噂の激しいこのごろ)とは何のことだろう。結句の「恋ひずあらましを」は「恋わなくていいのに」という意味である。これは挽歌ではなく、現実の恋そのものの歌だ。
 「人の噂の激しいこのごろ、もしもあなたが玉ならば腕輪にして持ち歩き、恋わなくていいのに」という歌である。

0437   妹も我れも清みの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ
      (妹毛吾毛 清之河乃 河岸之 妹我可悔 心者不持)
 本歌も前歌と同じく現実の恋を詠っている。恋を川岸に喩えている。
 「私たちは、清らかな川のように歩み、川岸が崩れて濁る(後悔する)ことのないような心でありたい」という歌である。
 左注に「今考えるに、作歌年と場所、さらに娘子の死体を見て作った作者の名(河邊宮人)は同じ。が、歌意は相違しているが、ここに掲載した」とある。
 以上の二首を「岩波大系本」は次のように記している。
 「前の歌とこの歌とは挽歌より相聞として適当な内容なので、ここにあるのはまちがって入ったかと言われている。」
 まさにその通りである。巻2の228、229番歌は娘子の死体を見て作った挽歌そのもの。頭注も同じ。ここに入る筈の歌。今回の二首は時期も作者も全く別の歌と考えられる。

 頭注に「神龜五年戊辰(728年)、大宰帥大伴卿(おおとものまえつきみ)(旅人のこと)が、故人をしのんで作った歌三首」とある。
0438   愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや
      (愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉)
 「愛(いとほ)しき人」は作者の妻のことである。「敷栲の」(しきたへの)は馴染みの枕詞。
 「いとしい人が私の手を手枕にして共寝してくれたが、同じく手枕にする人があろうか」という歌である。
 左注に「この歌は死に別れた後、数十日後に作られた」とある。

0439   帰るべく時はなりけり都にて誰が手本をか我が枕かむ
      (應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕)
 「帰るべく時はなりけり」は「いよいよ都(奈良)に帰る時がやってきた」という意味。
 「いよいよ都(奈良)に帰る時がやってきた。が、妻亡き今、都で誰が共寝してくれるというのか」という歌である。

0440   都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし
      (在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦)
 前二歌同様妻のいないのを悲しむ歌。旅人といえば太宰府に赴任した頃の酒浸りの歌(338~350番歌)が有名だが、この三歌を見ると、正直と言えば正直だが、彼のいかにもお坊ちゃん育ちの様子がうかがえる。
 「都に帰って荒れた家にたったひとり寝るのは旅にも増してわびしくつらいものだ、ああ」という歌である。
 左注に「この二首は都に向かって旅立ち、都に近づいてきた時作った歌」とある。
          (2013年5月21日記、2017年9月18日記)
イメージ 1


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1223

Trending Articles