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2週間前、アッシー君になって東区の医院に彼女を送り届けた際、近在の黒門町公園を訪れる機会を得たことを記した。本日、やはり同様にして再度黒門町公園に足を踏み入れる機会を得た。私はベンチに腰を下ろし、彼女を待つことにしたのだが、なんとはなしに地面に目をやっていて、ふっと思ったことがある。「秋深し」である。
通常、秋深しというと紅葉が思い浮かぶ。むろん、紅葉は秋の花形。紅葉の美しさには目を奪われる。が、地面に目を注いだとき、視界に入ってきたのは、ドングリの実だった。椎の実なのか楢の実なのか、はたまた樫の実なのか私には見当もつかないが、ともかく、無数のドングリの実がえんえんと広がっていた。人に注目されることはないのかもしれないが、私はドングリの群れを見ている内に、否が応でも「秋深し」を感じないではいられなかった。
ドングリの累々ころがる地のおもて鳩横切りぬひょこりひょこりと
おさな子のよちよち歩む足元に散らばり続くドングリの群れ
紅葉ばかりが秋の深まりを告げる使者ではない。考えてみるまでもなく、ドングリもまた深まり行く秋を告げる使者なのだ。ドングリは幼児の専有物ではない。踏みつけられ、風に転がされ、降る雨に泥まみれになるドングリ。人に見向きもされないような存在に見えながら、ひっそりと、が、地面を覆って、その確固たる存在を見せつけるドングリ。私は視界に入ってきたドングリの群れに目を注ぎながら、まんじりともしない思いに捉えられた。紅葉だの菊だの月だのと目に付きやすいものにだけ関心を向けがちだったこの自分がちょっぴり恥ずかしくなった。小さな小さなドングリもまた、大自然の営みを繰り返しているのだ。私は、齢を重ねてウン十年、いまごろになってこんなことに気づかされる思いがしたのである。
(2014年11月10日)
2週間前、アッシー君になって東区の医院に彼女を送り届けた際、近在の黒門町公園を訪れる機会を得たことを記した。本日、やはり同様にして再度黒門町公園に足を踏み入れる機会を得た。私はベンチに腰を下ろし、彼女を待つことにしたのだが、なんとはなしに地面に目をやっていて、ふっと思ったことがある。「秋深し」である。
通常、秋深しというと紅葉が思い浮かぶ。むろん、紅葉は秋の花形。紅葉の美しさには目を奪われる。が、地面に目を注いだとき、視界に入ってきたのは、ドングリの実だった。椎の実なのか楢の実なのか、はたまた樫の実なのか私には見当もつかないが、ともかく、無数のドングリの実がえんえんと広がっていた。人に注目されることはないのかもしれないが、私はドングリの群れを見ている内に、否が応でも「秋深し」を感じないではいられなかった。
ドングリの累々ころがる地のおもて鳩横切りぬひょこりひょこりと
おさな子のよちよち歩む足元に散らばり続くドングリの群れ
紅葉ばかりが秋の深まりを告げる使者ではない。考えてみるまでもなく、ドングリもまた深まり行く秋を告げる使者なのだ。ドングリは幼児の専有物ではない。踏みつけられ、風に転がされ、降る雨に泥まみれになるドングリ。人に見向きもされないような存在に見えながら、ひっそりと、が、地面を覆って、その確固たる存在を見せつけるドングリ。私は視界に入ってきたドングリの群れに目を注ぎながら、まんじりともしない思いに捉えられた。紅葉だの菊だの月だのと目に付きやすいものにだけ関心を向けがちだったこの自分がちょっぴり恥ずかしくなった。小さな小さなドングリもまた、大自然の営みを繰り返しているのだ。私は、齢を重ねてウン十年、いまごろになってこんなことに気づかされる思いがしたのである。
(2014年11月10日)
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