万葉集読解・・・38(522~535番歌)
頭注に「京職藤原大夫(ふじはらのまえつきみ)が大伴郎女(おおとものいらつめ)に贈った歌三首」とあり、「諱(いみな)を麻呂という」とある。
0522 娘子らが玉櫛笥なる玉櫛の神さびけむも妹に逢はずあれば
(「女+感」嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者)
大夫は藤原麿(ふじはらのまろ)のことで、不比等(ふひと)の子。前歌に見える藤原宇合(うまかひ)ともども藤原四家(南家、北家、式家、京家)を形成する。麿は京家の祖。系図に暗い私は系図の話は混乱しがちになるが、同じく混乱を誘うのは大伴郎女。彼女は、私の頭の中では、大伴旅人の妻として太宰府に同行した女性として整理されていた。が、528番歌の左注に「実は坂上郎女(さかのうえのいらつめ)のこと」とある。坂上郎女は大伴旅人の妹で、同時に旅人の妻?。坂上郎女は大伴郎女と同一人(?)という疑問が湧く。。
「娘子(をとめ)ら」は親愛の「ら」である。「玉櫛笥(たまくしげ)」は櫛箱の美称。
「あなたの櫛箱にしまい込まれた櫛のように、古びてしまいました。あなたに逢えないままに捨て置かれてしまって」という歌である。
頭注に「京職藤原大夫(ふじはらのまえつきみ)が大伴郎女(おおとものいらつめ)に贈った歌三首」とあり、「諱(いみな)を麻呂という」とある。
0522 娘子らが玉櫛笥なる玉櫛の神さびけむも妹に逢はずあれば
(「女+感」嬬等之 珠篋有 玉櫛乃 神家武毛 妹尓阿波受有者)
大夫は藤原麿(ふじはらのまろ)のことで、不比等(ふひと)の子。前歌に見える藤原宇合(うまかひ)ともども藤原四家(南家、北家、式家、京家)を形成する。麿は京家の祖。系図に暗い私は系図の話は混乱しがちになるが、同じく混乱を誘うのは大伴郎女。彼女は、私の頭の中では、大伴旅人の妻として太宰府に同行した女性として整理されていた。が、528番歌の左注に「実は坂上郎女(さかのうえのいらつめ)のこと」とある。坂上郎女は大伴旅人の妹で、同時に旅人の妻?。坂上郎女は大伴郎女と同一人(?)という疑問が湧く。。
「娘子(をとめ)ら」は親愛の「ら」である。「玉櫛笥(たまくしげ)」は櫛箱の美称。
「あなたの櫛箱にしまい込まれた櫛のように、古びてしまいました。あなたに逢えないままに捨て置かれてしまって」という歌である。
0523 よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
(好渡 人者年母 有云乎 何時間曽毛 吾戀尓来)
この歌3264番歌に類似していると言われる。両歌を併記すると次のとおりである。
本 歌 よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
それはさておき、この古歌により本歌の歌意がはっきりする。「年渡る」は「年をまたぐ」すなわち「一年に一度」という意味。七夕の古事を下敷きにしている。「いつの間にぞも」は「寸時も」という意味である。
「一年に一度の逢う瀬でもいいという人もあるという。が、私は寸時も待てず恋しさがつのります」という歌である。
(好渡 人者年母 有云乎 何時間曽毛 吾戀尓来)
この歌3264番歌に類似していると言われる。両歌を併記すると次のとおりである。
本 歌 よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
類似歌 年渡るまでにも人はありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
なんのことはない。類似歌ではなく同一歌と断じていい。つまり、藤原麿がそっくりそのまま古歌を借用したとしてよかろう。3264番歌は「古事記には木梨軽皇子の歌とある」と注記している。木梨軽皇子は十九代允恭天皇の皇子。なお、木梨軽皇子はずっと後世,四十二代文武天皇として即位する軽皇子とは全く別人物。それはさておき、この古歌により本歌の歌意がはっきりする。「年渡る」は「年をまたぐ」すなわち「一年に一度」という意味。七夕の古事を下敷きにしている。「いつの間にぞも」は「寸時も」という意味である。
「一年に一度の逢う瀬でもいいという人もあるという。が、私は寸時も待てず恋しさがつのります」という歌である。
0524 むし衾柔やが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも
(蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜)
「むし衾(ふすま)」はカラムシの繊維で作られている寝具。「柔(なご)やが下に」は「やわらかく暖かいフトンの下に」である。
「やわらかく暖かなフトンで寝ててもあなたがいないので肌寒い」という歌である。
(蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜)
「むし衾(ふすま)」はカラムシの繊維で作られている寝具。「柔(なご)やが下に」は「やわらかく暖かいフトンの下に」である。
「やわらかく暖かなフトンで寝ててもあなたがいないので肌寒い」という歌である。
頭注に「大伴郎女(おおとものいらつめ)が和えた歌四首」とある。
0525 佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか
(狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳)
前々歌に応えた歌。「佐保川」は奈良市内を流れる川。「ぬばたまの」は枕詞。
「佐保川の小石を踏みしめてあなたを乗せた黒馬がやって来る夜が年に一度でもあるのでしょうか」という歌である。
0525 佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか
(狭穂河乃 小石踐渡 夜干玉之 黒馬之来夜者 年尓母有粳)
前々歌に応えた歌。「佐保川」は奈良市内を流れる川。「ぬばたまの」は枕詞。
「佐保川の小石を踏みしめてあなたを乗せた黒馬がやって来る夜が年に一度でもあるのでしょうか」という歌である。
0526 千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは
(千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者)
前歌と同じく523番歌に応えた歌。上三句「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波」は途絶えることのない恋心の比喩。「佐保川」は前歌参照。
「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波のように、私の方こそやむときもありません。あなたを恋い焦がれるこの思いは」という歌である。
(千鳥鳴 佐保乃河瀬之 小浪 止時毛無 吾戀者)
前歌と同じく523番歌に応えた歌。上三句「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波」は途絶えることのない恋心の比喩。「佐保川」は前歌参照。
「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波のように、私の方こそやむときもありません。あなたを恋い焦がれるこの思いは」という歌である。
0527 来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを
(将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎)
言葉遊びに託した歌である。この応酬、一見丁々発止の恋のバトルに見える。が、古歌を安易に借用する麿と彼女では歌才に雲泥の差がある。並の才能で出来る歌ではない。
「来るとおっしゃりながらいらっしゃらないことがあるのですもの。ましていらっしゃらないとおっしゃるなら待てませんわ。そうおっしゃるのですもの」という歌である。
(将来云毛 不来時有乎 不来云乎 将来常者不待 不来云物乎)
言葉遊びに託した歌である。この応酬、一見丁々発止の恋のバトルに見える。が、古歌を安易に借用する麿と彼女では歌才に雲泥の差がある。並の才能で出来る歌ではない。
「来るとおっしゃりながらいらっしゃらないことがあるのですもの。ましていらっしゃらないとおっしゃるなら待てませんわ。そうおっしゃるのですもの」という歌である。
0528 千鳥鳴く佐保の川門の瀬を広み打橋渡す汝が来と思へば
(千鳥鳴 佐保乃河門乃 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我来跡念者)
525~6番歌に引っかけた心憎い歌。「佐保川」は奈良市内を流れる川。川門(かわと)は川を渡るのに好都合な場所。「川門の瀬を広み」は「~ので」のみ。「その瀬が広いので」という意味。打橋(うちはし)は板で作った橋。相手の歌と自分の歌とを関連づけて物語風に仕立てた歌。歌才の確かさは額田王(ぬかたのおほきみ)に並ぶ才媛ぶりである。
「千鳥鳴く佐保川の川門の瀬が広いので、(黒馬でいらしゃると思って)広い渡し場には長い大きな板橋を渡しておきますね」という歌である。
左注に「右にいう郎女(いらつめ)は大伴安麻呂の娘で、初め穂積皇子(ほずみのみこ)に嫁ぎ、その皇子の死後、藤原麻呂が求婚。佐保川の坂上の里に住むところから坂上郎女(さかのうえのいらつめ)と呼ばれる」とある。
この注によって旅人の妻の大伴郎女とは別人と知られる。考えて見れば、大伴郎女は大伴氏の娘という意味に過ぎず、複数存在も十分あり得る。
(千鳥鳴 佐保乃河門乃 瀬乎廣弥 打橋渡須 奈我来跡念者)
525~6番歌に引っかけた心憎い歌。「佐保川」は奈良市内を流れる川。川門(かわと)は川を渡るのに好都合な場所。「川門の瀬を広み」は「~ので」のみ。「その瀬が広いので」という意味。打橋(うちはし)は板で作った橋。相手の歌と自分の歌とを関連づけて物語風に仕立てた歌。歌才の確かさは額田王(ぬかたのおほきみ)に並ぶ才媛ぶりである。
「千鳥鳴く佐保川の川門の瀬が広いので、(黒馬でいらしゃると思って)広い渡し場には長い大きな板橋を渡しておきますね」という歌である。
左注に「右にいう郎女(いらつめ)は大伴安麻呂の娘で、初め穂積皇子(ほずみのみこ)に嫁ぎ、その皇子の死後、藤原麻呂が求婚。佐保川の坂上の里に住むところから坂上郎女(さかのうえのいらつめ)と呼ばれる」とある。
この注によって旅人の妻の大伴郎女とは別人と知られる。考えて見れば、大伴郎女は大伴氏の娘という意味に過ぎず、複数存在も十分あり得る。
頭注に「又、坂上郎女の歌」とある。前四首の関連歌。
0529 佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね
(佐保河乃 涯之官能 少歴木莫苅焉 在乍毛 張之来者 立隠金)
本歌は短歌ではなく、五七七五七七の旋頭歌(せどうか)形式の歌。
「佐保川」は前歌参照。「岸のつかさ」は川岸の高い所。「柴(しば)な刈りそね」は「な~そ」の禁止形。柴は小雑木。「ありつつも」は「そのままにしておいて」という意味である。
「佐保川の岸の高みに生える柴は刈り取らないでそのままにしておいて下さいな。春が来て繁ったなら恋の隠れ家になりますもの」という歌である。
0529 佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね
(佐保河乃 涯之官能 少歴木莫苅焉 在乍毛 張之来者 立隠金)
本歌は短歌ではなく、五七七五七七の旋頭歌(せどうか)形式の歌。
「佐保川」は前歌参照。「岸のつかさ」は川岸の高い所。「柴(しば)な刈りそね」は「な~そ」の禁止形。柴は小雑木。「ありつつも」は「そのままにしておいて」という意味である。
「佐保川の岸の高みに生える柴は刈り取らないでそのままにしておいて下さいな。春が来て繁ったなら恋の隠れ家になりますもの」という歌である。
頭注に「天皇、海上女王(うなかみのおほきみ)に賜う御歌」とあり、「寧樂宮(ならのみや」に即位した天皇なり」とある。四十五代聖武天皇。女王は天智天皇の孫娘。
0530 赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし
(赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思)
第三句原文「緘結師」を「岩波大系本」は「緘(かん)にシメの意義なく」とし、「結びてし」と訓ずべきとしている。確かに緘は「ひも」、「とじる」といった意味で、標(シメ)とは言い難い。「標(しめ)結ひし」か「結びてし」かという問題である。第二句は「越ゆる馬柵(うませ)の」と「の」(原文「乃」)が付いている。「標(しめ)結ひし」と続けるのが適切。
「赤駒が越える馬柵の標(しめ)を結んでおくように、固く約束し合った彼女の心に疑いなどあろう筈がない」という歌である。
左注に「今考えると、古歌を模した歌のようである」とある。3028番歌に「大海の底を深めて結びてし妹が心は疑ひもなし」とある。古歌とはこのことか。
0530 赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし
(赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思)
第三句原文「緘結師」を「岩波大系本」は「緘(かん)にシメの意義なく」とし、「結びてし」と訓ずべきとしている。確かに緘は「ひも」、「とじる」といった意味で、標(シメ)とは言い難い。「標(しめ)結ひし」か「結びてし」かという問題である。第二句は「越ゆる馬柵(うませ)の」と「の」(原文「乃」)が付いている。「標(しめ)結ひし」と続けるのが適切。
「赤駒が越える馬柵の標(しめ)を結んでおくように、固く約束し合った彼女の心に疑いなどあろう筈がない」という歌である。
左注に「今考えると、古歌を模した歌のようである」とある。3028番歌に「大海の底を深めて結びてし妹が心は疑ひもなし」とある。古歌とはこのことか。
頭注に「海上女王が応えた歌」とあり、「志貴皇子の娘」とある。
0531 梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくしよしも
(梓弓 爪引夜音之 遠音尓毛 君之御幸乎 聞之好毛)
「梓弓」(あづさゆみ)は枕詞。「爪引く夜音(よと)」は「弓を爪引く弦の夜音」という意味。が、実音なのか比喩表現なのかはっきりしない。
「弓を爪引く弦の夜音が遠く聞こえます。わが君が行幸なさっているご様子をお聞きするのはうれしゅうございます」という歌である。
0531 梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくしよしも
(梓弓 爪引夜音之 遠音尓毛 君之御幸乎 聞之好毛)
「梓弓」(あづさゆみ)は枕詞。「爪引く夜音(よと)」は「弓を爪引く弦の夜音」という意味。が、実音なのか比喩表現なのかはっきりしない。
「弓を爪引く弦の夜音が遠く聞こえます。わが君が行幸なさっているご様子をお聞きするのはうれしゅうございます」という歌である。
頭注に「大伴宿奈麻呂宿祢(おおとものすくなまろすくね)の歌二首」とあり、「佐保大納言卿の第三子」とある。佐保大納言は大伴安麻呂。第一子は大伴旅人。
0532 うちひさす宮に行く子をま悲しみ留むれば苦し遣ればすべなし
(打日指 宮尓行兒乎 真悲見 留者苦 聴去者為便無)
「うちひさす」は枕詞。「宮に行く子を」は「宮仕えに出る娘を」という意味。采女(うねめ)として出仕することになったのだろう。宿奈麻呂は中央の高級官人。地方豪族の娘が出仕する采女と同一視できないだろうが、采女なら『後宮職員令』(ごくうしきいんりょう)には、「三十歳以下、十三歳以上」とあるから若い娘である。歌の内容からすると初出仕に相違なく、まだ十代の娘かもしれない。親元から娘が離れるのは悲しい。さりとて晴れがましい出仕を止めるのは心苦しい。その心情を吐露した歌。宮仕えに出す親の本音と建て前が見事に表現された一首である。
「宮に出仕する娘は愛しく悲しい。さりとて留めるのは心苦しく、出仕に出せばいかんともしがたい」という歌である。
0532 うちひさす宮に行く子をま悲しみ留むれば苦し遣ればすべなし
(打日指 宮尓行兒乎 真悲見 留者苦 聴去者為便無)
「うちひさす」は枕詞。「宮に行く子を」は「宮仕えに出る娘を」という意味。采女(うねめ)として出仕することになったのだろう。宿奈麻呂は中央の高級官人。地方豪族の娘が出仕する采女と同一視できないだろうが、采女なら『後宮職員令』(ごくうしきいんりょう)には、「三十歳以下、十三歳以上」とあるから若い娘である。歌の内容からすると初出仕に相違なく、まだ十代の娘かもしれない。親元から娘が離れるのは悲しい。さりとて晴れがましい出仕を止めるのは心苦しい。その心情を吐露した歌。宮仕えに出す親の本音と建て前が見事に表現された一首である。
「宮に出仕する娘は愛しく悲しい。さりとて留めるのは心苦しく、出仕に出せばいかんともしがたい」という歌である。
0533 難波潟潮干のなごり飽くまでに人の見る子を我れし羨しも
(難波方 塩干之名凝 飽左右二 人之見兒乎 吾四乏毛)
前歌の娘出仕後の心情を吐露した歌。「難波潟~飽くまでに」は序歌。難波潟は大阪市の海岸。
「難波潟の潮が引いた後の光景は飽きるほど眺めていられるのに、そのように眺められる(共に生活している)娘のいる人が羨ましい」という歌である。
(難波方 塩干之名凝 飽左右二 人之見兒乎 吾四乏毛)
前歌の娘出仕後の心情を吐露した歌。「難波潟~飽くまでに」は序歌。難波潟は大阪市の海岸。
「難波潟の潮が引いた後の光景は飽きるほど眺めていられるのに、そのように眺められる(共に生活している)娘のいる人が羨ましい」という歌である。
頭注に「安貴王(あきのおほきみ)の歌と短歌」とある。安貴王は志貴皇子の孫。
0534番 長歌
遠妻の ここにしあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言どひ 我がために 妹も事なく 妹がため 我れも事なく 今も見るごと たぐひてもがも
(遠嬬 此間不在者 玉桙之 道乎多遠見 思空 安莫國 嘆虚 不安物乎 水空徃 雲尓毛欲成 高飛 鳥尓毛欲成 明日去而 於妹言問 為吾 妹毛事無 為妹 吾毛事無久 今裳見如 副而毛欲得)
0534番 長歌
遠妻の ここにしあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言どひ 我がために 妹も事なく 妹がため 我れも事なく 今も見るごと たぐひてもがも
(遠嬬 此間不在者 玉桙之 道乎多遠見 思空 安莫國 嘆虚 不安物乎 水空徃 雲尓毛欲成 高飛 鳥尓毛欲成 明日去而 於妹言問 為吾 妹毛事無 為妹 吾毛事無久 今裳見如 副而毛欲得)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。遠妻は遠くの地にいる妻。「玉桙(たまほこ)の」は枕詞。「妹も事なく」と「我れも事なく」は「無事でいて」という意味。「たぐひてもがも」は「寄り添っていたい」
(口語訳)
妻は遠くの地にいてここにはいない。玉桙の道は遠く、妻を思うと心休まらない。嘆くばかりで苦しくてならない。空を流れる雲になりたい。高く飛ぶ鳥になりたい。そうして明日にでも行って妻に話しかけ、私のために妻は無事であってほしいし、妻のためにこの私も無事でありたい。今の姿のまま、互いに寄り添っていたい。
反 歌
0535 敷栲の手枕まかず間置きて年ぞ経にける逢はなく思へば
(敷細乃 手枕不纒 間置而 年曽經来 不相念者)
「敷栲(しきたへ)の」は枕詞。「手枕まかず」は「共寝することなく」という意味、「間置きて年ぞ経にける」は「月日が経って一年になってしまった」という意味である。
「共寝できなくなってからもう一年が経つ。逢えなくなってからもうそんなにも」という歌である。
左注に「安貴王は因幡(鳥取県東部)出身の八上采女(やかみのうねめ)を妻とした。彼女の愛情は極めて深く、ために采女に反するとして彼女は不敬罪に問われ、出身地因幡に戻された。そこで王はこの歌を作った」とある。
(2013年6月21日記、2017年10月18日記)
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妻は遠くの地にいてここにはいない。玉桙の道は遠く、妻を思うと心休まらない。嘆くばかりで苦しくてならない。空を流れる雲になりたい。高く飛ぶ鳥になりたい。そうして明日にでも行って妻に話しかけ、私のために妻は無事であってほしいし、妻のためにこの私も無事でありたい。今の姿のまま、互いに寄り添っていたい。
0535 敷栲の手枕まかず間置きて年ぞ経にける逢はなく思へば
(敷細乃 手枕不纒 間置而 年曽經来 不相念者)
「敷栲(しきたへ)の」は枕詞。「手枕まかず」は「共寝することなく」という意味、「間置きて年ぞ経にける」は「月日が経って一年になってしまった」という意味である。
「共寝できなくなってからもう一年が経つ。逢えなくなってからもうそんなにも」という歌である。
左注に「安貴王は因幡(鳥取県東部)出身の八上采女(やかみのうねめ)を妻とした。彼女の愛情は極めて深く、ために采女に反するとして彼女は不敬罪に問われ、出身地因幡に戻された。そこで王はこの歌を作った」とある。
(2013年6月21日記、2017年10月18日記)