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万葉集読解・・・41(566~577番歌)

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     万葉集読解・・・41(566~577番歌)
 頭注に「大宰大監大伴宿祢百代らが驛使(はゆまづかひ)に贈った歌二首)とある。大宰大監は三等官。百代は559~562番歌の作者。
0566   草枕旅行く君を愛しみ副ひてぞ来し志賀の浜辺を
      (草枕 羈行君乎 愛見 副而曽来四 鹿乃濱邊乎)
 結句に「志賀の浜辺を」とある。278番歌のところで私は「たんに「志賀」といえば、琵琶湖大津の近辺を指している」と記した。その例外が278番歌で「志賀の海女」となっているので、福岡県の志賀島を指している。もう一つの例外がこの566番歌で、太宰府の高官である百代が稻公(いなきみ)らを送ってきた場面なので、やはり、志賀島を指している。「愛(うるは)しみ」は「別れがたく」であり、「副(たぐ)ひてぞ来し」は「同行してきてしまいました」という意味である。太宰府から志賀島まで50キロ前後、徒歩で二日は要したであろう。
 「都に向かうあなた方が愛しくて、つい、志賀島の浜辺まで同行してきてしまいました」という歌である。
 左注に「右は大宰大監大伴宿祢百代の歌」とある。

0567   周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその道
      (周防在 磐國山乎 将超日者 手向好為与 荒其<道>)
 志賀島から船に乗り、海岸沿いに下関に達し、瀬戸内海に入る。「周防なる磐国山」は山口県岩国市と目される。「手向けよくせよ」は「神様にお供え物をしてよくよくお祈りしてください」という意味である。
 「周防の国の岩国山を越えていく日が来たら、神様にお供え物をしてよくよくお祈りしてください。険しく荒々しい道ですから」という歌である。
 左注に「右は山口忌寸若麻呂(やまぐちのいみきわかまろ)の歌」とあり、駅使(はゆまづかい)が太宰府から奈良の都まで至った詳細な説明がなされている。長いので要約を述べておこう。
 「太宰府の長官大伴旅人の脚にでき物が出来、重症化したので、急使が都に送られた。報告を受けた都は、大事に備えて大伴一族の稻公(いなきみ)と胡麻呂(こまろ)を派遣した。が、数十日もすると旅人の症状が軽快したので稻公(いなきみ)らは帰京の途についた。」
 なお、以下に原文を掲げておく。興味ある向きは参考にされたい。
 参考原文
  右一首少典山口忌寸若麻呂以前天平二年庚午夏六月帥大伴卿忽生瘡脚疾苦枕席帥大伴卿忽生瘡脚疾苦枕席因此馳驛上奏望請庶弟稲公姪胡麻呂欲語遺言者 勅右兵庫助大伴宿祢稲公治部少丞大伴宿祢胡麻呂兩人給驛發遣令省卿病而逕數旬幸得平復于時稲公等以病既療發府上京於是 大監大伴宿祢百代少典山口忌寸若麻呂及卿男家持等相送驛使共到夷守驛家聊飲悲別乃作此歌

 頭注に「大宰帥大伴卿大納言に任命され、京に向かうに際し、太宰府の官人ら筑前國の蘆城(あしき)の驛家(うまや)で作った餞別の歌四首」とある。蘆城の驛家は福岡県筑紫野市。
0568   み崎廻の荒磯に寄する五百重波立ちても居ても我が思へる君
      (三埼廻之 荒礒尓縁 五百重浪 立毛居毛 我念流吉美)
 「み崎廻(みさきみ)の」は「みさきのぐるりの」という意味。「五百重波(いほえなみ)」は「幾重にも重なる波」ということ。実景ではなく、「岬周辺の磯に押し寄せる波のように」という比喩。
 「岬周辺の荒磯に寄せてくる幾重にも重なる波のように、居ても立ってもいられない思いがします。あなた様がいなくなると思うと」という歌である。
左注に「右は筑前掾門部連石足(ちくぜんのじょうかどべのむらじいそたり)の歌」とある。筑前国は福岡県西部の国。古代地方官制では各国に国司が敷かれ、官職には守(かみ、長官)、介(すけ、次官)、掾(じょう、判官)、目(さかん、主典)の四等官が置かれるのが一般だった。掾は三等官。

0569   韓人の衣染むとふ紫の心に染みて思ほゆるかも
      (辛人之 衣染云 紫之 情尓染而 所念鴨)
 「韓人(からひと)の衣(ころも)染(し)むとふ紫の」は「韓国(からくに)の人が着るという、むらさき草で鮮やかに染め上げた着物」のこと。紫の礼服は三位以上の高官が着る服。大納言になって上京する大伴旅人のことを指している。
 「韓国(からくに)の人が着るという、むらさき草で鮮やかに染め上げた着物が心に思い浮かぶあなた様が」という歌である。

0570   大和へと君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く
      (山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曽鳴)
 「鹿も響(とよ)めてぞ鳴く」は「鹿でさえ大声を張り上げて泣いてます」という意味。前歌同様これ以上ない「よいしょ」表現。正七位の身分の作者から見れば大納言大伴旅人は雲上人。
 「あなた様が大和へとお発ちになる日が近づいてきて、野の鹿でさえ大声を張り上げて泣いてます」という歌である。
 左注に「右二首は大典麻田連陽春(あさだのむらじやす)の歌」とある。大典は太宰府の四等官で、身分は正七位上相当。

0571   月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ
      (月夜吉 河音清之 率此間 行毛不去毛 遊而将歸)
 「行くも行かぬも」は「上京する人も太宰府に残る人も」という意味。平明歌。
 「月夜よし、川のせせらぎも清らかでございます。さあ、今宵は思いっきり遊んでお別れしようではありませんか」という歌である。
 左注に「防人佑大伴四綱(さきもりのすけおほとものよつな)の歌」とある。

 以上の四首からだけでも様々な事柄が想起される。送別の宴には大納言を囲んで下役、国司、防人等様々な人々が集まってきていること。陽春や四綱まで同席しているので、当然百代以下の幹部連、さらには筑前国司ばかりでなく、たとえば筑後国(福岡県南部)、豊前国(福岡県東部、大分県北部)、豊後国(大分県大部分(宇佐市・中津市除く))等の国司も呼ばれていたに相違ない。こうした席で下位の官人からも歌が披露されている。大伴旅人の時代には歌が幅広く多くの人々に根付いていたことがうかがわれるのである。

 頭注に「沙弥満誓(さみまんぜい)が旅人に贈った歌二首」とある。沙弥満誓は336番歌の頭注に「造筑紫觀音寺別當、俗姓は笠朝臣麻呂」とある。
0572   まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ
      (真十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍将居)
 「まそ鏡」は枕詞。「後れてや」は「後に残されて」という意味である。「朝夕(あしたゆふべ)にさびつつ居らむ」の「さびつつ」は「錆び付きつつ」、すなわち「さびしい」という意味。これも旅人に対する「よいしょ」の歌だが、そうとばかりは言えない。旅人の仕事ぶりまでは分からないが、その人間性の一端はその歌からうかがい知れる。しきりに都を思い、左遷されたかのごとく落胆しきりの様子を見せ、酒浸りになった歌からすると、ひ弱なお坊ちゃん像が浮かび上がる。宴会を好み、歌のやりとりに日々を送った様子から推すと、人間的には親しみやすく話題豊富だったらしい。つまり、「見飽かぬ君」はあながち「よいしょ」とばかりは言い切れない表現である。
 「いくら見ても見飽きない君に取り残され、朝も夕もさびしくなりました」という歌である。

0573   ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり
      (野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有来)
 「ぬばたまの」は枕詞。この歌は個々の用語にこだわるより、歌意の全容を把握した方が理解しやすい。親しかった話し相手に去られ、恋愛感情に見立てての旅人への思慕の歌である。
 「黒髪が年をとって白くなってきてもあなたを恋しがる辛さに出会いました。こんなこともあるのですね」という歌である。

 頭注に「大納言大伴卿が応えた歌二首」とある。
0574   ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし
      (此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思)
 旅人歌には珍しく、素直で素朴な詠いぶりである。それだけにかえって筑紫を懐かしがる心情がよく出ている。平明歌。
 「ここ大和から筑紫はどちらの方向にあたるのだろう。白雲のたなびくあの山の方角だろうか」という歌である。

0575   草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友なしにして
      (草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天)
 草香江(くさかえ)は難波にも博多湾にも同名の地名があるという。むろん、ここは難波の草香江。「あさる葦鶴(あしたづ)の」までは「あなたづたづし」を導く序歌。「たづたづし」は「心細い」。
 「草香江の入江に餌をあさる一羽の鶴のように、ああ、心細い、君のような友がいなくて」という歌である。

 頭注に「大宰帥大伴卿上京の後、筑後守葛井連大成(ちくごのかみふぢゐのむらじおほなり)が悲しんで作った歌」とある。筑後国は福岡県南部。
0576   今よりは城山の道は寂しけむ我が通はむと思ひしものを
      (従今者 城山道者 不樂牟 吾将通常 念之物乎)
 「城山(きやま)の道」は筑後国から太宰府に至る道。
 「これからは筑後国から太宰府に至る城山(きやま)の道は寂しくなりますね。旅人長官にお会いするために通おうと思っていましたのに」という歌である。

 頭注に「大納言大伴卿(おおとものまえつきみ)、新袍(しんぽう)を攝津大夫高安王(せっつのかみたかやすのおほきみ)に贈った時の歌」とある。「新袍」は束帯等の礼服を新調したものという。
0577   我が衣人にな着せそ網引する難波壮士の手には触るとも
      (吾衣 人莫著曽 網引為 難波壮士乃 手尓者雖觸)
 新袍を贈るのは親密な関係の相手の場合だという。「我が衣人にな着せそ」は「お贈りするこの新袍、人には着せていけませんよ」と明快な歌。が、これに続く「網引(あびき)する難波壮士(なにはをとこ)の手には触るとも」は何の意味であろう。以下「岩波大系本」等の読解を紹介してみる。
  「たとい網引する難波壮士の手に触れることはあっても」(「岩波大系本」)。
  「網を引く難波男の手に触れるのは仕方がないとしても」(「伊藤本」)。
  「たとえ難波の網引男が手をふれるようなことがあっても」(「中西本」)。
 以上、ほぼ同解といっていいが、こういう解で歌意が通じるだろうか。少なくとも私にはちんぷんかんぷん。「新袍」は束帯等の礼服を新調した大切な服。しかも礼服は親密な相手にしか贈らないという。むろん贈り主の旅人が卑下して「たいしたものじゃないから難波男たちがぞんざいに扱って触れることがあっても」という外交辞令と取ってとれないことはない。が、そう取ろうにも上二句の「我が衣人にな着せそ」が許さない。これは「あなた様だからお贈りする大切な礼服だから」という気持から出ている言葉だからである。
 「岩波大系本」以下の読解では全く意味をなさない、と言わなければならない。ではどういう意味なのか。私は「網引する難波壮士」は高安王自身を指した表現と解する。つまり、攝津大夫としてすっかり難波に定着し、あたかも土地の難波男として人々に信頼を得ている、そういう高安王を親しみをこめて「網引する難波壮士」と呼びかけた歌なのである。
、「お贈りする着物は他人に着せてはいけませんよ。網引する難波壮士(なにはをとこ)たるあなた自身が袖を通すこと以外に」という歌である。
           (2013年7月17日記、2017年10月30日記、)
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