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万葉集読解・・・43(587~604番歌)

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     万葉集読解・・・43(587~604番歌)
 頭注に「笠女郎(かさのいらつめ)が大伴宿祢家持に贈った歌廿四首」とある。
0587   我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我れも偲はむ
      (吾形見 々管之努波世 荒珠 年之緒長 吾毛将思)
 この歌から24首、すなわち587~610番歌はすべて笠女郎(かさのいらつめ)が家持(やかもち)に贈った歌である。他に395~397番歌、1451番歌及び1616番歌の5首、併せて29首が彼女の歌として掲載されている。いずれも家持に宛てた歌。これに対し家持から彼女に宛てた歌は611番歌及び612番歌の2首が掲載されているのみである。このへんの状況及び謎についてはこの24首に続く家持歌の読解を終えてから言及することとし、ここでは先を急ごう。
 この歌、いきなり「我が形見」で始まるが、彼女が家持に何か品を手渡したとみえる。大切なのは、この句によって二人が逢わないまま何年も経っているらしいと知れる点である。「あらたまの」は枕詞。「年の緒長く」は「一年をとおして長らく」である。
 「私が差し上げた品を私だと思って忘れないで下さいませ。私も長らくずっとあなた様をしのんでいきます」という歌である。

0588   白鳥の飛羽山松の待ちつつぞ我が恋ひわたるこの月ごろを
      (白鳥能 飛羽山松之 待乍曽 吾戀度 此月比乎)
 「白鳥(しらとり)の」を「岩波大系本」も「伊藤本」も枕詞としている。が、枕詞(?)である。「白鳥の」は本歌と1687番歌の二例しかなく、かつ、本歌が飛羽山にかかり、1687番歌は鷺坂山にかかっていて、異なる。待つを引き出すためだけの松では言葉遊びになってしまう。「この月ごろを」は「ここ何ヶ月も」という切ない女心の表明。「白鳥の」は文字通り「白い鳥の」であって、暗に作者自身を暗示しているのではないかと思う。飛羽山は未詳だが、笠女郎の住む国の山の名ではなかろうか。
 「白い鳥が飛羽山の松にとまって待っているように私はここ何ヶ月も恋い焦がれつづけています」という歌である。

0589   衣手を打廻の里にある我れを知らにぞ人は待てど来ずける
      (衣手乎 打廻乃里尓 有吾乎 不知曽人者 待跡不来家留)
 「衣手(ころもで)を」は前歌の「白鳥の」と同様、枕詞的に使用されている例は2例(本歌と1706番歌)しかなく、枕詞(?)。「打廻(うちみ)の里」はどこか不詳。
 「打廻の里に私が住んでいることをご存知なかったのか、待っても待っても来て下さいませんでしたね」という歌である。

0590   あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな
      (荒玉 年之經去者 今師波登 勤与吾背子 吾名告為莫)
 「あらたまの」は枕詞。「今しはと」は「今ならと」で、「し」は時々使われる強意。「ゆめよ」は「ゆめゆめ~なよ」の「ゆめ」。
 「年月が流れ、今となってはとばかり気軽に私の名を口になさらないで下さい」という歌である。

0591   我が思ひを人に知るれか(筆者=知れるや)玉くしげ開きあけつと夢にし見ゆる
      (吾念乎 人尓令知哉 玉匣 開阿氣津跡 夢西所見)
 第二句の「令知哉」は諸家「知るれか」としている。が、奇妙な日本語である。「人が知る」なら分かるが「人に知る」とは(???)。原文「令知」は使役の令。ここは素直に原文に従って「知れるや」という訓じ方しか私には出来ない。玉くしげは化粧箱で93番歌にも出ている。恋心の詰まった大切な秘密の箱である。
 「私の恋心を人に知らしめてしまったのでしょうか。玉くしげの蓋が開けられてしまった夢を見ました。まさかあなたが開けたのではないでしょうね」という歌である。

0592   闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
      (闇夜尓 鳴奈流鶴之 外耳 聞乍可将有 相跡羽奈之尓)
 「外(よそ)のみに」は「よそ事として」という意味。「逢ふとはなしに」は「逢うこともなく」である。切ない歌である。
 「鳴き声だけで姿の見えぬ闇夜の鶴のように、まるでよそ事の世界のこととして月日が過ぎていきます。お逢いすることもなく」という歌である。

0593   君に恋ひいたもすべなみなら山の小松が下に立ち嘆くかも
      (君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨)
 「いたもすべなみ」は{~なので」のみ。「何ともしようがなくて」という意味である。「なら山」は奈良山で、奈良市北方の丘陵地帯。なお、「なら山」は通常「平山」や「奈良山」と書かれており、「楢山」は本歌と3240番長歌しかない。したがって、「なら山」は文字通り「楢山」と取り、彼女(作者)の近くの「コナラ林」とも取れる。コナラはブナ科の落葉高木。
 「あなた様に恋い焦がれ、何ともしようがなくて、奈良山(あるいはコナラ林)の小松の下に立って嘆いています」という歌である。

0594   我がやどの夕蔭草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも
      (吾屋戸之 暮陰草乃 白露之 消蟹本名 所念鴨)
 「我がやどの」は「わが家の庭の」という意味。「夕蔭草(ゆふかげくさ)」は「夕日に映える草」の意味だという。「もとな」は「しきりに」という意味。
 「わが家の庭の夕蔭草(ゆふかげくさ)に連なる白露のようにはかなく消えかかるあなた様がしきりに恋しくてなりません」という歌である。

0595   我が命の全けむ限り忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
      (吾命之 将全<牟>限 忘目八 弥日異者 念益十方)
 「全(また)けむ限り」は「(命)ある限り」、「日に異(け)には」は「日ごとに増す」という意味である。
 「わが命ある限り忘れることが出来ましょうか。いや日増しに思いは募ります」という歌である。

0596   八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守
      (八百日徃 濱之沙毛 吾戀二 豈不益歟 奥嶋守)
 八百日もかかるよほど長々と続く浜辺。むろん、笠女郎も家持も共に知っているに相違ない浜辺である。単なる序歌ではなく、実景を下敷きにして詠まれたように感じられてならない。もしもそうだとすると、この歌は笠女郎の居国を探る上で大きなヒントを与える歌である。 「あに」は「どうして」ないし「決して」という意味で、反語表現。
[八百日もかかる長々とした浜辺に連なる砂浜に比べ、、どうしてわが恋の大きさが勝っていないと言えるでしょうか、沖にいる島守さんよ」という歌である。


0597   うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも
      (宇都蝉之 人目乎繁見 石走 間近<君>尓 戀度可聞)
 「うつせみの人目を繁み」は「世間の人目がうるさいので」である。
 「世間の人目がうるさいので、庭の石橋のように間近に住んでいますのに、逢うことも出来ず、ひたすら恋続けています」という歌である。

0598   恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に
      (戀尓毛曽 人者死為 水<無>瀬河 下従吾痩 月日異)
 「恋にもぞ」は「恋の苦しみ」と「苦しみ」を補って読むとわかりやすい。「水無瀬川(みなせがわ)」は川底に水のない、いわゆる見えない川、つまり「人知れず」の意味。「下ゆ」は「心の下から」で、「ひそかに」という意味である。
 「恋の苦しみで人は死ぬことがあります。川底に水のない水無瀬川のように、人知れずひそかに私は月ごと日ごとにやせ細るばかりです」という歌である。

0599   朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひわたるかも
      (朝霧之 欝相見之 人故尓 命可死 戀渡鴨)
 「おほに」、これは長歌の例だが、217番歌に「おほに見し」とある。「おぼろげに」という意味である。
 「朝霧のように、一度きりしか、それもおぼろげにしか逢っていない人なのだが、それだけに(かえっていっそう)思いがつのる」という歌である。

0600   伊勢の海の磯もとどろに寄する波畏き人に恋ひわたるかも
      (伊勢海之 礒毛動尓 因流波 恐人尓 戀渡鴨)
 上三句比喩的序歌。「畏(かしこ)き」は「恐れ多い」の意味である。笠女郎は家持とは相当身分差のある家の子女であったのだろうか。
 「伊勢の海の磯にとどろく寄せ来る波のように、恐れ多い方に恋続けているのでしょうか」という歌である。

0601   心ゆも我は思はざりき山川も隔たらなくにかく恋ひむとは
      (従情毛 吾者不念寸 山河毛 隔莫國 如是戀常羽)
 「心ゆも」は「心底から」すなわち「思ってもみませんでした」という意味である。597番歌に「石橋の間近き君に」とあるように、彼女は家持家の近くに住んでいた。なので、「山川も隔たらなくに」は「間が山や川で隔てられているわけではないのに」ということである。
 「こんなに恋に苦しむとは心底思ってもみませんでした。間が山や川で隔てられているわけではないのに、こんんなに恋い焦がれることになるとは」という歌である。

0602   夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして
      (暮去者 物念益 見之人乃 言問為形 面景尓而)
 「夕されば物思ひまさる」は「夕方になると物思いがつのります」である。「言とふ」は「話しかけて下さった」という意味である。
 「夕方になると物思いがつのります。お逢いしたあなた様が話しかけて下さったお姿が思い出されて」という歌である。

0603   思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我れは死にかへらまし
      (念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益)
 一読してこのままで分かる平易で激しい歌である。「思ふにし}は「恋焦がれて」である。 「人が恋焦がれて死ぬというのでしたら、私は千度でも死んでまた生き返り、恋焦がれるでしょう」という歌である。

0604   剣大刀身に取り添ふと夢に見つ何の怪ぞも君に逢はむため
      (劔大刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為)
 四句目の「何の怪ぞも」だが、訓じ方が様々。「何のしるしぞも」(「佐々木本」)、「何のしるしそも」(「岩波大系本」)、「何の兆(さが)ぞも」(「伊藤本」)、「如何なる怪(け)そも」(「中西本」)、となっている。原文の「恠」は「怪」の俗字。なので「中西本」の訓じ方が当を得ていると言える。が、歌意は、要するに見た夢の予兆を指しているのであるから、「しるし」や「兆」でもよかろう。訓じ方の問題より大切なのは上二句の「剣大刀(つるぎたち)身に取り添ふと」の意図である。笠女郎の歌はすべて家持に贈った歌である。さらに、家持には坂上大嬢(さかのうえのおほいらつめ)という大伴本家につながる妻がでんと控えている。それを笠女郎が知らぬ筈はない。こうした事情を念頭におけば、「剣大刀を身に帯びた夢を見た」などと当の家持に突きつけたのは普通ではない。色々な解釈があるだろうが、この歌が、「恋煩いで千度死ぬことがあってもそのたびに生き返ってきます」という激しい前歌の後に続く歌であることを考えると、「剣大刀」は家持に対する激しい執念を示したものと考えてよかろう。「死をも覚悟して逢いたく思っています」という歌に相違ない。
 「剣大刀(つるぎたち)を身につけた夢を見ました。如何なる怪なのでしょう。あなた様にあって(死のう)と思って」という歌である。
         (2013年7月28日記、2017年11月7日記、)
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