万葉集読解・・・50(693~710番歌)
頭注に「大伴宿祢千室(おほとものすくねちむろ)の歌」とあり、細注に「未詳」とある。「未詳」は何が「未詳」か分からない。
0693 かくのみし恋ひやわたらむ秋津野にたなびく雲の過ぐとはなしに
(如此耳 戀哉将度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二)
「かくのみし」は「こんなふうにして」で、「このままずっと」という意味である。「秋津野」は不詳。結句の「過ぐとはなしに」は、一見「雲が過ぎることがないように」という意味に見える。が、雲が過ぎ去らない筈はないので、ここは反語的表現と分かる。
「秋津野にたなびく雲ならやがて消えてゆくのに、私の恋心はこのままずっと続いていくしかないのだろうか」という歌である。
頭注に「大伴宿祢千室(おほとものすくねちむろ)の歌」とあり、細注に「未詳」とある。「未詳」は何が「未詳」か分からない。
0693 かくのみし恋ひやわたらむ秋津野にたなびく雲の過ぐとはなしに
(如此耳 戀哉将度 秋津野尓 多奈引雲能 過跡者無二)
「かくのみし」は「こんなふうにして」で、「このままずっと」という意味である。「秋津野」は不詳。結句の「過ぐとはなしに」は、一見「雲が過ぎることがないように」という意味に見える。が、雲が過ぎ去らない筈はないので、ここは反語的表現と分かる。
「秋津野にたなびく雲ならやがて消えてゆくのに、私の恋心はこのままずっと続いていくしかないのだろうか」という歌である。
頭注に「廣河女王(ひろかはのおほきみ)の歌二首」とあり、細注に「穂積皇子(ほづみのみこ)の孫娘、すなわち上道王(かみつみちのおほきみ)の娘である」とある。
0694 恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から
(戀草呼 力車二 七車 積而戀良苦 吾心柄)
力車(ちからくるま)は文字通り「力のいる車」、大きな車のことである。
「恋という草を力車にいっぱい、七台も積むほど恋しくてならない、我が心から」という歌である。
0694 恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から
(戀草呼 力車二 七車 積而戀良苦 吾心柄)
力車(ちからくるま)は文字通り「力のいる車」、大きな車のことである。
「恋という草を力車にいっぱい、七台も積むほど恋しくてならない、我が心から」という歌である。
0695 恋は今はあらじと我れは思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる
(戀者今葉 不有常吾羽 念乎 何處戀其 附見繋有)
「恋は今はあらじと」は「今は恋することはないだろうと」という意味。前歌の「七車積みて」といい、本歌の「つかみかかれる」といい、比喩が一風変わっている。万葉集の多くの相聞歌は、直接恋情を述べたり、雲、月、花等自然の風物にこと寄せて詠われている。が、この歌は比喩の仕方が一風変わっていて、いわゆる万葉歌らしくない。それだけに新鮮に感じられる。個性派の歌として注目されてよいように思う。
「もう今は恋することはないだろうと思っていたのに、どこから恋がつかみかかってきたのかしら」という歌である。
(戀者今葉 不有常吾羽 念乎 何處戀其 附見繋有)
「恋は今はあらじと」は「今は恋することはないだろうと」という意味。前歌の「七車積みて」といい、本歌の「つかみかかれる」といい、比喩が一風変わっている。万葉集の多くの相聞歌は、直接恋情を述べたり、雲、月、花等自然の風物にこと寄せて詠われている。が、この歌は比喩の仕方が一風変わっていて、いわゆる万葉歌らしくない。それだけに新鮮に感じられる。個性派の歌として注目されてよいように思う。
「もう今は恋することはないだろうと思っていたのに、どこから恋がつかみかかってきたのかしら」という歌である。
頭注に「石川朝臣廣成(いしかはのあそみひろなり)の歌」とあり、細注に「後に高圓朝臣(たかまどのあそみ)という姓を賜わる」とある。
0696 家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば
(家人尓 戀過目八方 川津鳴 泉之里尓 年之歴去者)
「家人(いへひと)」は都に残してきた妻等家族。「恋過ぎめやも」は「恋しい(なつかしい)時期は過ぎたというのか、いえ決してそんなことはない」という反語表現。「泉の里」は京都の木津川の近くの里だという。この歌は倒置表現になっている。なので後半からはじめて前半に続けて読むと分かりやすい。
「蛙が鳴く泉の里に赴任してから年月が経つので家人をなつかしむ時期は過ぎたかというと、決してそんなことはあるものか。ますます恋しさがつのる」という歌である。
0696 家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば
(家人尓 戀過目八方 川津鳴 泉之里尓 年之歴去者)
「家人(いへひと)」は都に残してきた妻等家族。「恋過ぎめやも」は「恋しい(なつかしい)時期は過ぎたというのか、いえ決してそんなことはない」という反語表現。「泉の里」は京都の木津川の近くの里だという。この歌は倒置表現になっている。なので後半からはじめて前半に続けて読むと分かりやすい。
「蛙が鳴く泉の里に赴任してから年月が経つので家人をなつかしむ時期は過ぎたかというと、決してそんなことはあるものか。ますます恋しさがつのる」という歌である。
頭注に「大伴宿祢像見(おほとものすくねかたみ)の歌三首」とある。像見は大伴一族の一人か。
0697 我が聞きに懸けてな言ひそ刈り薦の乱れて思ふ君が直香ぞ
(吾聞尓 繋莫言 苅薦之 乱而念 君之直香曽)
「我が聞きに懸けて」は「私の耳に懸かるように」という意味。「な言ひそ」は「な~そ」の禁止形。つまり「聞こえよがしにいいなさんな」という意味である。「刈り薦(こも)の」は256番歌にもあるが、枕詞。また、薦は真薦(マコモ)のことで、ムシロの材料に使用されている。「君が直香(ただか)ぞ」の意味がはっきりしないが、「あの方を彷彿させる」という意味だと思われる。通常女性歌だと「我が背」となり、君は目上や同僚を指す。
「あの方と分かるような話を聞こえよがしに言いなさんな。耳にするだけで、刈り薦のように心が乱れるじゃありませんか。あの人を彷彿させて」という歌である。
0697 我が聞きに懸けてな言ひそ刈り薦の乱れて思ふ君が直香ぞ
(吾聞尓 繋莫言 苅薦之 乱而念 君之直香曽)
「我が聞きに懸けて」は「私の耳に懸かるように」という意味。「な言ひそ」は「な~そ」の禁止形。つまり「聞こえよがしにいいなさんな」という意味である。「刈り薦(こも)の」は256番歌にもあるが、枕詞。また、薦は真薦(マコモ)のことで、ムシロの材料に使用されている。「君が直香(ただか)ぞ」の意味がはっきりしないが、「あの方を彷彿させる」という意味だと思われる。通常女性歌だと「我が背」となり、君は目上や同僚を指す。
「あの方と分かるような話を聞こえよがしに言いなさんな。耳にするだけで、刈り薦のように心が乱れるじゃありませんか。あの人を彷彿させて」という歌である。
0698 春日野に朝居る雲のしくしくに我れは恋ひ増す月に日に異に
(春日野尓 朝居雲之 敷布二 吾者戀益 月二日二異二)
春日野は奈良市の春日大社一帯の野。「しくしくに」は「しきりに」という意味。「月に日(ひ)に異(け)に」は「月ごと日ごとに」という意味である。
「春日野の朝に雲がたちこめてくるように、しきりに恋しさが増します。月ごと日ごとに」という歌である。
(春日野尓 朝居雲之 敷布二 吾者戀益 月二日二異二)
春日野は奈良市の春日大社一帯の野。「しくしくに」は「しきりに」という意味。「月に日(ひ)に異(け)に」は「月ごと日ごとに」という意味である。
「春日野の朝に雲がたちこめてくるように、しきりに恋しさが増します。月ごと日ごとに」という歌である。
0699 一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも
(一瀬二波 千遍障良比 逝水之 後毛将相 今尓不有十方)
「一瀬には」は「各瀬には」という意味。「千(ち)たび障(さわ)らひ行く水の」は「幾度も岩や岸辺に妨げられながら流れていく川」の意味。
「各瀬ごとに岩や岸辺に幾度も妨げられながら流れていく川のように、後にはきっと逢えるでしょう。今でなくとも」という歌である。
(一瀬二波 千遍障良比 逝水之 後毛将相 今尓不有十方)
「一瀬には」は「各瀬には」という意味。「千(ち)たび障(さわ)らひ行く水の」は「幾度も岩や岸辺に妨げられながら流れていく川」の意味。
「各瀬ごとに岩や岸辺に幾度も妨げられながら流れていく川のように、後にはきっと逢えるでしょう。今でなくとも」という歌である。
頭注に「大伴宿祢家持が娘子(をとめ)の家の門前にやってきて作った歌」とある。
0700 かくしてやなほや罷らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て
(如此為而哉 猶八将退 不近 道之間乎 煩参来而)
「かくしてや」は「結局」という意味。「罷(まか)らむ」は「引き返す」という、「なづみ」は「難儀」という意味である。
「近くもない道を難儀しながらやってきたのに、結局すごすごと引き返さねばならないのか」という歌である。
0700 かくしてやなほや罷らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て
(如此為而哉 猶八将退 不近 道之間乎 煩参来而)
「かくしてや」は「結局」という意味。「罷(まか)らむ」は「引き返す」という、「なづみ」は「難儀」という意味である。
「近くもない道を難儀しながらやってきたのに、結局すごすごと引き返さねばならないのか」という歌である。
頭注に「河内百枝娘子(かふちにももえをとめ)が大伴家持に贈った歌二首」とある。
0701 はつはつに人を相見ていかにあらむいづれの日にかまた外に見む
(波都波都尓 人乎相見而 何将有 何日二箇 又外二将見)
「はつはつに」は「ちらりと」という意味。「いかにあらむ」だが、各書とも何の解説も施していない。「どうしたのでしょう」という意味だろうか。それとも「どんな方なんでしょう」という意味だろうか。はっきりしない。ここでは「恋に落ちたのでしょうか」と解しておきたい。
「ちらりとお見かけしただけの人なのに気にかかる、恋に落ちたのでしょうか。いつかまたお見かけすることがありましょうか」という歌である。
0701 はつはつに人を相見ていかにあらむいづれの日にかまた外に見む
(波都波都尓 人乎相見而 何将有 何日二箇 又外二将見)
「はつはつに」は「ちらりと」という意味。「いかにあらむ」だが、各書とも何の解説も施していない。「どうしたのでしょう」という意味だろうか。それとも「どんな方なんでしょう」という意味だろうか。はっきりしない。ここでは「恋に落ちたのでしょうか」と解しておきたい。
「ちらりとお見かけしただけの人なのに気にかかる、恋に落ちたのでしょうか。いつかまたお見かけすることがありましょうか」という歌である。
0702 ぬばたまのその夜の月夜今日までに我れは忘れず間なくし思へば
(夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者)
「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。この歌を単独歌としてとらえようとすると「その夜の月夜」が不明確。前歌と併せてとらえれば、「ちらりと見かけたその日の月夜」を指していること明瞭である。「間なくし」は強意のし。
「(ちらりと見かけた)その夜の月夜が今日まで忘れられず、いつも頭から離れず思い続けています」という歌である。
(夜干玉之 其夜乃月夜 至于今日 吾者不忘 無間苦思念者)
「ぬばたまの」はおなじみの枕詞。この歌を単独歌としてとらえようとすると「その夜の月夜」が不明確。前歌と併せてとらえれば、「ちらりと見かけたその日の月夜」を指していること明瞭である。「間なくし」は強意のし。
「(ちらりと見かけた)その夜の月夜が今日まで忘れられず、いつも頭から離れず思い続けています」という歌である。
頭注に「巫部麻蘇娘子(かむなぎべのまそをとめ)の歌二首」とある。
0703 我が背子を相見しその日今日までに我が衣手は干る時もなし
(吾背子乎 相見之其日 至于今日 吾衣手者 乾時毛奈志)
本歌は「我が背子」と詠っているので、恋人である。平明歌。
「あなたとお逢いした日以来今日までずっと忘れられず、涙で着物の袖が乾く間がありません」という歌である。
0703 我が背子を相見しその日今日までに我が衣手は干る時もなし
(吾背子乎 相見之其日 至于今日 吾衣手者 乾時毛奈志)
本歌は「我が背子」と詠っているので、恋人である。平明歌。
「あなたとお逢いした日以来今日までずっと忘れられず、涙で着物の袖が乾く間がありません」という歌である。
0704 栲縄の長き命を欲りしくは絶えずて人を見まく欲りこそ
(栲縄之 永命乎 欲苦波 不絶而人乎 欲見社)
「栲縄(たくなは)」の栲(たく)は「カジノキなどの繊維で織った布」(広辞苑)のことで、栲縄はその繊維で作った縄のことである。
「栲縄(たくなは)のように長く生きていたいと思うのはいつまでもあの方を見ていたいからです」という歌である。
(栲縄之 永命乎 欲苦波 不絶而人乎 欲見社)
「栲縄(たくなは)」の栲(たく)は「カジノキなどの繊維で織った布」(広辞苑)のことで、栲縄はその繊維で作った縄のことである。
「栲縄(たくなは)のように長く生きていたいと思うのはいつまでもあの方を見ていたいからです」という歌である。
頭注に「大伴宿祢家持が童女(をとめ)に贈った歌」とある。
0705 はねかづら今する妹を夢に見て心のうちに恋ひわたるかも
(葉根蘰 今為妹乎 夢見而 情内二 戀<渡>鴨)
「はねかづら」は髪にさす飾りだが、具体的にはどんなかづらか分らない。はねを鳥の羽のこととすれば羽根飾り状の髪飾りということになるが・・・。平明歌。
「はねかづらを今付けた女の子を夢に見て心の内に恋続けています」という歌である。
0705 はねかづら今する妹を夢に見て心のうちに恋ひわたるかも
(葉根蘰 今為妹乎 夢見而 情内二 戀<渡>鴨)
「はねかづら」は髪にさす飾りだが、具体的にはどんなかづらか分らない。はねを鳥の羽のこととすれば羽根飾り状の髪飾りということになるが・・・。平明歌。
「はねかづらを今付けた女の子を夢に見て心の内に恋続けています」という歌である。
頭注に「童女(をとめ)が応えた歌」とある。
0706 はねかづら今する妹はなかりしをいづれの妹ぞここだ恋ひたる
(葉根蘰 今為妹者 無四呼 何妹其 幾許戀多類)
「はねかづら」は前歌参照。結句の「ここだ(幾許)は、「しきりに」という意味。
「はねかづらを付けた子なんていませんわ。どこのどの子に一生懸命に恋していらっしゃるのかしらね」という歌である。
0706 はねかづら今する妹はなかりしをいづれの妹ぞここだ恋ひたる
(葉根蘰 今為妹者 無四呼 何妹其 幾許戀多類)
「はねかづら」は前歌参照。結句の「ここだ(幾許)は、「しきりに」という意味。
「はねかづらを付けた子なんていませんわ。どこのどの子に一生懸命に恋していらっしゃるのかしらね」という歌である。
頭注に「粟田女娘子(あはたのをとめ)が大伴家持に贈った歌二首」とあり、細注に「この歌は片垸の中に記されていた」とある。
0707 思ひ遣るすべの知らねば片垸の底にぞ我れは恋ひ成りにける
(思遣 為便乃不知者 片垸之 底曽吾者 戀成尓家類)
「思ひ遣(や)る」は「思いを遣る」、つまり「思いを取り払う」という意味である。「片垸(かたもひ)」は片方だけの器、つまり蓋のない器のこと。飲料用。「片思い」に懸ける。
「思いを取り払う術を知らない私、器の底に沈んで片思いのまま恋しています」という歌である。
0707 思ひ遣るすべの知らねば片垸の底にぞ我れは恋ひ成りにける
(思遣 為便乃不知者 片垸之 底曽吾者 戀成尓家類)
「思ひ遣(や)る」は「思いを遣る」、つまり「思いを取り払う」という意味である。「片垸(かたもひ)」は片方だけの器、つまり蓋のない器のこと。飲料用。「片思い」に懸ける。
「思いを取り払う術を知らない私、器の底に沈んで片思いのまま恋しています」という歌である。
0708 またも逢はむよしもあらぬか白栲の我が衣手に斉ひ留めむ
(復毛将相 因毛有奴可 白細之 我衣手二 齊留目六)
「またも逢はむよしも」の「よし」は原文に「因」とあるように機会のこと。「白栲」の栲(たく)は「カジノキなどの繊維で織った布」(広辞苑)のこと。結句の「斉(いは)ひ留めむ」は「祀りとどめよう」という意味である。
「再会する機会がないものだろうか。今度こそ真っ白な着物の袖にあなたを祀りとどめよう」という歌である。
(復毛将相 因毛有奴可 白細之 我衣手二 齊留目六)
「またも逢はむよしも」の「よし」は原文に「因」とあるように機会のこと。「白栲」の栲(たく)は「カジノキなどの繊維で織った布」(広辞苑)のこと。結句の「斉(いは)ひ留めむ」は「祀りとどめよう」という意味である。
「再会する機会がないものだろうか。今度こそ真っ白な着物の袖にあなたを祀りとどめよう」という歌である。
頭注に「豊前國の娘子(おとめ)大宅女(おほやめ)の歌」とあり、細注に「未だ姓氏不明」とある。豊前國は福岡県東部から大分県北西部にかけての国。
0709 夕闇は道たづたづし月待ちて行ませ我が背子その間にも見む
(夕闇者 路多豆多頭四 待月而 行吾背子 其間尓母将見)
「たづたづし」は「おぼつかない」という意味。
「夕闇の道はおぼつかないでしょう。月の出を待ってからお帰り下さい。それまでお相手になりましょう」という歌である。
0709 夕闇は道たづたづし月待ちて行ませ我が背子その間にも見む
(夕闇者 路多豆多頭四 待月而 行吾背子 其間尓母将見)
「たづたづし」は「おぼつかない」という意味。
「夕闇の道はおぼつかないでしょう。月の出を待ってからお帰り下さい。それまでお相手になりましょう」という歌である。
頭注に「安都扉娘子(あとのとびらをとめ)の歌」とある。
0710 み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる
(三空去 月之光二 直一目 相三師人<之> 夢西所見)
読解を要さない素朴な平明歌。
「月明かりの下でひと目見かけただけの方なのに夢に出てきます」という歌である。
(2013年8月30日記、2017年11月26日)
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0710 み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる
(三空去 月之光二 直一目 相三師人<之> 夢西所見)
読解を要さない素朴な平明歌。
「月明かりの下でひと目見かけただけの方なのに夢に出てきます」という歌である。
(2013年8月30日記、2017年11月26日)