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万葉集読解・・・121(1780~1795番歌)

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     万葉集読解・・・121(1780~1795番歌)
1780番 長歌
1781  海つ路の和ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
      (海津路乃 名木名六時毛 渡七六 加九多都波二 船出可為八)
 1780番長歌の題詞に「鹿嶋郡(かしまこほり)の苅野橋(かるのはし)で大伴卿(おほとものまへつきみ)と別れる際の長短歌」とある。鹿島郡は現在茨城県鹿嶋市。苅野橋は不詳だが、鹿島神宮からそんなに遠くない海に通じる橋のひとつか?大伴卿は大伴旅人のこととする説があるが、知られる限り鹿島と大伴旅人を結びつけるものが見あたらず、?であろう。
 本歌は1780番長歌の内容を知らなくとも単独歌として歌意は通じる。が、1780番長歌に詠われた鹿島の人たちの大伴卿との別れを嘆く様子は尋常ではない。「浜にひしめきあって転げ回り泣き叫ぶことでしょう」という表現は単なる修辞とは思われず、大伴卿が人々に強く慕われていたことを推測させる。つまり、大伴卿なる人物は鹿島に国守として長らく赴任していたらしいことがうかがわれるのである。
 さて本歌だが、「渡らなむ」は「お渡りになって下さい」という意味である。「海路が穏やかになってから船出なさって下さい。こんなに波だっているときに船出なさらなくとも」という歌である。
 左注に「この長短歌は高橋連蟲麻呂の歌集に登載されている」とある。

1782  雪こそば春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
      (雪己曽波 春日消良米 心佐閇 消失多列夜 言母不徃来)
 題詞に「妻に与えた歌」とある。このままでは誰の歌か分からない。が、次歌とその左注によって柿本人麿の歌らしいことがうかがわれる。
 「雪こそば」の「こそ」は強調の「こそ」なので意味的には「雪ば」だけを考えればよい。「雪ならば」ないし「雪でさえ」といった意味。「消ゆらめ」は「消えもしようが」。「雪ならば春日に消えもしようが、そなたは心まで消え失せたのか何の便りも寄越さないね」という歌である。

1783  松返りしひてあれやは三栗の中上り来ず麻呂といふ奴
      (松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子)
 妻が応えた一首。
 第4句「中上不来」を「佐々木本」は「中ゆ上り来ぬ」と訓じている。問題は「上り来ぬ」。誤りとは言えないが、この「ぬ」は完了の「ぬ」と取られかねない。少なくとも紛らわしい。この「佐々木本」に右ならへしたのか各書とも「来ぬ」と訓じている。むろん歌意は「都にやってきた」ではなく「やって来ない」という意味である。原文にも「不来」とある。で、私は意味をはっきりさせるためにも原文どおり「上り来ず」と訓ずることにした。
 さて、「松返りしひてあれやは」であるが、意味不明。「岩波大系本」は「しひてあれやは」を頭注の中で「感覚を喪失したわけではなかろうに」という意味に解している。「松返り」はもう一例4014番歌に「松反りしひにてあれかも~」とある。「岩波大系本」や「伊藤本」は枕詞としている。が、枕詞(?)としておきたい。「中上(なかのぼ)り」は国守として地方に赴任した官人が、着任後、しばらくしてから都にご機嫌窺いに帰京する風習があったというからそのことを言っているに相違ない。「三栗の」は「三栗でもちゃんと中があるのに」という意味か?。「都から離れて長くなるせいか、都をお忘れになったのかしらね。三栗でもちゃんと中があるのに中上りもしないままですものね、麻呂って人は」という歌である。
 本歌の左注に「右二首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている」とある。この左注により、二首は柿本人麿夫妻のやりとりと解されている。が、人麻呂の歌集には様々な作者の歌が入っており、かつ、麻呂は「男は」というほどの意味に過ぎないので柿本人麿夫妻作と断定するのはいかがなものか。第一、人麿作とはっきりしているなら、前歌の題詞になぜ「柿本朝臣人麻呂妻に与えし歌」と記さなかったのであろう。

1784  海若のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
      (海若之 何神乎 齊祈者歟 徃方毛来方毛  船之早兼)
 入唐使に贈った歌。
 海若(わたつみ)は海神とも和多都美とも表記されるが、海のこと。「行くさも来さも」は原文「徃方毛来方毛」の方が分かりやすいかもしれない。「往路も帰路も」である。「船の早けむ」は「平穏に早く船が進むだろうか」である。「海のどの神様にお祈りしたら往路も帰路も平穏に早く船が進むでしょうか」という歌である。
 左注に「渡海年未詳」とある。

1785番 長歌  
1786   み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる我れを懸けて偲はせ
      (三越道之 雪零山乎 将越日者 留有吾乎 懸而小竹葉背)
 1785番長歌の題詞に「神亀五年戊辰年(728年)秋八月の長短歌」とある。
 夫が任地に赴くに際し、都に残る妻の心情を詠った歌。「み越道(こしぢ)」は「山越えの道」のこと。「雪の降る山越えの道を進んで山越えをされる日は後に残った私のことを気にかけて下さいませ」という歌である。

1787番 長歌  
1788  布留山ゆ直に見わたす都にぞ寝も寝ず恋ふる遠くあらなくに
      (振山従 直見渡 京二曽 寐不宿戀流 遠不有尓)
 1787番長歌の題詞に「天平元年己巳年(729年)冬十二月の長短歌」とある。
 布留山(ふるやま)は奈良県天理市に鎮座する石上神宮(いそのかみじんぐう)の東方の山。石上神宮から北方の平城京まで20キロほど。「布留山から直接見渡すことができる平城京、そこにいる妻が寝るに寝られないほど恋しい。さほど遠い地ではないけれど」という歌である。

1789  我妹子が結ひてし紐を解かめやも絶えば絶ゆとも直に逢ふまでに
      (吾妹兒之 結手師紐乎 将解八方 絶者絶十方 直二相左右二)
 妻が結んでくれた着物の紐を解くのは不吉とされた。それを踏まえた歌。「絶えば絶ゆとも」は「切れてしまうことがあっても」。「妻が結んでくれた着物の紐をどうして解くものか。たとえ切れることがあろうとも、直接妻に逢うまでは」という歌である。
 左注に「右の件(くだり)の五首笠朝臣金村の歌集に登載されている」とある。

1790番 長歌
1791  旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
      (客人之 宿将為野尓 霜降者 吾子羽L 天乃鶴群)
 1790番長歌の題詞に「天平五年癸酉年(733年)遣唐使の舶が難波を発って海に出る時、遣唐使の母親が我が子に贈った長短歌」とある。
 当時は海路であっても仮寝をするときは、島なり陸なりに上がって取るのが通例だった。「羽(は)ぐくめ」は「羽で覆ってね」。「旅人たる我が子が陸に上がって仮寝せんとする野に霜が降りたら我が子を羽で覆ってね、空翔る鶴たちよ」という歌である。

1792番 長歌
1793  垣ほなす人の横言繁みかも逢はぬ日数多く月の経ぬらむ
      (垣保成 人之横辞 繁香裳 不遭日數多 月乃經良武)
 1792番長歌の題詞に「娘子(をとめ)のことを思って作った長短歌」とある。
 「垣ほなす」は「垣根のように私を取り巻いて」、「人の横言(よこごと)繁(しげ)みかも」は「世間の口がうるさく激しくて」という意味である。「垣根のように私を取り巻く世間の口がうるさく激しくて、逢おうにも逢えない日が続き、とうとう月替わりとなってしまった」という歌である。

1794  たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影にして
      (立易 月重而 難不遇 核不所忘 面影思天)
 「たち変り」は「月が変わり」の意。「さね」は「決して」とか「少しも」という意味。「月が変わり、月も重なって逢えないままだけれども、決して彼女のことが忘れられない。いつまでも面影が見える」という歌である。
 左注に「右三首は田邊福麻呂の歌集に登載されている」とある。
 1766番歌から続いた相聞歌29首は本歌で終了である。

1795  妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ
      (妹等許 今木乃嶺 茂立 嬬待木者 古人見祁牟)
 本歌から巻9の終了歌(1795~1811番歌)の17首は挽歌。
 題詞に「宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)の宮所(みやところ)での歌」とある。宇治若郎子は十五代応神天皇の皇子。
 「妹らがり」は「彼女のもとに」という意味である。「今木(いまき)の嶺」は不詳。「嬬(つま)松の木は」は松に「待つ」の意を持たせた言い方。分からないのが結句の「古人(ふるひと)見けむ」である。「古人も見た有名な松」ということだろうか。が、本歌はどこが挽歌なのだろう。挽歌のトップに掲げられているにしてははっきりしない。
 宇治若郎子は応神天皇の太子だったが、義兄(後の仁徳天皇)と天皇位を譲り合い、義兄を天皇位につけるため自殺したとされる。そうだとすれば、本歌は自殺を直前に控えた若郎子の歌かも知れない。古人とはかって妻だった女性で、今は亡き人という意味なのではあるまいか。「君のもとへ今やってきたよ。かって君は夫(つま)を待っていたんだよね。(まもなく私も)君のもとへ行くからね」という歌である。私は挽歌のトップ歌としてこう解しておきたい。
           (2014年11月22日記)
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