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前々回に続いて万葉集の話題。
二二が四、二三が六、・・・。これは言わずとしれた九九算である。こうした算数系統の好きだった私は小学生の時、いち早く覚え、覚えたての九九算を喜んで繰り返し、忘れないように努めた。この九九算はいつ頃始まったのだろう。私はぼんやりと新制教育制度が始まった終戦後だと思っていた。かりに遡っても明治政府が誕生してからだろう、と思い、今日まで大して疑いもしなかった。
ところが、万葉集の原文と訓読みとを読み比べていて、はっとした。926番長歌の中に「朝狩に 獣(しし)踏み起し」(原文「朝猟尓 十六履起之」という箇所がある。前から気付いてはいたのだが、十六を「しし」と読むのは九九算である。初見で「しし」という訓を見たとき、思わず笑ってしまった。「獣(しし)踏み起し」は「獲物を追い立てる」という意味である。
だが、九九算で読むのは全部で少なくとも10例に達する。たとえば「獣(しし)じもの」(原文「十六自物」)(379番長歌)で、「獣じみた」という意味である。もう一例掲げると「憎くあらなくに」(原文「二八十一不在國」)(2542番歌)で、「憎くもないのに」という意味である。後者の場合は「二」を「に」とよみ、「八十一」を「くく」と読んでいる。
こうした例が10例に及んでいるのだが、例示を挙げるのがここの趣旨ではない。実に明治はおろか江戸時代、戦国時代、さらには平安時代さえ遡って奈良時代に九九算が使われていた事実である。それが万葉歌にあるというのは、「十六」と記せば「しし」と読み、「八十一」と記せば「くく」と読むという認識が人々の間にあったことを示している。つまり、読者に向けた万葉集にあるということは広く一般化していたことを示している。いかがだろう。原文に九九算が表記されている事実は、奈良時代と現代がぐっと近づいた気がするではありませんか。
(2018年2月13日)
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前々回に続いて万葉集の話題。
二二が四、二三が六、・・・。これは言わずとしれた九九算である。こうした算数系統の好きだった私は小学生の時、いち早く覚え、覚えたての九九算を喜んで繰り返し、忘れないように努めた。この九九算はいつ頃始まったのだろう。私はぼんやりと新制教育制度が始まった終戦後だと思っていた。かりに遡っても明治政府が誕生してからだろう、と思い、今日まで大して疑いもしなかった。
ところが、万葉集の原文と訓読みとを読み比べていて、はっとした。926番長歌の中に「朝狩に 獣(しし)踏み起し」(原文「朝猟尓 十六履起之」という箇所がある。前から気付いてはいたのだが、十六を「しし」と読むのは九九算である。初見で「しし」という訓を見たとき、思わず笑ってしまった。「獣(しし)踏み起し」は「獲物を追い立てる」という意味である。
だが、九九算で読むのは全部で少なくとも10例に達する。たとえば「獣(しし)じもの」(原文「十六自物」)(379番長歌)で、「獣じみた」という意味である。もう一例掲げると「憎くあらなくに」(原文「二八十一不在國」)(2542番歌)で、「憎くもないのに」という意味である。後者の場合は「二」を「に」とよみ、「八十一」を「くく」と読んでいる。
こうした例が10例に及んでいるのだが、例示を挙げるのがここの趣旨ではない。実に明治はおろか江戸時代、戦国時代、さらには平安時代さえ遡って奈良時代に九九算が使われていた事実である。それが万葉歌にあるというのは、「十六」と記せば「しし」と読み、「八十一」と記せば「くく」と読むという認識が人々の間にあったことを示している。つまり、読者に向けた万葉集にあるということは広く一般化していたことを示している。いかがだろう。原文に九九算が表記されている事実は、奈良時代と現代がぐっと近づいた気がするではありませんか。
(2018年2月13日)