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万葉集読解・・・66ー1(928~ 941番歌)

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     万葉集読解・・・66ー1(928~ 941番歌)
 頭注に「冬十月、四十五代聖武天皇が大阪の難波宮に行幸された際、笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)が作った歌と短歌」とある。920番歌には「神龜二年乙丑(725年)夏五月、吉野の離宮に行幸された際、金村が歌と短歌を作った」とあったが、こちらは冬十月とある。
0928番 長歌
   おしてる 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に 続麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の男は 廬りして 都成したり 旅にはあれども
   (忍照 難波乃國者 葦垣乃 古郷跡 人皆之 念息而 都礼母無 有之間尓 續麻成 長柄之宮尓 真木柱 太高敷而 食國乎 治賜者 奥鳥 味經乃原尓 物部乃 八十伴雄者 廬為而 都成有 旅者安礼十方)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「おしてる」、「続麻(うみを)なす」、「もののふの」は枕詞。「葦垣(あしかき)の」と「沖つ鳥」は枕詞(?)。「長柄(ながら)の宮」は大阪城付近にあったことが有力視される.。三十六代孝徳天皇の皇居。「味経(あぢふ)の原」は大阪市天王寺区味原町付近とされる。

 (口語訳)
  難波の国はアシの垣根に囲まれた古びた里だと、世の人は皆思い忘れて、気にもとめない所となってきた。が、大君はこの地に、真木の柱で、太くがっしりした長柄の宮をお建てになった。そしてこの宮から天下をお治めになられた。そこで、宮の前の味経(あぢふ)の原にもろもろの大宮人は仮りの住まいを作って都が形成された。旅先のような具合に。

 反歌二首
0929   荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ
      (荒野等丹 里者雖有 大王之 敷座時者 京師跡成宿)
 「荒野らに里はあれども」は「(難波宮)は確かに荒野であるけれど」という意味である。「敷きます時」は「お治めになる時」。
 「(難波宮)は確かに荒野であるけれども、大君がいらっしゃってお治めになるので、都の体をなしている」という歌である。

0930   海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ
      (海末通女 棚無小舟 榜出良之 客乃屋取尓 梶音所聞)
 「棚なし小舟」は272番歌に出てきたように、島などの海岸近くをこぎ回る小さな舟。旅情をそそる詩情豊かな歌である。
 「海人娘女(あまをとめ)たちがさかんに小舟を漕ぎ出しているらしい。われわれ行幸一同が浜辺で宿(野宿)をとっていると、ここまで楫(ろ)の音が聞こえてくる」という歌である。

 頭注に「車持朝臣千年(くるまもちのあそみちとせ)が作った歌と短歌」とある。
0931番 長歌
   鯨魚取り 浜辺を清み うち靡き 生ふる玉藻に 朝なぎに 千重波寄せ 夕なぎに 五百重波寄す 辺つ波の いやしくしくに 月に異に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻れる 住吉の浜
   (鯨魚取 濱邊乎清三 打靡 生玉藻尓 朝名寸二 千重浪縁 夕菜寸二 五百重<波>因 邊津浪之 益敷布尓 月二異二 日日雖見 今耳二 秋足目八方 四良名美乃 五十開廻有 住吉能濱)

  「鯨魚(いさな)取り」は枕詞。「しくしくに」は「しきりに」ないし「重ね重ね」という意味。「住吉の浜」は大阪市住吉区の浜。

 (口語訳)
  浜辺が清らかなので、靡きながら生えている藻草に、朝の凪ぎ時に千重の波が寄せて来る。また夕なぎ時には五百重(いおえ)の波が寄せて来る。海岸に寄せてくる波はしきりにやってきて月ごとに、また日々に見るけれど、今の今見ればよいということがあろうか。飽きることがあろうか。白波が咲き誇るこの住吉の浜。

 反歌一首
0932   白波の千重に来寄する住吉の岸の黄土ににほひて行かな
      (白浪之 千重来縁流 住吉能 岸乃黄土粉 二寶比天由香名)
 原文に「岸乃黄土粉」とあるように、黄土(はにふ)は黄色い粘土のこと。住吉の岸は非常に美しい埴生(粘土)に彩られていたようである。「にほひて行かな」は「着物を黄土粉で染めていきたいものだ」という意味である。
 「千重に押し寄せてくる白波の美しい住吉の岸の黄土(はにふ)。ここで着物を黄土粉で染めていきたいものだ」という歌である。

 頭注に「山部宿祢赤人が作った歌と短歌」とある。赤人は伝未詳なるも自然を詠った代表的万葉歌人。
0933番 長歌
   天地の 遠きがごとく 日月の 長きがごとく おしてる 難波の宮に 我ご大君 国知らすらし 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 沖つ海石に 鰒玉 さはに潜き出 舟並めて 仕へ奉るし 貴し見れば
   (天地之 遠我如 日月之 長我如 臨照 難波乃宮尓 和期大王 國所知良之 御食都國 日之御調等 淡路乃 野嶋之海子乃 海底 奥津伊久利二 鰒珠 左盤尓潜出 船並而 仕奉之 貴見礼者)

  「御食(みけ)つ国」は「大君に水産物等を奉る国」、淡路島もその一国とされていた。「日の御調(みつき)」は「天皇への貢ぎ物」のこと。

 (口語訳)
  天地が限りなく広がっているように、また日月が長久であるように、難波の宮のわれらが大君はずっと国々をお治めになっていらっしゃる。その大君に食料を奉る国が貢ぎ物を献上しようと、淡路島の野島の海人たちが海底の岩礁に潜ってアワビを数多く取り出そうと、舟を並べているのを見ると貴い。

 反歌一首
0934   朝なぎに梶の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし
      (朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信)
 「御食(みけ)つ国」は前長歌参照。930番歌同様、旅情をそそる詩情豊かな歌である。
 「静かな朝の海(朝なぎ)に舟を漕ぐ梶の音が聞こえる。大君に水産物等を奉る国、野島の海人が操る舟であろうか」という歌である。

 頭注に「三年丙寅秋九月十五日、四十五代聖武天皇が播磨國印南野に行幸された際、笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)が作った歌と短歌」とある。三年は神亀三年(726年)。播磨國印南野(はりまのくにいなみの)は兵庫県明石市付近。
0935番 長歌
   名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ
   (名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松<帆>乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管 暮菜寸二 藻塩焼乍 海末通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者 大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三)

  名寸隅(なきすみ)は兵庫県明石市魚住町付近。「舟瀬ゆ」は「~から」のゆ。舟瀬は船着き場。「松帆の浦」は淡路島北端付近。「たもとほり」は「逡巡とするばかり」という意味。

 (口語訳)
  名寸隅(なきすみ)の船着き場から見える、淡路島の松帆の浦。朝凪ぎ時には藻を刈り取り、夕凪ぎ時には藻草を焼いて塩を取りだすべく、海人の娘女が働いているのが見えると聞いている。見に行ってみたいが、その手だてがない。男らしい心もない。か弱い女さながらに行こうか行くまいか、と逡巡とするばかり。ただ自分は娘女たちを想像するばかり。舟も梶もなく。

 反歌二首
0936   玉藻刈る海人娘子ども見に行かむ舟梶もがも波高くとも
      (玉藻苅 海未通女等 見尓将去 船梶毛欲得 浪高友)
 「舟梶もがも」は「舟と舟を操る梶があればなあ」という意味。
 「藻を刈りとっている海人娘子(あまをとめ)たちを是非見に行きたいものだ。舟と舟を操る梶さえあれば波が高くとも是非」という歌である。

0937   行き廻り見とも飽かめや名寸隅の舟瀬の浜にしきる白波
      (徃廻 雖見将飽八 名寸隅乃 船瀬之濱尓 四寸流思良名美)
 「行き廻(めぐ)り」は「行きつ戻りつして」という意味。名寸隅(なきすみ)は明石の浜の西端近辺のことであるという。「しきる白波」は「しきりに打ち寄せる白波」のことである。
 「行きつ戻りつして見てても飽きることがない。名寸隅(なきすみ)の船着き場に押し寄せる白波はいつまで見ていても見飽きることがないほど美しい」という歌である。

  頭注に「山部宿祢赤人が作った歌と短歌」とある。赤人は代表的万葉歌人。
0938番 長歌
   やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の 邑美の原の 荒栲の 藤井の浦に 鮪釣ると 海人舟騒き 塩焼くと 人ぞさはにある 浦をよみ うべも釣りはす 浜をよみ うべも塩焼く あり通ひ 見さくもしるし 清き白浜
   (八隅知之 吾大王乃 神随 高所知流 稲見野能 大海乃原笶 荒妙 藤井乃浦尓 鮪釣等 海人船散動 塩焼等 人曽左波尓有 浦乎吉美 宇倍毛釣者為 濱乎吉美 諾毛塩焼 蟻徃来 御覧母知師 清白濱)

  「やすみしし」と「荒栲(あらたへ)の」は枕詞。印南野(いなみの)は兵庫県明石市付近。邑美(おふみ)の原は明石市大久保町付近。前歌の名寸隅(なきすみ)の東南。藤井の浦は明石市海岸寄りの藤江付近。

 (口語訳)
  われらが大君が神ながら支配される印南野の邑美(おふみ)の原は藤井の浦にマグロを釣ろうと漁師の舟がひしめき合う。塩を焼き出そうと浜に多くの人々が集まっている。良い浦なので釣り舟が集まるのももっとも。良い浜なので塩焼きに人が集まるのももっとも。こんな具合だから大君がたびたび通い、ご覧になるというものだ。何という清らかな白浜だろう。

 反歌三首
0939   沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける
      (奥浪 邊波安美 射去為登 藤江乃浦尓 船曽動流)
 「沖つ波辺波(へなみ)」は「沖の波も海岸の波も」という意味。「静けみ」は「~ので」のみ。
 「沖も海岸も波静か。漁をするには絶好の藤江の浦。なので舟が集まってきてひしめき合っている」という歌である。

0940   印南野の浅茅押しなべさ寝る夜の日長くしあれば家し偲はゆ
      (不欲見野乃 淺茅押靡 左宿夜之 氣長<在>者 家之小篠生)
 当時の旅寝は野宿が一般的。「浅茅」は「浜辺に生えている丈の低い茅(かや)」のこと。
 「印南野の浅茅を押し倒して寝る夜が幾日も重なり、自分の家のことがしのばれる」という歌である。

0941   明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば
      (明方 潮干乃道乎 従明日者 下咲異六 家近附者)
 明石潟は明石川河口の干潟。第四句の「下笑(したゑ)ましけむ」は面白い表現。「下」つまり「心の内」のことである。
 「潮がひいた明石潟の道を、明日からは家路に就き、家に近づくのでひとりでに明るい気持ちになる」という歌である。
             (2018年2月15日記)
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