万葉集読解・・・68-1(962~972番歌)
頭注に「天平二年(730年)、勅(みことのり)して擢駿馬使(てきしゅんめし)大伴道足(おほとものみちたり)を遣わした時の歌」とある。擢駿馬使は駿馬を選ぶために派遣される勅使。どこへ派遣されたのか不記載のため不明。
0962 奥山の岩に苔生し畏くも問ひたまふかも思ひあへなくに
(奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國)
「奥山の岩に苔生(こけむ)し畏(かしこ)くも」は具体的な地名が入っていないことからうかがえるように、「古びた」を意味するだけの序歌。「古びた感覚しか持ち合わせのない無粋な私め」というほどの意味。
「奥山の岩に苔むしたような私めに仰せになるのですか、気の利いた歌など思いあぐねるばかりです」という歌である。
左注に「右は、勅使大伴道足宿祢を帥の家(太宰府長官大伴旅人宅)にて饗応した。此の日参集した一同から驛使(はゆまづかひ)葛井連廣成(ふぢゐのむらじひろなり)に作歌を要請。その要請に応えて作った歌」とある。驛使は早馬を乗り継いで派遣される急使。
頭注に「天平二年(730年)、勅(みことのり)して擢駿馬使(てきしゅんめし)大伴道足(おほとものみちたり)を遣わした時の歌」とある。擢駿馬使は駿馬を選ぶために派遣される勅使。どこへ派遣されたのか不記載のため不明。
0962 奥山の岩に苔生し畏くも問ひたまふかも思ひあへなくに
(奥山之 磐尓蘿生 恐毛 問賜鴨 念不堪國)
「奥山の岩に苔生(こけむ)し畏(かしこ)くも」は具体的な地名が入っていないことからうかがえるように、「古びた」を意味するだけの序歌。「古びた感覚しか持ち合わせのない無粋な私め」というほどの意味。
「奥山の岩に苔むしたような私めに仰せになるのですか、気の利いた歌など思いあぐねるばかりです」という歌である。
左注に「右は、勅使大伴道足宿祢を帥の家(太宰府長官大伴旅人宅)にて饗応した。此の日参集した一同から驛使(はゆまづかひ)葛井連廣成(ふぢゐのむらじひろなり)に作歌を要請。その要請に応えて作った歌」とある。驛使は早馬を乗り継いで派遣される急使。
頭注に「冬十一月、大伴坂上郎女(さかのうへのいらつめ)は帥の家を発って上京の途につく。その途中筑前國宗形郡の名兒山を越えるとき作った歌」とある。筑前國は福岡県北西部の国。名兒山は福岡県福津市津屋崎にある山地。
ここで何故坂上郎女が太宰府にいたのかを簡単に説明しておこう。この時の太宰府長官はいうまでもなく大伴旅人。実は旅人は先年妻の大伴郎女(おほとものいらつめ)を亡くしている。その際、坂上郎女は京から太宰府に下ってきて旅人宅に入り、旅人の息子家持らの養育にあたったとされている。旅人は、天平二年(730年)冬十一月、太宰府の任を解かれ、大納言として京に戻ることになった。その一足先に坂上郎女が帰京することになり、その時の歌が本歌だという次第である。
0963番 長歌
大汝 少彦名の 神こそば 名付けそめけめ 名のみを 名児山と負ひて 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに
(大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具<佐>米七國)
ここで何故坂上郎女が太宰府にいたのかを簡単に説明しておこう。この時の太宰府長官はいうまでもなく大伴旅人。実は旅人は先年妻の大伴郎女(おほとものいらつめ)を亡くしている。その際、坂上郎女は京から太宰府に下ってきて旅人宅に入り、旅人の息子家持らの養育にあたったとされている。旅人は、天平二年(730年)冬十一月、太宰府の任を解かれ、大納言として京に戻ることになった。その一足先に坂上郎女が帰京することになり、その時の歌が本歌だという次第である。
0963番 長歌
大汝 少彦名の 神こそば 名付けそめけめ 名のみを 名児山と負ひて 我が恋の 千重の一重も 慰めなくに
(大汝 小彦名能 神社者 名著始鷄目 名耳乎 名兒山跡負而 吾戀之 干重之一重裳 奈具<佐>米七國)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「大汝(おほなむち)と少彦名(すくなびこな)の神」だが、大汝は大国主命(おほくにぬしのみこと)のことで、波に乗ってやってきた小さな少彦名の神と共に国造りを行ったという、神話上の神様。
(口語訳)
大国主命と少彦名の神が名付けたという、名児山(なごやま)。でも、その名児山のように心はなごまず、私の恋の苦しみを千に一つも慰めてくれない。
大国主命と少彦名の神が名付けたという、名児山(なごやま)。でも、その名児山のように心はなごまず、私の恋の苦しみを千に一つも慰めてくれない。
頭注に「同じく、大伴坂上郎女、海路上京の際浜の貝を見て作る歌」とある。
0964 我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝
(吾背子尓 戀者苦 暇有者 拾而将去 戀忘貝)
「我が背子(せこ)に」の「背子」は夫や恋人など親しい男性を呼ぶ時に使用される用語。まれに男性でも親しい友に向かって呼びかける時にも使用される。現代風にいえば「あなた」である。
「あなたのことを恋しく思えば思うほど苦しい。もしも浜に立ち寄る暇があったら恋忘貝を拾っていきたい」という歌である。
0964 我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝
(吾背子尓 戀者苦 暇有者 拾而将去 戀忘貝)
「我が背子(せこ)に」の「背子」は夫や恋人など親しい男性を呼ぶ時に使用される用語。まれに男性でも親しい友に向かって呼びかける時にも使用される。現代風にいえば「あなた」である。
「あなたのことを恋しく思えば思うほど苦しい。もしも浜に立ち寄る暇があったら恋忘貝を拾っていきたい」という歌である。
頭注に「冬十二月、大伴旅人が上京する時、娘子(をとめ)が作った歌二首」とある。坂上郎女が上京した翌月に旅人は上京したことになる。
0965 凡ならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍びてあるかも
(凡有者 左毛右毛将為乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞)
「凡(おほ)ならば」は「普通なら」という意味。「畏(かしこ)みと」は「恐れ多い」ということ、大納言旅人への畏敬の念がこめられていることが分かる。
「普通の方ならああもしてこうもして袖を振りたいのですが恐れ多くて我慢しています」という歌である。
0965 凡ならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍びてあるかも
(凡有者 左毛右毛将為乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞)
「凡(おほ)ならば」は「普通なら」という意味。「畏(かしこ)みと」は「恐れ多い」ということ、大納言旅人への畏敬の念がこめられていることが分かる。
「普通の方ならああもしてこうもして袖を振りたいのですが恐れ多くて我慢しています」という歌である。
0966 大和道は雲隠りたりしかれども我が振る袖を無礼と思ふな
(倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈)
読解不要の平明歌。
「あなた様は雲の向こうの遙か彼方の大和に向かって消えていかれました。けれどもこらえ切れずに袖を振ってしまいましたが、無礼だと思わないでくださいませ」という歌である。
左注に「旅人は大納言を兼任し、京に向かう。馬を水城(みづき)(太宰府の周囲に築かれていた水を湛えた砦)に駐め、太宰府庁舎を望む。すると、見送る官人の中に混じって児島という遊行女婦(うかれめ)がいた。この娘子(をとめ)は別れるのは簡単、逢うのは難しいと嘆き、涙をぬぐって袖を振った。右はこの時の歌」とある。
(倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈)
読解不要の平明歌。
「あなた様は雲の向こうの遙か彼方の大和に向かって消えていかれました。けれどもこらえ切れずに袖を振ってしまいましたが、無礼だと思わないでくださいませ」という歌である。
左注に「旅人は大納言を兼任し、京に向かう。馬を水城(みづき)(太宰府の周囲に築かれていた水を湛えた砦)に駐め、太宰府庁舎を望む。すると、見送る官人の中に混じって児島という遊行女婦(うかれめ)がいた。この娘子(をとめ)は別れるのは簡単、逢うのは難しいと嘆き、涙をぬぐって袖を振った。右はこの時の歌」とある。
頭注に「大納言大伴卿が応えた歌二首」とある。
0967 大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも
(日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞)
「吉備の児島」 は岡山県岡山市南区の、かって島だった島。
「大和に向かう旅路の途中で吉備の児島を通過していくことだろうが、きっと筑紫の児島のことを思い浮かべるだろうな」という歌である。
0967 大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも
(日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞)
「吉備の児島」 は岡山県岡山市南区の、かって島だった島。
「大和に向かう旅路の途中で吉備の児島を通過していくことだろうが、きっと筑紫の児島のことを思い浮かべるだろうな」という歌である。
0968 ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ
(大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣将拭)
「ますらを」は「男らしい男」という意味だが、「思へる我れや」とあるので反語表現。「自分はますらをだとでも思っているのか」という意味である。問題は「水茎(みづくき)の水城(みづき)」。水城は外敵から防護するために設けられた水辺の土塁のこと。
では「水茎の」とは何か。「岩波大系本」も「伊藤本」も「水城にかかる枕詞」としている。ウッソーである。「水茎の」は本歌のほかに4例ある。1231,2193,2208、3068番歌の4例だ。そしてこの4例はすべて「水城」ではなく、「岡」が続いている。もし枕詞というのであれば、「岡にかかる枕詞」としなければなるまい。ところが、4例はすべて直接岡にかかっていない。「岡の~」とあって、「~」に続いている。たとえば2208番歌は「雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり」と詠われていて、「水茎の岡の葛葉は」と葛葉を修飾する形になっている。そして各例とも「水茎の」を「みずみずしい」という意に解釈すればぴったり意味が通るのである。翻って、本歌の場合も「みずみずしい堤防に」と解して少しも不自然ではない。
「私はますらをなんかであるものか。みずみずしい土手の上で涙を拭っている」という歌である。
(大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣将拭)
「ますらを」は「男らしい男」という意味だが、「思へる我れや」とあるので反語表現。「自分はますらをだとでも思っているのか」という意味である。問題は「水茎(みづくき)の水城(みづき)」。水城は外敵から防護するために設けられた水辺の土塁のこと。
では「水茎の」とは何か。「岩波大系本」も「伊藤本」も「水城にかかる枕詞」としている。ウッソーである。「水茎の」は本歌のほかに4例ある。1231,2193,2208、3068番歌の4例だ。そしてこの4例はすべて「水城」ではなく、「岡」が続いている。もし枕詞というのであれば、「岡にかかる枕詞」としなければなるまい。ところが、4例はすべて直接岡にかかっていない。「岡の~」とあって、「~」に続いている。たとえば2208番歌は「雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり」と詠われていて、「水茎の岡の葛葉は」と葛葉を修飾する形になっている。そして各例とも「水茎の」を「みずみずしい」という意に解釈すればぴったり意味が通るのである。翻って、本歌の場合も「みずみずしい堤防に」と解して少しも不自然ではない。
「私はますらをなんかであるものか。みずみずしい土手の上で涙を拭っている」という歌である。
頭注に「天平三年(731年)、旅人が奈良の家にあって故郷を思って詠った歌二首」とある。ここにいう故郷は奈良ではなく、旅人の生まれ故郷、明日香の地である。
0969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
(須臾 去而見<壮>鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武)
「しましく」は17例に及ぶ使用例があり、「しばらくの間」を意味する。一例だけ紹介しておくと、2046番歌に「秋風に川波立ちぬしましくは八十の舟津にみ舟留めよ」とある。「神なびの淵は」は「古色然としていた淵は」という意味。
「短期間だけでもいいから行って見てみたいものだ。あの古色然としていた淵は浅くなってしまって、今では川の瀬に変わっていることだろうか」という歌である。
0969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
(須臾 去而見<壮>鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武)
「しましく」は17例に及ぶ使用例があり、「しばらくの間」を意味する。一例だけ紹介しておくと、2046番歌に「秋風に川波立ちぬしましくは八十の舟津にみ舟留めよ」とある。「神なびの淵は」は「古色然としていた淵は」という意味。
「短期間だけでもいいから行って見てみたいものだ。あの古色然としていた淵は浅くなってしまって、今では川の瀬に変わっていることだろうか」という歌である。
0970 指進の栗栖の小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ
(指進乃 粟栖乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六)
「指進(さしずみ)の栗栖(くるす)」の栗栖は小地名と解されている。が、指進(さしずみ)の方ははっきりせず、「岩波大系本」には「未詳。古来難解難訓」とある。
歌には「栗栖の小野の」とあって、「行きて手向けむ」と詠われており、具体的な杜(もり)を指していることは間違いない。とすれば、原文に「指進乃粟栖乃」とある、その指進(さしずみ)は地名である可能性が極めて高い。おそらく旅人が生まれ育った明日香の家があった地名に相違ない。地名はいくらでも段階的読みが行われる。「東京、豊島の巣鴨のとげぬき地蔵」などという言い方は全く普通に行われる。指進(さしずみ)も栗栖(くるす)もいずれも明日香村内の小地名に相違ない。なので特定は難しいだろうが、歌の読解としては一向に差し支えない。
「指進(さしずみ)の栗栖(くるす)の小野に咲く萩の花。その花が散る頃には出かけていって、神社にお供えをしよう」という歌である。
(指進乃 粟栖乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六)
「指進(さしずみ)の栗栖(くるす)」の栗栖は小地名と解されている。が、指進(さしずみ)の方ははっきりせず、「岩波大系本」には「未詳。古来難解難訓」とある。
歌には「栗栖の小野の」とあって、「行きて手向けむ」と詠われており、具体的な杜(もり)を指していることは間違いない。とすれば、原文に「指進乃粟栖乃」とある、その指進(さしずみ)は地名である可能性が極めて高い。おそらく旅人が生まれ育った明日香の家があった地名に相違ない。地名はいくらでも段階的読みが行われる。「東京、豊島の巣鴨のとげぬき地蔵」などという言い方は全く普通に行われる。指進(さしずみ)も栗栖(くるす)もいずれも明日香村内の小地名に相違ない。なので特定は難しいだろうが、歌の読解としては一向に差し支えない。
「指進(さしずみ)の栗栖(くるす)の小野に咲く萩の花。その花が散る頃には出かけていって、神社にお供えをしよう」という歌である。
頭注に「天平四年(732年)藤原宇合卿(うまかひのまえつきみ)が西海道節度使に任ぜられ、派遣される時、高橋連蟲麻呂(たかはしのむらじむしまろ)が作った歌と短歌」とある。宇合といえば後期難波京を整備した人物で、その時の歌が312番歌にある。藤原不比等の三男、藤原四家の一(式家)の祖。節度使は監察官で、筑紫に派遣された。作者の蟲麻呂は宇合の部下。
0971番 長歌
白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 岡辺の道に 丹つつじの にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参ゐ出む 君が来まさば
(白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行<公>者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬<木>成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 公之来益者)
0971番 長歌
白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 岡辺の道に 丹つつじの にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参ゐ出む 君が来まさば
(白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行<公>者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬<木>成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 公之来益者)
「白雲の」は16例に及ぶが「龍田の山」にかかるのは3例で、すべて長歌。大部分の13例は普通名詞。枕詞(?)。「龍田山」は奈良県生駒郡の山の一つ。「い行きさくみ」は「踏み分けて」という意味。「山のそき野のそき」は「山の果て野の果て」という意味である。「班(くた)ち遣はし」は「分けて遣わす」こと。「たにぐくの」は「ヒキガエルの」ということ。800番長歌にも「たにぐくのさ渡る極み」と、本歌と同じ句があって、「すみずみまで」という意味である。「山たづ」はニワトコ。スイカズラ科の落葉樹。
(口語訳)
白雲たなびく龍田の山が露霜どきに色づく時、山を越えて旅ゆくご主君。度重なる山々を踏み分けて外敵から国の防備にあたる筑紫に到着されるでしょう。そして部下たちに、山の果て野の果てまで検分せよとあちこちに分担してお遣わしになる。山のこだまが届く限り、ヒキガエルが渡るすみずみまで検分なさり、冬が過ぎて、春になったなら、空飛ぶ鳥のように、いち早くお帰り下さい。龍田の山の周辺が紅いツツジで染まり、桜の花が咲き誇る。私はニワトコ生える頃には出迎えに参りましょう。主君がお帰りになる際は。
白雲たなびく龍田の山が露霜どきに色づく時、山を越えて旅ゆくご主君。度重なる山々を踏み分けて外敵から国の防備にあたる筑紫に到着されるでしょう。そして部下たちに、山の果て野の果てまで検分せよとあちこちに分担してお遣わしになる。山のこだまが届く限り、ヒキガエルが渡るすみずみまで検分なさり、冬が過ぎて、春になったなら、空飛ぶ鳥のように、いち早くお帰り下さい。龍田の山の周辺が紅いツツジで染まり、桜の花が咲き誇る。私はニワトコ生える頃には出迎えに参りましょう。主君がお帰りになる際は。
反歌一首
0972 千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき士とぞ思ふ
(千萬乃 軍奈利友 言擧不為 取而可来 男常曽念)
「言挙げ(ことあげ)」は「言い立てる」という意味。
(2018年2月25日記)
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0972 千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき士とぞ思ふ
(千萬乃 軍奈利友 言擧不為 取而可来 男常曽念)
「言挙げ(ことあげ)」は「言い立てる」という意味。
「とたえ千万の軍勢であっても、四の五の言わず、退治してくる勇者ぞ、わがご主君は」という歌である。
左注に「官職文(任命書)によると、宇合卿は八月十七日付けで、東山、山陰、西海の節度使に任命された」とある。(2018年2月25日記)