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万葉集読解・・・122(1796~1811番歌)


     万葉集読解・・・122(1796~1811番歌)
1796  黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし磯を見れば悲しも
      (黄葉之 過去子等 携 遊礒麻 見者悲裳)
 題詞に「紀伊國(きいのくに)で作った歌四首」とある。紀伊国はいうまでもなく、和歌山県から三重県南部にまたがる国。
 「黄葉(もみちば)の過ぎにし」は「黄葉が散るように亡くなってしまった」という意味である。「携(たづさ)はり」は「手に手を取り合って」。「黄葉が散るように亡くなってしまった彼女たちと手に手を取り合って遊んだ、その磯を見ると悲しい」という歌である。

1797  潮気立つ荒磯にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し
      (塩氣立 荒礒丹者雖在 徃水之 過去妹之 方見等曽来)
 「過ぎにし」が「亡くなる」という意味だと分かれば平明な歌。「潮けむりが立つ荒磯なのだが、流れゆく水のように亡くなってしまった彼女の形見の場所だと思ってやってきた」という歌である。

1798  いにしへに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟を見れば寂しも
      (古家丹 妹等吾見 黒玉之 久漏牛方乎 見佐府下)
 「ぬばたまの」はお馴染みの枕詞。1672番歌にも詠われていたが、黒牛潟(くろうしがた)は和歌山県海南市の潟。「その昔、彼女と一緒に眺めた黒牛潟、今私一人で見ていると寂しくてたまらない」という歌である。

1799  玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひて行かな妹も触れけむ
      (玉津嶋 礒之裏未之 真名子仁文 尓保比去名 妹觸險)
 玉津島は和歌山市和歌浦湾に浮かんでいたとされる島の一つ。和歌浦港の東方に旧村社の玉津島神社が鎮座している。918番歌、1215番歌等にも詠われているように、当時絶好の景勝地だったようである。「浦廻(うらみ)の」の廻(み)はこれまでもたびたび出てきたように、「~辺り」という意味である。「にほひて」もたびたび出てきたように「染まる」という意味である。「玉津島の磯の浦辺の白砂に染まって行こう、亡くなった彼女も浴びただろうその白砂に」という歌である。
 左注に「右の五首は柿本朝臣人麻呂の歌集に登載されている」とある。

1800番 長歌  
 題詞に「足柄の坂を過ぎる際、行き倒れの死者を見て作った歌」とある。短歌なし。
1801番 長歌  
1802  古への信太壮士の妻問ひし菟原娘子の奥城ぞこれ
      (古乃 小竹田丁子乃 妻問石 菟會處女乃 奥城叙此)
 1801番長歌の題詞に「葦屋(あしのや)の處女(をとめ)の墓を過ぎる際作った長短歌」とある。長歌の概要を記しておくと「その昔葦屋の菟原(うなひ)郡に素晴らしい乙女がいて、わが妻にしようと男たちが求婚した。その伝説にちなんで彼女の塚(墓)が作られた」というのである。葦屋は兵庫県芦屋市。
 「信太壮士(しのだをとこ)」とは和泉の国信太(大阪府和泉市)の男の意味で、後出の1810番長歌や1811番歌には茅渟壮士(ちぬをとこ)と表記している。本歌の作者自身を重ね合わせているようだ。信太壮士は葦屋の菟原娘子にとってはよその国の男。いくら求婚されても受け入れるわけにはいかない。「奥城(おくつき)」は墓所。「その昔、私のように遠くからやってきた信太壮士が求婚した菟原娘子。その乙女が眠る墓所なんだな、ここは」という歌である。

1803  語り継ぐからにもここだ恋しきを直目に見けむ古へ壮士
      (語継 可良仁文幾許 戀布矣 直目尓見兼 古丁子)
 「語り継ぐからにも」は「語り継ぐだけでも」、「ここだ恋しきを」は「こんなに恋しいのに」という意味である。「直(ただ)目に見けむ」は「直接目にした」の意。「こうして語り継ぐだけでもどんな女性だったろうと逢いたくなるのに。直接目にした古への男たちはどれほど恋いこがれたことだろう」という歌である。

1804番 長歌  
1805  別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて我れ恋ひめやも [一云 心尽して]
      (別而裳 復毛可遭 所念者 心乱 吾戀目八方 [一云 意盡而])
 1804番長歌の題詞に「弟の死去を悲しんで作った長短歌」とある。
 特に読解を要する部分はなかろう。「別れても、いつか再会出来ると思えるのなら、こんなに心取り乱して忍ぶことはあるまいに」という歌である。異伝は「心乱れて」の部分が「心尽して」となっている。「一心に」という意味である。

1806  あしひきの荒山中に送り置きて帰らふ見れば心苦しも
      (蘆桧木笶 荒山中尓 送置而 還良布見者 情苦喪)
 「あしひきの」はおなじみの枕詞。本歌も前歌同様平明歌。「荒涼とした山中に野辺送りを済ませ、人々が次々に帰っていくのをみていると心苦しい」という歌である。
 左注に「右の七首は田邊福麻呂の歌集に登載されている」とある。

1807番 長歌  
1808  勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
      (勝壮鹿之 真間之井見者 立平之 水把家武 手兒名之所念)
 1807番長歌の題詞に「勝鹿真間娘子(かつしかのままのをとめ)を詠った長短歌」とある。「勝鹿」は千葉、埼玉、東京にまたがる一帯。下総国(しもうさのくに)。真間は市川市内。勝鹿の真間は432番歌や433番歌にも詠われている。
 「立ち平(なら)し」は意味不明。おそらく「立ち並んで」という意味。「勝鹿の真間の井戸にやってきて、立ち並んで水を汲んでいる女性たちを見ていると、かってここにいた真間娘子が忍ばれる」という歌である。

1809番 長歌  
1810  芦屋の菟原娘子の奥城を徃き来と見れば哭のみし泣かゆ
      (葦屋之 宇奈比處女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣)
 1809番長歌の題詞に「菟原娘子(うなひをとめ)の墓を見て詠んだ長短歌」とある。
 1802番歌にも詠われていたように、菟原娘子は兵庫県芦屋市の菟原(うなひ)郡にいたという伝説の乙女。1809番長歌に伝説の詳細が詠われている。その概要を紹介すると次のとおりである。
 「菟原娘子がまだ少女だった頃、家に引きこもりっきりだった。どんな子だろうと男たちがわんさとやってきて求婚したが、少女は頑として聞き入れなかった。色々争う中で、最後まで激しく争ったのが隣国の茅渟(ちぬ)男(信太男)と地元の菟原男だった。二人のあまりの激しい争いに少女は「私のような者のために立派な二人の男が争うのは見るに忍びません」と両親に告げて死んでしまった。それを知った茅渟男はすぐさま乙女の後を追って死んでしまった。すると、遅れてなるものかと菟原男も二人の後を追って死んでしまった」
 こんな伝説が伝わっているために、乙女を傷み、地元外からやってきた本歌の作者は茅渟男にこと寄せて一連の歌を詠んだに相違ない。
 さて、本歌だが、「徃(ゆ)き来(く)と」は「往くとて来るとて」の縮まった言い方で、「往きも帰りも通るたびに」という意味である。「哭(ね)のみし」は「あまりに悲しくて」の意。「芦屋の菟原娘子の墓を往きも帰りも通るたびに見るが、あまりに切なく悲しくて泣けてきてしまう」という歌である。

1811  墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
      (墓上之 木枝靡有 如聞 陳努壮士尓之 依家良信母)
 1809番長歌を踏まえた上での本歌である。「木の枝靡けり」はいうまでもなく「隣国の芦屋の方向に靡いている」という意味である。「乙女の墓の上の木の枝はなびいて伝説のとおり茅渟男の国の方に寄っている」という歌である。つまりここ一連の歌は作者自身を茅渟男すなわち他国の男として重ね合わせている。
 左注に「右の五首は高橋連蟲麻呂の歌集に登載されている」とある。
 以上で巻9は完了である。やっとたどりついたというべきか、それともまあまあ歩み続けているというべきか。むろん全体の半分にも到達していない、こんな所でほっとしているわけにはいかない。次回から巻10である。
             (2014年11月24日記)
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