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万葉集読解・・・71(1005~1018番歌)


     万葉集読解・・・71(1005~1018番歌)
 頭注に「八年丙子年夏六月、吉野の離宮に幸(いでま)す時に山部宿祢赤人(やまべのすくねあかひと)が詔(みことのり)に応えて作った歌と短歌」とある。八年は天平八年(736年)。行幸は四十五代聖武天皇。赤人は伝未詳なるも自然を詠った代表的万葉歌人。
1005番 長歌
   やすみしし 我が大君の 見したまふ 吉野の宮は 山高み 雲ぞたなびく 川早み 瀬の音ぞ清き 神さびて 見れば貴く よろしなへ 見ればさやけし この山の 尽きばのみこそ この川の 絶えばのみこそ ももしきの 大宮所 やむ時もあらめ
   (八隅知之 我大王之 見給 芳野宮者 山高 雲曽軽引 河速弥 湍之聲曽清寸 神佐備而 見者貴久 宜名倍 見者清之 此山<乃> 盡者耳社 此河乃 絶者耳社 百師紀能 大宮所 止時裳有目)

  長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「やすみしし」と「ももしきの」は枕詞。「 山高み」と「川早み」は「~ので」のみ。「よろしなへ」は「美しく」。

 (口語訳)
   我が大君が支配なさっている吉野の宮は、山高く雲がたなびいている。川の流れは速く、川瀬の音は清らかで神々しい。見れば見るほど貴く美しい。見るからに清らかな吉野の山が無くなることがあろうか。この川の流れが途絶えることがあろうか。この大宮所がなくなることがあろうか。

 反歌一首
1006  神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ
      (自神代 芳野宮尓 蟻通 高所知者 山河乎吉三)
 「あり通ひ」は「通い続ける」という意味。結句の「山川をよみ」は「山川を好(よ)み」とした方が分かりやすい。「よみ」は「~ので」のみ。
 「神代の昔から大君が幾代にも亘ってここ吉野の宮に通い続け、高々とお治めになるのは山や川が尊くすがすがしいからである」という歌である。

 頭注に「市原王(いちはらのおほきみ)が、一人っ子の身であることを悲しんで作った歌」とある。市原王は三十八代天智天皇の曾孫安貴王の子。
1007  言問はぬ木すら妹と兄とありといふをただ独り子にあるが苦しさ
      (言不問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子尓 有之苦者)
 「言問はぬ」は「物言わぬ」ということ。他は読解不要の平明歌。
 「物言わぬ木ですら妹や兄があるというのにこの私は一人っ子。辛く苦しい」という歌である。

 頭注に「忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)がなかなかやってこない友を恨みに思っての歌」とある。
1008  山の端にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜はくたちつつ
      (山之葉尓 不知世經月乃 将出香常 我待君之 夜者更降管)
 結句の「夜はくたちつつ」は980番歌「雨隠り御笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は更けにつつ」の「夜は更けにつつ」と同意である。
 「山の端に今か今かと待っている月の出のように友を待っているのになかなか来ない。もう夜は更けてきたのに」という歌である。

 頭注に「冬十一月、左大辨葛城王(かつらきのおほきみ)等に橘氏(たちばなのうぢ)を賜った際、お作りになった御製歌」とある。左大辨(さだいべん)は左弁官局という役所の長官。
1009  橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木
      (橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之<樹>)
 橘は「食用柑橘類の総称」(広辞苑)。「常葉(とこは)の木」は「常緑の樹」。
 「橘という樹木は樹そのものは言うに及ばず、実も花もその葉さえ、枝に霜が降っても枯れることのない常緑の樹であることよ」という歌である。
 左注に、概要次のようにある。
 「天平八年(736年)冬十一月、葛城王(かつらきのおほきみ)や佐為王(さゐのおほきみ)等から皇族の高名を辞退したいとの願いを受けた。なので橘氏を賜った。時に太上天皇(四十四代元正天皇)と皇后(光明皇后)がそれを祝って宴会を催された。本歌は、この時太上天皇が作られた歌。別に四十五代聖武天皇と皇后(光明皇后)の歌もあったが、探し出すことが出来ない」

 頭注に「橘宿祢奈良麻呂(たちばなのすくねならまろ)が詔(みことのり)に応えて詠った歌」とある。四十五代聖武天皇の詔。
1010  奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地に落ちめやも
      (奥山之 真木葉凌 零雪乃 零者雖益 地尓落目八方)
 「真木(まき)」は立派な木々という意味。たとえば241番歌に「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも」と使用されている。「しのぎ」は「押さえつけて」という意味。結句の「落ちめやも」は反語で「落ちることがありましょうか」という意味である。結句の「地に落ちめやも」の主語は前歌を承けての歌なので「橘の実や葉」である。
 「奥山の立派な木々の葉を押さえつけて雪は降っていますが、その雪がもっと多く降ろうとも、橘の実や葉が落下することなどありましょうか」という歌である。

  頭注に「冬十二月十二日、歌舞所の諸王(おほきみ)等が集葛井連廣成(ふぢゐのむらじひろなり)の家に集まって宴会を催した際の歌二首」とある。冬十二月十二日は天平八年(736年)。以下、大略こうある。「近年、古舞踊が盛んになっている。その古情に思いを致し古歌を唄おうではないかと意気投合した」と・・・。
1011  我がやどの梅咲きたりと告げ遣らば来と言ふに似たり散りぬともよし
      (我屋戸之 梅咲有跡 告遣者 来云似有 散去十方吉)
 「我がやどの」は「我が庭の」という意味。「告げ遣らば」は「お知らせすれば」ということ。
 「私の家の庭に梅が咲いたとお知らせすれば、お越し下さいと言っているようなもんですね。散ってもどうってことありませんのにね」という歌である。

1012  春さればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ
      (春去者 乎呼理尓乎呼里 鴬<之 鳴>吾嶋曽 不息通為)
 「春されば」は「春になれば」という意味。「ををりにををり」は「梅の小枝がたわむばかりに」ということ。「我が山斎(しま)ぞ」は「私の家にぜひ」という意味である。
 「春になると小枝がたわむばかりに梅が咲き、ウグイスがやってきて鳴きます。いつでもぜひ我が家にお越し下さい」という歌である。

 頭注に「天平九年(737年)春正月、橘少卿(たちばなのをとまへつきみ)を始め諸(もろもろ)の大夫等(まへつきみたち)が門部王(かどへのおほきみ)の家に集まって宴会を催した際の歌二首」とある。橘少卿は諸兄の弟佐為王(さゐのおほきみ)のこと。兄の卿(まえつきみ)に対し、少卿と言われた。
1013  あらかじめ君来まさむと知らませば門にやどにも玉敷かましを
      (豫 公来座武跡 知麻世婆 門尓屋戸尓毛 珠敷益乎)
 読解不要の平明歌。
 「前もっていらっしゃると分かっていれば、門にも庭にも玉を敷き詰めておくんでしたのに・・・」という歌である。
 左注に「右は主人、門部王(かどべのおほきみ)」とあり、細注に「後に大原真人の氏を賜る」とある。

1014  一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも
      (前日毛 昨日毛<今>日毛 雖見 明日左倍見巻 欲寸君香聞)
 「見つれども」は「お目にかかりましたが」ということである。
 「一昨日、昨日、そして今日もお目にかかりましたが、明日もまたお目にかかりたいと思うあなた様です」という歌である。
 左注に「橘少卿の子の橘宿祢文成(たちばなのすくねあやなり)作」とある。橘少卿は前歌頭注参照。

 頭注に「榎井王(えのゐのおほきみ)が後日追和した歌とあり、細注に「志貴親王の子なり」とある。三十八代天智天皇の孫に当たる。
1015  玉敷きて待たましよりはたけそかに来る今夜し楽しく思ほゆ
      (玉敷而 待益欲利者 多鷄蘇香仁 来有今夜四 樂所念)
 「たけそかに」は語義未詳だが、「だしぬけに」ないし「ひそかに」と解されている。相手を驚かせようという意味だろうからどちらの解もありそうである。
 「玉を敷いて今か今かとお待ちするより、不意にお訪ね下さった今夜の方が楽しく思われますね」という歌である。

 頭注に「春二月、大夫等が左少辨巨勢宿奈麻呂朝臣(こせのすくなまろのあそみ)の家に集まって宴を開いた時の歌」とある。 春二月は天平九年(737年)。左少弁は太政官に直属する左弁官の下位官。
1016  海原の遠き渡りを風流士の遊ぶを見むとなづさひぞ来し
      (海原之 遠渡乎 遊士之 遊乎将見登 莫津左比曽来之)
 「風流士(みやびを)の」は「風流人の皆様の」ということ。「なづさひぞ来し」は「苦労して来ました」という意味。
 「遙か遠くから大海を渡って風流人の皆様の遊ぶ様子を見に苦労してやってきました」という歌である。
 左注に「この歌は白紙に書かれていて、壁に架かっていた。その歌題には「蓬莱山の仙姫(やまひめ)を表わす嚢縵(ふくろかづら)を風流人の為にかけておく。が、凡人には見えないかも」と記されていた」とある。
 嚢縵(ふくろかづら)は女性が頭につける髪飾りのことかと思われる。要するに「仙人の住む蓬莱山から娘の仙姫がはるばるやってきてこの歌を作りました」という趣旨の注である。この左注により本歌の「海原の遠き渡りを」は、「はるばる理想郷の蓬莱山からやってきました」という意味であることが分かる。宴会出席者の誰かのいたづら心がなせる歌だが、少々洒落ている。

 頭注に「夏四月、大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が京都の賀茂神社を参拝して、逢坂山(あふさかやま)を越えて近江の海を見渡して日暮れに帰宅して作った歌」とある。夏四月は天平九年(737年)。逢坂山は大津市と京都市の境の山。近江の海は琵琶湖のことである。
1017  木綿畳手向けの山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ我れ
      (木綿疊 手向乃山乎 今日<越>而 何野邊尓 廬将為<吾>等)
 「木綿畳(ゆふたたみ)」は「中西本」によると「木綿を重ね合わせたもの。手に持って神に供える。」とある。結句の「廬(いほ)りせむ我れ」は「寝泊まりしようかしら」という意味である。
 「木綿畳を携えて手向けの山(逢坂山)を越えて行ったらいずれの野辺で寝泊まりすることになるのかしら」という歌である。

 頭注に「天平十年(738年)戊寅年、元興寺(ぐわんごうじ)の僧が自ら嘆いて作った歌」とある。元興寺は飛鳥にあった飛鳥寺を奈良の平城京に遷した寺。坂上郎女もこの地を訪れ、歌作している(992番歌)。
1018  白珠は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし
      (白珠者 人尓不所知 不知友縦 雖不知 吾之知有者 不知友任意)
 本歌は五七七五七七で詠われる旋頭歌である。
 白珠(しらたま)は真珠のこととされているが、ここでは「真の価値」という意味で比喩的に使われている。「人に知らえず知らずともよし」は「世間に知られず知らずともよい」という意味である。「我れし」は「この自分が」という意味で、矜持を表している。
 「白玉は世間に知られず知らずともよい。知られなくとも、この私が知っていれば、世間が知らずともよいではないか」という歌である。
 左注に「一説に、元興寺の僧、独り修行を積み、深い悟りに達したが、世間に侮られて嘆き、才を示すために本歌を作った」とある。
           (2014年3月13日記、2018年3月11日記)
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