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万葉集読解・・・123(1812~1826番歌)
1812 ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも
(久方之 天芳山 此夕 霞霏霺 春立下)
巻10の開始。区分は春雜歌。1812~1889番歌までの78首。
「ひさかたの」は枕詞。「天の香具山」は、持統天皇の御製歌としてあまりにも有名な28番歌「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」に詠われている聖山。耳成山、畝傍山と並んで大和三山と呼ばれる山のひとつ。「この夕べ、天の香具山に霞がたなびいている。春がやってきたようだ」という歌である。
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万葉集読解・・・123(1812~1826番歌)
1812 ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも
(久方之 天芳山 此夕 霞霏霺 春立下)
巻10の開始。区分は春雜歌。1812~1889番歌までの78首。
「ひさかたの」は枕詞。「天の香具山」は、持統天皇の御製歌としてあまりにも有名な28番歌「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」に詠われている聖山。耳成山、畝傍山と並んで大和三山と呼ばれる山のひとつ。「この夕べ、天の香具山に霞がたなびいている。春がやってきたようだ」という歌である。
1813 巻向の桧原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも
(巻向之 桧原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方)
奈良県桜井線天理駅から南方の桜井駅の途中に巻向駅がある。その東方に巻向(まきむく)山が聳える。山の北方にほぼ東西に巻向川(古名穴師川)が桜井市内を流れている。本歌はその一帯が舞台。「おほにし」は「大雑把」とか「軽々しく」といった意味。「なづみ来めやも」は「難渋しながらやって来るだろうか」という意味である。「巻向の檜林に春霞がおぼろに立ちこめている。軽々しい気持ちで難渋しつつここまでやって来るでしょうか」という歌である。
(巻向之 桧原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方)
奈良県桜井線天理駅から南方の桜井駅の途中に巻向駅がある。その東方に巻向(まきむく)山が聳える。山の北方にほぼ東西に巻向川(古名穴師川)が桜井市内を流れている。本歌はその一帯が舞台。「おほにし」は「大雑把」とか「軽々しく」といった意味。「なづみ来めやも」は「難渋しながらやって来るだろうか」という意味である。「巻向の檜林に春霞がおぼろに立ちこめている。軽々しい気持ちで難渋しつつここまでやって来るでしょうか」という歌である。
1814 いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし
(古 人之殖兼 杉枝 霞霏霺 春者来良之)
このままでお分かりだろう。「その昔、人々が植えたであろう杉林の枝に霞がたなびいている。この山中にも春がやってきているのだな」という歌である。
(古 人之殖兼 杉枝 霞霏霺 春者来良之)
このままでお分かりだろう。「その昔、人々が植えたであろう杉林の枝に霞がたなびいている。この山中にも春がやってきているのだな」という歌である。
1815 子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
(子等我手乎 巻向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏霺 )
「子らが手を巻向山に」とは「乙女らが腕に巻く腕輪というのではないが、その巻向山に」ということで、山名にかけた言い方。「しのぎて」は「押し伏せて」という意味だが、ここでは「覆い尽くす」という意味。「乙女らが手に巻く巻向山に春がやってきた。木々の葉群れを覆い尽くすように霞がたなびいている」という歌である。
(子等我手乎 巻向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏霺 )
「子らが手を巻向山に」とは「乙女らが腕に巻く腕輪というのではないが、その巻向山に」ということで、山名にかけた言い方。「しのぎて」は「押し伏せて」という意味だが、ここでは「覆い尽くす」という意味。「乙女らが手に巻く巻向山に春がやってきた。木々の葉群れを覆い尽くすように霞がたなびいている」という歌である。
1816 玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく
(玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏霺 )
「玉かぎる」と「さつ人(ひと)の」の二つとも「岩波大系本」も「伊藤本」も枕詞としているが、どうか?。前歌の「子らが手を」ともども、枕詞は何なのかと考えさせられる絶好例といってよかろう。「子らが手を」は既述したので、先ず「玉かぎる」。「玉」はいうまでもなく美称。「かぎる」は「かぎろひ」で春の陽炎。つまり単純に「夕」にかかる枕詞ではない。陽炎の立つ「春の夕」のことを詠っているのである。万葉歌を代表する素晴らしい一首48番歌に「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」と詠われている「かぎろひ」である。また、「さつ人の」は「猟人(さつひと)の」であって、弓を導いている。巻くを導いた「子らが手を」と同様である。弓月が岳は巻向山の最高峰。「陽炎がゆらめく夕方がやってきた。狩人にちなむ弓月が岳に霞がたなびいている」という歌である。
(玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏霺 )
「玉かぎる」と「さつ人(ひと)の」の二つとも「岩波大系本」も「伊藤本」も枕詞としているが、どうか?。前歌の「子らが手を」ともども、枕詞は何なのかと考えさせられる絶好例といってよかろう。「子らが手を」は既述したので、先ず「玉かぎる」。「玉」はいうまでもなく美称。「かぎる」は「かぎろひ」で春の陽炎。つまり単純に「夕」にかかる枕詞ではない。陽炎の立つ「春の夕」のことを詠っているのである。万葉歌を代表する素晴らしい一首48番歌に「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」と詠われている「かぎろひ」である。また、「さつ人の」は「猟人(さつひと)の」であって、弓を導いている。巻くを導いた「子らが手を」と同様である。弓月が岳は巻向山の最高峰。「陽炎がゆらめく夕方がやってきた。狩人にちなむ弓月が岳に霞がたなびいている」という歌である。
1817 今朝行きて明日は来なむと云ふ鹿に(筆者訓)朝妻山に霞たなびく
(今朝去而 明日者来牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏霺)
本歌は古来難訓とされている。問題は第三句「云子鹿丹」である。各書ともすべて「子」を女性とし、上三句はすべて朝妻山の序歌としている。つまり「言ひし子が」と訓じ、歌意は「朝妻山に霞たなびく」だけの歌と解している。どこか奇妙である。こういう時は全万葉集歌に当たって検証してみる必要がある。驚いたことに「子が」を「子鹿」と表記している歌は一首も存在しない。大部分は、446番歌や2518番歌の「吾妹子之」(わぎもこが)、あるいは545番歌や2224番歌の「吾背子之」(わがせこが)のように「~が」は「~之」と表記されている。中には639番歌の「吾背子我」のように「~我」と表記されているものもあるが数は多くない。つまり、「~子が」はほとんど「~之」ないし「~我」が原文表記なのである。換言すれば「子鹿」は絶対に「子が」とは読めない。人の子でないとしたら何か。原文どおり素直に「云ふ鹿に」ないし「云ふ子鹿に」なのである。「言ひし子が」と読みたいために「云子鹿丹」の「丹」を省くなどする必要もない。
「朝になると野に出かけていって明け方に帰ってくる鹿たちと朝妻山に霞がたなびいている」という歌である。
なお、朝妻山は奈良県御所市の山である。朝妻山を行き来する鹿を朝妻山の妻に見立てたという解釈も可能だろう。
(今朝去而 明日者来牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏霺)
本歌は古来難訓とされている。問題は第三句「云子鹿丹」である。各書ともすべて「子」を女性とし、上三句はすべて朝妻山の序歌としている。つまり「言ひし子が」と訓じ、歌意は「朝妻山に霞たなびく」だけの歌と解している。どこか奇妙である。こういう時は全万葉集歌に当たって検証してみる必要がある。驚いたことに「子が」を「子鹿」と表記している歌は一首も存在しない。大部分は、446番歌や2518番歌の「吾妹子之」(わぎもこが)、あるいは545番歌や2224番歌の「吾背子之」(わがせこが)のように「~が」は「~之」と表記されている。中には639番歌の「吾背子我」のように「~我」と表記されているものもあるが数は多くない。つまり、「~子が」はほとんど「~之」ないし「~我」が原文表記なのである。換言すれば「子鹿」は絶対に「子が」とは読めない。人の子でないとしたら何か。原文どおり素直に「云ふ鹿に」ないし「云ふ子鹿に」なのである。「言ひし子が」と読みたいために「云子鹿丹」の「丹」を省くなどする必要もない。
「朝になると野に出かけていって明け方に帰ってくる鹿たちと朝妻山に霞がたなびいている」という歌である。
なお、朝妻山は奈良県御所市の山である。朝妻山を行き来する鹿を朝妻山の妻に見立てたという解釈も可能だろう。
1818 子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖に霞たなびく
(子等名丹 關之宜 朝妻之 片山木之尓 霞多奈引)
本歌の初句「子らが名に」の「子」は鹿だろうか、はたまた人だろうか。本歌単独だけでは何とも言い難い。が、前歌と関連した歌だとすると、「子ら」は朝妻山に住む鹿たちと考えるのが自然である。「朝妻山の名に負う鹿たちが住む片山崖(背後が断崖)に霞がたなびいている」という歌である。
左注に「右は柿本朝臣人麻呂の歌集に登載されている」とある。
(子等名丹 關之宜 朝妻之 片山木之尓 霞多奈引)
本歌の初句「子らが名に」の「子」は鹿だろうか、はたまた人だろうか。本歌単独だけでは何とも言い難い。が、前歌と関連した歌だとすると、「子ら」は朝妻山に住む鹿たちと考えるのが自然である。「朝妻山の名に負う鹿たちが住む片山崖(背後が断崖)に霞がたなびいている」という歌である。
左注に「右は柿本朝臣人麻呂の歌集に登載されている」とある。
1819 うち靡く春立ちぬらし我が門の柳の末に鴬鳴きつ
(打霏 春立奴良志 吾門之 柳乃宇礼尓 鴬鳴都)
鳥を詠った歌。「うち靡く」が悩ましい。春にかかる枕詞と割り切れれば世話はないが、87番歌や3044番歌にある「うち靡く我が黒髪に」は靡く本来の意味に使われている。826番歌の「うち靡く春の柳と」も靡く本来の意味に使われている。本歌も離れてはいるが「うち靡く~柳の末(うれ)に」と見て差し支えあるまい。「春がやってきたのだろう。我が家の門に靡いている柳の梢にウグイスがとまって鳴いている」という歌である。
(打霏 春立奴良志 吾門之 柳乃宇礼尓 鴬鳴都)
鳥を詠った歌。「うち靡く」が悩ましい。春にかかる枕詞と割り切れれば世話はないが、87番歌や3044番歌にある「うち靡く我が黒髪に」は靡く本来の意味に使われている。826番歌の「うち靡く春の柳と」も靡く本来の意味に使われている。本歌も離れてはいるが「うち靡く~柳の末(うれ)に」と見て差し支えあるまい。「春がやってきたのだろう。我が家の門に靡いている柳の梢にウグイスがとまって鳴いている」という歌である。
1820 梅の花咲ける岡辺に家居れば乏しくもあらず鴬の声
(梅花 開有岳邊尓 家居者 乏毛不有 鴬之音)
「岡辺に」は「岡の麓に」、「乏しくもあらず」は「少なくない」すなわち「けっこう」という意味である。「梅の花が咲いている岡の麓に家居していると、梅にとまって鳴くウグイスの声がけっこう聞こえる」という歌である。
(梅花 開有岳邊尓 家居者 乏毛不有 鴬之音)
「岡辺に」は「岡の麓に」、「乏しくもあらず」は「少なくない」すなわち「けっこう」という意味である。「梅の花が咲いている岡の麓に家居していると、梅にとまって鳴くウグイスの声がけっこう聞こえる」という歌である。
1821 春霞流るるなへに青柳の枝くひ持ちて鴬鳴くも
(春霞 流共尓 青柳之 枝喙持而 鴬鳴毛)
「~なへに」は「~とともに」の形。「枝くひ持ちて」は原文にも「枝喙持而」とあるように、食べる意ではなく「くわえて」の意である。「春霞が流れる中、青柳の枝をくわえたままウグイスが鳴いている」という歌である。
(春霞 流共尓 青柳之 枝喙持而 鴬鳴毛)
「~なへに」は「~とともに」の形。「枝くひ持ちて」は原文にも「枝喙持而」とあるように、食べる意ではなく「くわえて」の意である。「春霞が流れる中、青柳の枝をくわえたままウグイスが鳴いている」という歌である。
1822 我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに
(吾瀬子乎 莫越山能 喚子鳥 君喚變瀬 夜之不深刀尓)
「莫越(なこし)の山」は所在不詳と解されているが、具体的な山ではなく、たんに「山越えの」という象徴的な意味かもしれない。というのも「呼子鳥」も具体的な鳥名を想定して詠われているわけではないと思われるので。カッコウドリやホトトギスを想定しているのなら「呼子鳥」などとせず、直接「カッコウドリ」、「ホトトギス」とした方が季節感も出るし、心情がリアルに伝わるからである。「山を越えて飛ぶ呼子鳥さんよ、我が背の君を呼び返してちょうだい。夜が更けないうちに」という歌だと私は思う。
(吾瀬子乎 莫越山能 喚子鳥 君喚變瀬 夜之不深刀尓)
「莫越(なこし)の山」は所在不詳と解されているが、具体的な山ではなく、たんに「山越えの」という象徴的な意味かもしれない。というのも「呼子鳥」も具体的な鳥名を想定して詠われているわけではないと思われるので。カッコウドリやホトトギスを想定しているのなら「呼子鳥」などとせず、直接「カッコウドリ」、「ホトトギス」とした方が季節感も出るし、心情がリアルに伝わるからである。「山を越えて飛ぶ呼子鳥さんよ、我が背の君を呼び返してちょうだい。夜が更けないうちに」という歌だと私は思う。
1823 朝井堤に来鳴く貌鳥汝れだにも君に恋ふれや時終へず鳴く
(朝井代尓 来鳴<杲>鳥 汝谷文 君丹戀八 時不終鳴)
井堤(ゐで)は川をせき止める堤。貌鳥(かほどり)は前歌の呼子鳥と異なって貌鳥そのものに意味があるとは思えないので、鳥の種類を指しているに相違ない。カッコウとする見方がある。「汝(な)れだにも」は「お前まで」の意。結句の「時終へず鳴く」は奇抜といおうか斬新といおうか不思議な表現である。本歌以外に全く事例がない。が、意味は分かる。「鳴き続けている」という意味である。「朝、井堤に来て鳴く貌鳥よ。あなたまであの方に恋いこがれて鳴き続けるのね」という歌である。
(朝井代尓 来鳴<杲>鳥 汝谷文 君丹戀八 時不終鳴)
井堤(ゐで)は川をせき止める堤。貌鳥(かほどり)は前歌の呼子鳥と異なって貌鳥そのものに意味があるとは思えないので、鳥の種類を指しているに相違ない。カッコウとする見方がある。「汝(な)れだにも」は「お前まで」の意。結句の「時終へず鳴く」は奇抜といおうか斬新といおうか不思議な表現である。本歌以外に全く事例がない。が、意味は分かる。「鳴き続けている」という意味である。「朝、井堤に来て鳴く貌鳥よ。あなたまであの方に恋いこがれて鳴き続けるのね」という歌である。
1824 冬こもり春さり来ればあしひきの山にも野にも鴬鳴くも
(冬隠 春去来之 足比木乃 山二文野二文 鴬鳴裳)
「冬こもり」は「岩波大系本」も「伊藤本」も枕詞としている。他方、「中西本」は「冬が包まれて消える」としている。慧眼である。枕詞について「伊藤本」は多くの場合「岩波大系本」に追随している。これに対して「中西本」は意欲的な解明を行っている。脱帽させられること少なくない。「中西本」の「冬が包まれて消える」は「冬こもり」の原文「冬隠」を見ればその妥当性は明らか。原文からすれば、「冬が包まれて消える」というより「冬が隠れる」とした方が適切かと思うが、細かいことはどうでもいい。要は「冬こもり」は「冬が去っていく」ということなのである。1336番歌で私は「冬こもり」を「冬を越して」と解している。「冬こもり」9例中たった一例分からないのが1705番歌。「冬こもり春べを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ我れぞ」について私は「冬こもり」は「冬の真っ最中」と記している。理由は「春べを恋ひて植ゑし木の」にある。「冬の真っ最中に木を植えた」と解したのである。が、「冬の真っ最中に植える」というのもどこか妙だ。なので、これも「冬を越して植えた」ということかもしれない。だとすれば「冬こもり」はすべて「冬が隠れる」でいいことになる。「冬こもり」に手間取ってしまったが、「あしひきの」はむろんお馴染みの枕詞。「冬が隠れていって春がやって来たので山にも野にも鴬が鳴いているよ」という歌である。
(冬隠 春去来之 足比木乃 山二文野二文 鴬鳴裳)
「冬こもり」は「岩波大系本」も「伊藤本」も枕詞としている。他方、「中西本」は「冬が包まれて消える」としている。慧眼である。枕詞について「伊藤本」は多くの場合「岩波大系本」に追随している。これに対して「中西本」は意欲的な解明を行っている。脱帽させられること少なくない。「中西本」の「冬が包まれて消える」は「冬こもり」の原文「冬隠」を見ればその妥当性は明らか。原文からすれば、「冬が包まれて消える」というより「冬が隠れる」とした方が適切かと思うが、細かいことはどうでもいい。要は「冬こもり」は「冬が去っていく」ということなのである。1336番歌で私は「冬こもり」を「冬を越して」と解している。「冬こもり」9例中たった一例分からないのが1705番歌。「冬こもり春べを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ我れぞ」について私は「冬こもり」は「冬の真っ最中」と記している。理由は「春べを恋ひて植ゑし木の」にある。「冬の真っ最中に木を植えた」と解したのである。が、「冬の真っ最中に植える」というのもどこか妙だ。なので、これも「冬を越して植えた」ということかもしれない。だとすれば「冬こもり」はすべて「冬が隠れる」でいいことになる。「冬こもり」に手間取ってしまったが、「あしひきの」はむろんお馴染みの枕詞。「冬が隠れていって春がやって来たので山にも野にも鴬が鳴いているよ」という歌である。
1825 紫の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも
(紫之 根延横野之 春野庭 君乎懸管 鴬名雲)
紫(むらさき)は紫草のことで、根を紫色の染料に使う。当時はあちこちでかなり大量に栽培されていたようだ。横野は大阪市生野区に鎮座する横野神社一帯の地名とするのが一般的だが、「横に広がる野」を指すという説もある。が、1392番歌や1396番歌には「紫の名高の浦の~」と詠われている。名高の浦は和歌山県海南市名高町の海岸、すなわち地名である。なので、本歌の横野も地名とするのが自然だろう。「君を懸けつつ」は「君を心に懸けつつ」、すなわち「君を思いつつ」である。「紫草の根が地を這う横野の春の野に、あの方を思ってしきりにウグイスが鳴いている」という歌である。
(紫之 根延横野之 春野庭 君乎懸管 鴬名雲)
紫(むらさき)は紫草のことで、根を紫色の染料に使う。当時はあちこちでかなり大量に栽培されていたようだ。横野は大阪市生野区に鎮座する横野神社一帯の地名とするのが一般的だが、「横に広がる野」を指すという説もある。が、1392番歌や1396番歌には「紫の名高の浦の~」と詠われている。名高の浦は和歌山県海南市名高町の海岸、すなわち地名である。なので、本歌の横野も地名とするのが自然だろう。「君を懸けつつ」は「君を心に懸けつつ」、すなわち「君を思いつつ」である。「紫草の根が地を這う横野の春の野に、あの方を思ってしきりにウグイスが鳴いている」という歌である。
1826 春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな
(春之<在>者 妻乎求等 鴬之 木末乎傳 鳴乍本名)
「もとな」は「しきりに、やたらに」。「春がやってくると、妻を求めてウグイスが梢を伝ってしきりに鳴く」という歌である。
(2014年12月1日記)
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(春之<在>者 妻乎求等 鴬之 木末乎傳 鳴乍本名)
「もとな」は「しきりに、やたらに」。「春がやってくると、妻を求めてウグイスが梢を伝ってしきりに鳴く」という歌である。
(2014年12月1日記)