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Channel: 古代史の道
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希有な一句

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 滅多にないことだが、この私にも「おう、出来た出来た」と思う瞬間がある。俳句作品の話である。
 私はこれまで、数は少ないが、折りに触れてそれなりに作句し、本欄にも紹介してきた。むろん、傑作と思う作品は滅多にない。そんな私にも「おう、出来た出来た」と思える作品がある。実は、前回紹介した次のような一句がそれである。
   気ぜわしく赤や黄色の百合を見る   (桐山芳夫)
 発表した時はさほどには思わなかったが、きょうになって、「おう、出来た出来た」と思えてきたのである。
 この作品はあらためて述べるまでもなく、千種公園の百合園を見に行ったときに出来た一句である。
 普通、花を見に行ったときの一句は、ゆったりした気分の時のことが多い。当たり前である。わざわざ花園を見に行って、せかせかと見る人はいないだろう。それをいきなり「気ぜわしく」で始めるとは!。が、それだけに反面実感がこもっている。
 そして結句。「百合を見る」は「百合を見し」としたくなる。その方が俳句らしい気がするからである。が、「見し」では過去形なので「気ぜわしく」と書き出した句勢にマッチしない。つまり臨場感が薄れてしまうのである。百合という夏の季語一つで炎天下の公園がそこはかとなく表現されている。「気ぜわしく赤や黄色の百合を見る」口ずさめば口ずさむほどいい句に思われる。
 「おう、出来た出来た」というのは私自身の思いである。当然第三者の客観的評価ではない。が、いくつになっても「おう、出来た出来た」と思える瞬間はうれしいものである。滅多にないことだけれども・・・。
            (2018年6月26日)
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